10. 愛の逃避行

 猛のアパートに身を寄せる事にした怠鬼であったが、其の日の夜には事情が変わった。

 銭湯に行こうと、連絡を取り合った猛と瑠衣の会話を耳にした学鬼が、

(猛君。怠鬼さんの憑依を瑠衣さんに受け入れて貰ってはどうだろうか?

 そうすれば、銭湯代は2人分で済むよ。景気にはマイナスだが、君達2人の生活費にはプラスだろう?)

 妙案である。猛は、もう一度、瑠衣に電話を掛け直した。

「怠鬼さんに憑依してもらえば、私も鬼頭君の例の特技を身に着ける事が出来るのね?」

 と、二つ返事で同意した。

 路上で憑依すると、怠鬼が姿を消す様を誰かに目撃されるかもしれないので、まずは瑠衣が猛のアパートに立ち寄る事にした。

 怠鬼はアパートの狭い部屋の中を物珍しそうにキョロキョロしている。チョコマカと動き回り、テレビの存在に気付くと、「此れは面白いのう」と言ってチャンネルボタンを忙しなくいじくり、番組を変えている。

『此れは現世の色んな場所を映し出す物見鏡なのか?』

「そうだよ」

『人間共は離れた場所を身近に映す技を習得しておるのじゃな。そんなに賢い存在とは想像もしておらなんだ』

 現世に来たばかりの怠鬼には日本語が未だ理解できない。だから、バラエティー番組よりは紀行番組の方に関心が有るようだ。

 黙って一心不乱に液晶画面に見入る怠鬼を横目に、猛は頭の中で学鬼に話し掛けた。

(学鬼さん。閻魔さんから戻って来いと言われたんなら、もう居なくなっちゃうんだよね?)

(ああ、地獄には戻らないといけないけど、未だ現世に留まっているつもりだよ)

(えっ!? 閻魔さんに怒られないの?)

(怠鬼さんが出立しゅったつした瞬間を目指して戻れば良いだけだからね。ほら、地獄には現世の時間の様なものは無いから)

(なるほど)

(それに、前期の学期末テストの時までは私が居た方が、猛君も心強いでしょ?)

(勿論、勿論。学鬼さんには居てもらわなくちゃ。俺、困っちゃうよ。

 でも、学鬼さん。学鬼さんは何の為に現世に留まるつもりなの?)

(観察してみたい事が一つ有るんだよ)

(其れって、何?)

(金利と言う存在)

(金利?)

(ああ。現世の人間って、金銭の貸し借りをすると、金利を加えてり取りするでしょ?)

(するねえ)

(あの金利って、一体、何と物々交換している事になるのかな?――って。

 私自身、ちょっと得心が行ってないんだ)

(そんな事は考えた事も無かったよ。

 金利が無いと、誰も銀行に預金しないだろうし、銀行だって金利を取れないと商売にならないよ)

(猛君の言う通りだね。金銭の回転を円滑にする為の潤滑油みたいな存在だね。

 でもさっ、今の日本は金利が低過ぎて、貯金しても金利が殆ど付かないって言う指摘が有るよね?

 一方で、銀行の預金残高が減っていると言う話は聴かないだろう? 何故だろうね?)

(自宅に置いた現金が泥棒に盗まれたら、目も当てられないからじゃないかな?)

(其れも理由の一つだろうね。でも私は、もう一つの理由の方が大きいと思う)

(何だろう?)

(猛君のアルバイト料もそうだけど、世のサラリーマンの給料って銀行振込でしょ。銀行に振り込まれた金銭をワザワザ引出して、自宅で保管するのは面倒だからだと思うよ)

(そう考えて行くと、潤滑油的な意味合いは殆ど無いのかな?)

(更にだよっ。金利って日々変わっているでしょ。国に依っても金利は違うみたいだ。利率の違いって何に由来するんだろう?)

