9. 愛の告白

 地獄に戻った閻魔大王は今回もまた、いそいそと係昆山に向かった。玉座に座りさえしない。判じ場に居た赤鬼・黒鬼・怠鬼の3鬼は、またも目を白黒させた。

 係昆山の庵に近付くと、旱魃姫の胡弓の音色が聴こえて来る。物寂しい調べ。

 閻魔大王は庵の戸口で金斗雲を降りると、胡弓の物寂しさを振り払うように大声で、自分の来訪を旱魃姫に伝えた。

「まぁ、また来てくださったのですね」

 嬉しそうな笑みを浮かべて、旱魃姫が戸口まで出迎える。

 三度目の訪問とも成れば、閻魔大王の姿を見ても緊張した表情を浮かべる事は無い。閻魔大王が手にしたバイオリンケースを目にした旱魃姫は、アレっと言う表情を目に浮かべて質問した。

「其れは何ですか?」

「此れはバイオリンと申す楽器です」

「楽器なのですか!」

 閻魔大王は、煮立った貝の様にケースの蓋をパカリと開け、バイオリンを見せる。旱魃姫が「まあ!」と感嘆の声を上げ、顔の前で両手を合わす。

「まずは中に入って座りませんか?」

「あらっ、御客様を戸口に立たせたままでしたね。失礼しました」

 頬を少し赤らめ、旱魃姫は踵を返した。ネグリジェ衣装の裾がフワリと軽く舞った。

 着座した閻魔大王は円卓の上にバイオリンケースを置き、バイオリンを取り出すと旱魃姫に手渡した。

とくと御覧ください」

「変わった形ですのね。此の楽器は地獄で使われているのですか?」

「いや。現世から持って参りました」

「現世?」

「はい、現世から戻って来たばかりです。一刻ひとときも早く旱魃姫に会いたいと思い、飛んで来ました」

 閻魔大王は事実だけを単刀直入に口にしたつもりだった。“飛んで来ました”と言う表現も事実である。

 だが、普通に考えると、此れは愛の告白の一つである。

 だから、旱魃姫は頬をポっと赤らめた。閻魔大王の目を見ていられない。だから、視線をバイオリンに移し、自分の気持ちをはぐらかせた。

「バイオリンなる楽器は、の様に奏でるのですか?」

「此の弓で弦を弾くのです。基本は胡弓と同じです」

「音色は?」

「一曲、奏でて進ぜましょうか?」

「えっ!? 閻魔大王は楽器を奏でられるのですか? 私は、てっきり・・・・・・」

「楽器を奏でそうにない? ハハハッ。練習しましたよ。旱魃姫に聴かせる為に」

 此れまた、閻魔大王は事実だけを単刀直入に口にしたつもりだった。だが、ニッコリと笑みを浮かべながら言ったので、先の台詞せりふよりもパンチの効いた愛の告白となった。

 旱魃姫の頬が前にも増してポっと赤らんだ。

 閻魔大王は「御免!」と言うと、旱魃姫の手からバイオリンを受け取り、顎の下に挟んだ。巨漢の閻魔大王がバイオリンを構えると、ウクレレの様な感じになる。

 右手で掴んだ弓を動かし、バイオリンの弦を撫で始めた。奏でられたのはモーツァルトのバイオリンソナタの一曲。

 初めて聴くバイオリンの音色に旱魃姫はウットリと目を細めた。静かだが、胡弓と違って、物悲しさは無い。でも、モーツァルトの楽曲もまた心を落ち着かせる調べであった。

 一曲が終わると、旱魃姫は次の曲を強請ねだった。閻魔大王は憶えている限りの曲目を旱魃姫の為に弾いた。

 至福の刻限が2人を包んだ。

 何刻が過ぎたであろう。此処には現世の様な時間は無いが、幾ら永遠の世界とは言え、閻魔大王が庵に滞在している刻限だけ地獄では不在となる。いつまでも閻魔大王を庵に引き止めておく事は無理な相談であった。

 閻魔大王には地獄を統べると言う大事な役務が有る事を思い出した旱魃姫は、

「いつまでも閻魔大王を御引き留めするのは、いけない事ですね」

 と、自分の未練を断ち切るように言った。シンミリした雰囲気が声音こわねに漂う。バイオリンの音色を聴いている内に、至福の刻限がすっかり名残惜しくなった旱魃姫であった。

