8. 実地演習

 駒場キャンパス12号館の教室。猛は中国語の授業に出席していた。

 東京大学に入学した学生は、文系か理系かを問わず、2年生までは教養学部生として駒場キャンパスに通学する。専門課程に別れて本郷キャンパスに通学し始めるのは、3年生になってからである。

 教養学部生としてのクラス割りは、選択した第二外国語に応じて編成される。選択肢は四つで、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語。希望者の少ないロシア語と中国語を選択すれば、法学部と経済学部の学生が同じクラスに振り分けられる。

 猛の選択した第二外国語は中国語だ。

 猛は、自分の身体に憑依した学鬼に殆ど全科目の学期末試験を頼るつもりだったが、語学だけは自ら勉強する必要が有る。自助努力から完全には解放されない事を入学試験の際に痛感した。だから、簡易体とは言え、字面じづらが理解できる中国語が最も無難だと判断したのだ。

 そんな感じなので、他の講義に比べれば真面目に教授の話に耳を傾けていたが、周囲に座っている本当の東大生達に比べると気持ちが据わっていない。

 実際、教室の前半分に座っているが、熱心に見ている先は、禿げ上がった黒メガネの老教授ではなく、クラスの中でも才媛として人気の的である女の子のうなじを見ている。

 後は、(学鬼さん。早く憑依してくれないかなあ)と、頬杖を突いてボンヤリ考えている。

 入学式が終わると、学鬼は(閻魔様に状況報告するから)と、地獄に戻って行った。

 学鬼が現世に戻って来る事を、猛は微塵も疑っていない。

 学問の追究に余念が無い学鬼は、日本の最高学府で行われる講義に興味津々であった。早晩、学鬼は自分の身体に戻って来るはずだと、猛は高を括っていた。

 だから、

(猛君。戻って来たよ)

 と、学鬼が話し掛けて来た時も、猛が驚いたり慌てたりする事は無かった。

(首を長くして待っていました!)

 と、頭の中で歓迎の言葉を想念した。

(ところで、猛君。君は、教鞭を取っている教授ではなく、最前列に座る女学生の後ろ姿を一生懸命に見ているね。何故なんだい?)

 何事にも興味を抱く学鬼が素直に質問する。

 猛は頭の中でアタフタと手を振り回している姿をイメージした。

(いや、何でも無いよ。偶々だよ。彼女はクラスメイト。

 まぁ、美人だからね。風采の上がらない他の学生を見るよりは、彼女を見ている方が目の保養になるからね)

(フ~ン。猛君の好みは、あんな感じの女性なんだね。彼女の名前は?)

蓮華れんげ瑠衣るい。言っておくけど、彼女はクラスメイトって言うだけだからね。俺の事なんて関心外さ)

(何故?)

(彼女に比べて俺が優れている事なんて、一つも無いからね。

 彼女は正真正銘の東大生。俺は学鬼さんの御陰で入学できた偽物の東大生。釣り合うわけが無いだろう?)

(そのう、猛君。私は女性と恋仲になった経験は無いのだが、何かに優れている男にしか、女性は関心を抱かないものなのかね?)

(好きになってしまえば違うんだろうけど、まず話し掛ける必要が有るだろう?

 何の取り柄も無い俺が話し掛けても、、話の糸口が見付からないじゃないか。「こんにちは」だけじゃ、会話が続かないよ)

(フ~ン。ちなみに、蓮華れんげ瑠衣るいさんの取り柄は?)

(まず、頭が良いよね。東京大学に合格したんだから。あと、ポルトガル語がペラペラらしい。

 南米人のお父さんと日本人のお母さんの間に産まれたハーフらしくって、だから家ではポルトガル語で会話しているんだって)

(君だって、外国人との会話では苦労しないはずだけど?)

(其れって、心で話すからだろう? 読み書きはサッパリだって、もう自覚しているよ。少なくとも、彼女に誇れる取り柄じゃない)

(他には?)

(知らない。クラスで開いた懇親会の時に軽く話しただけだから。でも、俺には何も特技が無いからね。仮に彼女にも特技が無いとしたって、俺の評価が上がる事にはならないよ)

 大人しいほどに謙遜の心得が身に着いた猛であった。東大生に囲まれて過ごせば、当然の変化とも言える。

(ところで、猛君)

(んっ?)

(君、楽器を奏でる技を習得するつもりはないか?

 楽器を奏でる事は、蓮華れんげ瑠衣るいさんに対する取り柄にならないか?)

