第6話 ドッチボール事件2
急に慎吾から電話がかかってきた。慌てて出ると、猪狩華花の電話番号を教えてほしいと頼まれた。残念なことだけど、猪狩さんの連絡先なんて知らない。……全く役に立ててないよ、最近。昼休みに初恋の話をした後も、慎吾の気は晴れなかった。
結局秋に連絡先を聞くしかないということで、あまり話を長引かせないままに電話を切った。本当に何も力になれない現状に溜息を禁じえなかった。ふと、思うと長瀬慎吾という比較的新しい友人に対して強い思い入れを持っていることに気づいた。ごくごく最近までは秋の従兄妹ということもあって、俺の知らない秋の一面を知っているだろうという嫉妬の念に捕らわれて、素直に向き合う気にはなれなかったのに、だ。秋のことでいろいろと相談しているうちに信頼してきたということだろうか? 慎吾は計算高い一面を備えているし、表面をうまくつくろってなかなか本心を見せてくれないようにも感じている。今までの経験から言うと、長瀬慎吾は相対しにくい人間なはずだ。それでも、いまでは一番身近な友人は彼か池上啓介だろう。ところで、慎吾と仲良くなったのは秋と話すようになってからのことだけど、啓介と仲良くなったタイミングがいつだったかは全く思い出せない。いつの間にかつるむようになってるし。啓介は誰とでもよく話して、特定のグループを持たないやつだが、最近は三人で馬鹿な話ばかりしている。
ふと、猪狩さんの言葉が頭を過ぎった。
「慎吾が、恋愛について臆病になっている、か」
あの言葉はまるで、慎吾が牛飼に恋心を抱いているようにも聞こえる。彼女は慎吾の気持ちを見越して……。いや、そこまでは考えすぎだろうか? ただ、慎吾が牛飼のことを好きだって素振りは今までに見たことないし……。もしや、泣かせたことをきっかけに? いや、どうだろうか、ありえないことではないかもしれないが、きっと深読みのしすぎだろう。
翌日、慎吾の様子が多少かわったように見えた。相変わらず本調子でないというか、悩んでいるようだったけど、少しだけすっきりとしたようにも見えた。話すと、一応の気持ちの整理はついたと言っていた。もっとも、問題ははっきりしたけど解決するのはかなり難しそうだ、と付け加えた。できることがあったら協力するよ、と言ったものの何もないままに数日が過ぎて、その日を迎えた。そう、壮絶な死闘を演じた、その日を。
/
「敵味方になっちゃったね」
とどのつまり、どういう状況を“勝利”と定め、どう戦うのか、を議論する男群から抜け出した俺は、秋と中庭で落ち合った。スポーツ自体は嫌いではないけど、どうにも血の気が多すぎる、あの男会議にはどうにもついていけない。正直にあのテンションの高さは異常だと思う。議題は“女子の反応を楽しむためにはどうするか”となり、半狂乱な雄叫びをあげる雄たちを尻目に教室を出ようとしたとき、ふと慎吾が視界に入った。異様な熱気の中、独り涼し気に外を眺めていた。
「猪狩さんが女子集めてたけど、作戦とかあるの?」
「え、あっ、」
秋は困惑した表情を浮かべる。裏表のない反応は見ていて本当に愛おしく思う。
「あのね、男の子には言っちゃダメ、って言われてるの……、ひろちゃんが知りたいなら……」
「いや、言わなくてもいいよ、男子も男子でなんか作戦をねっているし、おあいこだよ」
秋から女子の作戦が聞き出せたのかもしれないが、もともと作戦の有無を確認することを意図して聞いただけだ。秋に女子を裏切らせるようなことはしたくなかったし、なによりもフェアじゃない。しかし、男子の作戦とは“作戦”と呼べるほどのものなのか、聞いたところでは誇大表現にしか見えない。そもそも目的を女子の反応を楽しみ、愛でる、というところに置いているあたり、限界がしれている。
「最近ね、みっちゃんの様子が少し変なんだ。少し元気がないみたいなの。何かあったの? って聞いても『大丈夫だよ』って。あたしね、わかるんだ、みっちゃんがあたしに心配させたくないって思っていること、わかっちゃうんだ。くやしいよ、あたしじゃみっちゃんの力になれないのかなぁ……」
うつむき加減の秋の手にそっと手を重ねた。本調子じゃないのは慎吾だけじゃない、牛飼もここしばらく元気がない日が続いている。秋にとってかけがいのない友人だ、俺は慎吾のために力になれなくてショックを受けているが、秋の苦しみはひと回りもふた回りも大きいのかもしれない。無論のこと、牛飼の抱えている問題を取り除く術はなく、秋のためにできることだって多寡がしれている。
「慎吾も、最近変なんだ。なんでも大層な悩みを抱えているみたいで……。力になれないのは悔しいけど、ジタバタしたって何ができるわけでもないしさ、今は待つしかないかなって思っているんだ。話したくなったら、話してくれると思うしね。秋がそんな顔してると、きっと牛飼はもっと心配すると思うよ」
秋の頭をくしゃくしゃとなでた。本当はギュッと抱きしめてしまいたいくらいだが、万一の人目だとか、謂れのないバカップル称号を頂きそうになっている現状を省みて控えることにした。最近バカップルだと不当な評価を受けることがある。清く正しく慎ましく、ごくごく健全な交際なのに、だ。どこをどうみたらバカップルなんて言うのだろう?
