第3話 水族館事件(中編)

 最近考えることが多い。“人間は考える葦である”だっけ、有名なパスカルさんの言葉は。あれは確か、脆弱である人間は考えることによって新しい物を生み出してくから尊い、という意味だとか? 違ったら最高にかっこ悪いなぁ……。でも、まぁ、考えるって言ってもこんなに非生産的な思考で果たして“考える葦”たり得ているのか? 考えているのはこれから秋とどのような関係を築いていきたいか、ということである。秋の脆弱さにどのように向かい合っていくのかがとりあえずの題目になる。答えは出ているようで出ておらず、どうにでもなりそうでどうしようもない。時間をかけてゆっくりと秋が変わっていくのを見守ること、ときに背中を押し、ときに逃げ口になりながら、秋が変わることを期待する。それはわかっている、わかっているが、じゃぁ具体的にどうすればいいのか、それはわからない。一方で、変わっていくのは秋だけでいいのだろうか? 俺も強くなりたい。あまりに漠然とした言い方だけど、秋の為ってのもあるけど、単純に自分の為にも強くなりたい。でも、どれもどうしていけばいいのか、わからない。わからない、わからない、わからないから考えるけど、考えたところでやっぱりわからない……

秋と付き合う前の俺はこんなに考えていたか? 答えは否、だろう。もっと単純で、もっと都合のいいことばかりを考えてたはずだ。自分でも信じられないくらいに悩んだり、考えたりして、しかもだ、考えているのは不毛なことばかり。でも、無駄だとは思わない。こんなにも一人の女の子について真剣に考えたことは初めてのことだし、ときどきとっても優しい気持ちになれる。もともとガサツな俺でも、秋と触れ合うことで優しい人になれるのかも?


 ところでだ、先日の雑誌事件はその内容はどうあれ、秋を傷つけたことに違いはなく、お詫びに二人で水族館に行くことになった。映画を見に行く予定は一週間繰り越されて、二週連続で遊びに行く予定ができてちょっと浮かれ気味だ。頬が緩むのは仕方ない。一応、秋を傷つけたペナルティなんだけどな、いやぁ、厳しい罰ですな、まったく。罰とはいえども楽しまなくちゃ、損だろ?

集合は駅前で、9時30分に。お姫様を待たせるべからず、約束の時間よりも15分も早く駅前に到着するのは当然の配慮だろう。これが啓介のときにはこうはいかない。5分の遅刻は愛嬌だろう。しかし、気を抜いてはいけない、啓介が10分遅れてくることはざらにあることだから。用心のためにも15分くらい遅れることもときには肝要である。啓介の場合、どうでもいいことだが、熾烈な勝負になる。本当にどうでもいいことだが、

 あ、そうそう、先日開いた対策会議だが、残念なことにまったく役に立ちそうもないな。この際だ、多少のノロケは勘弁してもらおう。「ちゅーさえしてしまえばこっちのもんだ」、なんて危険極まりないことをのたまっておられたわけだが、俺と秋は恋人同士だ。ちゅー、するまえから俺のもんだ。これは暴言だ、わかっている、大げさに表現したいだけだ。それをわかっている上で、敢えて言おう、秋は俺のもんだ。暴言だと、思うけどさ、


「はは、ごめん、待った?」

 おかしい、今は集合15分前ですよ、お姫様?

「あ、ヒロちゃんおはよう。あの、ぜんぜん待ってないよ、私も今来たところだから、」

 嘘、そんなのすぐにわかるよ。結局彼女を待たせてしまうなんて、何か情けないが、仕方ない。その嘘、受け流しておくよ。

「じゃ、行こうか」

 差し出した手を、秋はおずおずと取ってくれた。緊張しているのだろうか? 水族館なんてあつらえ向きなデートスポットだしからだろうか。

 秋が早く来ることは予期していなかったわけではない。いつかのときにも秋は集合時間よりも早く来て、俺を待っていた。精々5分とか10分前ぐらいと考えていたけど、今日の様子を見るかぎり、そうでもないようだ。今日がたまたま早く着すぎたのだろうか? 今日はいつからまっていたのだろう? 多分聞いても答えてくれないだろう。

 そうそう、予期していなかったことが一つ、予定より早い時刻の電車に乗ることができた。これで水族館の滞在時間は少しくらい長くなりそうだ。水族館の最寄の駅までだいたい40分、ボックス席を二人で占領して、久々邪魔の入る余地の無い時間を楽しめそうだ。


 くらげ、くらげ、くらげ。お盆を過ぎると海は危険だ、といわれるのは彼の存在のためだろう。やっぱりどちらかというと、ネガティブなイメージが付きまとうのが一般的ではないだろうか? だのに、秋は身振り手振りを加えてくらげさんの魅力を力説してくれる。多分、いやきっと、海でくらげに刺された経験が無いのだろう。でも、まぁ、この感じならもしはぐれてもくらげの前に行けば大丈夫そう?