 猛は頭の中で腕組みした。教壇でブツブツ言っている教授の声は全く耳に入っていない。

(分からないけど、楽器演奏の才能は有力な武器になるかも・・・・・・。でも、俺、全く音楽のセンスは無いよ)

 楽器なんて、小学校のハーモニカとリコーダー以外、触れた事も無い。

(其れは問題ないよ)

 猛の懸念を気軽く否定すると、学鬼は作戦内容を説明し始めた。

 学鬼が楽器奏者の誰かに憑依する。此の段階で楽器奏者の才能が学鬼に乗り移る。其の後に学鬼が猛に憑依すると、楽器奏者の才能が猛にまで乗り移る。

 問題は、ターゲットとする楽器奏者が精神的に抵抗すれば、学鬼が憑依できない事だった。楽器奏者が酩酊して意識朦朧となっているか、寝ている必要が有る。

 憑依可能な状況を作る算段については、猛に妙案が有る。

 同好会に入部して、新歓コンパに参加すれば、そう言う状況は直ぐに実現するはずだ。場合に依っては、対象者の自宅のそばまで行って、対象者が寝入るのを待っていれば良い。

(でも、学鬼さん。其れって、泥棒みたいだね。他人の才能を盗む泥棒。

 そんな事をして、俺の性根しょうねは本当に大丈夫なんだろうね?)

(大丈夫だよ。憑依されている間に君が何をしようと、君の性根に影響を与える事は無い)

――そう言えば、現世に戻ったばかりの頃に、閻魔大王も同じ事を言っていた。

(しかも、他人の才能を盗んでもいない。私が憑依したって、其の人間が才能を失うわけじゃないしね。

 そうだなぁ。君らの言葉で言うと“コピー”だよ、“コピー”。だから、泥棒じゃない)

 現代では、そう言うコピー行為を知的財産の侵害として諫めているのだが、猛は考えるのを止めた。

 考える事とは、頭の中で学鬼に話し掛ける事に他ならず、猛は無用の混乱を避けたのだ。地獄の鬼が太鼓判を押しているのだから――と、猛は思考停止した。

(段取りは分かったけれど、具体的に何の楽器にする? 楽器の種類に依って、近付く同好会も変わるよ)

(実は、こっちにも事情が有ってね・・・・・・)

 そう前置きを言うと、今度は、旱魃姫と合奏する為に閻魔大王が楽器演奏の才能を手に入れたがっている――と言う話を猛にした。

 猛は、閻魔大王が恋患いしていると言う話に唖然とし、思わず、

「えっ!?」

 と、大声を上げた。

 クラス中の学生が猛に注目する。蓮華れんげ瑠衣るいも振り返って猛を見る。図らずも蓮華瑠衣と目が合った猛は、慌てて視線を泳がせた。

 教壇から教授が猛に厳しい視線を投げて来る。当然ながら、驚愕の声を上げる程の話を教授はしていなかった。

「ああ、君の名前は何だったかね?」

「済みません。鬼頭きとうたけるです」

「鬼頭君。君は、私の話したの部分に声を上げたのかね? 何か疑わしい点が有ったかな?」

 教授は黒メガネに手を掛け、レンズ越しに覗き込む様な仕草をした。猛はしどろもどろになる。

(猛君。中国語は、四声で漢字を区別するとは聞いていましたが、同じ四声でも違う漢字が複数あるとは知りませんでしたので、思わず驚きました。そう言えば良いよ)

 と、学鬼が助け舟を出してくれる。

――チャンと教授の話を聞いていたんだ! 流石さすが、地獄耳!

 猛は感心すると同時に、学鬼の助言通りの返答をする。

「そんなに驚かれるとは思っていなかったが、驚く基準は人それぞれだ。

 君はく私の講義を聞いているんだな。感心したよ、鬼頭君。これからも其の調子で勉学に励むように」

 教授は講義を再開した。クラスメイト達も一斉に黒板の方を向く。

(有り難う。助かったよ、学鬼さん)

(どう致しまして)

(ところで、天女さんが演奏している楽器は何?)

 猛が尋ねると、猛の頭の中に、旱魃姫が奏でる胡弓の曲が流れた。

(何だか、物悲しい楽器だね。

 地獄だから、ヘビメタか何かが相応(ふさわ)しいのかなと思ったけど、全然、路線が違うわ。

 本当は中国の楽器を演奏している同好会が良いんだろうけど、俺は聞いた事が無いなあ。

 折衷案で、オーケストラっぽい同好会かなあ。バイオリンとかの弦楽器なら、何となく胡弓と合奏できそうな気がする)

(其処は猛君に任せるよ。私だって音楽の才能に溢れているわけじゃないからね)