(確かにね。仮に必要な潤滑油だとしても、国に依って変わる必要は無いよね)

(それにさっ、新聞なんかを読んでいると、イスラム教徒の世界では金利を取る事は御法度らしい。金利は労働の対価とは言えないから、教祖に禁じられているそうだよ)

(確かに。金利は労働の対価じゃないよね。金持ちが働かずに得る収入だよね)

(そう考えると、金利って奥が深いんだよ。此れを少し深堀りしてみたいんだ)

(フ~ン)

 そう言う遣り取りをしていると、瑠衣が猛のアパートを訪ねて来た。


 洗面器を小脇に抱え、Tシャツ姿のラフな格好をしていても、瑠衣は少し緊張気味であった。

 無理も無い。普通、憑依って聞くと、悪霊に取り憑かれるイメージが有って、あまり良い気持ちはしない。

 瑠衣は玄関を上がり、数歩で狭い3畳間のキッチンを横切ると居間に入って来た。

「お待たせ」

「やあ。じゃあ早速だけど、怠鬼さんに憑依して貰うよ」

 瑠衣が緊張の面持ちで頷く。

 怠鬼がヒョコヒョコと瑠衣の前まで歩み寄る。瑠衣の顔を見上げ、2人して見詰め合う。そして、怠鬼が瞼を閉じ、深呼吸した。

 すると、怠鬼の姿は薄くなり、半透明の白い煙の様になって、瑠衣の胸の中に吸い込まれて行った。瑠衣は目を見張って、自分の胸の谷間を凝視している。

「もう、怠鬼さんは・・・・・・私の中?」

(そうじゃよ)

 頭の中で響いた怠鬼の声に瑠衣は後退あとずさった。怠鬼は瑠衣の身体の中に居るのだから、そんな行動は全く無意味なのだが、条件反射的にそうなってしまった。

「此れで私も、鬼頭君の特技を習得した事になるのね?」

「ああ、そうだよ。但し、一つだけ注意事項が有る」

「何?」

「話は出来るけど、読み書きは出来ないままだから」

「どう言う事なの?」

「相手と心で話しているだけなんだ。相手の言語に関する知識を身に着けたわけじゃない。

 だから、読み書きは改めて勉強する必要が有る。

 それと、心が無い対象とは意思疎通できないので、外国語の新聞や雑誌を読んでも、文章の意味は分からない。外国のテレビ番組も同じだ」

「えっ!? テレビ画面の向こうには人間が映っているじゃない?」

「テレビ番組に出演する人間は瑠衣に向かって話しているわけじゃないからね。

 テレビカメラに向かって話しているだけでしょ? だから、心は通い合わない。

 スマホで動画通信する場合は別。知人とスマホで話す場合は心を通わせているので、相手が外人でも話は分かるはず。多分」

「案外、不便なのね」

「まあ、苦労して身に着けるわけじゃないからさ。多少の不便は諦めてもらわないと・・・・・・」

「仕方無いわね」

「じゃあ、銭湯に行こうか」


 銭湯に入ってから、瑠衣の頭の中では、怠鬼が瑠衣を質問攻めにした。

 脱衣所から早速、怠鬼の質問は始まる。

(何で、洋服を脱ぐんじゃ?)

(脱がないと、御風呂で濡れちゃうじゃない)

(濡れたら、如何どうして駄目なんじゃ?)

(濡れた洋服を着たまま出歩いたら、風邪を引いてしまうでしょ。体調が悪くなるの)

 湯船に身を浸すと、熱いと言う感覚を初めて体験した怠鬼が話し掛ける。

(何じゃ、此れは!? まるで地獄の血の池の様じゃな。お前さん達、人間は、こんな苦行を好むのか?)

(そんなに熱い? もっと熱いお湯が好きな人も居るわよ。此の銭湯には無いけど・・・・・・)

(お前さん達は現世の時から、こうして性根を柔らかくしようと努めておるのか?)

(性根? 閻魔さんも性根の事を言っていたけど、私には性根の事を説明してくれなかったから、く分からないわ。

 でも、身体は柔らかくなるわよ。疲れも取れるし。毎日こうして御風呂に浸かって、其の日の疲れを癒すのよ)

(毎日か・・・・・・)

 瑠衣が湯船の中で軽く手足を伸ばしたりして、柔軟体操みたいな事をしていると、怠鬼が呼び掛ける。

(なあ、瑠衣や)

(何?)

(何故、お前さんの乳房は、そんなに大きくて張りが有るんじゃろう? 他の女子おなごと比べても、お前さんの乳房は一段と大きいよな。

 そんなに大きな乳房を、何に使うんじゃ?)