秋はしぶしぶ頷いてくれたが、何もできないもどかしさに耐えかねている様子だ。
「難しいね……」
「牛飼だって、いつまでも秋のことをほっぽったりしないはずだって」
ふと、思った。このまま牛飼がこの調子だと秋を独占してしまえるのではないか、と。重ねた手をキュッと握った。彼女は俺の手の内にいる。今のいままで特別に牛飼が邪魔だと思ったことはないつもりだ。同性の友人にしか話しにくいことだってあるわけだし、秋は彼女のことを深く信頼している。仲の良すぎる二人の間に入り込みにくいと思うことはあったけど、諦めがあった。牛飼と秋は同性なのだから、と。いや、安心していたと言うべきか。
いや、しかし、だ。バカな考えだろう。牛飼がいまの調子である以上、秋の心からの笑顔をみることができないのに、人が人を独占することなんてできるわけがないのに……。秋の手を握る手に力がこもった。
ドッチボールのチーム分けは、何を意図したのか男女で別れることになった。秋の隣にいて彼女を守ることができない。勝負にこだわるような状況でもないが、啓介にはそれなりにやる気を示しておかないと面倒なことにもなりかねない。秋と二人で過ごす休み時間に心温まる気分だが、先のことを思うと和んでばかりはいられなかった。
/
男たちは今か今かと戦場に向かわんとする熱気に満ちていた。正直むさくるしいくらいだ。正直、かなり居づらい……。逃げ出したくなってきたので、さっさと体操着に着替えて一足先に教室を出た。気づけば慎吾はすでに教室を出た後だった。慎吾も狂喜乱舞する教室の雰囲気に取り残された方だから、機を見て阿呆の巣から脱出したのだろう。
今日は朝からほとんど慎吾と言葉を交わしてない。最近はブルーな心情が続いていて言葉数が少なくなっていることもあるが、今日はとことんタイミングが合わない。昼休みの男会議の際には声をかけるタイミングこそあったものの、独り黄昏る彼にためらってしまった。
渡り廊下では独りでぶらぶらしていた猪狩さんと会った。ひとまず挨拶を交わした。
「秋じゃなくて悪いね」
「え、いや、そんなことは……」
慌てて答えたが、よくある冗談に、慌てすぎだ。「正直だね」と猪狩さんは笑った。まぁ、そりゃあ、多少なりにも秋に会えたらいいなぁ、って思ってたのは本当のことだし。ひとまず呼吸を整えておこう。
「慎吾見掛けたりしなかった?」
「あ、長瀬君? 秋じゃなくて?」
「そう、慎吾」
ムキになって声色が強張る。頬も少し熱い。本当に秋のことになると弱い。こんな冗談軽く受け流せばいいのに……。でも、早めに体育館に来たのは慎吾がいるのでは、と思ったからでもある。
「ごめん、ちょっと悪ノリしたね。長瀬君は見てないよ」
「そっか、アテが外れたな」
閉じれた体育館の戸を見た。中に入るには早すぎる。更衣室から出たばかりの女子とかち合うのはなにかと気まずい。
「まだ中には入らないほうがいいと思うよ」
「そうみたいだね」
「秋を呼んで来てあげよっか?」
別にからかってそう言ったわけではないようだった。非常に魅力的な申し出だったが、すんなりと首を縦には振れなかった。
「や、やっぱりやめとくよ。女の子同士の時間を邪魔したくないし」
「なるほどね、そんな風に考えるんだ。でもさ、それを邪魔できちゃうのが彼氏の特権じゃないの?」
欲を言えば秋と話したいし、彼女のそばにいたい。けど、そればかりではいけないんじゃないか、と自制心が告げている。
「猪狩さんは彼氏に振り回されたりしないの?」
「私に彼氏がいるって前提で話進めてない?」
猪狩華花には彼氏がいる、とはもはや定説だ。しかし、相手が誰なのかは根も葉もない憶測ばかりが飛び交っているだけだ。
