11. 女の友情

 駅まで歩く道すがらでは無理な芸当だったが、井の頭線の電車に乗って落ち着くと、瑠衣は頭の中で旱魃姫に話し掛けた。

(旱魃姫?)

(はい)

(昨夜の閻魔さんとのデートは、如何いかがでした?

 そりゃ、楽しかったんでしょうけど・・・・・・。一体、何処に行ったんですか?)

(はい。街の名前は知りませんが、光が集まって佇んでいたり、流れている場所です)

 ――都心部の何処かと言う事か・・・・・・。ネオンサインの光りが溢れる渋谷か新宿の歓楽街辺りだろう。

 ちなみに、幽体離脱した状態でも憑依対象の人間から遠く離れる事が可能である。の程度まで離れられるかは、存信の強さに依る。

 閻魔大王や旱魃姫の場合は数十㎞の距離でも問題無い。学鬼や怠鬼らの鬼の場合、10㎞程度ではないだろうか。幽霊が憑り着く場合、殆ど幽体離脱状態で離れる事は不可能だ。所詮は人間だからだ。

(たくさんの人が歩いていたでしょう?)

(ええ、たくさん。あの方たちも人間なんですよね? 眠らなくても大丈夫なのでしょうか?)

(大丈夫。ああ言う夜に出歩く人達は、昼間に寝ているんですよ)

(へえ~。昼に眠る方と夜に眠る方の2種類の人間が居るんですね)

(いや、大半の人は夜に眠りますよ。ただ、遊びたい人は夜に出歩きますね)

(遊ぶ?)

(まあ、大人の遊びって言うか、夜の遊びって言うか・・・・・・。

 其の内に旱魃姫にも説明します。初心うぶな状態で聴くには、刺激が強いでしょうから。

 それよりも、旱魃姫と閻魔さんの姿を見て、驚く人は居ませんでした?)

(はい。私達は上空を彷徨さまよっていましたから。

 それに、閻魔大王に聴いた処では、霊感と言うのかしら、其の霊感の強い人間にしか、特に離れている場合には見えないそうですよ)

 旱魃姫は、瑠衣の憑依した段階で、瑠衣の持っている知識を身に着けてしまっている。単語の意味や言葉遣いに関しては、何の問題も無かった。

(あら、私って霊感の強い人間だったのかしら? 幽霊なんて見た事が無いけど・・・・・・)

(霊感と言う表現は正確ではないかもしれませんね。猛さんや瑠衣さんは、私達の存在を信じているから、見えるんですよ)

(フ~ン)

 実際は、幽体離脱した閻魔大王を初めて見たのが至近距離だった事と、強烈な閻魔大王の存信の御陰で、霊感の無い瑠衣の目でも見えたのだ。

 1回でも誰かに憑依されると、距離が離れていても幽体離脱状態の雲上人の姿が見えるようになる。

(そうそう。私達が出会った幽霊ですけど・・・・・・)

 旱魃姫はフフフっと思い出し笑いをした。

如何どうしたんですか?)

(閻魔大王って、本当に、お優しい方なんですよ)

惚気のろけですか・・・・・・)

 自分の考える事が旱魃姫に筒抜けとなる状態に不慣れな瑠衣は、不用心な感想を思い浮かべた。

(あら、御免なさい)

 旱魃姫の反応に慌てた瑠衣は、前言撤回を図ろうとする。

「いやっ、私こそ、御免なさい。失礼しました。どうか、話を続けてください」

 思わず、頭を下げる。

 対面の座席に座っていた中年女性が、そんな瑠衣を見て怪訝な顔をする。

(幽霊の話に戻ると、光りの少ない、暗い場所を漂っていると、女性の幽霊をお見掛けしたんです。

 そうしたら、閻魔大王が女性の幽霊の近くまで降りて行って、「何故なにゆえ、こんな場所に留まっているのか?」って質問なさって、

 女性の話を一頻り聴いて差し上げた後、最後に「三途の川を渡りたいのか?」って)

(それで、どうなったのです?)

(女性が「渡りたいです」って答えたら、

 閻魔大王が「ワシが地獄に戻る時に連れて行って上げるから、此処で待っておれ。他にも三途の川を渡りたがっている者がれば、其奴そやつらにも声を掛けておけ」って、おっしゃったの)

(確かに閻魔さんは優しい方ですよね。私も其れは感じます)

(そうでしょう?)

 旱魃姫が嬉しそうな声で瑠衣に同意を求めて来る。

(ところで、やっぱり幽霊って、多いんでしょうか?)