 学鬼と示し合わせた通り、猛は弦楽同好会の門を叩き、入会した。

 渋谷道玄坂の居酒屋で開かれた新歓コンパでヘベレケに酔った。酔ったけれども、目的は忘れない。親しげに猛の肩に腕を回して来た先輩から情報収集する。

「先輩。僕、楽器は触った事がないんですが、大丈夫ですかねえ?」

「音楽は好きなんだろう?」

「ええ、好きです」

「だったら、大丈夫。好きこそ物の上手なれだ。

 俺だって、東大に入学したばかりの時は全く弾けなかったよ。みんな同じさ。

 中学・高校の6年間、受験勉強に集中しないと、東大なんて合格できるわけない。受験勉強以外は全て犠牲にして臨むんだから、楽器なんて弾けるはずがない」

 実際、此の先輩は受験勉強一筋だったのだろう。呂律の回らなくなった口で一生懸命に話している。

 此処でも猛は、(そんなに受験勉強に打ち込んでいないんだよなあ)と後ろめたい気持ちになった。

「ところで、先輩。先輩は何を弾いているんですか?」

「俺かあ? 俺はチェロ。大きい奴。お前は何の楽器に興味有るんだ?」

「バイオリンです。此の同好会の中で一番バイオリンが上手なのは誰ですか?」

「文句なしにアイツだ。蓼科たてしな。あそこに座っている緑のポロシャツの男」

 居酒屋の板塀に背中を預け、やっぱり隣の新入生の肩に腕を回して口角泡を飛ばしている男が居る。東大生の仕草はパターン化しているようだ。

 猛は「ちょっと他の先輩にも挨拶してきます」と席を立つと、蓼科先輩に横に座り込んだ。「どうも、どうも」を連発し、ひたすら蓼科先輩に御酌をする。

 東大生なら酒に弱いはずだと猛は思い込んでいたのだが、意外にも蓼科先輩は非常に強かった。

 酒に強いか弱いかは、所詮は体質の問題、遺伝子の問題だ。しかも場数を踏めば強くなる。懇親会でクラスメイトが一様に酒に弱かったのは、単純に慣れていなかったからだ。3年生の蓼科先輩は酒に慣れていた。

 そんな訳で、蓼科先輩を酔い潰した時には、猛の頭もグルグル回っていた。

 これから山手線に乗って秋葉原まで行き、総武線に乗り換えて、自宅まで戻らないといけない。降車駅を乗り過ごさないか、少し心配な状態ではある。

 だが、本日の使命が残っている。

(学鬼さん。もう憑依できるんじゃないでしょうか。好い加減、相手は酔っ払っていますよ)

 反応が無い。

(学鬼さん?)

 何度呼んでも、学鬼は反応しなかった。

 どうやら、猛が酔うと、学鬼とのコミュニケーションは成立しないらしい。学鬼と交信したければ、猛も頭を正常な状態に保つ必要が有ると初めて認識した。一生懸命に飲んだのに、猛の努力は水泡に帰した。

 半数以上が酔い潰れている状況に、幹事役の2年生が新歓コンパの御開きを宣言した。立てる者が、立てない者を介抱して、起き上がらせる。

 身長180㎝と大柄な猛でも、太った蓼科先輩を独りで抱え上げるのは難儀であった。猛の奮闘に気付いた別の3年生が加勢に入り、蓼科先輩を両方から支えて抱え上げる。

 蓼科先輩の腕を肩に回した3年生が猛に話し掛ける。

「お前、何処に住んでいるんだ?」

「千葉です。市原市」

「遠いな。終電、大丈夫なの?」

「微妙です」

「だったら、蓼科を送って、其の儘、蓼科のアパートに泊まってくれないか? 普段は、こんなに酔わないんだけど、今日は完全に死んでいる」

 死因の一端は、猛に有る。先輩を酔い潰した罪滅ぼしも兼ねて、「良いっすよ」と軽く返事した。

 そう言う顛末で翌朝、猛は蓼科先輩のアパートで目を覚ます事になり、目を覚ました時には、学鬼が、

(猛君。大成功だよ。彼の楽器演奏の技は完全に君のものだ)

 と、嬉しそうに報告した。

 

 弦楽同好会の練習に猛が初参加した時、同好会メンバーの全員が猛の実力に驚いた。バイオリンを握った事は無いと自己紹介していたにも関らず、見事にバイオリンを弾いたからだ。

 蓼科先輩の技を盗んだので当たり前なのだが、普通の人間には驚愕の事実である。

「他の楽器も弾けるのかなあ? ちょっと、弾いてみろよ」

 先輩が命じるままに猛は他の楽器を試してみたが、イマイチの出来だった。形状は似ているが、大きさの違うヴィオラやチェロについては蓼科先輩も苦手なようである。

 兎に角、猛は弦楽同好会で主力のバイオリン奏者として認められた。


 5月に入ると、弦楽同好会は新入生のお披露目を兼ねて、小さなコンサートを開催する。

 駒場キャンパスのトレーニング体育館を借り、折畳み式のパイプ椅子を並べただけの簡素な会場。同好会メンバーの服装も黒の礼服やドレスではなくて普段着だ。金を掛けないので、チケットは無料。チケットが無くても、当日、会場に居合わせれば演奏を聴ける。