 デートの前にはしっかり下調べを、と慎吾からは最新のパンフレットのほか、地図をホームページから印刷してくれていたり、いろいろとお世話になった。事前の話し合いは役に立たなかったけど、お土産に何か買っておかないと悪いかな。ついでに啓介にもネタになるも土産を買おうか。

 地図を広げる。どんな順路で見て回るか? お楽しみのくらげをどのタイミングで見るのか? イルカのショーだってあるんだ。電車に揺られている間、話題に事欠くことはなさそうだ。



 考えれば、考えるほど、不思議なものだ。自分自身にこんな行動力があったことに。私が、牛飼未衣と同じ想いを抱き、彼女の立場なら、彼女のような性格だったなら、まだ何とか説明できるかも知れない。ただの興味本意にはあまりに趣味が悪い。あぁ、牛飼に趣味が悪いって言いたいわけではない、本人の名誉の為にも。彼女には彼女なりの想いがあるのだから、一応の理解を示しておきたい。背面のボックスシートには例のバカップルがいちゃいちゃしている。いやぁ若いねぇ。しかしだ、考えれば考えるほどに奇妙だ。私が思っている以上に長瀬秋という存在に興味を持っていることはどうやら間違いないらしい。山崎君はとりあえずの難局を乗り越えた。しかし、それは根本的に解決したのではなく、いったん秋の眼を問題点からそむけさせることに成功しただけ。詳しいことは教えてもらえなかったものの、長瀬慎吾がもたらした情報は今こうして私を具体的な行動に導いた。これは珍しいことだ。良くも悪くも表層に留まり、小難しい話をして自分の立ち位置を積極的に築いく。人にはほとんど踏み込むことをしなかった私だというのに。まぁ、いいや。今度のあの人と水族館に行くときの下見だ、調度いいタイミングに調度いいサンプルを見つけただけ。ただそれだけだ、と思うと、いつもの自分が当たり前にいるように思えて、少しだけホッとした。



同時刻、駅前に一人の男がこそこそと辺りを探っている。彼の男は山崎洋の擁護者、協力者を自負し、今日この日を以って二人の仲を飛躍的に進展させるジョーカーたり得んとこの場にやってきたわけだ。色眼鏡にアロハシャツ、選りすぐった装備は彼の意気込みを如実に表している。しかしだ、何故にか、居るべき人物が見当たらない。これはどういうことだろうか?

 時間を確認する。午前10時ジャスト。集合時間だというのに、居るべき二人、長瀬さん家のあきちゃんも、同胞の友の姿も見当たらない。

彼は思った、二人とも遅刻だな、これは。

 二人揃って遅刻など、可能性の低い状況を思いつくあたり彼の想像力は欠けているのか偏っているのか。兎にも角にも、腰を落ち着けて待つこと30秒。彼は堪えきれずに立ち上がった。待ちきれない、さっと懐から携帯電話を取り出すと、颯爽とボタンを押した。

「ファイヤ」

 気合を込めて最後のナンバーを押す。掛け声には突っ込まないでください、

 コール音が三回、なかなか答えてくれない。何を迷っているんだ、やつは、イライラしてしまう。男たるもの即決即断、と彼は信じて疑わない。たっぷり待たされて、やっと繋がった。

「どうした、池上?」

 どうした? だって、なんでそんなにのん気なんだ、わかんねぇわかんねぇよ。俺はいま焦っているのに、

「あのさ、洋の今日のデートって10時集合だったよな、駅前10時集合だろ?」

「先に言っておくな、俺は今電車の中だから電話は周り迷惑だから、用件は端的に済ませるから。洋は駅前に10時に待ち合わせしてるけど、それが?」

「いねぇんだよ、駅前に」

「そう? いないってことはわかった、しかし俺も二人のことは知らないよ。従兄妹同士っても何でも知ってるわけじゃないしさ。じゃ、これ以上は迷惑だし」

 ツーツーツーツー……、あの慎吾さん、何ですか、その冷たい反応。お前と洋と俺と、三人それぞれの青春を駆け抜けていこうって誓った仲じゃないか? 誓ってない? それじゃ仕方ない。

「ふっ、つまり本人に確認すればいいじゃないか。つまり、俺天才」

 ピッ、ポッ、パッ、

「ファイヤ」

 コール音が続く、出ない繋がらない、待たされる、繋がったっ!!!!

「ただいま運転中のため電話に出ることはできません、ご用件のある方は――」

 覚えておこう、デートなのだから携帯電話の電源を切る、もしくはマナーモード、ドライブモードにして外部からの一切の連絡を断ち切るカップルもいることを、


 デート中なのだから携帯電話なんて無視無視。と、いきたいところなのに、啓介から不在着信が五回、知らないアドレスからメールが七件……。この際だ、啓介からの着信はどうでもいいけど、メールのほうは単純に誰? という疑問に当たる。試しに一件開いてみるか。

“調子に乗ってんじゃねぇよ!!”

 いや、何のことかわからんし。説明足りてないって、それ以前に人違いだろ?

 とにかくだ、見なかったことにして、例のアドレスからのメールを全件削除。

「あ、携帯なんて見てるんだ、デート中だよ」

 秋は非難の声をあげるものの、ふと自分の言ったことに恥ずかしくなったみたいで、頬を朱色に染めて慌てて視線をそらした。あぁ、もう、かわいいなあぁ、恥ずかしいなら言わなきゃいいのに。後から気づいて、なんて反則だ。カード出ちゃうよ、累積すると感情を抑えきれなくなるよ。

「ごめんごめん、電源を切ってなかったから」

 さらば携帯。今日は夜まで出番はないだろう。電車は水族館最寄の駅のプラットホームに滑り込んでいく。本番はこれからだ。立ち上がって、秋に手を差し伸べる。

「さ、お嬢様。足元にお気をつけて」

 冗談めかしく笑って見せた。なに、本番はこれからだ。



 ラブラブデート、なんて成功させてやるもんですか。そりゃあ、秋が幸せならと思うし、彼氏という立場から多少のアドバンテージは認めようではないか。しかしだ、実に残念だが、車中のトークでそのアドバンテージはすでに使い切ったと判断させていただく。もったいない、あんな男に秋を独占させることがもったいないし、許せない。牛飼未衣は成長しない? ほっとけ。私は常々、それはもう本当に四六時中秋のことばかり考えているんだ。少しくらい彼氏の肩をもってやろうと思わないでもないが、それにも限度はある。限度が低すぎる? まさか、思い違いでしょ。