「えっと、彼氏いないの?」
「さぁね」
どうやらしらを切り通す腹積もりのようだ。言葉巧みな慎吾ならまだ粘れるただろうけど、如何せんもう手詰まりだ。まぁ、なにがなんでも知りたいというわけでもないし、素直にあきらめるべきか。そうだ、気になることなら他にもある。
「あのさぁ、今朝のことだけどさ、なんで男子対女子なんて無茶なことを言い出したの? 無茶なことを受け入れた啓介も啓介だけど……」
「まぁ、理由はいくつかあるんだけど……、そうだね、小学生のときに女の子ばかりでドッチボールをするところ見たことある?」
記憶は曖昧だが、ほとんど無かったように思う……。
「時々勝気な女の子が男子に混じって、ってケースはあるけど、基本的には見ないでしょ? 痛いことになるのを嫌がるってのもあるんだけど、女の子特有の陰湿なところがあって誰が誰を当てたとかで嫌な感じになることがあるの。共通の敵を作ってしまおうって思ったからってのが理由の一つ。おまけとしては、最近悩んでる友人に大暴れする機会を与えたかった、ってのもあるんだけどね」
一方は容易に頷ける。女の子同士の関係については詳しいことはわからないけど、多分そうなんだろう。で、悩んでいる友人て?
「そうそう、山崎君私が本当のことを言っているとは限らないよ」
「本当のことを言ってるつもりで聴いているよ。特に実害があるわけじゃないしさ」
この前に一度振り回されたからだろうか、気持は案外落ち着いていた。彼女が誰のためにってのはかなり気にはなるけど、彼女はきっとその答えまでは言ってくれまい。
「なるほどね」
猪狩さんはそろそろだから、と体育館の扉の向こうへ姿を消した。その後二分ほど、啓介たちがくるのを待つことになった。そりゃ、体育館の中で待つこともできたけど、女の園に踏み入れる気にはなれなかった。
啓介が用意したルールは以下のとおりになる。
・最初の外野は一人。
・外野が内野を当てても内野には戻れない。
・ただし最初の外野は一度だけ任意のタイミングで内野に入ることができる。
・ボールに当たった内野は外野に移動。
・外野の壁は敵の陣地。つまり、外野がボールを受け取れずに、体育館の壁に当たった場合、敵チームにボールが渡る。
・首から上は狙ってはいけない。首から上、特に顔、に当てたら、加害者が外野に移動。被害者は内野に止まる。
・外野は内野と平行関係にある位置からしか投げられない。
つまりは、一度外野に行ったらもう戻ってこれないといこと。外野が取りこぼしたりして体育館の壁に当たればボールを失うことになるルールは、思いっきり投げることを抑制するためのものだろう。
「みなよ、俺と目的を共にする戦友たちよ」
試合開始を目前にして、啓介は男子全員で円陣を組もうと提案した。彼はいまや一流のエンターテイナーだ。周囲を熱狂の渦へと引き込んでいく。円陣の中央に立つやいなや、演説じみた言葉遣いで声高に語りかけた。
/
「……我々は必ずや楽園へと足を踏み入れるだろう!!」
言葉に意味はない。もはや何をしゃべったのかすら覚えていない。でも、構わない。俺たちの“勝利”はもはや確実と見て間違いないだろう。そう、フィールドに立ったその瞬間、勝利は確約されたのだ。俺はそれをみなに示さなければなるまい。
「長瀬、ジャンプボールはお前が跳べ!!」
ビシッと指名してやった。そうだよ、そこで少し腑抜けているお前だよ。
「えっ、なんで?」
クラスにはもっと適任のやつがいるはずだって? わかっているさ。でもな、俺はお前の闘志を目覚めさせたいんだ、長瀬以外にこの役を任せるつもりはないぜ!!