 例年、演奏に参加できる新入生は居ない。新入生は、予定の演目が全て終了した後で、部長から紹介されるのみであった。

 コンサートを間近で見学させ、弦楽器を演奏している1年後の自分を連想させ、同好会の活動を続ける動機付けをするのだ。5月病の予防と言う意味も有った。

 今年は、唯一の新入生として、猛が演奏に加わった。

 しかも、トリを務める弦楽四重奏の最後の演目に参加するのだ。大抜擢であるが、同好会メンバーの中でも一、二を争う実力なので、誰にも異存は無かった。

 後は、同好会メンバーとして、チケット配布に気を配るだけだ。

 無料チケットなので、貰って困る人間は居ないが、興味の無い人間に配っても来場を期待できない。無料だからこそ、ソコソコの来場者数を期待したかった。

 同好会メンバーの全員がそう思っていたし、猛も同じ気持ちなのだが、猛にはもう一つの目的が有った。

「ねえ、学鬼さん。何の努力もしてないけれど、一応、俺の晴れ舞台だから、蓮華れんげ瑠衣るいにチケットを渡そうと思うんだ。明日にでも・・・・・・」

(いよいよ作戦の第2段階ですね。応援しています)

「有り難う」

(でも、私自身は応援しているんですが、此処で猛君に相談が有ります)

「何?」

(君に憑依する役を、閻魔様に替わって頂こうと思うんです)

「えっ!? なんで?」

(申し訳ないんですけど、憑依役の交代は猛君の為と言うより、閻魔様の為なんです。

 女性に話し掛ける実地演習を閻魔様に体験させてりたいんです。身体を借りる猛君の御了解を頂かないといけませんが・・・・・・)

「別にメンバーチェンジは構わないけど。閻魔様はもう、旱魃姫とは交際を始めているんでしょ?」

(いやあ、私が見た処では、交際とは言えない状態ですね、未だ。旱魃姫を前にすると、閻魔様は緊張していますから)

 恋愛経験が無いにもかかわらず、的確な判断をする学鬼。

(だから、少しでも多くの経験を積む必要が有ります)

「フ~ン。でも、学鬼さん。学期末テストに間に合うタイミングでは戻って来てよ。俺の事を見捨てないでよ」

 一挙に情けなくなった猛の想念は哀願調である。

(安心してください。私は現世の好きな時間に戻れますから。それではしばらくの間、お暇します)

 縋る気持ちの猛に構わず、学鬼は気配を消した。猛は少し寂しくも感じた。

 でも、1分も経たずに、

(猛! 久しぶりであった)

 と、野太い声が猛の頭の中に鳴り響いた。閻魔大王である。

「えっ!? もう来たの? 学鬼さん、たった今、地獄に戻ったばかりだよ」

(ワシらは現世の好きな瞬間に来られるからな。ワシらには時間と言うものが関係無い事、汝は忘れたのか?)

 忘れてはいないが、中々馴染めない。こう言う現象に直面すれば、やはり驚いてしまう。

(学鬼より聴いたが、女子おなごに話し掛けるそうだな)

「ええ。明日の中国語の授業が終わったら、彼女に声を掛けようと思います」

(何、明日!? それでは睡眠と言う拷問が有るのだな。はやる心を抑え切れずに黄泉よみを潜って来たが、少し後の瞬間を目指すべきであったか・・・・・・)

 睡眠を拷問と言うのも変だし、そもそも拷問を差配するのは閻魔様でしょう、なんて事は考えなかった。

(学鬼を見習って、猛の睡眠中は幽体離脱しておるか・・・・・・)

 と、多少意気消沈して、閻魔大王が呟く。


 翌日、中国語の授業が始まる前。猛は定刻よりも早く教室に来た。

 いつもの席に陣取っている蓮華れんげ瑠衣るいの姿を認めると、自然な振る舞いを心掛けて彼女に近寄って行った。

「蓮華さん」

 猛の呼び掛けに蓮華れんげ瑠衣るいが顔を上げる。少し驚いたようで、僅かに目を見開いている。

 父親が白人なのだろう。平均的な日本人女性と比べると肌の色が白い。亜麻色をした髪の毛は生まれ付きなのか、それとも染めているのか。猛には判断が付かなかった。

 瞳の色は少し茶色掛かっている。茶色いフレームの丸眼鏡を掛けている。近視が強いらしく、レンズ越しに見える目の大きさは小さかったが、長い睫毛が目の印象を強いものにしている。

 クッキリと通った鼻筋の下には少し厚めの唇。口紅は塗っていない。でも、透明なリップクリームを塗っているらしく、唇の表面が潤んでいる。

「何?」

 短く答えただけで、猛の言葉を待っている。

 蓮華れんげ瑠衣るいの瞳に釘付けになっていた猛は、慌てて視線を逸らすと、A4版のブリーフケースの中から演奏会のチケットを取り出した。

「今度、弦楽同好会がコンサートを開くんだ。

 無料なんだけど、良かったら来てくれないかな?――と思って、さ」

「鬼頭君。弦楽同好会に入っているの?」

(よし! 俺の名前を覚えてくれている。第1関門を通過だ)

 頭の中で小躍りする猛に向かい、閻魔大王が即座に質問して来る。

(彼女が猛の名前を覚えているのが、そんなに嬉しいのか? 彼女は賢いのだろう? 名前くらいは覚えているだろうに・・・・・・?)