 ついでに、今度の今度ははっきり言って勝算があるの。まぁまぁ、見ていなさい。あの男は大きなミスを犯した。私が聞いているこも知らずに、デートコースをしゃべったのだ。迷うことなく作戦を立てることができるわけだ。なんてお間抜けさんなのかしらん。私は帽子をかぶりなおすと一度二人と距離をとるように隣の車両に移った。



まぁ、なんだ、本当に来てよかった。入館してすぐの巨大な水槽を目の前に、秋と二人で足を止めた。圧倒的なスケールに呆然としてしまう。高さ10メートル、幅が幾らって? あんまりでかいもんだから水槽って言葉はあんまり似つかわしくないぐらいだ。海を切り取った、とでも言うべきか。水族館なんて来たのは何年ぶりか、小学校のとき以来だろうか。秋も似たようなもので小学生以来だという。学校の研修か何かで訪れて以来ご無沙汰のようだ。そのときに覚えているのはくらげを見たことぐらいだから、俺にとっても秋にとっても新鮮な気持ちで観て回れそうだ。

 秋は目を輝かせてせわしく視線を泳がせている。これだけ水槽が大きいとどこを見ていいのか迷ってしまう。かっこ悪いかもしれないけれど、今の俺ははしゃぎそうになるのを必死にこらえていた。

「もっと近くで見ようよ、」

 優雅に泳ぐエイを見つけると、近寄ってみたくなった。

「待ってよ、ひろちゃん」

背中に降りかかる秋の声が心地よかった。


 世の中って狭いもんだ。

 この状況を十分に予想しておいて、おきながらそう思った。いや、むしろこの状況を予測していたからこそ、なのかも知れない。それに、自分もまた人のことをどうこう言う立場にはない。人のデートを盗み見するなんて正直ほめられたことではないしなぁ……。秋にしろ洋しろ、尾行するのは容易い。二人っきりになると二人ともお互いしか見えてないし。池上も俺と似たようなことを考えていたようだ。早速見失うなど詰めが甘いようだが。いつもの面子でこんなくだらないことをしないのは猪狩くらいものか? 確認はできてないけど、猪狩に彼氏がいることを確実視されている。落ち着きが違うというか、余裕があるというか、態度の端々からそう噂されている。

 牛飼の背中を見たとき、世の中は狭いものだと思った。デートを尾行するなんて変態じみた行為を自分以外がするとは思ってなかった。牛飼未衣の秋に対する執着は十分に理解していたつもりだが、ここまでとは……。じゃぁ、お前はどうなんだって? そりゃ、仕方ないさ。だって俺は秋だけでなくて、二人に十分な興味を持っているから。

しっかし、こうして見ると牛飼未衣は面白い。秋と洋の一挙措に一喜一憂。秋の微々たる行動にまで萌えを感じて喜び、一方で彼女の隣にいられない理不尽に怒りを募らせる。彼女は自分の感情に素直だ。からだ全体でダイレクトに表現している。いろいろとねじれてしまった俺には少しまぶしいくらいだ。しかし、どうするか? 二人のために彼女の押さえに回るべきだろうか? ところでデート中の二人は入館してすぐのパノラマ巨大水槽だけですでに15分もかけてまだ飽きない様子だ。おいおい、まだここは序の口だぞ。この様子だとくらげに行き着くまでで一苦労しそうだ。

目玉の一つとはいえ、水槽一つに20分もかけてよく飽きないもんだ。牛飼も飽きずにコロコロと反応している。一応距離をとってばれないように、と配慮しているつもりだろうけど、あれじゃいつ見つかってもおかしくないだろ。あぶなっかしくて見てられない、かと思いきや例の二人はまったく気づく素振りを見せない。互いしか見えない、改め水槽と互いしか見えてない。


 たっぷりと時間をかけたパノラマ水槽を離れてできるだけ一筆書きになるようなコースをめぐる。アシカ、ラッコ、ペンギンにイルカ、水族館には人気者が散在している。見所ではしっかりと足を止めては丁寧に見て楽しむ。秋は少し変わった生き物に惹かれるから、やたらと大きな蟹の前では食い入るように真剣な眼差しを向け、イソギンチャクとクマノミの前ではぼんやりと漂うような視線を投げかけていた。

 お昼ごはんはレストラン横の売店でサンドウィッチを購入。そのまま開園15分前のイルカのショーに備えて席を取りつつ昼食。ところでだ、これはある意味の快挙ではなかろうか? すごいのなんの、私が今まで我慢し通したのだ、我ながら驚いてしまう。今この瞬間、私は秋を求めている。腹の底からこみ上げてくる秋に対する渇望を必死になって堪えている。今日の経験を胸に今度秋と二人っきりのラブラブデートを企画してみようか? 水族館ってちょうどよい感じに暗がり多いし、キスくらいは……いかんいかん、ちょっと思考が不健全のほうに……キスくらい、なんて大層なことを、私の夢の一端じゃない。不健全な思考って、これって変な言い方よね。愛に健全も何も……いや、不健全って禁断っぽくてそそるかも……。いかんいかんいかん、話がさらに逸れてるし。