(どうでしょう? 偶々、昨夜は1人しか見掛けませんでしたけど・・・・・・。

 薄暗い、魑魅魍魎の好きそうな場所には大抵、幽霊が居るんじゃないかしら?)

(魑魅魍魎って、本当に居るんですか?)

(ええ、居ますよ。流石さすがに私の事を怖がって、私の目の前には出て来ないでしょうけれど・・・・・・)

(えっ!? 何故、魑魅魍魎は旱魃姫を怖がるのですか? こんなに穏やかな方なのに・・・・・・)

 瑠衣の質問に、旱魃姫は(其れはねえ・・・・・・)と答え、蚩尤との大戦の顛末を話し始めた。

 話の面白さに瑠衣は危うく電車を乗り過ごす処だった。

 駒場東大前の駅で降り、改札を抜けて駒場キャンパスへと向かう。駒場キャンパスの正門を通過しながら、旱魃姫との会話を再開する。

(旱魃姫とお近付きになって太古の昔話を聴かされても、私が死ねば、此の記憶もお終いなんですよね?)

(輪廻転生したらって言う事ですか?)

 死ぬ事と輪廻転生する事の違いを理解していない瑠衣は、(ええ)と曖昧に相槌を打った。

(なんだか、そう考えると無情と言うか、人間の命って儚いなあって、寂しくなってしまいますね・・・・・・)

 眼前にそびえる1号館の頂上部に架かった大きな壁時計を見上げる。入道雲を伴って背後に広がる夏の青空が、何だか秋空の様に感じられる瑠衣だった。

(人間は、限られた人生だと思うからこそ、幸せをつかもうと努力しているのですわ。

 私は、極楽にいる菩薩や天女、仙女や産女の事も知っていますが、永遠に同じ事を繰り返しているだけの彼女達が人間達より幸せだとは思えません。

 もっとも、彼女達は自分の事を幸せだとも、不幸せだとも思っていませんけれど・・・・・・。自分に与えられた役務を淡々とこなすだけです)

 極楽を見た事の無い瑠衣には、(はあ)と曖昧に答えるしかなかった。

(ねえ、瑠衣さん)

(はい)

(私だって、幸せとは縁遠かったんですよ。少しの間、立ち止って、瞼を閉じてくれるかしら?)

 夏休み中の駒場キャンパスでは人通りもまばらだ。大きく枝を張った銀杏の木陰の下で、瑠衣は立ち止った。瞼を閉じると、首筋を撫でる微風そよかぜが一層心地良い。

(今から、私が暮らしている庵をお見せしますよ。現世の言葉で言うならば、悠久の間、此の庵で私は独りで過ごして来たのです)

 瑠衣の瞼に、雲海に浮かぶ風光明美な岩山と、山頂に結ばれた質素な庵の風景が浮かんだ。

(心の落ち着く、良い処ではないですか?)

(そうですね。でも、瑠衣さんが感じている微風も吹きません。草木の成長する夏のエネルギーも有りません。蝉の声だって聞こえません。悠久の間、ずっと此の儘なのですよ)

 そう解説されると、永遠の命を持つ旱魃姫の事を羨ましいとは到底思えない。

(私は現世に来てから初めて花と言う物を見ました。現世では、草木でさえ限られた生命を謳歌し、自己主張をしている・・・・・・)

 そう言えば・・・・・・と、旱魃姫が憑依してから初めての買い物シーンを瑠衣は思い出した。

 スーパーの園芸コーナーの前を通り掛かった時、旱魃姫の関心の度合いが強過ぎたらしく、瑠衣の前進を拒む様に足が重くなったのだ。

(私は閻魔大王にお会いして、初めて幸せを感じました)

 瑠衣は旱魃姫の述懐を惚気だと思わなかった。旱魃姫は本心から閻魔大王を好いているのだと、改めて得心が行ったのだった。


 弦楽同好会の練習場に向かい、瑠衣は学生会館の広い娯楽スペースを横切った。

 合奏を耳にして近付くに連れ、足取りが軽くなる。瑠衣自身も不思議な感覚だったが、憑依した旱魃姫が心を躍らせているのだと気付いた。自然と瑠衣の気分も浮き浮きし出す。

 恐らく、閻魔大王に影響された猛も同じ状態だろう。

 猛の視界に自分の姿を入り込ませると、軽く手を上げて来訪を伝えた。

 休憩時間になると、猛が瑠衣の元に駆け寄って来た。瑠衣の腕を取り、先輩の方に連れて行く。

「部長! 俺の知り合いが入部を考えているんですけど、ちょっと腕前を確かめてみて貰えませんか?」

(ちょっと、ちょっと。何を考えているの! 強引なんだから)