 怠鬼の質問に、瑠衣は目を白黒させた。

 実際、瑠衣は豊満な乳房をしている。父親にラテン系の血が流れているので、乳房だけでなく、お尻にも迫力が有る。一方で、腰回りはくびれている。平均的な日本人に比べて手足も長く、肌も色白だ。栗毛色の髪の毛も染めているのではなく、生まれ付きのものだ。

 猛がゾッコンになるのも無理は無い。

(女性の乳房は赤ちゃんを産んだ時に御乳を飲ませる為の器官なの)

 ワザと生物学的な説明をする。其れ以外に、どんな説明方法が有るだろう?

(そうか。ワシは子供を産まなんだから、乳房が萎れておるんじゃな)

 と、妙な納得をする。

(瑠衣も赤児を産み終わったら、乳房が萎むのか?)

(まあ、残念だけど・・・・・・、萎むわね。

 ところで、怠鬼さんって、生まれた時はもっと若い身体をしていたの? 一体、今は何歳なの?)

(ワシは地獄が創世されたときに生まれたんだが、其の時にはもう、今の姿すがたかたちであったな)

(最初から、お婆ちゃんの姿?)

(そうじゃな)

(地獄には女性の鬼が他にも居るんでしょ? みんな、お婆ちゃんの姿なの?)

(地獄に女子おなごはワシと臭鬼しゅうきと冷鬼の3鬼じゃが、臭鬼もお婆さんの姿じゃな。

 冷鬼の姿は、お前さんと似ておる。お前さん程には乳房や尻が大きくはないが・・・・・・。冷鬼も現世に行った折に、赤児を産んだんじゃろうか・・・・・・)

(冷鬼さんって?)

(ああ、お前さん達が「雪女」と呼んでおる鬼じゃ)

(雪女って、本当に居たんだ!)

(そうじゃのう)

(ところで、体付きの違いって、どうして生じるの?)

(ワシには分からん。こう言う姿が最善なんじゃろうて)

(フ~ン)


 基本的に、怠鬼は瑠衣に憑依して過ごすようになる。

 瑠衣の生活パターンは、日昼を大学の講義に出席して過ごし、学業の後は家庭教師のアルバイトである。怠鬼が現世に遣って来て直ぐに大学は夏休みに入ったが、貧乏学生の瑠衣は浮いた時間だけ時給の高い家庭教師のアルバイトを増やした。兎に角、学問の世界に没頭する時間が長い。

 一方、学鬼と違って、怠鬼は勉学の方面に大した興味を示さなかった。

 だから、瑠衣の外出時は往々にして解脱し、瑠衣のアパートでテレビを見て過ごす事が多かった。

 現世の生活に慣れて来ると、アパートの合鍵を作って貰い、自由気儘に外出する事も多くなった。電車の乗り方も、瑠衣に教えて貰った。

 解脱してみて分かった事だが、憑依した状態は勿論、仮に幽体離脱したとしても精気は大して使わない。ところが、解脱の状態を長く続けると、精気の消耗が激しかった。

 反面、現世の食物を消化・吸収する事は出来ない。次第に怠鬼は元気を失って行った。

 そんな怠鬼の様子を見て、猛も瑠衣も心配になった。学鬼も一緒になって「如何どうしたものか」と思案する。こう言う場合、学鬼は幽体離脱して、猛の身体の外に出て来る。そうしないと、瑠衣や怠鬼と会話できないからだ。

「私達、鬼は、咎人とがにん達の阿鼻叫喚を聴く事で、精気を養いますからね。確かに此の現世では、阿鼻叫喚なるものを聴く事が有りませんから、怠鬼が精気を失っていくのも無理は有りません」