 二列前に座る秋の横顔がチラッと見える。楚々と咲く小さな花をイメージさせる秋が、大輪の向日葵のような笑顔を咲かせているように思えた。

死ぬ、これは、私に悶えて死ね、と? 最近流行の萌え死ぬとはこんな感覚なのだろうか? 頭の悪い言葉だって思っていたけど、私いま笑顔に殺されそうなんだけど……



 二列前に座る牛飼がピクピクと肩を震わせている。と言ってもすでに見飽きた光景になっている。しかし、未だに気づかれないのも不思議だ。秋と洋に、ではなく牛飼に。初めの予定からちょっとばかりねじれてしまっている。バカップルを牛飼が追い、その牛飼を俺が追っている。もちろん二人のこともちゃんと見てますよ、そりゃもちろん。本来の目的ですし、愛おしい二人ですから。バカップルときたら周りがどんな眼であなた方を見ているのか、考えたことあります? でもまぁ、洋はややヘタレだな、せっかくの暗がりなのにさぁ。

「横、いいかなぁ?」

 透き通るような声が鼓膜をなでた。振り返り、声の主を見上げる。

「えぇ、どうぞ」といつもの物腰柔らかい態度を崩さずに言えた自分にまず驚いた。こうも予期せぬ事態に平静を保ててる。ポーカーフェイスに磨きがかかってきたもんだ。それ以上の驚きは猪狩華花がこの場にいることだった。

「来てたんだ、気づかなかったよ」

「えぇ、偶然ね」

 偶然ね。いやぁ、それはきっと嘘だろう。そんな彼女に親近感が沸く。でも、それは好意にはつながらないように思った。

「池上君は?」

「さぁ、今日は見てないよ。いつも一緒にいるわけじゃないし」

 こう言っては悪いが、池上は洋のオマケ。洋と池上が一緒にいることが多いから自然と話す機会が多くなっただけ。一応、友達の一人として遇しているけど、俺は池上に興味はない、と言っても言い過ぎではあるまい。

 私服姿の彼女はいつもに増して大人びて見える。休日のOL? そんな感じ。似合ってる、と言うか似合いすぎ、良くも悪くも。

「牛飼をさ、抑えておいてくんない?」

 えらくストレートな申し出に、すぐには意図を掴みかねた。

「ほら彼女さ、山崎君と秋のデートを邪魔しようと画策してるみたいだし」

 それは見ていればわかる。けれど牛飼の蓋役は猪狩の方が適任だ。普段からの実績もある。

「俺は見ているだけで何も手出ししないよ。少しくらいハプニングがあったほうがギャラリーとしては楽しいからね」

 本音ではないと、信じたい。我ながらそこまで性格がねじれているとは思いたくない。けれど、前回は様子見が過ぎてちょっとまずい展開になった過去があるからなぁ。

「それでもいいよ。今度来るときのために少し下見をしておきたいから、みんなのことよろしくね」

「やっぱり彼氏いるんだ」

「いないよ、」

「一部の男子の間ではいるってもっぱら噂だけど。でも、その彼氏がなかなか掴めない。先輩とか?」

「さぁね、」

 会場がドッと拍手で沸いた。ショーが始まったんだ。一度猪狩の横顔を見る。素っ気ない素振りの彼女の眼が楽しそうに笑っているのを見て取ると、なんだかホッとした。彼女も楽しんでいるんだ。


 イルカ、クジラに続いてアシカ、トド、ペンギンと次々に芸を披露していく。大人気のショーは拍手喝采のうちに幕を閉じた。猪狩はショーの途中に静かに席を立った。去り際に見た彼女の笑顔に年相応の姿を見ることができた気がした。

 後半戦は海の中のトンネルから始まる。巨大な水槽の中のガラス張り通路だけど、これがなかなか圧迫感がある。秋が繋いだ彼氏の手を少し強く握ったのだろう、バカップルのリアクションはわかりやすすぎる。

 ふと、猪狩華花との会話を思い返した。もう少し彼女と話してみたかった。ただ、何て声をかけていいのか、あまり思いつかなかった。普段から良く話す相手ではないが、女の子と話し慣れているからその気になればいくらでも会話を続けられたはずだ。投げかけた不躾な質問。彼氏がいるとかいないとか、自分が知ったところでどうでもいいことなのに、ついつい踏み込んだ質問をしてしまった。

 猪狩に彼氏がいるだろうことは、噂になっている。告白して散った同胞からの情報や、女の子から聞いた話などを検討してみると十分に頷けることだが、肝心のお相手は未だに闇の中だ。同学年ではない、としきりに言われているが裏付ける情報はない。猪狩は自分のことをあまり喋らないからだろう。その代わり、小難しいことを話しているところは良く見かける。猪狩華花というキャラクターのイメージはそういう風景に起因しているように思う。秋に対しては猪狩もまた牛飼同様に保護者というかお姉さん的な立場にたっている。三人でつるんでいるところも見かけるけれど、ところで牛飼と猪狩の干支コンビって仲いいのだろうか? 性格を考えると食い合わせが悪い感じがする。てか、仲良くしているのが想像できない。思えば、猪狩はいつごろから秋と仲良くなったんだろうか? 何がきっかけで? 今度機会があったら是非直接聞いてみたいものだ。さて、このまま最後までおとなしく覗き見でいるのかどうなのか、それはきっと牛飼しだいだろう。