「良いから、黙っていてくれよ!」

 小声で呟いただけなのだが、蓮華れんげ瑠衣るいは「はっ?」と怪訝な顔をした。

「いや、こっちの話。それより、蓮華さんはクラシックには興味無いかなあ?」

「嫌いじゃないわよ。好きでもないけど・・・・・・。と言うか、どんなジャンルでも何でも聴くわ。私って、音楽では節操が無いのね。

 強いて言えば、ビートの効いた陽気な音楽が好きだけど・・・・・・」

 クラシックは蓮華れんげ瑠衣るいの趣味ではなさそうだが、猛にとっては、口実になりさえすれば良い。

 強引に勧誘する。

「まあ、嫌いじゃなければ、是非来てくれよ。俺がバイオリンを演奏するんだよ」

「鬼頭君って、バイオリンが得意なの?」

「ああ、同好会の中じゃ一番の腕前なんだよ」

「意外ねえ・・・・・・」

「能有る鷹は爪を隠すって言うだろ。他にも誰かクラシック好きの友達が居れば、一緒に来てよ。

 観客は1人でも多い方が良いからさ。チケットも5枚、君に渡しておくよ」

「そんなには要らないけど・・・・・・。此れって、東大生じゃないと聴きに行けないの?」

「いいや、誰でも構わないよ。こっちだって、別に正装して演奏するわけじゃないしね。極めてカジュアル」

「そう、良かった。有り難う」

 丁度その時、中国語の教授が部屋に入って来た。「じゃあ」と言って片手を軽く上げると、猛は後ろの方の椅子に腰掛けた。

 彼女の視線はもう、教壇を向いている。

(今日の接触は成功だったのか? あの女子おなごは猛に好意を抱いたんだろうか?)

(チケットを渡せたんだから、今日の処は大成功だよ。

 でも、チケットを渡しただけなので、未だ好きとか嫌いとかは関係無いよ)

(それでは、恋仲になるまで、未だ未だ先は長いのか?)

(閻魔さん、恋愛に王道は無いんだよ。一歩一歩、確かめ合って、間合いを刻んで行くのさ)

(疲れるのう)

 スンナリと前途に展望が開けない事を思い煩う閻魔大王であった。地獄を統べる彼にとっては、自分では如何どうようも無い状況に最も気疲れするのだろう。

 一方で猛は、最初の一歩を踏み出して意気軒昂となっている。

(でも、チケットを受け取らない可能性だって有ったわけだから、スタート台には立てたって事さ。此れで良しとしなくっちゃ)

 恋愛分野においては閻魔大王も猛の教え子に過ぎず、力関係が逆転している。すっかりタメ口になっている。


 弦楽同好会の練習は、メンバーの受講する講義のコマ割りの都合も有るし、理系の3年生や4年生は本郷キャンパスで実験のカリキュラムをこなすので、基本は自主練習だ。土曜日の午後、駒場キャンパスで何時間も合同練習をして、音合わせをする。合同練習が終われば、大体は渋谷の居酒屋に流れる。

 何度も経験した合同練習を通じて、閻魔大王が猛にシミジミと感想を述べた。

(楽器を演奏するのは1人では駄目なんだなぁ。みんなで音を合わせて初めて曲になる)

(まあ、そうだね)

(目から鱗だわい。ワシは、好き勝手に演奏すれば良いのかと、勘違いしておった。

 パートナーの音色を聴きながら相手に合わせる。相手に合わせるだけじゃなくて先導もする・・・・・・。

 猛は其れを遣っておるのだなあ。いや、感心、感心)

(いやぁ、そんなに褒められる事はしてないけど。

 それに、演奏能力も努力して身に着けたわけじゃないしね)

(謙遜するな。此の閻魔大王が褒めておるのだ。もっと胸を張れい!)

(それでは素直に喜んでおくよ。

 ところで、閻魔さん。楽器の合奏って、恋愛と似ていると思わないか?)

(どう言う事だ?)

