第2話 水族館事件(前編)

 私の秋に関する一番古い記憶は小学校四年生の社会科見学の時だろう。後から考えてみるとそういえばクラスにそんな子もいたなと思ったりもするが、その頃の私にとって秋は、無に等しい存在だった。

 いてもいなくても同じ。というより、長瀬秋という人間を認識していなかったのだ。その頃の私というのは。

 だが小四のある日、私は初めて秋を認識した。それは社会科見学の一環で水族館に行った時のこと。私はクラスの仲がいい子達と一緒に館内を見て回っていた。昔から元気がよかった私は、授業の一部でもある水族館見学でも走り回っていた気がする。どんな生物がいたかとかはあまり憶えていないのだが、一つだけ印象に残っている生物がいる。それが「クラゲ」だった。

 なぜクラゲが印象に残ったのかというと、まあお分かりの通り、秋が見ていたからだ。

 その頃の秋はクラスで浮いた存在だった。友達もおらず、休み時間も教室にこもりっぱなし。さらには給食を食べるのも一番遅く、昼休みの半分近くを一人での食事に費やしていた。そんな奴がいたらいじめのターゲットになるのはごく自然の流れなわけで――秋は学校でいじめに合っていた。

 小学生の私は自分が遊ぶことでいっぱいだった。頭の中も、時間の全ても。そんな私は自分と友達以外に興味はなく、秋のこともクラスのいじめのことにも無関心だった。いじめがあっているらしいという話は小耳に挟んだりもしたが、自分には関係ないと目を背けていた。中学以降の私の友人がそれを聞いたら目を丸くして驚くか、冗談を言っていると思って笑うかするだろう。私の友人たちは私のことを熱血漢、正義の味方、実直な男、などと好き放題評してくれるだろう。一つ断っておくが私は女だ。確かに快活(悪く言えばがさつでおてんば)な私は男らしいとよく言われる。だがこの性格が染み付いたのは秋と出会ってからだと思っている。秋という守るべき存在ができて、私はしっかりした性格になったのだし、自分が正しくありたいと思うようになったのだ。

 私が彼女を認識するまで、私の世界に秋はいなかった。

 でも知ってしまった。出会ってしまった。あのクラゲの水槽の前で、私は生まれて初めて長瀬秋という人間を認識したのだ。

 友達のいない当時、彼女が誰かと一緒にいるわけもなく、彼女は一日中クラゲの水槽の前に佇んでいた。

 その日は水族館の中ではずっと自由行動で、私は好き放題に見て回った。水族館には親に連れられて何度か来たことがあったので私はすぐに飽きてしまった覚えがある。残りの時間は館内で鬼ごっこをして、先生に怒られた。私が先生に連行される途中、再びクラゲの水槽の前を通った。まだ彼女がいた。私がまだ大人しく魚を見ていたときも、鬼ごっこをして走り回っていたときも、彼女はずっとそこにいた。まるで水族館のオブジェかと思うくらいに、彼女は微動だにしないままクラゲに見入っていた。

 集合場所はクラゲの水槽の近くで、私は集合時間まで先生の下に繋がれることとなった。そこからずっと秋の姿を眺めていた。

 先生の目を盗んでこっそり近づいて尋ねてみた。同じ物をずっと見て何がおもしろいのかって。すると彼女からはこう返ってきた。「全然同じじゃないよ」って。

 そのときの私にはその言葉の意味も重みも全くわかるわけもなく、「そうなんだ」とか適当に返した。それから私は彼女に倣ってクラゲをじっと見つめていた。先生に見つかってすぐに連れ戻されたのだけれども。

 そのとき秋に話しかけたのは魔が差したとしか言いようがない。でもそれがきっかけで学校で秋と話すようになったのは紛れもない事実だ。それから私が秋と仲良くなっていじめっこ共を撃退し、牛飼未衣の熱血勇者伝説が始まった――というのはまた別の話である。


 秋を知った今になって考える。秋はあの水槽の中で揺らめく海月に何を思っていたのだろうかと。水槽という檻に閉じ込められながらもゆらゆらと自由に泳ぐ海月に自分の自由を求めたのだろうか。ゆらゆらと流されるしかない海月の姿に閉じ込められた自分を重ねたのだろうか。

 きっとその両方だ。秋は自由になりたかったんだ。何事も自分で考えて、自分で行動する。ふらふらしている海月の中に、自分の未来を望んでいたんだ。それほどまでに水槽の中の海月は綺麗だったから。

 ――なんて思うのは私のエゴかな。秋の全てを理解して支配したつもりになりたい私のエゴ。

 そう、秋のことを水槽に閉じ込めてずっと愛でていたいのは私の方なんだ。長瀬の家でも、ましてや山崎君でもない。いつだって秋のことを縛り付けているのは私。私は昔からそうなんだ。都合の悪いことからは目を背けて、それでいて自分はいい人でいたい。一番汚いのは私なんだ。秋を守るために近づいた私は、秋を守ることでしか一緒にいられない。例えそれを秋が望まなくなったとしても。

 わかってる。私が秋と一緒にいるのは、私のエゴだから。だって私は、秋のことを、ずっと――


 だったら私に何が言えるの? だったら私に何ができるの?

