第4.1話 長瀬慎吾の憂鬱1
「なぁ洋、いきなりすぎて意味が分かんないかもしれないけど、俺の話を聞いてほしい。俺、おかしいのかな?なんか変なんだ」
待て待て待て、あまりにいきなりすぎて、どう答えていいのかさっぱりだ。いったい、何がどうなってどんな状況だから、おかしいのか、変なのか、まったく状況が説明されないまま聞かれたって答えられるはずがないのに……
「えっ?なに?何がどうなってんの?」
普段は落ち着いた物腰の慎吾が、今はまったく上ずった声でまくしたててくる。何が変なのかと聞かれれば、何から何まで変だ。さっきまで一緒にいて、いつもとなにも変わらない様子を見せていた彼が、この短い時間にいったい何があったというのだろうか。
「なにがって……」
言いよどむ慎吾。長い付き合いでないにしろ、こんなにあたふたと地に足のつかない慎吾を見るのは初めてだろう。
「いや、なんて言うか……、その、」
電話口から深呼吸する息遣いが聞こえる。
「いや、悪い、なんでもないんだ、」
少し間を空けて聞こえてきたのは、落ち着いたいつも通りの慎吾の声だった。
「なんでもないわけないだろ、どうしたんだよ」
「ほんとに、なんでもないんだよ。悪いな、時間取らせて。じゃ、また学校でな」
電話を切ろうと急いでいる、そう感じるともやもやとした思いが胸につっかかった。
「待てよ、」
叫ぶような、語気の強い声が腹の中からすんなりと出てきた。
「言えないことなのか?どうしても、俺には言えないことなのか?」
自分より、秋のことを知っている。そう思うと、なんとなく近づきがたい気持ちになったこともあった。でも慎吾は、何を思ってなのかは知らないが、秋とのことで絶えず応援をしてくれたし、相談にも乗ってくれた。秋の為に何ができるのかを考える力になってくれた。本当に信頼できる友だと、思うようになったのに。できることなら、彼の力になりたい。思いが言葉になって出てくる。
「何もできないのかもしれないけど、話せば楽になるかもしれないし……できれば、でいいんだ。もしよかったら、話してくれないか?」
電話口の向こうの慎吾は黙ったまま、何も答えてはくれない。1秒、2秒、ゆっくりと過ぎてゆく。ふと、小さな笑い声が漏れた。
「悪い、余計な心配かけさせたみたいで、」
慎吾の声は心なしか、いつもよりゆったりとしているように聞こえた。
「話せないことじゃないよ。でも、少し整理してからじゃないと、どう話していいか。それより、お前のほうが大丈夫じゃないみたいだぞ、落ちつけよ」
そう言われると、急に恥ずかしさを覚えた。ここが屋内でよかった、と胸をなでおろした。
「なら、お前だっていきなり変なこと言ってくるなよ」
「そいつは悪かったって。それに、これは話してどうなるかわかんないっていうか、自分自身で整理するしかないことだって思うんだ。まぁ、迷惑かけたわけだし、整理がついたら学校で話すよ」
電話を切ってしまえば狐につかまれたような、地に足のつかない感覚を覚えた。今日はいろいろとありすぎた。水族館デートに、帰りの公園での一幕、そして慎吾の電話。かなり遅れたただいまメールを打ちながら、長かった一日を思い返した。ふと思うと、次に目標である映画館デート計画について慎吾のアドバイスを請おうか、と考えていたのだが。このことは彼の問題が解決した後にしたほうが賢明なのだろうか。