 と、心の中では反発する瑠衣であったが、そんな事は悟られぬようニッコリと笑顔を浮かべると、部長に愛想を振り巻いた。

「君。何か弦楽器を演奏した経験は有るの?」

「いつもは胡弓を弾いています」

「胡弓か。古典派だねえ。でも、俺達の活動に胡弓は含まれていないぞ」

「ええ、分かっています。胡弓の他には、バイオリンを少々・・・・・・」

の程度の腕前なの?」

「鬼頭君と同じ位には・・・・・・」

「そりゃ、凄い! 鬼頭は弦楽同好会で一、二を争う腕前だからな。どんな曲目なら演奏できるの?」

「鬼頭君が習得している曲目ならば、大体は・・・・・・」

「そりゃまた、凄い! じゃあ、一緒に弾いてみるかい?」

「もし、宜しければ・・・・・・」

「良し! おい、お前。ちょっと、お前のバイオリンを彼女に貸してみろよ」

 部長は新入部員の1人に指示した。

 新入社員は、言われた通りに、自分のバイオリンを瑠衣に手渡した。

 受け取ったバイオリンを顎の下に挟むと、瑠衣は弓を弦に軽く当て、試しに鳴らせた音色を確かめた。目を閉じ、深く息を吸い込む。

 束の間の精神統一の後、瑠衣は弓を悠長に引き、伸びやかな音色を強く響かせた。小気味よく弓を左右に動かし、躍動感に溢れた力強い音色に変化させて行く。本当の演奏者は旱魃姫なのだが、身体を操られている瑠衣も自分が奏でているような錯覚を覚える。

 同好会メンバーは休憩時間の途中だったが、周囲に居合わせた全員が自分の楽器を構え直した。瑠衣の演奏する曲目を、部長の指揮棒に合わせて演奏し始める。猛もバイオリンを奏で始める。

 部員達の紡ぐ旋律に瑠衣は頷き、四方から流れ出す音色を自分の主旋律で包み込む感じで、弓を右に左にと弦を優雅に撫で始めた。乾いた大地に撒いた水が地面に浸み込んで行くが如く、瑠衣の導きで一つの流れに収斂して行く。

 主旋律を猛に譲り、自分は他の伴奏者に寄り添う。次の楽章では別の伴奏者に寄り添い、まるで花畑を飛び廻る蝶の舞いだ。クラッシックと言うよりもジャズ・セッションの趣で主体的なポジションを占め続ける。

 次第に、瑠衣の奏でるバイオリンの音色は自由奔放に踊り始める。徐々に激しく、メロディーにりが加わり、音の強弱が波打ち始めた。合奏される曲目に命が吹き込まれる。

 瑠衣の披露した技量は周囲を圧倒しており、残念ながら、楽曲の流れから脱落する者が続出し、1人また1人と静かに楽器を下げて行った。

 遂には、瑠衣と猛、学鬼が憑依して技能を盗んだ一番のバイオリン奏者、3年生の蓼科先輩。他には数人のメンバーだけが合奏する状態となった。

 指揮棒を振り続ける部長も、瞠目して事の成り行きを見守っている。

 演奏し終えた時、先に脱落したメンバーが一斉に拍手をし始めた。瑠衣の頬が軽く紅潮する。

 借りたバイオリンを持ち主に戻すと、瑠衣は深々とお辞儀した。全ては旱魃姫の為せる技なのだが、我が事の様に晴れ晴れしく感じた。

「ブラボー! 君、凄いね! 本当に凄い! 何て言う名前? んっ? 蓮華さん?

 鬼頭が連れて来たって言う事は、鬼頭の彼女なんでしょ? 是非、我が部に入部しなよ。そうすれば、いつでも鬼頭と一緒だよ。

 おい、鬼頭! 彼女を絶対に入部させろよ。此れは部長命令だからな!」

 興奮した部長は口角に泡を飛ばしながら、瑠衣に早口でまくし立てる。

 押しの強さに圧倒された瑠衣は、後退あとずさりながら、

「いや、未だ入部を考えているって言うだけですから。決心はしていないんです」

 と、部長をなだめようとする。

「いやいや、是非、前向きに考えて貰いたい。

 君と鬼頭。期待の新人が2人も入れば、我が部は“鬼に金棒だ”!」

 と、尚も大声を張り上げる。

(鬼頭君に閻魔さんが憑依していると知ったら、部長さん、どんな顔をするかしら?)