「此の度は、私の為にバイオリンなる物を奏でてくださり、本当に有り難うございます」

 旱魃姫は座ったままで、お辞儀をする。頭を垂れる事で、名残惜しさに打ち勝とうとした。

 旱魃姫は織り姫と牽牛けんぎゅうの過去を知っていた。織り姫は皇城に仕えた仙女の1人であり、今は崑崙山で天女に仕えている。彼女の話は母親から聴かされていた。

――自分と閻魔大王が同じ顛末を辿る事は出来ない。閻魔大王は地獄を統べる大事な方なのだから・・・・・・。

 そう自戒するのであった。

 一方の閻魔大王は、そんな旱魃姫の思いを想像する事が出来ない。

 急に疎遠な感じになった旱魃姫に戸惑ってしまった。少し目が潤んで来る。だが、庵の主人が幕引きを口にするならば、其れに従うのが客人としての礼儀である。

然様さようか・・・・・・」

 名残惜しげに、ノッソリと椅子から立ち上がる。後ろ髪を引かれる思いが、閻魔大王を奮い立たせた。

「旱魃姫。此のバイオリン、庵に置いて行っても構わんであろうか? 正直、地獄には置き場所が無いのです」

――バイオリンが有れば、庵を再訪する口実が出来る。

 閻魔大王は、我ながら快心の知恵出しだ――と思った。実際は、既に旱魃姫の心は閻魔大王に傾いており、そんな小細工など全く必要無かったのだが・・・・・・。

「是非に。私もバイオリンなる楽器を試してみとう思います。もし、閻魔大王が許してくださるならば、ですが・・・・・・」

「勿論です。今度は旱魃姫の胡弓と私のバイオリンで合奏してみませんか? 旱魃姫の奏でる曲を私に教えてください」

「合奏?」

 蚩尤しゆうとの大戦の後、極楽では殆ど刻限を過ごさぬ内に、此の係昆山に身を隠した旱魃姫であった。

 だから、此の庵に来てから胡弓を奏でる事を覚えたので、皇城で仙女達と楽器を奏でた経験が無かった。楽器とは1人で奏でる物だと思い込んでいたのだ。

「ええ。2人して同じ曲を奏でる事です」

「はい。喜んで。それではまた、此の庵に来てくださるのですね?」

「勿論です!」

「嬉しい。閻魔大王の訪れを、此の旱魃、首を長くして待っております」

 帰れと言ったり、来いと言ったり、コロコロと変わる旱魃姫の態度を全く理解できない閻魔大王だったが、自分が拒絶されたわけではないと知ると、胸中を小躍りさせて金斗雲に乗り込んだ。


 久しぶりに玉座に座る閻魔大王。だが、溜息ばかりをいている。

 赤鬼が御璽ぎょじと軍配扇子の奉還を申し出ると、

「いや、しばらくは汝が判じ事をしていてくれ」

 と、左手をヒラリと振って、今回も御璽と軍配扇子の受け取りを拒んだ。

「見た処、問題は生じていないようだ。大丈夫であろう?」

「はっ。仰せつかった代役、滞りなく果たしております」

 今も赤鬼は、閻魔大王の左に立ち、浄瑠璃鏡じょうるりかがみに映る亡者達の性根しょうねを判じては、「成仏!」「重!」「軽!」と大声を張り上げていた。大声を張り上げながらも、横目でチラリ、チラリと閻魔大王の顔色を伺う。

(閻魔様は体調が優れないのであろうか?

 それとも、黄帝様から仰せつかった役務に難儀しているのであろうか?)

 無粋だが世話好きの赤鬼は、本調子でない閻魔大王の様子に気が気でない。

 玉座に座った閻魔大王の頭越しに黒鬼と目配せすると、顎をクイっと動かし、黒鬼を呼んだ。玉座の後ろを回って寄って来た黒鬼に提案する。

「疫鬼を呼んで来てくれ。閻魔大王を診てもらおう」

 疫鬼は蟲鬼の遣う蟲を飼育しているが、此の地獄で医者が必要になるとしたら、疫鬼の出番である。

 だが、地獄で医者が必要になるか?