◇◇◇
何から話せばいいんだろうか、どう話せばいいんだろうか、慎吾は話が詰まるごとにそう繰り返した。事実関係だけを言うなら、水族館の帰りに牛飼を泣かせてしまった。ただそれだけのことなのに、慎吾はたどたどしく何度も言葉を詰まらせた。複雑で不可解な感情が絡んでくるからだろう。慎吾はいまだに整理のつかない感情を抱えているようだ。
「えっと、つまりは牛飼と仲直りしたい、と」
「いや、違うけど。仲直りってほど元から仲が良かったわけでもないし、まぁギクシャクしたままってのもどうかと思うけど。ただ簡単に許してもらえるとも思えないし」
「あのさぁ、気になったんだけど、牛飼になんて言ったんだよ?簡単に許してもらえないとか、よっぽどのことなのか?」
けたたましい蝉の音、日に日に夏が深まる季節。木陰に入っても汗の滲むような気温だ。昼休みに屋内を出て校庭の隅に腰を落ち着けた。さすがにこの季節だ。校庭は人影一つ見当たらない。
「それは……」
「さすがに答えてもらえないか」
苦笑を隠さない慎吾。
「なんて言ったと思う?」
「まったく見当がつかないから気になっているんだけど」
慎吾の表情からは迷いが見て取れる。どう話せばいいのか、とお決まりの文句を口にして首をかしげた慎吾が、想像もしていなかったことを口にした。
「牛飼を泣かせたのは、俺の言葉が直接の原因だけどさ、お前も実はけっこう関係あるんでけどさ、想像つく?」
へっ!? どういうことだろうか。いまさらだが、慎吾が牛飼を泣かせったってことすら信じられないくらいだ。慎吾の言葉や表情を思えば、信じる以外ないのだけど。あの牛飼が泣くってこと、そして泣かせたのが慎吾だってこと、そして自分もかかわっているってこと。まったく想像のできないことばかりだ。
「やっぱりわかってなかったかぁ……」
慎吾が空を仰いだ。
「話戻すけど、洋はさぁ、女の子を泣かせたことってあるか?あんなにわけの分かんない気持ちになるんだって思わなくて……なんかもう、どうしていいのかわかんなくなってさぁ、ひとまずお前に電話したんだけど。でもさ、なんて説明していいかなんて、全然わかんないし、もっとも頭ん中ぐしゃぐしゃで……」
あの電話の時に比べれば慎吾は落ち着いている。普段となんら変わらない、と言ってもいいくらいだ。でも、彼はあの時よりも大きな困難を抱えてしまったのかもしれない。理路整然として正論を述べる彼が、割り切れない感情をどう整理していいかわからなくて四苦八苦している。そして、彼をさらに混乱させることが待っていた。
「気になったんだけど、長瀬君が困っているのは別に牛飼を泣かせたからってだけじゃないよね。牛飼が泣き出す前にすでに、長瀬君は牛飼未依に圧倒されていたように見えたけど」
物陰から颯爽と登場したのは、牛飼や秋のお目付け役たる猪狩華花だ。その時の慎吾の顔ときたら、今後もうこんな間の抜けた彼の顔を見ることはないだろう。それくらい滑稽な顔をしていた。陸に上がった魚のように口をパクパクさせながら、猪狩を指差して必死に何かを言おうとしているのはわかるが、まったく言葉が出てこない。
「……またかよ、」
なんとかそれだけ言い残して、がっくりとうなだれた。慎吾ってこんなキャラだっけ?