「なんででもだ!! 理由はいらない、お前が跳んでくれ」
しぶしぶながら、長瀬は頷いた。
「お前を信じている」
肩を軽く叩いて、奮い立たせるように声をかけたが、長瀬の表情はやや曇ったままだ……。読み違えたのだろうか? 大役を任せて魂をふるわせ、勇気百倍やる気全開って状況を期待したのだが……。まぁ、いい。試合が始まれば、長瀬はやってくれる、きっと、たぶん?
弱気になっている場合ではない、もう一人喝を入れなければいけないやつがいるんだ。そう、平和ボケして闘争心の鈍っている男が。
「山崎洋!! 手を抜けばあっという間にあの世行きだぞ、覚悟しとけよ」
「わかってるって、啓介の足は引っ張らないさ」
入念に準備運動をする洋。多少やる気になっているみたいだが、顔が全然本気じゃないじゃないか。ただの体育の授業だと思ってやがる。不満だ、実に不満だが、しかたあるまい。言葉も重要だが、やはり闘争心は戦場で芽生えるものだ、戦闘の経過の中で二人の働きに期待しようではないか。
向こうのコートに散在するのは体操着姿の花々だ。ふふふ、選り取り見取りじゃないか。たまらないものだ、健康的な肢体を晒し過ぎず、隠し過ぎず、もやは神の技量を以って導き出されしバランスだ。今日は存分に堪能させてもらうさ。しかし、だ。美しき花々は鋭気に満ち満ちているではないか。全く感心に値するものだ、猪狩嬢は。これ程までに一体感をもったチームを作り上げるとは……。まずは出鼻を叩かなければな。頼むぞ、長瀬慎吾。
入れ替わりに男子コートに入ってきたのは牛飼未依だ。どうにもこうにも、覇気にかける気はするが、女子チームの主力であり、我らのターゲットの一人。
笛の音が鳴った。デスマッチは始まったのだ。高く高く投げられたボールに両者の手が伸びる。身長を考えるとはるかに有利に見えた長瀬に牛飼が食い下がる。手のひらひとつ分の差で、長瀬がなんとかボールを男子のコートにはたき落した。よし、まずは満足。
さっと身を翻してコートに戻る牛飼の表情にさっきとは見違えるぐらいに戦意を孕んでいるように見えたが、急速に沈んでいった。
「作戦コードHKMだ」
男子コートに緊張が走った。さっとボールを拾った戦友が確かめるように顔を向けてくる。そうだ作戦コードHKMに間違いない。俺たちは躊躇などしないのだ。俺が頷くと、戦友はあらん限りの力をこめて思いっきり腕を振り下ろした。剛速球が女子コートかけぬけ、あちこちで悲鳴に近い声が上がった。H早いボールを投げて、K怖がらせてその反応を、M見てやる、という高度な作戦だ。おおいに驚いてくれたまえ。剛速球でも大丈夫なのかって? 問題ナッシング。だって、外野の味方に向かって投げるのだから。それでは誰も当てれないじゃないかって? 問題ナッシング。目的は十分に達しているのだよ!
外野の味方もまた、剛速球を返してくれる。ふはは、逃げ惑うがいい、もはやチームの一体感も何も残るまい。一度ならず二度三度とボールが行き来し、その度に女子の群は右に左に振らればかり。反撃もままならない状況だ。いい感じにボールが回ってきた。よし、俺の力を示す時だ。
「はしれ稲妻、ウォー」
咆哮と共に弾丸が打ち出された。黄色い悲鳴が鼓膜をやさしくなでる。が、次の瞬間思いもしない声が響いた。
「うおっ、いてっ」
認めたくないものだな、完璧な作戦にこのような穴があったとは……。まさかだ、諸君、このようなことが起こるとは、外野の戦友は幾度となくその手で速球を受け、思いのほか早く損耗してしまっていたのだ。キャッチの精度が落ち、こぼれ球を手際よく拾ったのは、猪狩嬢だ。
しかし、彼女は何を思ったのか、ボールを持って前に走らず、その場から投げたのだ。最奥から投げては怖い攻撃ではない。が、ボールは男子コートに入る直前で、思いもよらぬ人物にカットされた。牛飼だ。コートの最前面で牛飼が思わぬ形でボールを持った。猪狩は当てるために投げたのではなく、パスのために投げたというのか!?