 海月を見に行きたいと山崎君に言った秋は、いったいどんな気持ちだったんだろう。



・・・

・・



はっきり言おう。問題は全く解決されていないのだ。そう、最終的には秋のあの潔癖症を直さない限りハッピーエンドってわけにもいかない。秋のああいう脆い部分は美点ではあると思うが、やはり同時に欠点でもある。


しかしだ、今解決すべき問題はそこにない。解決を先延ばしにした懸案事項ではあるが、今直面している問題、それは、


水族館作戦である。


そんなわけで、俺と洋と池上は作戦会議中なのである。


もとい、水族館作戦。



・・・

・・


緻密に練っていた映画館計画と前後してしまったが、この作戦が現段階で最も重要な責務である。なんてわけのわからんことを考えてもしゃーない。俺はただ、秋と仲直りがしたいんだ。で、作戦会議なわけだけど……


「ちゅーだ、ちゅーさえしてしまえばこっちのものだ!」

と、池上は妄言を吐きまくりだし、


「相手に不信感を抱かせずに心を傾かせる……暗闇か?」

と、慎吾も意味不明なことを口走る。逆効果。それ、逆効果。

意味のない会話をしばらく続けた後、結論が出た。

とにかくデートを楽しいものにしようと、そういうわけだ。秋の機嫌を取ろうとする云々はさておいて、どれだけ秋に楽しい思い出を作るか、論点はそこに絞られた。


問題はその方法なんだよなー



・・・

・・


水族館作戦

1、押し倒す。

2、無理やりちゅー。

3、雰囲気にまかせてお尻に触る。

4、強引に胸を触る。

5、


ん、なんだよ?だから俺はマジメに……。ボツ?なんでだよ、女の子だって待ってるんだって。横暴?まさか、妄想と呼んでくれ。



無視すんなよ!わかったわかったよ。長瀬ちゃんがシャイガールってのは十分にわかった。ああ、長瀬といってもお前じゃないぞ。お前はアンチシャイボーイだってのは実証済みだからな。


でだ、長瀬の秋ちゃんを楽しませる為にどうするか、それはズバリ、包容力だ。だから引くなって!

女の子はな、多少強引に引っ張ってくれる男に惚れるってもんだ。この人になら身も心も預けてしまっても大丈夫ね、と思わせる包容力だ。問題点はそこじゃない?

秋は俺のこと好きだから大丈夫?


キタ━(・∀・)━!!!!

大胆発言!はっずかしぃー!

先生、アホがいます!

ノロケですか。ノロケですね。


バカップルに付ける薬はございません。

恋という薬漬けですけどね。

うまーい!山田くーん、池上くんに座布団をを見せてあげて!

ほー、これが座布団かあ。



だから引くなって。そこはつっこめよ。それか乗れよ!


とにかくだ、彼女を楽しませる為に必要なのはお前の包容力にかかっているんだ。

それを演出するためにはな、綿密に計画を練る必要があるのだよ!



/水族館作戦



 一時はどうなることかと思ったが、なんとか窮地は脱したようだ。

 私のせいかと自問してみると、私のせいかなと少し落ち込んでしまう。反省しているのだ、これでも。私が起こした行動は些細なものであったが、それは事態を動かすには十分すぎる効力を発揮したのだと言える。

 長瀬君の顔を見た時はドキッとした。まさか私の心の内を読まれてしまったのかと。だがそんなことは秋の心の強震の前には瑣末だ。そう、長瀬君の口元に浮かんだ笑みが私に向けられたものであるのか、それとも彼自身に向けられたものであるのか。あるいはその両方か。その答えを確かめる術は長瀬君に直接的に聞くしかないが、それをする勇気は私にはない。どんな結果が待っているにせよ、それは私の根源的な部分を他人に擦り付けて磨り減らすようなもの。私の心の核心部をさらけ出せるほどに私の覚悟は決まっていないし、第一長瀬君とはそんな内面部分を話すような間柄ではない。

 気のせいだ。そう思うことにした。あんな空気の中で笑っていたはずがない。気のせいだ。見間違いだ。

 

※(華花も自嘲気味に口元を歪めていたということに彼女自身は気づいていない)