 と、脇道に逸れた事を瑠衣は内心で思った。

 誰かに拍手された経験の無い旱魃姫は呆気に取られ、頭の中で茫然自失の態みたいだ。

「でも、部長。私には、やっぱり、胡弓の方が合っているかなあ」

「いやいや。バイオリンも第一級の腕前だよ。自信を持って良い! 部長の私が太鼓判を押す!」

 其れはそうだろう。旱魃姫は悠久の間、楽器を奏でているのだ。東大に入学してから演奏し始めたメンバーとは、文字通り、年季が違う。

「部長? 実は、私から御提案が有るんですけれど・・・・・・」

 瑠衣は、幼気いたいけな少女がお強請ねだりする様な、ワザと甘えた声を出す。

「何? 何?」

「同じ弦楽器ですもの・・・・・・、今度は胡弓で皆さんの演奏に合わせてみたいんです。

 上手く行くようなら、私は胡弓で同好会に参加したいと思います」

(もう胡弓を発注してしまったのよ。此の上、バイオリンを買うなんて、とんでもない!)と、家計を預かる主婦と同じ頑迷さで、必死に抵抗する瑠衣であった。

「だからぁ、もう一度だけ、お付き合いして頂けませんか?」

 瑠衣は顔の前で両手を合わせ、甘えた声を出して部長に懇願した。片目でウィンクまでするサービス振りだった。

 哀しいかな、女性との交際経験が皆無の東大生。瑠衣の潤々うるうるした目で見詰められたら、抗う事の出来ない部長であった。


 結局、旱魃姫の憑依した瑠衣は、胡弓奏者として弦楽同好会に入部する事になった。

 西欧の弦楽器群の中に東洋の胡弓が加わったメンバー構成は異彩を放ち、世間の話題を呼ぶ事になる。しかも、旱魃姫の奏でる胡弓の調べは哀愁を漂わせ、彼女の演奏を聴いた聴衆は皆、例外無く目に涙を浮かべた。

 秋の学園祭を手始めに人気が出始め、評判を聞き付けた帝都芸術大学のプロ志望者との合奏練習に発展し、彼らのコンサートのアンコール曲にも飛び入り参加するに至った。

 つまり、引っ張り凧となったのだ。

 大きくなった騒ぎに怖気づく瑠衣であったが、旱魃姫の、

(瑠衣さん、心配要りませんよ。

 将来、私が憑依から抜け出して、貴女独りになったとしても、貴女の身に着いた技能は失われませんから)

 と言う心強い言葉に、ホッと胸を撫で下ろした。

 一方の猛であるが、瑠衣が帝都芸術大学のプロ志望者との親交を深めた頃。瑠衣をそそのかして、宴会で相手を酔い潰させ、泥酔している間に閻魔大王が憑依する事で、またまた楽器演奏の高等技能を取り込んだ。

 盗んだのではない。あくまで取り込んだのだ。技を磨く行為に関して、猛と閻魔大王の利害は完全に一致していた。


 女同士の会話が新鮮だった旱魃姫は、就寝前の瑠衣と色んな事を会話するのを毎日の楽しみとするようになった。

 勿論、憑依しているのだから昼間でも頭の中で会話は出来るのだが、幽体離脱した状態になり、面と向かって瑠衣と話したがった。瑠衣にしても、憑依状態よりも幽体離脱状態の方が話し易かった。やっぱり、相手の顔が見えている方が話し易い。

 瑠衣のアパートでの暮らしに慣れた旱魃姫は、宙空に浮き寛いだ状態で幽体離脱するようになった。まるで見えないハンモックに揺られている様に。

 実体の無い幽体離脱状態だからこそ、そんな曲芸が出来るのだ。頭では理解するのだが、瑠衣も流石さすがに最初は奇異に感じた。

『ねえ、瑠衣』

 ベッドの柵に留めたクリップ式の常夜灯だけが、部屋の中に仄暗い灯りを放っている。ほんの少し透き通った旱魃姫の顔をオレンジ色に照らしている。

 旱魃姫が中空で腹這いになり、重ねた両腕に顎を乗せた姿勢で瑠衣に話し掛ける。パジャマ姿の瑠衣は、横を向いて肩肘で頭を支え、下半身にはタオルケットを被せている。

「何?」

『瑠衣って、やっぱり、猛さんの事を好きなんでしょ?』

 女2人で話すテーマと言えば、恋愛。天女であっても、其れは同じである。一方の瑠衣にしても、自分の部屋で旱魃姫と二人切りなので、こんな直球質問に対しても率直だ。何のてらいも無い。