牛飼の動きは速かった。気が緩んで逃げ遅れた戦友をまず一人、軽く仕留めた。運が悪いことに、当たって跳ね返ったボールはもう一度彼女のもとに転がった。素早く拾い上げると、構いきれていない友をまた一人葬った。ほんの二秒にも満たない短い時間のうちに、二人も失うとは。
「よし、反撃にでるぞ!!」
まずは一人、何としても仕留めねばなるまい。さっとボールを拾い上げるとさっと外野にボールを回した。ボールを大事につないで、逃げ遅れた子をターゲットにするオーソドックスな手段だ。さんざん振り回して明らかに逃げ遅れた子がでた。長瀬ちゃんだ。
/
あぶない、秋、逃げろ……。なんとかそう叫ばずに口をつぐんだ。今の立場上、俺は秋の敵なんだから、ここは勝負の場だ。そりゃ、秋にボールをぶつけようと気はさらさらないが、一応立場を踏まえた行動をとらねば啓介にも示しがつかない。でも、だ。心ははやる、どうにかして秋のもとに駆け付けたい、そういう思いはごまかせない。
ちょうどよくボールが回ってきた男子バレー部の黒川が逃げ遅れた秋に狙いを定めたのは明白だ。届くはずはない、どうすることもできない、わかっていても手を伸ばしていた。ボールは放たれた。もう駄目だ、と思った瞬間秋に覆いかぶさるように影がボールをかっさらっていった。
「秋、大丈夫?」
秋の救い主は、やさしく声をかけた。秋の表情がぱぁと花が咲くように明るくなったのが、はっきりとわかった。正直なところ、無茶苦茶悔しかった。
「みっちゃん」
格好良すぎじゃないか、牛飼め。
って、あんまり悠長なことは言っていられないようだ。キッと鋭い目つきで男子コートを見る牛飼は圧倒するような強い気持ちを滾らせていた。眠れる龍はついに沼から天を仰いだのだ。
猪狩に迷いは見えなかった。狙いを澄ましたボールは唸りをあげて、秋を狙った宿敵を打ち抜いた。
「大丈夫か?」
さっと啓介が倒れた黒川に寄った。
「み、見えた、俺には、揺れてたぜ、よく、な……」
勇者は口元に小さな笑みを浮かべて、親指を立てて仲間の健闘たたえて、沈んだ。
ここは狩猟場なんだ。そう理解したからこそ、男子たちの次への動きは早かった。セカンドボールを死守しなければ、一方的に狩られてしまう。
なんとかボールを拾い上げると、それからしばらくはガードの空いた乱打戦の様相を呈した。試合開始は覇気に欠けていた猪狩はいまや押しも押されぬ大エース。伸びのあるぶれ球は勇敢にもキャッチしようとした男子たちを次から次に沈めていった。男子も外野との連携で崩して着実に撃墜スコアを稼いでいった。当初、あれだけ男子の有利だと言われていた試合は、意外にもシーソーゲームの続く好ゲームとなっていた。
もう、幾度になるだろうか、女子の攻撃の中心に当たる牛飼にボールが回った。
「来い、牛飼!!」
波が引いていくかのように、後ろへと下がるなか、啓介がひとり前にでた。この試合啓介は牛飼の球を二度もキャッチしている。牛飼を叩かなくては、この試合に勝利はない。そして、それを為せる自負が啓介にはあるのだろう。
対する牛飼の表情には迷いが見られた。この試合のキーマンは啓介だ。勝負にでるかそるか、迷っているのだろう。もしくは、啓介を討つ策に苦心しているのか?