(相手の事を想って、相手に合わす。相手に合わすだけじゃなくて、自分にも同調して貰う。

 そして、二人三脚で一つの作品を造り上げる。押したり引いたりする遣り取りが、正に恋愛なんだよ)

(言い得て妙だのう。そんな風に考えた事も無かったわい。

 そう考えると、1人でしか演奏できなかった旱魃姫の寂しさは、どれほど深いものであったであろう・・・・・・。旱魃姫と手を携えて同一の所業に取り組む・・・・・・。夢の様じゃ)


 弦楽同好会のコンサートに、蓮華瑠衣は両親を連れて来た。

 彼女の実家は静岡県浜松市に在った。

 折角、娘が東京大学に合格したので、自分には縁の無かった東京大学の構内を見学してみたいし、生の東大生を他にも見てみたい――と言う両親の希望を叶える為、東京に呼んだのだ。

 彼女の両親にとっては、娘の生活環境を確かめる意味合いもあった。

 賃貸アパートに引っ越して来た際には手伝いの為に上京したが、それ以降の暮らしぶりを確かめたいと思うのは、親としての素直な心情であった。

 蓮華瑠衣が両親を連れて会場に入って来たシーンは、猛にとっても胸を撫で下ろす光景だった。

 蓮華瑠衣は1人ではなく、女友達と一緒に来るだろうと予想していた。だが、男友達と一緒に来る可能性も完全には否定できない。そうなると万事休すである。猛としては望みを絶たれるので、其れだけを恐れていた。

 最後の演目を無事に弾き終え、溢れんばかりの拍手の中で同好会メンバー一堂が観客にお辞儀をする。

 会場内には雑然とした空気が広がり、観客達が立ち上がり、パイプ椅子の床を摺る音があちこちで鳴る。メンバーも楽器をケースに仕舞い始める。演奏しなかった新入生達はパイプ椅子を片付け始めた。

 猛は、バイオリンを片手に演台から降りると、蓮華瑠衣の家族に近付いて挨拶した。

「初めまして。鬼頭猛と言います。蓮華瑠衣さんのクラスメイトです」

 蓮華瑠衣が父親の為に、猛の話をポルトガル語に翻訳した。

 蓮華瑠衣の父親は、怪訝な表情で娘を一瞥いちべつした後、「オーっ」と大袈裟な声を上げ、此れまた大袈裟な仕草で猛と握手した。

『コンサートのチケットを瑠衣にプレゼントしてくれて、本当に有り難う。御陰でクラシック音楽を家族で楽しむ事が出来ました』

 蓮華瑠衣が父親のポルトガル語を翻訳しようとした矢先、自然な反応として猛が、

「其れは良かったです。私もバイオリンを演奏した甲斐が有りました」

 と、日本語で答えた。心で会話しているので、蓮華瑠衣の父親にも猛の答えた内容が通じる。

『貴方のバイオリンは素晴らしい。勉学と楽器演奏の二つの能力を持っているとは、羨ましい限りです』

 蓮華瑠衣の父親は、そうポルトガル語で愛想を言った。

 父親と猛の間に会話が成立しているらしい事を、蓮華瑠衣と母親は怪訝に思った。当然である。2人には猛の言葉が日本語として聞こえていた。事実、日本語であった。

 眉見に軽くしわを寄せ、蓮華瑠衣が不審を抱いた表情で猛に確かめる。

「貴方。日本語を話しているわよね?」

 猛は黙って頷く。今度は父親の方を向き、

『お父さん、彼の話す内容が理解できるの?』

 と、蓮華瑠衣はポルトガル語で質問した。

 馬鹿な事を聞くなよ――と言わんばかりの表情で、父親が頷く。再び、蓮華瑠衣は猛の方を向く。

「どう言う事?」

「特技なんだ、こう言うの。読唇術みたいな物かなあ」

 何でもない事だよ――と言う風に、猛は軽く肩を竦めた。

「読唇術って言うのは、相手の言いたい事を読み取る術よ。父に読唇術の心得は無いわ。

 だから、逆に貴方には相手に言いたい事を伝える特技が有ると言う事になる。読唇術とは真逆の術を持っている事になる。論理的に考えるとね」

「君の考えは間違ってはいないよ」

「でも、そんな特技が存在するなんて、今まで聞いた事も無いわ」

「秘伝中の秘伝だからさ」

 蓮華瑠衣にとっては、猛の特技に関する告白が本日一番のサプライズだろう。

 蓮華瑠衣の驚愕には構わず、父親が、

『家族で今から渋谷に出て、ブラジル料理のレストランで食事をする予定なんだ。

 君も一緒に来ないか? 色々と娘の話を聞かせておくれよ』

 と、陽気に誘って来た。父親の上京は、猛にとって堯行ぎょうこうだった。

「喜んで御一緒します。片付けが残っているので、少し待っていて貰えますか?」

 即効で快諾した。

 猛と父親の遣り取りを蓮華瑠衣は、インチキ臭いマジックを見る様な目付きで見ていた。

 タネも仕掛けも無い。有るのは、彼女が一段と驚愕する事実だけなのだが、真相を伝えるのは今日じゃない。


 蓮華瑠衣の家族と食事を共にした日の翌週。

 国際関係論の講義が行われる大教室では、教室に入って来た猛の姿を蓮華瑠衣が目敏く見付けた。蓮華瑠衣は、それまで座っていた場所から立ち上がると、猛の隣の席まで移動して来た。