 八つ裂きや串刺しにされた咎人とがにん達の身体は、閻魔大王がまばたきをするだけで元に戻る。万一、鬼達が役務中に怪我をしたとしても、閻魔大王が瞬きをすれば治癒する。

 閻魔大王が瞬きをすれば、地獄での1日の様なものが改まり、算盤そろばんの“ご破算で願いましては”みたいな感じになる。

 だから、手に負えない状況とは、例えば疫病が流行ったりする事態しかなく、疫病を司るのが疫鬼なのだ。

 だが、地獄が開闢かいびゃくして以来、疫鬼の出番は無かった。疫鬼にとって初の出動である。しかも、診察相手が閻魔大王だ。緊張するのも当然である。

 頭から被っていた襤褸布ぼろぬののマントのフード部分を脱ぎ、色白だが所々に黒いシミの浮いた皺々しわしわの顔を出した。

 ショボショボした目を必死に凝らして、閻魔大王の全身をにらんでいる。衣装を脱がずとも、閻魔大王の体内を透視できるらしい。残念ながら透視では埒が明かなかったらしく、今度は玉座に近寄ると、閻魔大王の全身を嗅ぎ回る。

 不健康な処は見付からない。当然だ。

 だが、疫鬼が何か有効な診断を下すものだと、判じ場の鬼達は期待している。そんな鬼達の期待を一身に集め、困惑した疫鬼はフードを頭から被り直した。

 そして、消え入る様な声で、

「別に調子の悪い処は御座らぬ」

 と、宣言した。

 判じ場の鬼達は肩透かしを食らった様な顔をした。怠鬼だけが(其れはそうだろう)と納得顔であった。

 退屈蟲を退治する事が役務の怠鬼は、閻魔大王が不在と成れば、基本は暇である。自分に湧く退屈蟲を潰して身繕いをする事もあるが、今の怠鬼に退屈蟲は湧かない。寧ろ、鬼頭きとうたけるが地獄を訪れて以降、怠鬼は旺盛な好奇心を抑え切れなくなっていた。

 閻魔大王が係昆山に赴いている間、閻魔大王の行動に不審を抱いた怠鬼は冷鬼と話して来たのだ。

――直近の現世行きの前、閻魔大王は極寒の刑場を視察している。刑場の視察自体が珍しいし、中でも極寒の刑場を選んだ理由が怪しい。

――頻繁に極楽の方に行くのも黄帝様の娘の天女の為だと言う。此れは女子おなごつながりで冷鬼が何かを知っているな。

 そうにらんだ怠鬼は話を聴きに行ったのだ。

 極寒の刑場に赴いた怠鬼は「お前さんには聴かれたくない女子おなご同士の話が有るから」と言って、風鬼を遠ざけた。

 最初は口の固かった冷鬼であったが、脅しすかし、褒め上げ、同性のよしみなだめては執拗に聴き出そうとする怠鬼に根負けし、閻魔大王が旱魃姫に恋心を抱いていると白状したのだった。

 だから、疫鬼が白旗を揚げると、おもむろに怠鬼は口を開いた。

「閻魔様。閻魔様は、ただ単にお疲れと言う事なんじゃろう。

 じゃがな、其れも当然じゃ。地獄の営みと黄帝様から仰せつかった役務と、二つの事を同時に遣っておられるのじゃからな。

 じゃったら、どちらか一つに専念した方が良い。地獄の事はチャンと回っておるし、一方の黄帝様の役務は閻魔様にしか出来ん。閻魔様は黄帝様の役務に専念しなさるべきじゃ」

 怠鬼は閻魔大王の恋路を応援するつもりだった。役鬼もまた優しい鬼であった。それに、閻魔大王とくだんの天女の恋が実れば、恋路の新たな展開は怠鬼の好奇心を満たすだろう。少なくとも、退屈はしない。