「よし、その勝負乗った」
熟慮を重ねた上で、そう宣言した彼女からは迷いは失せていた。啓介が負けるとは思わないが、前がかりになってしまう。万一啓介が討たれたとしたら、こぼれ球だけは絶対に拾わなくてはならない。連続で攻撃を許すことは避けなければなるまい。
クラスの全員が見守る中、牛飼未依は助走をつけて跳んだ。さながらハンドボールのジャンプスローのように宙を舞った彼女から渾身の一撃が放たれた。しかしどうだろうか、ハンドのように空中であれば相手の陣地を超えていてもかまわないわけではない。必然ボールが放たれる場所は跳ぼうが跳ぶまいがなんら変わりはないはずだ。
「なにぃー!!」
だが、しかし、啓介が驚愕の声を上げた。その一球が格別に速かったわけではない。しかし、啓介はぴくりとも動けないままに、討ち砕かれた。
ボールが転がる。驚いてばかりはいられない。こぼれ球は何としても拾わなければ、このままでは女子コートに転がってしまう。ぎりぎりの場所でボールに手が伸びた。このとき、女子側もこのこぼれ球を拾いに来ていたことに露とも気付かなかった。寸前でボールをキャッチしたものの、このままでは体ごとコートから出て、ボールを失ってしまう。とっさの判断でボールだけ男子コートに流す。次の瞬間、視界は白一色に染まっていた。それが体操着の白だと気づいたのは、激突する直前のことだった。
小さな悲鳴もろともに、目の前にいた誰かを突き飛ばすように地面へと崩れ落ちた。もうちょっとしたパニックだ。悲鳴から自分が突き飛ばしたのが誰だかはっきりとしたから猶更だ。あの声の主は秋だ。立ち上がるなり、仰向けに倒れている秋のもとに駆け寄った。混乱していたというか、なんというか、もう咄嗟の判断で抱き起そうとしたが、タイミングよく秋が半身を起こした。
ゴツッ!!
鈍い音が響いた。おでこ同士が衝突したのだ。傍目から見ればいい感じに笑いの神が下りていたのかもいれないけど、ほんとにどうしていいのか、さっぱり頭が回らないは、痛くて悶絶するはでもういっぱいいっぱい。
結局、猪狩さんが一度その場を収めて、秋はそのあと見学という形で外野の隅で応援にまわった。保健室に行くように促されたけど、牛飼が頑張っているのに体育館から出たくないと頑固に抵抗したとか。うちどころも良かったらしく、痛みが引くと元気な姿を見せてくれた。一方で俺の方は、しばらく休んでコートに戻ったけど、やる気は雲散霧消。ほどなくして、牛飼の餌食になった。
「後任せたよ」
コートの去り際に慎吾と眼があった。
「あぁ、任せろ」
力強く答えた慎吾はここ最近では見なかったぐらいに、いい表情をしていた。いったいなにがきっかけになったのかは、皆目見当もつかないことだが、どうやら慎吾もエンジンがかかってきたみたいだ。啓介が散った今、キーマンとなるのは案外慎吾なのかもしれない。そんなことを思いながらコートを離れた。
「啓介ならとれたんじゃないの?」
一世一代の大勝負に打って出ながら、いともあっさりと討ち取られた啓介。だというのに、啓介は笑顔で迎え入れてくれた。とても勝負に敗れた男の顔ではない。牛飼はかなり処理しにくいボールを投げていたと思うけど、彼ならしっかりと対処できたはずだ。自信があったからこそ牛飼に勝負を挑んだはずだろうというのに。
「なんだ、重要なことがいまだにわかっていないと見えるぞ。まだまだだな、山崎洋!!」
どうも演説くさい口調が抜けていない。正直煩わしいぞ、啓介。
「今一度聞こう、我々の目的はなんだ?」
わかっている、わかっているよ啓介、さすがにもう間違わないって、
「女子を愛でること、だろ?」
そう答えると、啓介は頭を抱えて大げさに嘆いてみせた。どうにも演技くさくて鼻につくけど、逐一反応するのも癪だ。
「それをわかっていて、何故わからんのだ? すなわちお前は言葉でわかっているだけで、その本質を理解していなのではないのか? かぁ~、これだから嬉し恥ずかしイベントを体験した色ボケは格が違う、とでも言いたいのかよ」
すまねぇ、啓介。言っている意味が全然わかんねぇよ。
「なんだよ、その嬉し恥ずかしイベントって?」
「つっこんだろ、長瀬ちゃんの胸に、頭から」
へっ?