「じゃあ、そろそろ怠鬼さんは地獄に戻らないといけないって言う事?」

「そうですね。現世に悲鳴を聴ける場所が有れば良いのですが・・・・・・」

 此の学鬼の呟きに猛と瑠衣は顔を見合わせた。そして、

「「遊園地!」」

 と、異口同音に発案した。

 こうして、夏休みの1日。入場料をケチる為に、それぞれ学鬼と怠鬼を憑依させた猛と瑠衣は後楽園遊園地に遊びに来た。あちこちの絶叫マシーンから悲鳴が上がっている。

 大勢の悲鳴を聴いた怠鬼は、ほんの僅かだけ精気を回復した。

 だが、地獄の阿鼻叫喚と比べれば、叫んでいる者の人数も違うし、真剣味も違う。完全回復とまでは望めなかった。

 だから止むなく、怠鬼は地獄に戻る事にした。学鬼も一緒に戻る事にした。

「学鬼さん! 学期末テストの前には現世に戻って来てくださいね。必ずですよ」

 やけに必死な様子で懇願する猛を見た瑠衣は、どう言う事情なのかを猛に白状させた。

「まあ、呆れた! だったら、私が一緒に勉強して上げるわよ」

 此の一幕を境に、猛と瑠衣の力関係は逆転した。これまでは猛がイニシアティブを執っていたのだが、猛の学力はハリボテに過ぎないと言う恥ずかしい事実が瑠衣に露見したのである。


 学鬼と怠鬼が地獄に戻ると直ぐに、閻魔大王と旱魃姫が2人に憑依して来た。まるで手薬煉てぐすねを引いて待っていたかのようである。

 実際には、タイミングを見計らって2人に憑依して来ただけの事であるが、時間の有る世界と無い世界の事なので、そう感じてしまう猛と瑠衣であった。

(蓮華瑠衣さん。貴女に憑依させて頂きました。

 旱魃でございます。どうか宜しくお願い致します)

 前振れも無く頭の中で響いた声に、瑠衣はビックリした。そして、怠鬼の場合とは違って、上品な雰囲気に少し緊張した。

(旱魃姫?)

(はい、旱魃でございます)

(あっ、あっ。お、御待ちしておりましたわ。ところで、閻魔さんは?)

(はい、一緒に参りました。閻魔大王は鬼頭猛さんに憑依したはずですが、其の鬼頭猛さんは、何処にいらっしゃるのでしょうか?)

 2人共がアルバイト中の身で、猛と瑠衣は物理的に離れている。

 瑠衣は家庭教師のアルバイトをしていた。教え子の女子中学生が、トランス状態に陥った風の瑠衣を怪訝な表情で見ている。

 瑠衣は「ヘヘヘっ」と愛想笑いを女子中学生に振り巻くと、

(旱魃姫。少々、御待ち頂けますか。私、ちょっと取り込んでおりますので)

 と、旱魃姫に断りを入れた。

 一方、居酒屋で皿洗いの最中だった猛の頭の中でも、閻魔大王の野太い声が鳴り響いた。

(やあ、猛。また来たぞ!)

 いつにも増して、嬉しそうである。

(もう来たの? 学鬼さんが地獄に戻ってから、未だ半日も経っていないよ)

(迷惑だったか?)

(迷惑じゃないけど、今はアルバイトの最中だから、ちょっと待っていてよ)

(分かった。ところで、蓮華瑠衣は? 無事、旱魃姫が蓮華瑠衣に憑依できたかを確認したいんだが・・・・・・)

(分かった、分かった。休憩時間に瑠衣とは連絡を取り合うから、少し待っていて)


 先に自分のアパートに帰ったのは瑠衣である。

 駅前のスーパーで食材を買い、アパートのキッチンで夕食を調理する。アパートに帰ってから、旱魃姫には幽体離脱して貰って、簡単に自己紹介し合っていた。

 現世の人間としては腹拵はらごしらえをしなくてはいけない。瑠衣は「少し待っていてください」と旱魃姫に断り、旱魃姫も快諾した。

 旱魃姫は、瑠衣の直ぐ後ろに立ち、瑠衣の調理する様子を興味津々の態で眺めている。

 身長250㎝程度の閻魔大王の横に並ぶと小柄に見える旱魃姫だが、彼女の身長は190㎝前後もあり、猛よりも背が高い。だから、身長170㎝前後の瑠衣の背後に立つと、覗き込む感じになる。