「まぁまぁ、そんなに邪険にしなくてもいいじゃない」
完全に置いていかれた感じだ。どういうことなんだろうか、と猪狩を見ると何かを察したように彼女は一度大きく頷いた。
「たまたま、牛飼と長瀬君が言い合っているところを見ちゃってね」
「たまたま、ね」
猪狩はけんもほろろな慎吾の肩を軽く叩いて「悪いね」と短い詫びを入れた。意外と気さくな一面が垣間見えたような気になった。
「確かにまったくの偶然ってわけじゃなかったのは認めるよ。でもね、あんな修羅場になるなんて私も想像できなかったわけだし、あそこまでヒートアップしたらどうやって仲裁していいかなんてわからないよ」
ははは、と笑ってみせる慎吾だが表情が硬い。
「気になったんだ、長瀬君があんまり思い詰めたような顔してたから。あの時、何を思ったのかなって」
慎吾が大きな溜め息をついた。
「ほんと、何を思ったのかなぁ……」
高い空、絶え間ない蝉の音はさらに強く鼓膜をたたき始める。慎吾ははるか遠くを漠然と見ている。こんなに切ない顔を見るのははじめてだ。
「まっすぐな瞳をしていたんだ、どうしていいかわんなくなるぐらい、なんか、強い眼をしてたんだ……」
「ねぇ、長瀬君、逃げないでほしいの、その気持ちから。君がどんな結果をだすのかわからないけど、その気持ちの動きを無視しないで。じゃないと、無感動になっちゃうよ」
猪狩は一度言葉を切ると、視線を落としてもう一言つけくわえた。
「昔の私みたいに、ね」
三人の間をくたびれた空気が流れていた。そのまま5分ほどだろうか、ただただ静かに時間が過ぎていく。
「なぁ、慎吾、初恋のこととか覚えてる?」
「なんだよ、いきなり」
「いやさ、なんだか慎吾の恋愛相談を聞いてるような気がしてきてさ」
慎吾の話を聞いていると、いままで秋のことでさんざん相談にもらったことが心に浮ぶ。なんとなくこそばゆいような、むずがゆいような気持ちにかりたてられた。わるいとは思いながら口元が緩んでしまう。もっともこれは俺だけのことじゃないみたいだ。漠然と遠くを見ていたはずの猪狩もくすりと笑った。
「いいね、その話題。聞いてみたいかな、長瀬君の初恋」
意外にも猪狩が食らいつく。
「や、待て待て。洋も猪狩さんも、簡単にしゃべれるものか、初恋のことなんて?」
そうだねぇ、と猪狩は小首をかしげてみせたものの、彼女の表情からは困った様子も迷いも感じられない。むしろ普段よりもいくぶん安らかな表情にも見える。
「私は、むしろ二人になら話せると思うよ。まぁ、そんなに詳しく話すことでもないでしょ?」
今日の猪狩華花はまるで別人ではないかと思うほど、普段は見せない一面を見せている。洗練された立ち居振る舞いは、やはりいつもの彼女と同じものだが、表情や言葉はふだんより柔らかな印象を受ける。秋や牛飼のお姉さん役から離れたときの彼女は案外お茶目なのかもしれない。
「何もかもを知っている、何もかもがくだらなく見えた、そんなふうに思っていた時期があって、今に思うとちょっと恥ずかしいんだけどね……。初恋の人って年上の人なんだ。その人に会って私は世界が変わった、世界の見方が変わった。出会いが私に大切なものを気づかせてくれたんだ」
猪狩には彼氏がいる、まことしやかにささやかれている噂だ。もし、猪狩に恋人がいるとして、彼女は恋人を目の前にしてどのように振舞うのだろうか?
「その恋は、実ったの?」
自然と彼女の口許に視線が集まった。彼女の答えが、気になった。
「それに、答える義理はないよ。で、長瀬君の番だけど」
悪戯な瞳が慎吾を追い詰めていく。猪狩が普段と少し違った姿を見せているように、猪狩華花を目の前にして慎吾は完全にペースを乱されている。
「洋、パス」
……へっ?