 閻魔大王は、左に控える赤鬼と、右に控える黒鬼の顔を交互に見上げた。赤鬼はニッコリと笑顔を浮かべ、黒鬼は口の端を僅かに歪めて、2鬼とも閻魔大王に頷いた。

然様さようか。では、汝らの好意に甘えるとしよう」

 こうしてまた、閻魔大王は係昆山に出向いて行くのだった。


 閻魔大王は庵の戸口で金斗雲を降りると、いつもの大声で自分の来訪を旱魃姫に伝えた。

「まぁ、もう来てくださったのですね」

 旱魃姫は小躍りする様な歩調で戸口まで出て来る。閻魔大王の顔を見ると、晴れやかな笑顔が広がった。

 だが、一瞬だけ困惑の雲が旱魃姫の顔をよぎった。旱魃姫と再会した嬉しさに舞い上がった閻魔大王は憂いのかげを見逃した。表情が翳ったのは一瞬だけで、旱魃姫の表情は元の晴れやかな笑顔に戻った。

「此の度は、旱魃姫と合奏をしてみたいと思いましてな。飛んで参りました」

「何て嬉しい事でしょう! そうそう。閻魔大王が食べたいとおっしゃっていた仙桃。届いていますよ」

「そうですか。其れは楽しみです」

 旱魃姫の案内で円卓に着座した閻魔大王の前に、仙桃の載った漆黒の皿がソっと置かれた。

 極楽の果実だけあって、ほんのりと薄紅色をした表面からは金色の輝きが産毛の様に放たれていた。

 仙桃を触ると、サラリとして絹の如き感触が指に伝わる。手でつかむと柔らかく、少しだけ弾力が有り、しなやかである。

 仙桃を一口かじると、控え目な甘さが口の中で広がった。仙桃の甘さは刻一刻と微妙に違う甘さに変化し、閻魔大王の味覚をくすぐるようである。

「此れは不思議な味わいですな」

 閻魔大王が仙桃を二口三口とかじる様を、旱魃姫はニコニコして眺めていた。

 閻魔大王が仙桃を食べ終わると、

「お茶を淹れますから」

 と言って、席を立つ。

 質素な棚から茶器台のセットを降ろし、円卓に載せる。窯の永炎えいえんに架けられた鉄瓶を持って来て、茶を淹れ始める。優雅な仕草で茶を淹れながら、仙桃の事を説明した。

「此の仙桃を人間界で食せば、千年の命を維持するそうですよ。時間の無い私達の世界では、意味の無い尺度ですけれど」

「そうですな」

 旱魃姫の淹れた茶の香りを嗅ぎ、小さな茶碗に口を付けて、しばしの静かな刻限を楽しむ。

「最近、ワシには思う事が有りましてね」

「どんな?」

「先程の仙桃ですがな。仙桃を食した人間が1人だけ現れたら、其の人間は不幸であろうな、と」

何故なにゆえに?」

「地獄でワシに仕えている鬼達の中に、冷鬼と言う鬼がいます。冷鬼はかつて現世に行った事があり、現世の人間と連れ添った事が有るのです」

「はい」

「現世では幸せに暮らしたと言っておりました。だが、長続きする事は無い・・・・・・」

「何が遭ったのです?」

「人間の寿命ですよ。相手の男は肉体の限界を迎え、死にます。輪廻転生を経た性根は今も何処かで新たな人生を過ごしているのでしょうが、もう冷鬼とは関係無い。

 地獄に戻った冷鬼は、もう会う事も無い男を永遠に想い続けておるのです」

「可哀そうに」

「はい。恥ずかしながら、最近になってようやく、ワシは冷鬼の苦悩に気付いて遣れました」

「そうだったのですか」

「ワシには冷鬼を悲しみから救って遣る事は出来ません。

 人間に寿命がある事も、輪廻転生で性根が記憶を失ってしまう事も、其れは宇宙の真理ですから。

 ワシは自分の小ささを感じました・・・・・・」

「閻魔大王は、お優しいのですね。それに、私は閻魔大王の事を小さな方だとは思いません」

 最後の台詞せりふが巨漢の閻魔大王に向かって言うには滑稽な表現だと気付いた旱魃姫は、

「小さくないと言った意味は、身体の事ではありませんよ。心の話ですよ」

 と、慌てて付け足す。

 言い終えて再び思案する旱魃姫であったが、口走った台詞が妙な付け足しだったと気付いた。