「ごめん、全然意味分かんない……。なんて言った?」
激突の瞬間のことを思い返してみるが、とにかくボールを仲間に渡すことばかりを考えていたから、どんな状況だったのかまるでわからない。
「お前が、長瀬ちゃんの胸に、頭から突っ込んだんだよ」
啓介の表情からはからかってやろうという意図は見て取れない。本当のことだと諦めるしかなさそうだ。
「でもさ、まったく思い出せないんだから、嬉しいも恥ずかしいも何も……」
「ま、な、お前が覚えてなくても、周囲から見ていた俺からすれば、十分嬉し恥ずかしイベントだよ」
秋の表情が気になって、外野の隅にいる彼女を探した。ちょこんと丁寧に腰を下ろした秋は、瞳を輝かせて、声をあげている。おとなしい彼女には珍しい姿だ。秋の視線の先は、もちろん牛飼だ。大車輪の働きで快刀乱麻を断つが如く男子たちをバタバタとなぎ払っていく牛飼は、秋にとってのヒーローなのだろう。
ぐっと拳に力が入った。なんで秋とぶつかったのか? 秋は何故あの場所にいたのだろうか? おとなしくて運動も不得手な彼女だ、本来なら隅でこそこそとしているはずだ。なのに危険を冒してまでこぼれ球を拾いに来たのは、何故か? 簡単なことだ、秋の牛飼の力になりたいという想いが、彼女を突き動かしたのだろう。
「そういや、答えを聞いてないぞ、なんであっさり牛飼に負けたのか」
「俺は、負けたとは思ってないな」
至極当然のように答える啓介。冗談を言っているわけでもなさそうだし、言っている意味がわからない。
「俺たちの目的は、女子を愛でることだろ。俺は精一杯愛でたのだよ。あの牛飼が跳ねたのだぞ、もはや目的を達したも同然ではないか」
牛飼が跳ねたら、目的達成? 意味分からん……。いや、待てよ、男子会議中に飛び交っていた言葉を思い出せ……。
「わからないようだな……。まぁ、お前は長瀬ちゃんにしか興味ないみたいだしな」
呆れ混じれの溜息を吐く啓介を尻目に、溜息が洩れた。啓介の言わんとしていることがわかった、気がした。
「啓介、アホだな……」
「俺の言っていることがわかったみたいだな。真正面から見れたんだ、悔いはない。むしろ、大いに満足だ」
「満足って……」
「あんなに揺れていたんだぞ」
もう一度大きな溜息が漏れた。啓介の満足気な表情は彼が勝者であることを示しているようだった。
池上啓介が沈んだ。彼が外野に去ったことで勢いづいた女子チームだったが、その勢いに水を差すように長瀬慎吾が猪狩華花を仕留めて反撃の烽火をあげた。今まで散々逃げに徹していた慎吾の転身で状況はしだいに五分になっていった。内野に残る人数が一人減り、二人減っていくごとに会場は異様な熱気に覆われていった。次第に外野を絡めた攻撃は蔭を潜め、いつしか長瀬慎吾と生き残りVS牛飼未依と生き残りという構図がはっきりとし始めていた。外野が当てても内野に戻れない、というルールが外野を観客と変え、会場は熱狂の坩堝と化した。
「うーし! うーし! うーし! うーし!」
喝采の拍手と声援をその背に受けて、牛飼が打ち出したボールがまた一人血祭りにあげた。牛飼コールが一段と大きくなる。
「諸君、確かに今神に与えられし我らが尖兵の一人が散った。これは我らにとっての絶望か!? 否、これは始まりなのだ、諸君、歌え!! 我らの証を、我らの誇りを、高らかに歌い上げ、示すのだ!!」
啓介が先頭にたって声を張り上げる。言っていることは実に意味不明だが、煽動せれた男子たちから野獣のような声が上がる。
♪ あ~あ、や~り切れぬそんな日は、不貞寝して時間を過ごすのさ、
なんか、長瀬ばかり目立ってる、ふ~、あの場所にいるべきは俺だったのにさ、
妄想、暴走、ウェルカム、
テストの前に山張れば、まるで見当違い、一夜漬けのつもりが爆睡したさ、 ♪
もはや、終りのないカオス状態だ。苦笑いを浮かべた慎吾はそれでもきっちり一人を仕留めた。しかも、憎いことに緩やかなボールで。