 今駆けつけるからな、友よ。俺は一人水族館への歩道を一陣の風となって駆け抜けていた。朝から失敗続きだが、諦めたらそこで試合は終了だ。俺は逃げない、逃げずに戦うんだ。いろんなことがあったさ、そりゃもういろいろと。電車は乗り間違えるし、道を尋ねてきたお婆ちゃんを背負って診療所まで案内したり、間違えて入店したゲームセンターでロボット操って戦い、駅員さんに説明してもらってなんとか“シーワールド前駅”に着くことができたと思いきや、待っていたのは怒涛の新展開。また道を間違えて今度は“人類の進化をたどる博物館”などとたいそうな名前の博物館に迷い込んだ。ふふふ、仕方あるまい。俺は昔から方向音痴なくせして好奇心旺盛、道に迷うこと数知れず。しかし、心配無用だ。道を尋ねて答えてくれそうな人を見つけるのには長けている。洋の“暗がりの中でちゅーしてしまえ作戦”に協力するため、俺、到着!!

 大丈夫だ、俺がしっかり支えてやるから、大丈夫だ。具体的に何も考えてないけど、大丈夫だ。俺がついているからな!!

 入館してすぐに見覚えのある人を見かけた。勘違いだったら誠に失礼だが、あの胸にははっきりと見覚えがあった。ずんずんと近づき間違いないと判断して、肩をたたいて声をかけた。

「猪狩じゃねぇか、」

「あ、あぁ、池上君?」

 なんだか複雑な顔をされてしまった。何故? まぁいいや、とにかくだ、俺の視界に売店が映る。

「よし、とにかくあの店に入ろうか」

「は、はぁ……」

 猪狩は首をかしげる。困惑しているようだ。ここは男として引っ張っていかねばな。俺は猪狩の腕をつかもうと手を伸ばす。一瞬早くその動きを察知した猪狩の細い腕が逃げて、俺の手は空を掴んだ。

「とりあえず、土産でも買うの?」

「まぁ、そんなところだな」

 まだ少し困惑気味ではあるが、才媛は落ち着きを取り戻してくれたようだ。出入り口すぐの売店には帰り際にお土産を買って帰る客を目当てに、オリジナルグッズがところせましと並んでいる。

「端的に聞くが、彼氏から受け取って嬉しいプレゼントって何だ?」

「えっ!! 彼女いるの!?」

「違う違う、いや、俺はすぐにできる予定だが、今回は俺の友のためにな、」

「あぁね。なるほど」

 猪狩は事態を飲み込めたらしく胸をなでおろすと、早速手短なところから品を物色し始める。ところでだ、彼女はなんであんなに驚いたのだろうか?

「正直、秋なら何でも喜ぶと思うけどさ、ついでにだから山崎君に伝えといてよ。男の子は物をあげるってことで愛情を表現しようとしがちだけど、それだけじゃダメだって。一番は言葉で素直な想いを伝えること。あとは、とにかくいろいろと話すこと、些細なことでもいいから」

 ふむふむ、なかなかいいアドバイスではないか?

「素直な想いってことは、ストレートな表現の方がいいってことか」

「えっ、まぁ、そう言えなくはないけど……」

 そうかそうか、なるほど。やっぱりだ、俺の考えは間違ってはいなかった。

「つまり、ちゅーさえしてしまえばこっちのもんだ、そうだろ!?」

「はっ、いや、どう解釈したらそうなるの、」

 早く友にこのことを伝えねば、先ずはちゅーだ、とりあえずちゅーだ、とにかくちゅーだ。おおっと、気持ちばかり逸らせても仕方あるまい。大事なのはちゅーだが、プレゼントというオプションも忘れてはいけない。

「プレゼントの品は決まったか!!」

 逸る気持ちについつい大きな声になってしまう。

「候補としては、これとか?」

 猪狩が指し示したのは小さなぬいぐるみつきの携帯ストラップだ。白くて丸っこい、どことなく不細工で、どこか間抜けな感じが可愛らしいぬいぐるみだ。くらげのふにょぽん、という名前のようだがあんまりくらげって感じがしない。

「よし、多少安い気がするが、これでいくか」

「あんまり高いものだと、不安になるものよ。あんまりこったものだったりすると、趣味が合わなかったら扱いに困るし、プレゼントって大変なんだから」

「わかった」

 もしかしたら役に立つかもしれない情報だとわかった。細かいことは今度ゆっくり聞いておくか。

「そうだ、山崎洋って俺の友達を探してるんだ、見なかったか?」

「えっ、いやぁ……」

 猪狩は困ったように首をひねる。ふむ、どうやら知らないらしい。仕方ないが、彼女に何から何まで手伝ってもらっては酷というもの。彼らを探す手がかりはないものか……。いや、待てよ、確か駅員さんからもらった水族館のチラシが……、ポケットの中をガサゴソガサゴソ、じゃん。


 池上君はポケットから取り出したしわくちゃのチラシを片手に今にも大声で笑い出しそうだ。正直、となりにいるのが恥ずかしい。

「じゃぁな、また学校で!!」

 爽やかな笑顔を残して、暑苦しい男は去っていった……。

 いや、やばかった、本当にもう、いろんな意味で。あまりの勢いに普段通りの私を貫き通せたものか……。とにかくだ、変な勢いに押されて、虎を野に放ってしまった気分だ。もしかしたら長瀬君が余計な苦労を背負うことになるかもしれないけど、すまない、後は任せるよ。私は盛大な溜息を禁じ得なかった。



 体験コーナーでウニと格闘する秋は、まさに天使だった。誰がなんと言おうと、私にとって彼女の姿は眩いばかりの光に包まれていたように思う。一つ一つの動作がかわいくてしかたない。あぁ、こんなにまで純粋無垢な少女いていいのだろうか、神がかっている、このかわいさはもう国宝級ではないか?