 家族で食事している間、母親は早々に猛の特技とやらに対する関心を失った。「だって、話が通じるんですもの。便利で良いじゃない?」の一言だった。細かな事を気にしない楽天的な性格みたいだった。

 一方の蓮華瑠衣は、終始、釈然としない表情を浮かべ、上の空で両親と会話していた。彼女には気の毒だったが、家族水入らずで週末を過ごしたのだろうから、大した問題ではない。

 それよりも、猛は蓮華瑠衣の関心を惹いた事に快哉を叫んでいた。事実、こうして、蓮華瑠衣は自ら猛に寄って来た。

「ねえねえ。鬼頭君のあの特技。もう少し教えてよ」

「其の内ね」

「私にも出来るようになるのかしら?」

「まあ、出来るようにはなるよ。でも、修行が必要だけどね」

「どんな修行?」

「蓮華さん。講義が始まるよ。続きは昼飯を食いながらにでも、どう?」

 渋々引き下がる蓮華瑠衣。一方の猛は、頗る気分が良かった。


 学生食堂の窓際テーブルに対面で座り、猛と蓮華瑠衣の2人はラーメンを啜っていた。

 2人とも猫背で前屈みの姿勢になり、麺を掻き込みながら小声で会話する。密談の様でもあり、恋人同士の内緒話の様でもあった。

 蓮華瑠衣の方は真剣な顔付きだったが、猛の方は少しニヤけて頬が緩んでいた。

「それで、どんな修行を鬼頭君は遣ったわけ?」

「まぁ、一瞬で終わる事なんだけどね」

「一瞬で終わるんなら、全然修行じゃないじゃない?」

「修行って言うのは言い過ぎだな。其れは認める。でも、修行じゃなければ、超常現象」

「超常現象? 私を揶揄からかっているの?」

揶揄からかってなんかいないよ。でも、正確に言うなら、超常現象だよ。霊的超常現象かな。幽霊じゃないけど」

「鬼頭君の言う超常現象って、私にも追体験できるの?」

「うん。君が信じれば、ね」

「何だか胡散臭い話ねえ」

「確かに胡散臭いけど、俺の特技が只物じゃないって事は認めるだろう?」

 悔しそうな顔をして、蓮華瑠衣が頷く。

(おい、猛! 此の女子おなごにも地獄の事を話すのか?)

(いけない?)

いにしえの人間共は地獄の事を知っていたし、信じてもいたからな。今さら秘密にする事ではないが・・・・・・。

 でも、果たして、此の女子おなごは信じるのか?)

(分からない。でも、話してみないと・・・・・・)

(だが、猛が地獄に遣って来た穴は未だ塞がれておらん。

 穴の存在が人間共に露見すれば、地獄に攻め入って来るやもしれぬ。地獄を治めるワシの立場として避けねばならん事態だ)

(好き好んで地獄に行く人間は居ないと思うけど・・・・・・)

(だが、物好きな人間がるかもしれん。用心には用心を重ねないと、秩序を維持できん)

(もう堅いなあ。穴の話は彼女に伏せておくよ。でも、考えてみてよ!

 もし、彼女の協力を得られたら、閻魔さんは旱魃姫と一緒に憑依して現世に来られるんだよ。

 極楽の事は知らないけど、デートするんだったら、断然、地獄よりも現世の方が楽しいと思うけどなあ)

 真っ当な実力で東京大学に合格できる学力は毛頭無いが、そんな悪知恵だけは働く猛であった。

 猛の提案には閻魔大王も心を揺さぶられたようである。腕組みをして考え込む閻魔大王の姿は見えないけれど、そんな気配が頭の中でした。

(仕方あるまい。だが、話す内容には呉々も用心してくれよ)