最高潮の盛り上がりを見せる一方で、終幕の時も次第に近づいていた。内野に残る人数は着実に減っているのだから。そう、コートに二人しか残らない状況になるまで、さほど時間はかからなかった。長瀬慎吾と牛飼未依の壮絶な一騎打ちが幕を上げだった。
始まりは、ただのドッチボールだったはずだ。制限こそついていたけど、それは確かにドッチボールだった。だが、今はどうだ。もはや、ただの意地の張り合いだ。外野は観客となり、外野にボールが流れても、外野から攻撃することはなくなった。10球、20球、30球と二人はただ敵を倒すためだけにボールを投げ続けた。
永遠に続くかと思われた戦いの終幕はあっけのないものだった。長時間に及んだ戦闘が、牛飼の体力を蝕んでいたのだろう、彼女が足を滑らせ、取り損ねたボールが宙へ舞い上がった。瞬間、喧騒は静まり、牛飼はコートの真ん中で大の字になって倒れた。ボールが地面に落ちるとともに、牛飼が拳を天に向けて突き立てた。
「私の、勝ちだ!!」
勝敗の判定のため、両軍のリーダーの猪狩と池上、それに加えて最後までコートに残った長瀬と牛飼を交えた4名が集まって話し合いがもたれた。焦点になったのは「顔面ルール」が適応されるか否か、ということだ。
「首から上は狙ってはいけない。首から上、特に顔、に当てたら、加害者が外野に移動。被害者は内野に止まる」
ルールとして以上のことが決められている。慎吾は牛飼の顔面を狙ったわけではない。試合が長引きコントロールが曖昧になっただけだ。それに、もし牛飼が足を滑らせなきゃ、ボールが顔に当たることもなかっただろう。なによりも、ルールの適用の有無が勝敗に直結する。しかし、話し合いはもめることもなく、すんなりと結論に達した。顔面ルールは適用されて、女子チームの勝利で勝敗は決した。不思議なことに男子の中でこの判定に異を唱える者はいなかった。すべての権限が啓介にゆだねられていた証左とも見て取れるが、個人個人がこの試合に満足したからでもあるだろう。
解散後に山崎洋は、最後まで戦い抜いた戦友のもとに駆け寄った。
「惜しかったね」
まぁね、と肩をすくめてみせた慎吾は、不思議と晴れ晴れとした顔をしていた。牛飼いに敗れた啓介の笑顔をふと思い出した。結果としては負けたけど悔いはないみたいだ。友のこんな顔を見るのは久しぶりだ。
「何かいいことでもあった?」
「負けたのに、いいことも何もないだろ?」
「そりゃそうだけどさ、なんかいい顔してるから、悩みも吹っ飛んだのかなって思ってさ」
「問題が解決したわけじゃ、ないんだけどさ……」
小首をかしげて適切な言葉を探す顔つきからも普段の調子を取り戻しつつあることが伺える。
「気持ちが落ち着いたと言うか、焦るのをやめたと言うか……。急がなきゃ、って思ったんだけど、じっくりと時が来るのを待たなきゃ駄目な場合もあるわけだ。思いっきり身体動かしたら、悩んでも解決しないものに、いつまでも悩んでも仕方がないって、思い切れたのかも」
「あのさぁ、慎吾の悩みって具体的に教えてくれない?」
わかっていることは、牛飼がらみ。牛飼ともめて、彼女を泣かせてしまったことが引き金になっている。少し前に話した時には、一通り気持ちの整理がついて悩みがはっきりとした、とだけ言っていた。慎吾は少し考えて、一息吐いた。
「いや、やっぱり言わないことにする。俺、自分のことになると弱いから、洋に話すことで余裕失いたくないし。今の悩みは、誰かに手伝ってもらえば解決できることじゃないんだ。絶対に自分自身でどうにかするしかない悩みだから」
話してくれないことは多少なりとも淋しさを感じたけど、彼の性格を考えるとホッとした。いつもの彼が戻ってきたんだと、感じていた。
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