 正直、こんなこと考えていると負けな気がして仕方ないのだが、私はいつまで陰に隠れて堪えているのだろうか。機を見て秋をかっさらうつもりでいることには間違いないけど、そう電車の中であれだけ息巻いといて、立った計画は最後の最後で少し秋を借りる程度の小さな計画。情けないけど、時には厳しい現状をしっかりと把握していないと……

 最後の最後、今日のクライマックスを飾るのは特別展示、“世界のくらげ大集合展”だ。電車内で盗み聞きしたルートはしっかり頭に叩き込んであるし、秋を誘拐する絶好のポイントも見つけてある。最後の最後くらい一夢咲かせて見せましょう。巨像に立ち向かう蜂の一刺しを受けてみろ、ってやつだ。あ、ついでに巨像と蜂は勢いを表す比喩として用いただけで、山崎洋と私の戦力差を示しているわけではない、と信じたい。やっぱり私、弱気になってるかも……

 ところで、秋は今クイズ問題に挑戦しているわけだ。二択の問題とはいえ結構コアな問題が多くてなかなか即断できない。「みっちゃん、どうしよう、わかんないよぉ~」なんて泣きつかれたら、私はどうしたらいいのだろうか? いかんいかん、最近妄想が癖になってない?

「ひろちゃん、どうしよぉ~ぜんぜんわかんないよぉ~」

 ……悔しい、あぁぁぁぁ、あの場にいるのが私だったら、私だったら!! 今度来よう、絶対来よう、ふたりっきりで。きっと秋は問題と答えを覚えているだろうから、得意げになって教えてくれるかもしれない。おっと妄想に悶えている場合ではない。もうすぐだ、私の戦いが始まろうとしている。私はゆっくりと瞼を落とす。


私にささやかな成功を……


あわよくば、唇を……


この思いは卑しいものだろうか? もし、卑しいものだとしても、私は迷わない、そう心に決めた。


 海底に棲む生き物の展示を中心にするやや薄暗い廊下、私は隙をうかがいながら後ろからバカップルに近づいていく。もっとも隙がなければ強行するだけなのに、こんなところでも形の上は慎重な姿勢を保とうとしているなんて、ちょっと滑稽だ。

 秋の足が止まる。あのカニだ。バカでかくておいしくなさそうなカニ。できる限り一筆書きになるように設定されたコースの中で、数少ない二回も通るこの廊下。例外のポイントに落ちていた偶然を私は逃さなかった。あの男はカニに見とれる秋に気づいていない。まぁ、仕方あるまい。もうすぐくらげの特設展示会場が目の前なんだ、高揚しているのだろう。秋がどんな顔をしてくれるのか、とか考えないほうがおかしい。だけど、残念だが一瞬の油断は命取りだ。秋が見せる今日一番の笑顔を私が独り占めする、待ちに待たされたくらげとの再開に立ち会うのは私だ!! その一瞬の輝きのために、長い長い時間を費やしてきたんだ。

 自分でも不思議なくらいに体が動いた。秋に近寄りさっと後ろから押さえ込む。驚いた秋が声をあげる前に口元を手で覆う。振り返って私の顔を見た秋の動きが止まる。キョトンをして、何がどうなっているのかわからないのだろう。一方で抱きかかったのが私だったといくらか安心しているようでもある。

「秋、ちょっと付き合ってね?」

 あやすような笑顔をみせておきながら、有無を言わせずに秋を引っ張っていく。といっても秋はほとんど抵抗しない。あの男から離れていくことに戸惑いながら、掻っ攫おうとしているのが私なんだから必死になって抵抗することもできずに、

「大丈夫、あいつとは打ち合わせずみだから」

 嘘。多分かなりわかりやすい嘘だろう。けど、秋は私を疑わない、そう関係なんだ、私達は。秋のわずかな抵抗もなくなった。全てが上手くいったんだ。秋の手を引っ張って走りながら、私は愉快でたまらなかった。



「秋?」

背中がちょっと淋しく思って、俺は彼女を振り返った。が、彼女の姿がないのに、愕然とした。ついさっきまで、そうつい30秒も前には隣か、もしくはすぐ後ろにいたはずの、彼女が。

 廊下を見渡すと、曲がり角に消える秋の後ろ姿が見えた。状況が飲み込めずに、一瞬の間をおくと、とにかく後を追おうと走り出そうとした今度は急に肩を掴まれた。勢いあまった足を滑らせた俺を、上から覗き込む見慣れた顔。長瀬慎吾だった。

「あれ、なんで!?」

 狐に掴まれるとはこういうことなのだろうか? 何故慎吾がこんなところにいるんだろうか? 慎吾の差し出した手を頼って体を起こした。

「ま、偶然だね」

 そんなに爽やかな顔をされても困る。その言葉が嘘だなんて、気づかないはずがないのに。そうすると、秋とのデートを全て見られていたのだろうか……。いや、それ、まずいよ、かなりまずいよ、お客さん!? 俺、いろいろ言っちゃいましたよ、普段は話さないような恥ずかしいことをたくさん。イルカのショーを横目に秋の肩を抱き寄せたりとか、見られてる!? いや、ありえんでしょ? ははは、まさか、ねぇ……。頭に血が上っていっているんだろうか、急に頬の辺りがかあっと熱くなる。

「い、いい、いつからだよ?」

 いつから見ていたんだよ? 唇が水分を失っていく。舌が乾いて回らない。こんな経験、秋に告白したとき以来だ。

「ははは、いや、悪気はなかったんだけどさ、さっきチラッと君らの後をつけている牛飼を見つけたから」

「牛飼? なんで?」

「さぁ、秋のことが気になってついてきてたんじゃないの? で、秋をさらって逃亡されたわけだ」

 兎にも角にも、秋を連れて行ったのは牛飼のようだけど……なんで? もう、なにがなんだか……

「でもさ、牛飼がついていれば、秋のことも安心かな」

 後は牛飼に連絡が取れれば。しかし、何がどうなってんだ!? なんで秋をさらっていったんだ?