「余計な付け足しでしたね」と苦笑いする旱魃姫。キョトンとする閻魔大王。思わず2人は大笑いした。

 笑いが収まると、閻魔大王は話を続けた。

「ですが、旱魃姫。一方でワシは、こうも思うのです。

 永遠に独りで居るよりは、少しの間でも2人で過ごす経験を持てた者は幸せなんだろうな、とも」

「はい」

 閻魔大王は口をつぐみ、旱魃姫の瞳をジっと見詰める。旱魃姫も閻魔大王の瞳を見詰め返す。

「だから、ワシは・・・・・・貴女のそば一刻ひとときでも長く一緒に居たい」

 完全に愛の告白であった。図らずも、閻魔大王は旱魃姫のハートに直球の剛速球を投げ込んだのだ。

 頬を赤らめる旱魃姫の双眸からは涙が溢れ出て来た。

「私も同じです。私も・・・・・・閻魔大王の御傍に少しでも長く一緒に居たい。

 ですが、閻魔大王は地獄を統べる責任ある方・・・・・・。今の様な事を続けていてはいけません」

 小声ながらキッパリと断言した旱魃姫は、織り姫と牽牛けんぎゅうの話を閻魔大王に聴かせた。

「ですが、地獄では全てが滞りなく回っております。牽牛とやらと違い、ワシは自分の役務を疎かにはしておりません。

 同じ顛末を辿るとは思えませんが・・・・・・?」

「そうはおっしゃっても、全ては父がどう判断するかです。閻魔大王が地獄を空けていると言う風にしか、父には見えないでしょう。

 私は、織り姫と牽牛の様に仲を引き裂かれるよりも、閻魔大王と会う事を自重している方がマシです」

「旱魃姫とワシが頻繁に会う事は避けるべきだと・・・・・・?」

「はい」

 庵の戸口で旱魃姫の顔にかげが差した理由は、此れだったのだ。

 閻魔大王は下を向き、膝の上で握り締める自分の拳を見た。目を見開き、まるで拳の中に解決策が隠されているかのように凝視した。旱魃姫も下を俯く。長い沈黙が2人を包んだ。

「旱魃姫」

「はい?」

「現世で逢瀬おうせを重ねませんか?」

 閻魔大王の呼び声に顔を上げるも、発言の真意を解せない旱魃姫であった。

「気の済むまで現世で刻限を過ごし、地獄なり極楽に一刻の切れ目無く戻って来るのです。そうすれば、黄帝様には、ワシが地獄にずっと君臨しているように見える」

「ですが、閻魔大王は私の能力を御存知でしょう? 私は水と言うもの全てを干上がらせてしまいます。

 現世に私が赴いては、人間達の暮らしを混乱に陥れてしまうでしょう。其れは出来ません」

「大丈夫です。現世の人間に憑依する限り、ワシらの能力は封印されます。旱魃姫の御懸念には及びません」

「ですが、憑依する相手は? 誰にでも随意に憑依できるものではない、と聴いています」

「其の通りです。相手となる人間が受け入れてくれなくてはなりません」

「だったら、やはり無理なのではないでしょうか?」

「大丈夫。ワシらを受け入れてくれる人間を既に知っております。一緒に現世に行きませんか?」

 2人の進む先に光明が見えて来たと実感した旱魃姫は、涙声で「はい」と閻魔大王に答えた。


 地獄に戻った閻魔大王は、物凄い形相をして玉座に座っていた。まなじりを決して前方の1点を凝視するが、彼の双眸には何も映ってはいない。

 溜息ばかりをいて悶々とする閻魔大王を見るのは心配の種以外の何物でもなかったが、今度は閻魔大王の迫力に判じ場の鬼達は怖気付き、辺りにはピリピリとした緊張が漂っている。

 閻魔大王の考えている事は唯一つ。如何いかにして学鬼を召喚するか、であった。

 1人の人間に対しては、1鬼の鬼しか憑依できない。

 同時に2鬼の鬼が憑依する事は不可能だった。よって、学鬼が戻って来るまで、閻魔大王は猛に憑依できない。

 一方で、蓮華瑠衣は旱魃姫の憑依を受け入れると表明してくれたが、今の現世とは馴染みの無い旱魃姫が、閻魔大王の案内も無しに、何十億と言う人間の中から蓮華瑠衣を特定する事など不可能であった。