「えっ、俺?」
「じゃあ、山崎君からどうぞ」
初恋、初恋、初恋……。
「一番影響受けたって言うか、その、話すほどのことって秋のことぐらいだろうし。初恋ってほんと、何もなかったよ。中学三年生のころだっけ、クラスでかわいい人がいるなって、ほんとにそれくらいで」
「告白とか、しなかったの?」
彼女の質問には首を横に振った。多少気にかかる程度の小さな恋心。長瀬秋と出会い、日々を積み重ねていくうちに中で胸に押し寄せた圧倒的な衝動とは比べる程ではない。掴んで離したくない、あの強い衝動を恋とするなら初恋は秋ということになるのだろうけど。
「告白するほど、興味がなかったのかもね。周囲の友人とは好きな人は誰だ、って話で盛り上がっていたころだから、周囲の雰囲気に飲まれただけだったんじゃないかな。なんとか苗字は思い出せるけど、どんな人だったかほとんど覚えていないし……」
慎吾の表情を見上げた。次は慎吾の番だと促す。
「わかっているよ」
慎吾は弱った、と薄笑いを浮かべた。
「初恋は、小学生のころだ。3年生か、4年生かそんな時期だったかな」
慎吾は遠くの空を見ていた。
「近所に住んでいた女の子で、そんなに親しかったわけじゃないけど、一応幼馴染とでもいうのか。顔を合わせれば挨拶もするし、でもまぁ、その子にどう接していいのか全然分かんなくて、なんて言うの、壊れてしまいそうな感じがして。なにが原因だったのか、一度泣かせてしまって、それでさらにどうしていいのかわからなくなって……。そのうち結局何もないままに気持も落ち着いていったしさ」
慎吾は手を空に翳した。まっすぐに延びた腕は遙かにたゆたう雲でも掴もうかとしているようにも見えた。が、ふと力が抜けると、だらりと項垂れた。
夏の日の昼下がり、貴重な休み時間の大半を無言のままに過ごした。別に気まずい雰囲気ではなかったが、3人が3人とも沈黙に身を任せていた。
休み時間も少なくなってきたころ、慎吾は図書室に借りていた本を返しに行くと言って一足先にこの場所から立ち去った。途中まで同行して教室に戻ろうか、とも思ったが、彼の表情を見るとその気も薄れた。去りゆく背中に、いつもの気さくな雰囲気はまるで感じられなかった。
「すんなりとは、いかないかぁ……」
話してすっきりすれば、いつもの調子を取り戻すかもしれない、なんて考えていたが虫のいい話とはいかないようだ。
「なにかと慎吾のこと、気にするけど、なにかあったの?」
慎吾が牛飼を泣かせた現場にたまたま居合わせた、と聞いているが、そのことだけで彼女がこんなに首を突っ込んでくるものか、多少疑問が残る。
「あれ、言わなかったっけ?長瀬君と牛飼が言い合っているところを見たって」
一応頷いてみせた。慎吾の反応を思い返しても確かなことだと思う。でも、その答えだけでは納得できないから重ねて聞いたのだが。猪狩は苦笑いを浮かべて、まいったねと小首をかしげた。
「長瀬君が見せた表情がどうにも気になってね。牛飼に言い返されているときの彼の表情、何を思っていたのかなって、気になってつついてみたくなったのかもね。必死になって言い返す牛飼に惚けたような顔して聞き入っていたんでけど、彼女が涙を見せたとき、ぐしゃって表情が崩れたんだ。なんだか、今にも泣き出しそうな顔していた、泣かせているのは長瀬君の方なのにさ。彼、恋愛について臆病になっているみたいだしね」
彼女が思ったような効果があったのかどうか、猪狩の表情から読み取ることができない。普段通りの落ち着きと優雅さに加えて、口許がわずかに悪戯っぽく歪む。昼休みの短い時間のうちに、猪狩華花に対したイメージが少し崩れ、本物の彼女に少し近づけた様な気がした。
「あぁ、山崎君、私の初恋の話、あれ嘘だから」
彼女は軽く肩を叩いて、それだけ言い残すと、スカートの裾を翻して颯爽と校舎に向けて歩き出した。
「え……、あれ?」
遠くなる猪狩の背中を茫然と見るばかりで、急には彼女の言葉の意味が呑み込めない。狐につかまれたような気分だった。
けたたましい蝉の鳴き声に挑むように予鈴が鳴った。
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