「そんな弱気でどうする!! 捕らわれの姫を助けるのは、男の仕事だろうが!!」

 背後から気風のいい声がとんだ。いや、水族館の中では静かにしようや、

「啓介!? なんでお前までここに?」

 威風堂々とした足取りで、男は颯爽と現れた。池上啓介、必要かどうか良くわからんタイミングでただいま参上!!

「必要なときに助けてくれるから、友達なんだろ。このままでいいのか!? 姫はお前の助けを待っているんだ。よく考えろ、男だろ。奪回だ、助けに行くんだ」

 いつになく強い口調で、迷いのない声で啓介は言う。言いたいことはわからなくもない。牛飼が何を思ったのかは知らないが、悔しくないわけでもない。俺はどこかで仕方ないって諦めてしまっているのかもしれない、牛飼と猪狩は特別なんだ、と。

「つまり、愛、だ」

……俺は、秋の彼氏なんだ。啓介の言葉が心をつつく。不思議と奮い立たせてくれる。牛飼なら仕方がない、と思うこともある。でも、羨ましくも悔しくもある。今は秋を取り戻したい、それが俺の本心なんだ。

 啓介に向かって強く頷く。

「そうだ、友よ、それでいい」

「だけど、牛飼はどこに行っちゃったのか、それがわかんねぇと、どうしようもないだろ?」

 慎吾が至極もっともな意見を述べる。確かに、牛飼の行き先は皆目検討もつかない。せっかく気持ちが盛り上がってきたのに、いきなり万事休すか?

しかし、だ。もしかすると迷うことなんて、ないのかもしれない。あまりに都合の良い場所が用意されているじゃないか。

「くらげ……」

「だろうな、秋が楽しみにしてたとっておきだし、くらげの特設展」

 慎吾が頷くなり、身体が動いた。牛飼が逃げていった方向とは逆方向に。特設展示会場はすぐそこだ。

「洋!!」

 啓介の声に、急にブレーキで振り返る。啓介が手に持っていた小さな何かを投げた。とっさに飛びつくようにして受け取ったそれは、白いマスコットのぬいぐるみのついた携帯ストラップだった。

 一度啓介に向かって手を振る。後で目一杯礼は言うから、今のところはこれで勘弁な。



 走り去った洋と、突如現れた池上。とりあえずここは公共の場なのだからもう少し声のトーンをおとしてほしいものだが、まぁ、仕方ないか?

「さて、俺たちも行こうじゃないか」

 池上のこの、さも当然言っている意図がわかってくれるもの、といわんばかりの態度だけはどうにかならないだろうか。わかっている、わかっているさ、牛飼未衣を抑えて姫様と騎士の再会を演出しようってんだろ?

 さて、勢いに生きる男池上啓介は、ふと面白い言葉を言った。本人は何にも意図していないことだろうけど。「捕らわれの姫」とな。これは秋を言い表した言葉だが、案外、牛飼にも当てはまる。いや、寧ろ牛飼のほうが俺には捕らわれの姫君に見える。無意識的に秋に縛られている彼女のほうが、よっぽどだ。

 従兄妹の秋が恋をした。ただそれだけのこと。なのに、周りの多くの人に気づかないところで影響を与えている。それが、ひどく滑稽なことに思えた。

 さてさて、みんながみんなめまぐるしく動き回っているけどさ、結局なにをやっても最後は当事者の問題なんだから、しっかり頼むよ、ヒロちゃん。



「ふぁぁぁぁぁぁ……」

 圧倒的ではないか。円柱状の水槽が何十本も並べられた会場。水槽には色とりどりのクラゲがゆらゆらと漂っている。中にはライトアップいるのもあって秋じゃなくても魅入ってしまう。特別展示に集められたクラゲは世界中から約百種類。

 秋の表情が驚きから恍惚としたものへと変わっていく。秋に彼氏ができた。私はあんまり認めてないけどさ。少し目つきの悪いけど、中肉中背で特にこれといった特徴のないやつ、意外に律儀だけど、学業スポーツともに並程度、掃いて捨てるくらいいる当たり前の男が、私の大事な大事な女の子を掠め取ろうとしている。確かに、あいつのおかげで秋は明るくなった、よく笑うようになった。でもさ、私だって長い時間を秋といろんな想いを共有してきたじゃないか。負けてない、まだ負けてないよね、私?