 だから、誰かを現世に遣わし、学鬼に召喚命令を伝えなければならない。

 但し、伝令役の誰かが憑依する人間についても、旱魃姫と同様の事情で、当てが無い。

 解脱状態でも現世に悪影響を与えず、しかも、此の地獄の運営に支障の無い者が伝令役に相応ふさわしかった。

 此の条件を満たす鬼は唯一、怠鬼のみである。

 閻魔大王は、そう考えを整理すると、玉座の背凭れに手持無沙汰に腰掛けている怠鬼を見上げた。

「のう、怠鬼よ」

「はい?」

「現世に行って、学鬼を呼び戻してはくれまいか?」

「畏まりました」

 こうして、怠鬼は黄泉に身を沈めた。学鬼の存信を目指し、初めての水中歩行を経験した。退屈とは縁遠くなる一方の怠鬼であった。


 怠鬼が現世に向かう頃、猛は渋谷の居酒屋でアルバイトをしていた。

 何だかく分からないが、外国人従業員との意思疎通に困らないと言う猛の特技は居酒屋でも重宝され、新参のアルバイトにも関らず、中核的な人材だと位置付けられていた。

 勿論、猛本人も働いているのだが、ホール係や厨房の手伝い、会計係と融通無碍ゆうずうむげに欠員状態に陥ったポジションを渡り歩くオールマイティーな便利屋的に起用された。加えて、外国人労働者のちょっとした労務管理や悩み相談窓口も任され始めた。

 つまり、居酒屋運営の全体を把握するようになった。

 東大生と言う肩書きを活かすならば、予備校講師や家庭教師の方が身入りは良いのだが、自分が中高生を教えると言う行為に一種の後ろめたさを感じたのだ。

 学鬼の教える内容を1テンポ遅れて、伝言ゲームの様に猛が中高生に教える。まだるっこくてゲンナリするに違いないと思った。

 居酒屋でのアルバイトについては、学鬼も喜んで賛成してくれた。

 学鬼の探究テーマは“通貨経済”であり、貨幣の使われる実例をジックリと観察できるからだ。学鬼が一々指南しなくても、猛自身の実力でこなせる点も、学鬼にとっては利点であった。誰にも妨げられずに学術的思考に埋没できるからだ。

 そして、猛が就寝する前の小一時間、学鬼は自分の熟考した結果を猛にぶつける事で、更に理解を深めるのだった。

「猛君。金銭とは不思議な存在だね」

「何が?」

「例えば、居酒屋で酔客が料金を払うのは、食材と言う現物の対価だけでなく、料理人や猛君達アルバイトの奉仕と言う無形の物に対する対価でもあるよね。

 だから、物々交換の道具として金銭は必要不可欠な存在だ」

「そうだね」

「奉仕も含めた物々交換の輪は、波紋の様に拡散して行く。

 酔客が居酒屋で支払う金銭は、酔客が所属する会社に対する労働奉仕への見返りだろ? 其の会社は、例えば、居酒屋で使う食材を作っているなら、居酒屋との物々交換で得た金銭だ。

 グルっと一回りして来るんだね、金銭が」

「そうだね」

 猛は、学鬼が深遠な話を始めると、いつも「そうだね」しか相槌を打てなくなる。

「所詮はグルグル回っているだけなのに、金銭の回転が速くなれば「景気が良い」と言い、回転が遅くなれば「景気が悪い」と言う。

 通貨経済のメカニズムを初めて見る私にとって、本当に不思議な仕組みだよ」

「学鬼さんは、面白い事を考えるんだね」

「そうかい? 私にしたら、金銭の回転速度に一喜一憂している君達人間の方が面白いと思うよ」

「ただ、居酒屋なんて景気が悪くなれば、客足はパッタリだからね。

 俺達アルバイトも首になるし、そうなれば好きな物を買えなくなる。瑠衣ともデートだって儘ならなくなってしまう。困ってしまうよ」

「だから、金銭を強制的に回転させる仕組みが必要なんだ」

「其れが公共投資って奴じゃないの?」

「猛君の言う通りだ。でも、公共投資の原資となる税金を納める事については、嫌がるんだよな?