 野菜炒めと豚肉の生姜焼き、白米に味噌汁。そんな簡単なメニューを、瑠衣は食卓兼学習机の上に並べる。

「幽体離脱の状態なら、旱魃姫も味覚を味わえるんですよね?」

『はい。閻魔大王から、そう伺っております』

「じゃあ、ベッドの上に座ってください。ちょっと、旱魃姫には背中を向けてしまいますけど」

『お気に為さらないでください』

 6畳間の部屋にはベッドと机と本棚しか無い、シンプルな瑠衣の部屋であった。衣装ケースなんかは押入に収納している。

 テレビは無く、机上のパソコンがテレビ替りだった。ベッド脇に机を配置し、パソコンでテレビを見る時はベッドの上で姿勢を崩す。足を机の方に向け、反対側のベッドの柵に背中を凭れ掛ける。

 今も、旱魃姫は、テレビを視聴する際の瑠衣と同じ様に両脚をベッドに投げ出し、高貴な身分の割には庶民的なポーズで寛いでいる。ネグリジェの如きシルエットの衣装と羽衣はごろもがベッドにく似合う。

 机に向かった瑠衣が箸で運んだ料理をパクリと口に入れると、旱魃姫が「まあ」と小さな声で感嘆する。

「今のは、豚肉の生姜焼きです」

 瑠衣が違う料理に口を付ける度に、旱魃姫は「まあ」を連発した。感嘆の声が上がる都度、瑠衣は料理の名を説明する。夕食を食べ終わると、瑠衣は椅子の向きを変え、旱魃姫に向かい合った。

如何いかがでした?」

『私には“食べる”と言う行為が初めてだったものですから、何と言ったら良いのでしょう・・・・・・?

 只々、驚きでした。閻魔大王から聴いてはおりましたが、漸《ようや)く理解する事が出来ました』

「私の手料理ですから、お粗末様なんですけど・・・・・・」

ちなみに、瑠衣さんが調理する前の食材は、どんな味だったのでしょう?』

「えっ!? ちょっと豚肉は生で食べないので実演できませんけれど、野菜を生でかじってみましょう」

 瑠衣は冷蔵庫を開け、今日の食材を順繰りに齧ってみた。瑠衣があごを動かす度にまた、旱魃姫が「まあ」を連発する。

『調理すると、こんなにも味が変わるのですね。味だけでなく、歯触りや舌触りも変わるのですね』

「ええ。野菜は火を通さずに生で食べる事も有るんですよ。ドレッシングを掛けただけの料理を、サラダと呼びます。明日はサラダを食べる事にしましょう」

『其れは楽しみですわ』

 食事しただけで天女に喜んで貰えると言うのは、瑠衣にとっても新鮮な驚きだった。怠鬼も頻りに感嘆の声を上げていたが、旱魃姫には未知なる物を探究しようとする雰囲気が有った。