 幽体離脱状態の閻魔大王は、旱魃姫と瑠衣の話が終わるまで、窓の外の夜陰で手持無沙汰に漂っている。解脱していないので、自慢の地獄耳も働かない。

「嫌いじゃないけど、旱魃姫みたいに滅茶苦茶好きって言うわけじゃない」

『何故?』

「何故って言われてもなあ。猛って、何だか未だ、頼りないのよねえ」

 本人を前にした時は“鬼頭君”と呼んでいるが、旱魃姫と恋愛相談っぽい話をする時は“猛”と呼び捨てである。

『そうなの?』

「私って浪人して大学に入ったのね。だから、私の方が猛より一つ年上なの」

『だから? 私達だって、私の方が閻魔大王よりも年上だよ』

「えっ!? そうなの?」

 旱魃姫はコクリと頷く。

 考えてみれば当たり前である。旱魃姫も参戦した蚩尤との大戦が終わった後、地獄が創世され、閻魔大王は生まれたのだから。

『女性の方が年上だと、付き合っちゃいけないの?』

 旱魃姫は、年齢差が原因で閻魔大王と交際できなくなるのでは?――と、心配顔である。

「いやいや、そんな事は無いよ。現世でも、女性が年上の夫婦は多いわ。そんな事は個人の自由」

『じゃ、何故、自分が年上って言う事に、瑠衣は拘るの?』

「姉さん女房だと、猛は益々甘えると思うんだよねえ。

 私だって女だもん。時には相手に甘えたいじゃない?」

 ウムウムと旱魃姫は何度も頷いた。旱魃姫には自分が閻魔大王に甘えている自覚が有る。

『じゃあ、猛さんがどうなったら、瑠衣は納得するの?』

 瑠衣は寝返りを打ち、天井を見上げながら「う~ん」と唸った。

「未だ大学1年生だから、仕方無いのかもしれないけど・・・・・・。社会に出るに当たっての気構えって言うのが、猛からは感じられないのよね」

『気構え?』

「うん。東京大学を目指した目的って言うのかな。

 私の実家は金持ちじゃないから、私立の大学なんて入学できなかったのね。私だけじゃなくて、東大生って、庶民の子供が多いのよ。

 でも、庶民の子供って言う事は、社会の世知辛い処も何となく感じていて、何とか社会を変えて行きたいって、そう思っている学生が多いの。社会を変える権力に近付く為に、東京大学を目指す。

 まあ、猛の場合は、閻魔さんとの接点が出来たから東大を目指そうかって言う軽いノリだし、そんな覚悟を今から猛に期待するのは酷なんだって、分かっているんだけど・・・・・・」

『フ~ン。瑠衣は社会を変えたいんだ』

「生まれたからには、世の中の役に立って、自分の名前を残して死にたいじゃない?」

『凄いね! 瑠衣は立派だよ』

「旱魃姫だって、蚩尤との大戦で武勲を挙げたんでしょ? 名を残しているじゃない?」

『私の場合は、父上に従ったって言うだけだから・・・・・・』

 謙遜する旱魃姫を横目に、瑠衣は猛の顔を思い浮かべ、「アイツ、何をしたいんだろう?」と呟いた。


 家庭教師のアルバイトが早く終わった日なんかは、瑠衣と旱魃姫で映画を観たりもする。

 街中を歩き回るのも良いが、人間社会を知る上で映画は理解し易いツールだ。それに、瑠衣自身も映画は好きだ。

 女2人で観るので、どうしてもラブ・ロマンスの映画が多くなってしまう。旱魃姫も好きそうだった。

 言わずもがなだが、ラブ・ロマンス映画にはキスシーンが付物(つきもの)である。映画に登場するキスシーンに旱魃姫は敏感に反応し始めた。意味は分からずとも、雰囲気を微妙に察知するのだ。

『ねえ、瑠衣』

「何?」

『映画に出て来る男女は何をしているの? 互いに口を塞ぎ合っては、言葉も交せないし、食事も出来ないわよね?』

 一瞬の間合いを空け、ワザと瑠衣はぶっきら棒に答えた。

「キス」

『キス?』

「うん」と頷く瑠衣の発音は不明瞭である。

 何だか幼子と一緒に観ていて気不味くなった母親みたいな反応になる。

『キスって、何? 何故、突然、口を塞ぎ合うの?』

 尚も続く濃厚なキスシーンをジッと凝視したまま、旱魃姫は追究の手を緩めない。

「此れはね。愛し合う男女の間で交される挨拶みたいなものなの」

『じゃあ、私も閻魔大王とキスしなくちゃ! 今夜にも閻魔大王にキスしてみよう!