 其れって、自己矛盾じゃないのかな?」

 正に学鬼の指摘する通りである。だが、庶民の1人として、猛も反論する。

「だって、大した収入は無いんだよ、俺達は。なけなしの収入から税金を引かれるのは、やっぱり痛いと思うよ」

「何故? 金銭の回転速度を上げる事は、みんなの為になるんだよ」

「だって、もっと贅沢したいじゃん。単なるエゴだって事は、俺も認めるけどさ・・・・・・」

 何だか駄々っ子の言い訳みたいになる。

 一方で、学鬼との問答が徐々に猛を思慮深くしているのは、否定できない事実だった。


 人通りの疎らになった駒場キャンパスで、猛と瑠衣の2人が緑の葉を生い茂らせた銀杏並木を歩いている時。

 2人の後ろに突然、怠鬼がヌウっと現れた。だが、小柄な怠鬼の身長は100㎝に過ぎず、2人は怠鬼の出現に気付かない。痺れを切らした怠鬼が、

『やあ、猛!』

 と、大声で猛を呼んだ。

 いきなり背後下方から声を掛けられたものだから、猛は「わっ!」と言い、瑠衣は「きゃっ!」と言って飛び上がった。

 驚いて振り返った猛が、

「怠鬼さん! 怠鬼さんも現世に来たんですね! 久しぶりです」

 と、今度は怠鬼の来訪に驚き、挨拶した。

 瑠衣の方は、小柄な老人の出現をいぶかしんでいる。

 怠鬼は、木綿か麻で作ったボロボロの作務衣の如き上着を羽織り、猿股に足袋を履いた姿。首の周りには手拭いを巻いている。時代錯誤な格好をした農夫と言う出で立ちだ。お爺ちゃんなのか、お婆ちゃんなのか、判然としない。

「どなた?」

「ああ、こちらは怠鬼さん。閻魔さんの御側に仕えている鬼だよ。怠鬼さん。こっちは蓮華瑠衣さん」

『此の女子おなごは、お前の連れ添いか? さっきから楽しそうに話しておるが・・・・・・?』

 瑠衣は両手を激しく振って交差させ、怠鬼の質問を強く否定した。瑠衣の反応を見た猛が少しガッカリする。

『じゃあ、何じゃ?』

 怠鬼の追及に瑠衣も口籠る。

「親しい友人・・・・・・かな?」

『現世には親しくない友人と言うのがるのか?』

 言い逃れに四苦八苦している瑠衣を見て、猛が助け舟を出して遣った。

「まあ、適当なニュアンスの言葉を探すのも大変だからさ。学鬼さんに聴くと良いよ」

(猛君。怠鬼さんは解脱の状態で、私は憑依の状態だ。此の状態では、私は怠鬼さんと会話できないんだよ)

「何故?」

(私の能力は猛君の身体に封印されているからね。私の話は、猛君が代弁しない限り、怠鬼さんには届かない。

 私が幽体離脱すれば会話できるが、此の時間では少しマズイだろう?)

 フ~ンと少しだけ感心して、猛は瑠衣に学鬼の説明した内容を伝える。

「じゃあ、怠鬼さん。学生食堂に行こう! 俺達、これから昼飯なんだ。一緒に食べようよ」

 学生食堂では、3人共が定食を頼んだ。

 セリフサービス式のカウンターで食器の載ったトレーを受け取ると、食事中の学生が疎らな隅の方のテーブルに座った。はたから見ると、怠鬼は田舎から出て来た猛か瑠衣の祖父母の1人だろうと思うはずだ。