「すごぉぉい、みっちゃん、すごいよ」

 秋が笑う。極上の笑顔で、きっと今日一番の笑顔を私に振りまいてくれる。

「行こっか」

 私は秋の手を引いて部屋の真ん中の大きな水槽に向かって歩き出す。あぁ幸せだ、心臓が早鐘のように鳴る。心音が秋に聞こえるんじゃないかってくらいにドキドキが止まらない。

「ねぇ、秋? 私が秋と始めて話したのって、この水族館なんだよ。何度も改装されちゃったからどこだかわかんないけど、大きなクラゲの水槽の前、覚えてる?」

 秋は小さく頷いた。今年の四月からの三ヶ月で秋は少し変わった。でも、私が秋を気にかけるようになって六年近くの時間の中で秋は大きく変わったんだ。そして、私も。

「秋?」

 秋はつぶらな瞳を輝かせて、変幻自在に波間に漂うクラゲを見つめる。愛おしいよ。言ってしまおうかな? 好きだって。秋は多分わかってくれないだろうな、私が言う好きだってのはLikeじゃなくてLoveなんだって……

「ひろちゃん、どうしてるのかな……」

 何気ない秋の呟き、それが私を一気に燃え上がらせた。秋の肩を掴んで強制的に私のほうを向かせる。

「えっ、なに? どうしたのみっちゃん?」

「秋、目を瞑って!!」

 その昔、時代劇にでてきた悪いおじさんは言った、言ってわからないなら、態度で示すまでだ。ふふ、秋、覚悟してよね。

 しばし瞬きをしたりと、困惑気味な表情をみせていた秋だが、素直に目を瞑った。不思議と確信があった、秋は私がしようとしていることに気づいていないって。そして、妙な予感もあった……。



 さっと手を差し出して、甲で秋の唇を覆う。牛飼の動きが止まる。間に合ったんだ。ギリギリのところで間に合ったみたいだ。牛飼が躊躇わなかったら、一度息をのんで一拍億個とがなかったら、秋の唇は奪われていたことになる……。てぇ? あれ、おかしくない? 何で牛飼が秋の唇を奪わなきゃいけないんだよ? でも、だ、牛飼は確かに秋にキスしようとしていたように見えたのだが……

 チラッと秋の方を見る。澄ました顔で目を瞑ったまま、あ、かわいい。

 今度は牛飼の方を見る……、あの、俺ってなんか悪いことしましたか? ははは、すんげぇ怖い顔して……。般若?

 殺される? あぁ、あんか牛飼の背中に後光が見えるよ、燃え盛る炎をあしらった、そう不動明王像とかについているアレね。何で怒ってるの? って聞きたいけど、そんなこと聞ける雰囲気じゃないよ……。

 っと、いつの間にか慎吾が牛飼の真後ろに回り込んでいる。今日の慎吾はとっても神出鬼没だ。慎吾さんってば何をするかと思いきや、強引に牛飼を秋から引き離すとずるずると引きずっていく……。意外とパワフルだな。がんばれよって笑顔を残して。

 短い時間をはさんでいつの間にか秋とふたり。秋はいつになっても何にもおきないことに首をかしげている、目を瞑ったままで。はは、じゃ。秋の手をとると、手の甲に唇を押し当てた。手の甲へのキスは、騎士の忠誠のキス、だっけ? 少し前に読んだ漫画にあった裏づけのない知識。

「どうしたの? みっちゃん?」

 目を開けた秋が、キョトンとしている。

「ひろちゃん? みっちゃんは?」

 右をキョロリ、左をキョロリ。あ、左手の水槽の陰に慎吾も牛飼もいる。

「みっちゃんがいなくなって、ひろちゃんが現れて……」

 秋が自分の手の甲を見つめる。次第に頬に朱がさしてくる……

「キス……したの?」

「さあね」

 笑ってはぐらかす俺は多分その日一番の笑顔だったと思う。



 夕方になって最寄の駅まで帰ってきた。思えばクラゲを見ることたっぷり二時間、初めの三十分はよくても飽きてくると大変だった。途中からクラゲより秋のほうを見ていることが多かったくらいだ。その後は慎吾と牛飼と合流してもう一度気に入った箇所を回って、二度目のイルカのショーを観た。啓介は「用が済んだから帰る」と慎吾に言付けて去っていったはずだが、一人ペンギンの前で絶叫していたり……。啓介からもらったストラップはショーの合間に秋に渡した。もともと秋に渡すように啓介が用意してくれたものだろうし。後でしっかり埋め合わせをしておかないと。パプニングもありながら楽しい一日がすごせました、って言うのはまだまだ気が早いだろう。この後、思いもよらぬ大きな山が残ったとは……


 駅まで帰ってくると、散歩がてらに秋を家の近くまで見送ることにした。といってもまっすぐ家路を急ぐことはしない、少し寄り道しながらだ。見晴らしのいい高台の公園に着く。ここまでくれば秋の家は目と鼻の先だ。といっても秋を送るときはいつもここまでで、秋の家まで行ったことは未だに一度もない。

 秋と向かいあって、後は別れの挨拶だけで楽しかった今日が終わってしまう。

「ひろちゃん、あたし聞こうと思ってたことがあるんだ。この前のことなんだけど」

「俺に答えれることなら、何でも」

 この前のこと? といわれても思い当たる節がない。何か妙なことでもしでかしたっけ?

「あのね、ひろちゃんは、あの、この前見ていた本とか、好きなのかなって……」

 この前の、本?

「あっ、……」

 グラビアアイドルの写真集のこと……だ。この前はうまく乗り切れたけど……

「今のあたし、落ち着いてるよ。逃げないから、ひろちゃんの気持ち、知りたい」

 ははは、秋は精一杯の虚勢を張っている。表情から簡単に読み取れる。やっぱりあの雑誌事件は何も解決してなかったんだ。

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