 ねえ、ねえ。お願い! 今夜、こっちに閻魔大王が来たら、私達にキスの作法を教えて!』

 旱魃姫の食い付き方が尋常ではない。思わず、瑠衣は軽く咳き込んでしまう。

「旱魃姫、落ち着いて、ね。キスはね、二人切りの時にする挨拶なの。第三者の目の前でする事じゃないのよ。

 それにね。唇を付けるだけなんだから、誰かに教わらなくても出来る挨拶でしょう?」

『でもね、でもね。彼女達の頬の動きを見て!

 膨らんだり、萎んだり。口の中で何かの動作をしているみたいよ』

 舌を絡め合った濃厚なキスシーンだから、頬に動きが出るのも当然だ。

『それに、ほら! お互いに上唇を含んだり、下唇を含んだりしているわ!

 ・・・・・・噛み付いてはいないみたいね』

 映画の主人公達は異様に長い時間、愛の時間を楽しんでいる。

『ほらほら、瑠衣! 今度は、男が女の顎にキスし始めたわ!

 あ~っ、女の首まで下がった! 女の方だって、何か気持ちが良くなるのかしら?

 上を向いて、口を開けたまま、何か変な声を上げ始めたわ!』

 旱魃姫は大興奮である。

 瑠衣は(映画の選択を間違ったか)と、右手を額に当てて後悔した。

 だが、旱魃姫だって、いつかは知るべき愛の行為なのだ。でも、今後はラブ・ロマンスの映画は慎重に選ぶ事にしよう――と、瑠衣は小さく決心した。


 其の夜、閻魔大王が現れると、待っていましたとばかりに旱魃姫は窓の外に漂って行った。

――いつもより早い時間に出て行ったので、閻魔大王は戸惑ったんじゃないかしら。

 瑠衣はそう思った。

 そして、旱魃姫が居なくなって少し寂しくなった部屋の中を見回すと、「今夜は早目に寝るか」とベッドに寝転がった。

 其の時である。

 旱魃姫がカーテンを透過して、部屋に戻って来たのだ。しかも、半ベソを掻いて。

『瑠衣! どうしても上手く行かないの!

 だって、キスの挨拶を閻魔大王は見た事が無いから、上手く行かないのよ』

 旱魃姫は宙空でシクシクと泣き始めた。初めて見る光景に瑠衣も慌てた。

「分かった、分かったから。旱魃姫。

 あのキスシーンを再生するから、閻魔さんを呼んでおいで。一緒に観てもらおう」

 幽体離脱状態の旱魃姫の頭を撫でる事は出来ないが、瑠衣は優しく慰めた。

 泣くのを止め、コクリと頷いた旱魃姫は、またカーテンを通り抜けて行った。瑠衣はベッドから起き上がり、パソコンの電源を入れ直す。

 半ベソの旱魃姫に手を引かれ、閻魔大王も部屋の中に入って来た。

『瑠衣よ、大儀である』

「ちょっと待っていて、閻魔さん。旱魃姫が一生懸命になっているキスシーンを再生するから」

 旱魃姫と閻魔大王は手を取り合い、瑠衣の背後からパソコン画面の早送り映像を見ている。

「さあ、此処からよ。閻魔さん。再生するから、よ~く観ていてね」

 閻魔大王は、マンジリともせずに緊張した面持ちで、再生されたキスシーンに見入った。

――チャンと自分が理解しないと、また旱魃姫を泣かせてしまう。

 そう考える閻魔大王も必死である。

 キスシーンを最後まで観終わった閻魔大王は、深呼吸した。傍目にも肩に力が入っている事が分かる。だが、閻魔大王は決心した。

『分かり申した。では、旱魃姫。もう一度、試してみよう』

 旱魃姫は不安そうに瑠衣を盗み見るが、瑠衣は心を鬼にして、掌を上に向けてカーテンを指し示した。

 愛の行為とは、2人で試行錯誤しながら体得して行くものなのだから。


 週末などに猛が瑠衣のアパートに来た時も、偶にはレンタルして来た映画のBDを観る事は有る。

 男の猛が借りて来るのはもっぱらアクション系。此の日はスパイ映画だった。

 主人公が英国情報部の女たらしのスパイではなかったので、瑠衣も油断していたのだが、鑑賞中のスパイ映画にはキスシーンだけでなく、ベッドシーンまでもが含まれていた。

 瑠衣はベッドの上で、猛は椅子を後ろに引いて、閻魔大王と旱魃姫は寄り添うように宙空に浮かんで、机上のパソコン画面を眺めている。

 突然、キスシーンに変わる。

 だが、閻魔大王と旱魃姫は、夜毎の散策でキスの練習を積んでいるみたいで、特段、騒ぎ立てたりはしない。

 問題は其の後に続くベッドシーンだった。

 濃厚なキスを交し合ったスパイとヒロインは、互いの衣服を荒々しく脱がせ、抱擁したまま裸体になるとベッドの上に転がり込んだ。スパイが上になり、ヒロインが上になって、ベッドの上をゴロゴロと転がる。