 テーブルに向かう怠鬼であるが、自分の目の前に置かれたトレーの意味が理解できない。

 無理も無い。生まれて以降、食べると言う経験と無縁であった。猛と瑠衣の仕草を真似て箸を操ろうとするが、上手く行かない。

 猛はスプーンとフォークを持って来て遣った。でも、今度はスプーンとフォークの遣い方が分からない。

 猛は仕方無く席を立って、自分のスプーンとフォークを持って来た。怠鬼に見本を示す。

 猛を見よう見真似で食べ始めた怠鬼であったが、味覚を経験した事も無かったので、新たな食材を口に入れる度に感嘆の声を上げる。

 瑠衣は面白そうに怠鬼の仕草を見ている。

 食べ終わると、猛は瑠衣と怠鬼の自己紹介を取り持った。自己紹介の後は、怠鬼が瑠衣に対して地獄の解説をし、瑠衣は怠鬼に大学生活や閻魔大王との経緯を説明した。

 そんな感じで小一時間が過ぎた頃。怠鬼が素頓狂すっとんきょうな声を上げる。

『猛! 瑠衣! 尻から何か出て来た!』

「何? ちょっと立って、お尻を見せてみなよ」

 後ろを振り向いた怠鬼の臀部には、モザイク状に様々な色の混ざり合ったシミが広がっていた。

きたなっ! 怠鬼さん、漏らしたね」

『漏らすとは?』

「ウンコだよ。ウンコ! ウンコを漏らしたんだよ。でも、ウンコになるのが早いね。下痢なのかな?」

「鬼頭君。そんな事はどうでも良いでしょ! 早くお尻と洋服を洗わないと・・・・・・」

「そうだね。でも、何処で?」

「そうねえ~。私が女子トイレに連れて行くわ。ウォッシュレットで怠鬼さんのお尻を洗って来る」

「分かった。でも、服は? 怠鬼さん、今着ている服以外に着替えを持っていないよね?」

『此の服だけじゃ』

「仕様が無いわねえ~。どっかで買わないと・・・・・・。

 でも、まずはトイレで洋服を洗って、其の後は如何どうしようかしら? 濡れた洋服を着せるわけには行かないから・・・・・・。

 洋服を買おうと思ったら、下北沢辺りにまで行かないと。店が無いのよね~。困ったわ」

(猛君。学生生協でTシャツを売っていたはずだよ)

「そうだ! 学鬼さんが「学生生協で売っているTシャツはどうか?」って。あれを買って来るよ」

「大学のロゴが入った奴? 其れは名案だわ。

 じゃ、鬼頭君はTシャツを買ったら、あそこの女子トイレの前で待っていてちょうだい」

 瑠衣と怠鬼、猛は2手に別れる。

 再び集合した3人は、怠鬼に黄色いTシャツを着せると、下北沢に向かった。

 最初は高齢者向けの洋服店を物色したのだが、如何いかんせん、怠鬼の身長は低過ぎる。諦めて、幼児用の洋服店に切り替えた。

「なんだか、こうして幼児用の御店に2人して入ると、新婚さんだって誤解されちゃうわ」

「良いじゃない? 予行演習みたいで」

「鬼頭君の御嫁になるとは限らないわ。

 それに、私は世界で活躍する人間を目指すの。其の為に東大に入ったんだから。大人しく家庭に納まるつもりは全く無いからね」

「今の発言は、結婚するに当っての条件提示?」

 猛のツッコミを黙殺し、瑠衣はハンガー架けに並んだ洋服の物色に専念した。

 ところが、幼児用の洋服はアニメキャラが前面にプリントされた物ばかりで、しわの寄った老婆には似合わない。

 妥協の結果、赤い下地に緩キャラの熊がプリントされたワンピースを購入した。熊本県の有名な緩キャラの図柄であれば、高齢者でも大した違和感は無い。

 パンツも要り用だったが、排泄行為に慣れていない怠鬼に履かせるのは危険であり、高齢者用オムツを履いて貰った。加えて、幼児用の赤い靴を買い、足袋から履き替えて貰った。

 鏡に写った自分の姿を見た怠鬼は御満悦である。

――やっぱり御洒落には興味が有るみたいだ。地獄に戻るまでに、土産として何着か買い足してやろう。此れが本当の冥途の土産だな。

 と、猛は思った。

 ところで、怠鬼の排泄物だが、瑠衣の説明を聴いた学鬼が導いた仮説に依ると、あれは残飯と同じ物だ。

 口に入れた食物は怠鬼の身体で消化・吸収される事無く素通りし、肛門から出て来たのだと思われた。だからこそ、食事から排泄までの時間が早かったし、瑠衣が女子トイレで洗っていても臭くなかったのだろう。

 怠鬼が出現した7月の時点で、猛は自宅を出ていた。

 井の頭線の富士見ヶ丘駅から歩いて20分ほどの場所に安アパートを借りていた。瑠衣のアパートとも徒歩20分程度の距離だ。駅とは三角形の位置関係にある。アルバイトと弦楽同好会の練習で忙しくなり、千葉県市原市からの電車通学が苦痛になったからだ。

 独り暮らしを始めた猛のアパートに、怠鬼は身を寄せる事になった。

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