 私の心の問題はさておいて、問題は当事者の秋や山崎君以上に他にあると私は思っている。それは私がたまたまこの位置に立っているのでそう思うだけなのかもしれないが、私が今一番心配しているのは牛飼の精神状態だ。

 例の雑誌事件後の彼女の沈みようときたら筆舌に尽くし難い。秋が教室を飛び出して行った時に追いかけなかったことも不自然だったし、何より秋と山崎君が会話をした後になんの言葉もかけなかったのだ、あの馬鹿は。

 本当はこういうのは牛飼の仕事なのだろう。小学生の時からの付き合いだと言うし、秋の一番の理解者でもあるのは間違いなく彼女だ。だからこそ、こんなときに秋を慰めたり傍にいてあげるべきは彼女だったのだ。こういう問題と直面した後は、女の友達がフォローを入れるのが普通だ。だが彼女はそれをしなかった。牛飼未衣は長瀬秋との関わりを放棄したのだ。少なくともあの時は。

 だからというわけでもないが、秋と話す役は私が買って出た。月並みな事ならいくらでも言える。頭の良い私は誰かを慰める言葉ならいくらでも持っている。だが、秋は別だ。本当に彼女のことを思って、本当に言わなきゃならない言葉を

探さなきゃいけない。気づかないうちに長瀬秋という存在が私の中で大きくなっているということに今更ながら自覚させられた。

 虚の部分ならいくらでも作れる。そうやって今まで生きてきたから。でも実を伴った瞬間、私の論理的思考も行動する余裕も瓦解する。

 そういうわけでその時の私は傷ついた少女にかける言葉が浮かばずにいた。結局は何の言葉も見つけられず、隣に座っているだけだった。しばらくすると秋の方から頭を私の肩に預けてきて、またそのまま無言のままでいた。

 どうやらこんな私の存在でも秋には役に立ってもらえたようだ。少しずつ落ち着きを取り戻した秋は別れ際にありがとうとだけ言った。

 考えすぎだった。でしゃばりすぎだった。そう、私なんかがいなくても必要な言葉はもう山崎君がかけていてくれたのだ。本人たちの事は本人たちにしかわからない。それなのに私なんかに何ができるっていうんだろう。

 確かに私がいて秋は落ち着いて、うれしそうな顔をしてくれた。それはいい。私は喜んでそのことを受け入れて、私の問題はそこでおしまいだ。

 でも、と思うんだ。

 ねえ牛飼、あんたはそれでいいの? いつもあんたがしてきた大事なことを私なんかに譲っていいの? あんたの想いはその程度だったの?

 まあ、複雑であるのはわかるけれどもさ。

 でもね、そうやってうずくまっていたって何も変わらないよ? 秋は少しずつ変わっている。前進している。それなのに、あんたはここで立ち止まったままなの?

 そんなことを牛飼に言ったら、「うるさい」とだけ返ってきた。

 全く、私も人が悪い。というより、人間ができていないと言った方が適格か。こんなときに牛飼にも慰めの言葉の一つでもかけてやればいいのに。

 それができないのはやはり私が未熟だからに他ならないだろう。互いに傷つかないで済む距離を保ったままで無難に事を済ませようとしている。でもだ、どうしてそれなのにたまに辛辣な言葉を投げかけるのかと言ったら、それもやはり自分の未熟さの表れではないだろうか。口ばっかりで無責任な私。他者に言葉を投げかけることによって相手の反応を見ているのだ。観察者――全く、我ながら趣味が悪いこって。

 こんな私でもね、心配してるんだよ、牛飼。でもそれを言葉にしないのは……やっぱり私が子供だってこと。


 考えるばかりじゃ仕様がない。私はもっと行動しなくては。実を持った人間になるために。

 牛飼には悪いけど、今はあなたを励ます言葉を私は持ち合わせていません。でも、がんばれ。私はあんたを応援しているから。


 彼女を立ち止まらせている原因は秋を潔癖なまま殻に閉じ込めていたのは自分に責任があるのだという思い込みと、そしてなにより「海月」というキーワードであろう。

 クラゲは秋の大好きなものだと聞いている。そして牛飼にとってもきっと大切な何かなのだろう。それを山崎君に見に行きたいと言ったことは、秋にとっても牛飼にとっても大きなことなのだろう。大切な思い出であるのなら、牛飼の心中の複雑さは容易に想像できる。


 まあ、私に何ができるのかって言われると、何もできないんだろうけどさ。適当にやりますさ。よく言えば臨機応変に、悪く言えば行き当たりばったりに。「適当」って言葉には二つほど意味があるのでね。


 私が何かしら行動を起こすその前に、男共の会議を覗いてみますか。またあいつらも実のない妄想トークに花を咲かせていることだろうから。

 ほんと、しっかりしてよね?

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