 此の間も濃厚なキスは続いたまま。2人とも両手をしならせ、相手の裸体の至る所を撫で回す。足も絡ませる。膝を伸ばしたり、曲げたり。足の裏で相手のすね脹脛ふくらはぎを擦り回す。

 約束通り、男の唇が女の唇から離れ、首筋を伝い、乳房の谷間まで降りて来る。ヒロインが軽い喘ぎ声を上げる。スパイとヒロインの息遣いが激しくなる。

 4人の内で両端に陣取っていた猛と瑠衣は、顔をパソコンに向けたまま、横目で目配せをした。

 だが、此処で再生を止めるのは、如何いかにも不自然である。横を振り向き、間に浮かんだ2人の様子を確認するのが・・・・・・少し怖い。

 当の閻魔大王と旱魃姫であるが、2人して口を軽く開け、呆気に取られていた。

 スパイ映画だから、ベッドシーンは最後まで行き着かない。

 中途半端なベッドシーンが緊迫した諜報活動のシーンに切り替わった途端、まずは旱魃姫が質問し始めた。映画のストーリー展開はどうでも良くなっていた。

『瑠衣! 今のシーンを観た?』

 観たに決まっている。4人で観ていたのだから。

『アレは何? 何なの? キスとは何が違うの?』

 今度は2人に気兼ねなく、猛と瑠衣は顔を見合わせて、目配せした。

――質問された瑠衣が答えるのが良さそうだ。だが、何と答える?

 数分間、瑠衣は思案したが、妙案は思い付かなかった。だから、諦めて、単語だけを答えた。

「SEX」

『SEX?』

「うん、SEX」

 隠微な響きの英単語だけが3回も行き交う。

『其のSEXとは何なの? どう言う意味が有るの?』

「愛し合う2人が交す挨拶がキスだって、そう教えたよね?」

 素直な幼子が母親の教えに頷く様に、旱魃姫もコクンと頷いた。

「SEXって言うのはね。愛し合う2人が、もっと愛を深める為に行う儀式みたいなものなの」

『愛を深める為の儀式?』

 今度は瑠衣が頷く。

 中学校の道徳教室みたいな成り行きに、猛も妙に緊張し始めた。

 年頃の人間ならば、何処かから世話好きの大人が現れて性の知識をささやいて行くものだが、閻魔大王と旱魃姫の2人には教えてくれる者が居ない。

 猛と瑠衣しか居ないのだ。そう考えると、責任重大と言う気がして来る。

『しかし、瑠衣! スパイとヒロインの儀式は途中で終わっている様な感じがしたが、最後まで行き着いていたのか?』

 閻魔大王の指摘は相変わらずの剛速球である。

 瑠衣は頬を赤らめた。猛を前にして素面しらふでは言えそうもない。瑠衣は猛に目配せし、替わって欲しいと頼んだ。

「閻魔さんの気付いた通りだよ。あの2人のSEXは終わってないんだ」

 今度は猛の方を向いて、閻魔大王は質問を畳み掛ける。

『どうすれば儀式を終われるんだ?』

 レンタル屋で貸し出すアダルト物には全て映倫がモザイクを掛けている。アダルト物を借りて見せても、閻魔大王は納得しないだろう。不用心に見せると、間違った方向に誤解し兼ねない内容でもある。

 裏本を入手できれば、動画でない分、冷静に説明できそうだが、裏本の調達ルートを猛は知らなかった。

「う~ん。言葉で説明するのは難しいなあ。百聞は一見に如かずなんだけどなあ・・・・・・」

『なあ、猛。物は相談だが、猛と瑠衣の2人で実演して見せては貰えぬか?』

 思わぬ反応に猛の目は点になる。

 そして、期待も込めて、瑠衣の顔を見た。瑠衣の顔は般若はんにゃの様にり、真っ赤になっている。

「駄目です!」

 噴火した。瑠衣は、隣近所にも聞こえる位の大声で、閻魔大王の破廉恥な願出ねがいでを却下した。

 だが、破廉恥な願いとは露にも思っていない旱魃姫が食らい付いた。

『瑠衣! お願い! 私達は愛を深めたいの。愛の為ならば、何でもする!