「旱魃姫は極楽で何も口にしないんですよね?」

『滅多に口の中には入れません。ですが、茶を淹れて飲みますし、偶には仙桃を食します』

「仙桃?」

『ええ、崑崙山に実る果物です』

「えっ!? 其れって、伝説の果物ではないですか」

『現世では伝説なのかもしれませんね。私達にとっては、精気を養う為の果物です』

「どんな味覚なんだろう? 死んでからでも構わないから、一度、食べてみたいなあ」

 瑠衣の少し砕けた反応に本音を感じ、旱魃姫はクスクスと笑った。

 同性の瑠衣が見ても、可愛らしい天女である。あの無骨な閻魔大王が惚れるのも当然かなと、瑠衣は思った。

『今回は仙桃をお持ちしておりませんが、瑠衣さんに味覚を伝える事は出来ますよ』

「そんな事が出来るんですか?」

『ええ、私の記憶を呼び起こせば・・・・・・。良いですか?』

 旱魃姫がそう言うと、瑠衣の口の中に不思議な味わいが広がった。

――此れが天界の食べ物なんだ・・・・・・。

 正に天にも昇る美味しさである。瑠衣は目を閉じ、自分の舌で無意味に口の中を舐め回し、恍惚の味わいが消えるまで楽しんだ。

「私の料理なんて、月とスッポンですね。済みません。こんな料理しか作れなくて・・・・・・」

『とんでもない。色んな味覚を楽しめると言う事は非常に楽しゅうございますよ』

 瑠衣を慰めているだけなのかもしれないが、一方で本気で言っている感じもする。

――それだけ素直な方なんだ。

 瑠衣は、旱魃姫の事を、そう感じた。蚩尤しゆうとの大戦で決定的な戦功を挙げた武将の1人が旱魃姫だと言う史実を、瑠衣が知るよしも無かった。

「ところで、旱魃姫は、此の現世で経験してみたい事って、何か有りますか?」

『ええ。現世の方と楽器を一緒に弾いてみたく思います』

「楽器? ああ、旱魃姫は胡弓を演奏なさるんですよね?」

『ええ』

「胡弓は、お持ちになったのですか?」

 旱魃姫は少し悲しげな表情を浮かべ、「いいえ」と首を横に振った。

『解脱の状態で現世に来られるならば、胡弓を持参したのですが・・・・・・。私には叶いませんので・・・・・・』

の様な事情で? もし、差し支え無ければ・・・・・・ですけれど」

『私には水を干上がらせると言う恐ろしい能力が有ります。私の能力を憑依と言う形で封印しておかないと、現世の人間達に大変な迷惑をお掛けする事になります。ですから、ね』

「でも、胡弓が無ければ、合奏も出来ませんね。胡弓って、一体、幾らするんだろう?

 旱魃姫! ちょっと待っていてくださいね。ネットで調べてみますから」

 椅子を机の方に向け直した瑠衣は、パソコンに電源を入れ、ネット通販で検索し始めた。パソコンを操作する瑠衣の様子もまた、旱魃姫の興味を引く。

「胡弓の値段って、大体15万円くらいなのね」

 椅子の向きは其の儘に、瑠衣は旱魃姫の方に頭を巡らした。

「旱魃姫が私に憑依したって事は、私にも胡弓が弾けるって事ですよね?」

『はい。閻魔大王から、そう伺っております』

 そう確認を取ると、また瑠衣はネット通販の画面をにらんだ。

「だから、胡弓を買ったとしても、無駄にはならないわよね。

 私の貯金でも買えない事はないけれど・・・・・・。きっと、鬼頭君も半分くらいは出してくれるはずよね」

 ブツブツと独り言を呟くと、購入ボタンをクリックする。こう言う事には即断即決の瑠衣であった。

「安物の胡弓ですけれど、たった今、購入しました。1週間以内に商品が届くと思います」

 現世に来たばかりの旱魃姫には何の事やら理解できない。愛想笑いを浮かべて戸惑いを誤魔化すが、つぶらな瞳をキョトンとさせて、無言のままの旱魃姫であった。

「ああ、通信販売なんて理解できないですよね。兎に角、私の部屋に胡弓が届きます。

 ですから、1週間後には、旱魃姫は胡弓を演奏する事が出来ます」

『まあ、嬉しい!

 現世とは便利な世界なのですね。其の四角い物に命令すると、欲しい物が手に入るのですか?』

「いえ。チャンと代金を支払わないといけません」

『代金?』

「ええ、代金。物々交換の見返りです。

 だから、金持ちは色々と好きな物を買えますが、貧乏人には何でも買えると言うわけに参りません。持っている金銭の範囲内で、欲しい物を選択する必要が有るんです」

『何だか難しいのですね。其の金持ちとか貧乏人とか言う区分けで言うと、瑠衣さんは、どちらなんですか?』

「残念ながら、貧乏人です」

『それでは、瑠衣さんは他の欲しい物を犠牲にして、私の為に胡弓を選択してくれたのですね?』

「まあ、大袈裟に言えば、そう言う事になりますね」

『有り難うございます。此の御恩はきっと・・・・・・

 まずは、閻魔大王に報告致しましょう。それにしても、中々、閻魔大王はお越しになりませんわね』

 少し不安そうになる旱魃姫であった。


 終電間際の時間になってようやく、猛が瑠衣のアパートに遣って来た。

 猛が玄関で靴を脱ぐや否や、閻魔大王は幽体離脱の状態になり、「旱魃姫!」と声を上げた。

 旱魃姫をひっしと抱き締める。猛は居間の敷居を跨いで立ったまま、瑠衣は机の椅子に座ったまま、2人の抱擁を眺めている。猛と瑠衣は一瞬、自分達が御邪魔虫になった様な居心地の悪さを感じた。