 SEXと言う儀式だってってみたいの! だから、教えて!

 あの儀式は手足を複雑に動き回すみたいで、凄く難しそうだもの・・・・・・』

 旱魃姫は台詞せりふとは全く似合わない必死の形相で懇願する。天女なのに、涙を流して瑠衣を拝んでいる。

 そんな旱魃姫の表情を見ていると、瑠衣も根負けしそうになる。しかし、此処で猛とSEXするわけには行かない。

 猛とは、未だキスもしていないのだ!

 これまでも猛は何度もキスをしたがったが、其の度に瑠衣は拒絶して来た。

――閻魔大王に憑依された状態の猛とキスすれば、一体誰とキスしているのか? 分からなくなる。ファーストキスは神聖なのだ。

 落ち着きを取り戻した瑠衣は、低い声で旱魃姫に説教を始めた。

「旱魃姫」

 呼ばれた旱魃姫は期待に胸を膨らませて、瑠衣の顔を見る。

「いくら旱魃姫の願いでも、今は出来ません」

『今でなければ・・・・・・?』

「私は言いましたよね? キスもSEXも、愛し合う2人の間でしか出来ない行為だ、と」

 妙に迫力の込もった口調で諭す瑠衣に、旱魃姫も無言で頷いた。

「私と猛は、未だ、そんな関係にはなっていないんです」

 猛は瑠衣の宣言した内容には少々落胆したが、初めて瑠衣が自分の事を”猛”と呼んだ事には気が付いた。だが、此処で調子に乗ってはいけない。其れ位の分別は、猛もわきまえていた。

「そうです。旱魃姫。今は私の魅力が足りませんが、精進して、きっと瑠衣のハートを射止めてみせます」

『凡そ何年後なのですか?』

 はぐらかそうと考えての発言だったが、旱魃姫の追及は容赦ない。

 狼狽した猛は自問自答する。瑠衣の愛を勝ち取る工程表を頭の中で皮算用してみる。

「そうですねえ。何年後かと言われても・・・・・・。5年。いや、5年じゃ無理? もっとかな?

 そうだ! ラッキー・セブンの7年後では、どうです? 俺も26歳だし、それまでには瑠衣と結婚しているかもしれない。

 7年の時間をください。それまでにきっと、瑠衣の愛を手に入れてみせます」

 此れはプロポーズの一種だろうか?

 広い世間といえども、いちいち予告してみせる者も少ないだろう。

『分かった! 汝の心意気、此の閻魔がシカと受け取った。

 旱魃姫。此処は引き下がりましょう。そして、一旦は地獄に戻るのです。

 なあに、地獄に戻ったら直ぐに7年後の現世に来れば良いのですから』

『そうですね。閻魔大王のおっしゃる通りですわ』

 旱魃姫の涙も止まり、いつもの晴れやかな表情が戻って来た。

『ところでな、猛!』

「ん?」

『いつも手土産を求めて申し訳ないのだが、安物で構わぬので、ベッドとやらを買い求めてはくれまいか?

 儀式の途中までしか見ておらぬが、7年後の現世に戻って来るまでに、旱魃姫と少しは練習しておこうと思う。

 其の方が、ワシらにSEXの儀式を教える汝らにとっても、楽だろうから』

 こうして、閻魔大王と旱魃姫は地獄に戻って行った。

 久しぶりに二人切りとなった猛と瑠衣であったが、彼らには7年以内に愛を育むと言う使命が残された。

 猛の方は改めて決意を固めれば済むのだが、瑠衣の方は(もし猛と別れて別の男性と交際していたら、如何どうしよう? 閻魔さんは怒るかしら?)と、現実的な事を考えていた。


 2人が現世に再来した7年後に旱魃姫から聴いた処では、地獄に戻る際、多くの幽霊達を引き連れ、さながら大名行列の如き有り様だったらしい。

 大名行列と違う点は、露払いの下級武士が歩むべき行列の先頭を、閻魔大王と旱魃姫が腕を組んで歩いていたと言う事。

 教会で挙げる結婚式で赤絨毯を歩くシーンを、閻魔大王と旱魃姫の2人は真似したつもりだったらしい。それに、三途の川への道に迷った故に現世で漂っていた幽霊達にしてみれば、2人の後をいて行くしか方策は無かった。

 閻魔大王と旱魃姫が先導する行進のシーンを頭に想い描いた猛と瑠衣は、(正に百鬼夜行だったんだろうな)と、2人して思った。

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