『蓮華瑠衣。今の瞬間まで旱魃姫の相手をしてくれて、大儀だった。礼を言うぞ』

 偉そうな物言いをする閻魔大王を見ながら、(今更なんだけどなあ)と瑠衣は笑みを浮かべた。

『ところで、旱魃姫』

『はい』

『猛達、人間は、夜になると睡眠を取らねばならぬ。人間は身体を休める必要が有るのです。

 だが、此の睡眠と言う行為、ワシらにとっては本当に詰らぬ刻限なのです。

 ですから、ワシらは2人して、幽体離脱のまま、此の現世の夜を散策しようではありませんか』

 せっかちで気の早い閻魔大王である。ウズウズした雰囲気が身体中から滲み出ている。

『はい。私は何処に居ようとも、閻魔大王の御供を致します』

 楚々として、それでいて嬉しそうな雰囲気の旱魃姫。

『それでは、猛! 瑠衣! 明日の朝日が昇って以降、また会おう』

 陽気な声で宣言すると、閻魔大王は旱魃姫の手を取り、カーテン越しに窓からスウっと夜空に抜け出て行った。

 呆気に取られ、顔を見合わせる猛と瑠衣。

「俺、今夜は帰るわ」

 毒気を抜かれた口調で踵を返す猛。

「そうね。お休みなさい」

 玄関に向かう猛の背中に声を掛ける瑠衣もまた、毒気を抜かれていた。


 翌朝、カーテン越しに朝日が差し込み始める頃、瑠衣は目を覚ました。瑠衣は早起きの習慣を身に着けている。生活費を切り詰める為、カーテンは遮光性でない安物だ。

 早朝の数時間だけは穏やかな太陽の日差しに瞼がピクピクと動き、薄目を開ける。布団の中で身体を伸ばす。両手を頭上に伸ばし、背伸びをする。首の筋肉をほぐす為に、右を向いたり左を向いたりする。

 ベッドから起き上がろうと、部屋の反対側に有る本棚を見た時、瑠衣の視界に旱魃姫の薄い姿が入って来る。

「ひぇっ!」

 瑠衣は素頓狂すっとんきょうな悲鳴を上げた。一瞬だけ、幽霊が枕元に立っているのかと思った。

「旱魃姫?」

『はい』

 ベッドの脇にひざまずき、瑠衣の顔をじっと覗き込んでいる。

「何をしているの?」

『瑠衣さんの起きる姿を観察していました』

「閻魔さんは?」

『もう猛さんの身体に戻られました』

「夜の散策は?」

『はい、楽しい刻限でした』

「もっと、閻魔さんとの散策を楽しんだら良かったのに。其れが目的で現世に遣って来たんでしょ?」

『はい。でも、睡眠から目覚める人間の姿にも興味を感じましたので・・・・・・。

 閻魔大王には無理を言って、猛さんの身体に戻って頂きました』

 意気消沈した閻魔大王の後ろ姿が瞼に浮かび、思わず瑠衣はクックッと笑いを噛み殺した。

 瑠衣を不思議そうに眺める旱魃姫。彼女のつぶらな瞳を見ていると余計に、笑いを堪え切れなくなる。瑠衣は布団を頭から被り、アハハっと大声で笑い始めた。

『人間は目覚める時に大笑いするものなのですか? 大変、興味深うございます』

「いやいや、そんな事はありませんよ。

 旱魃姫と閻魔大王の事を考え始めたら、失礼ながら、笑いが止まらなくなりました」

 小首を傾げる旱魃姫。

『旱魃姫は自然体で男を手玉に取られるようですね。私も是非、見習わせてください』

 布団をガバリと跳ね上げると、瑠衣は上半身を起こした。

「旱魃姫。今日は夕方まで、私の予定が空いています。何処か御覧になりたい場所は有りますか? ご案内致しますよ」

『有り難うございます。ですが、何分、未だ現世には詳しくない故、特に何処と言った希望はございません』

「其れはそうですね。だったら、鬼頭君の弦楽同好会の練習を覗いてみましょうか。

 支度をしますから、待っていてください」

 瑠衣はベッドから起き上がった。

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