「じゃあ、何を信じれば良いわけ?」

「蓮華さんさぁ、地獄の存在って信じる?」

 蓮華瑠衣は首を横に振った。猛の事を訝しがっている。

「じゃあ、地獄の鬼なんて信じないよね?」

 今度は首を縦に振って頷く。

「じゃあ、輪廻転生は?」

「此れって、何の真似? 私は幼稚園児じゃないのよ。私を揶揄《からか)っているの?」

 蓮華瑠衣は口を尖らせ、頬を少し膨らませる。

 彼女の怒った表情を見ながら、猛はご満悦だ。ニヤニヤする。

「教える気が無いんでしょ! 良いわよ。鬼頭君って意地悪ね」

「分かった、分かった。悪かったよ。でもね、今のがキーワード。

 幾ら口で説明しても、君は納得しないと思うよ。姿を見てもらわないと。

 でも、此処じゃマズイ。昼間もマズイ。君以外の人間には見せたくないんだ。

 もし、君が本気なら、夜まで待ってもらわないと。今夜、駒場キャンパスで俺と二人切りになるなら、真相を見せて上げる。如何どうする?」

 蓮華瑠衣にとっては究極の選択である。

 夜まで猛に付き合って特技の秘密を教えて貰うか、それとも猛を警戒して特技の秘密を諦めるか。要は、猛の事を信じるか否か――なのだ。

 ジっと猛の目を見る。ニヤけた顔をしているが、悪さを企んでいる雰囲気は無い。東大生が無茶をするはずないと言う常識も、蓮華瑠衣の決心を後押しした。

「分かったわ。それじゃ、夜まで如何どうする?」

「良し! そうと決まれば、渋谷までデートに行こう。今日の午後は講義も無いし・・・・・・」

 マンマと騙された気がするが、蓮華瑠衣は渋々猛に従った。


 その夜、2人は道玄坂を上って松濤町の高級住宅街を抜け、駒場キャンパスに戻って来た。

 駒場キャンパスは暗闇に包まれ、街灯の周辺だけがボンヤリと照らされている。駒場キャンパスの裏門を潜ると、トレーニング体育館の横を通り、第1グランドまで歩く。

 第1グランドの中央には400mの陸上トラックが有り、周囲を樹木が囲んでいる。他にはベンチすら無く、殺風景なグランドだった。夜に好き好んで訪れる者は誰も居ない。街灯も疎らだ。

 第1グランドの入口を入って直ぐの暗闇まで、蓮華瑠衣を先導するように猛は歩みを進め、そして、立ち止った。流石さすがに奥の方まで行くのは、蓮華瑠衣の誤解と警戒心を招きそうではばかられた。

 猛は振り返り、蓮華瑠衣と向き合った。

 遠くの街灯が逆光になって、蓮華瑠衣の表情は判然としない。猛の顔だって、遠くの街灯の弱い光で闇に薄く浮かび上がっているだけだろう。

「それじゃ、今から君に真相を見せるよ」

 緊張した様子の蓮華瑠衣が頷く。

 猛の後背に白く半透明の煙の如き物がユラユラと浮き出ると、徐々に人の姿を形成した。白い浮遊物は、やがて等身大の閻魔大王となった。

 身長250㎝程の閻魔大王は、自分のへそくらいに位置する蓮華瑠衣の顔を見降ろす。

 蓮華瑠衣は口をアングリと開けた。両眼も見開いている。丸メガネが少しだけ摺り落ちている。

 動揺した仕草で左手を口に当て、右手の人差指で閻魔大王を指差した。

「此れが真相だよ」

 蓮華瑠衣は人差し指を上に差した状態で硬直している。そして、掠れた声で小さく、「誰?」とささやいた。

『ワシは、閻魔大王である』

 野太い声で、閻魔大王が自己紹介する。

「閻魔大王?」

如何いかにも』

如何どうして?」

如何どうしてとは、何がだ? ワシが猛に憑依している理由か?

 其れを話し始めたら長くなるぞ。ワシから話して遣っても構わぬが、汝は聴きたいのか?』

 左手で口を押さえたまま、蓮華瑠衣は首を横に振る。閻魔大王と猛は顔を見合わせ、肩を竦めた。

「蓮華さん」

 猛の呼び声に、蓮華瑠衣は視線を閻魔大王から、目の前の猛の顔に移す。人差し指は未だ上を差している。

「閻魔さんが俺に憑依すると、相手と心で意思疎通できるようになるんだ。言葉は要らない。分かる?」

 蓮華瑠衣はカクカクと首を縦に振った。

「だから、君も閻魔大王に憑依して貰うと、どんな国の人とも意思疎通できるようになるけど・・・・・・。

 憑依して貰う?」

「憑依して貰う?」の一言で瑠衣の呪縛が解かれた。俄かに蓮華瑠衣は正気を取り戻した。

 人差し指は上げたままだが、口を押さえていた左手は降ろした。口も閉じた。

 もう一度、閻魔大王を見上げる。

「閻魔大王様は、男? それとも中性? 女じゃないでしよ?」

『其の定義は何だ?』

 野太い声で確認する閻魔大王の声に、蓮華瑠衣は下を向いた。そして、消え入りそうな小声で伝える。

「・・・・・・チンチンが有るかどうか、かな」

『其れならば、答えは“有る”だ』

 真面目ながらも珍妙な問答に、猛も閻魔大王を見上げた。

(排尿もしないのに、本当に有るの?)

 そんな頓馬な感想を思い浮かべても、今なら閻魔大王には聴こえない。

「だったら、厭! 男の人に憑依されるなんて、絶対に厭!」

 やけに強い調子で拒絶する蓮華瑠衣を前に、閻魔大王と猛は顔を見合わせた。

「でも、俺の持つ特技は? もう要らないの?」

「鬼頭君の特技は羨ましいけど、男の人に乗り移られるのは、死んでも厭!」

「じゃ、女の人なら憑依しても構わないの?」

「女性なら構わない」

 閻魔大王と猛は、また顔を見合わせた。

「閻魔さん。旱魃姫の事、お願い出来そうだよ」

『そうみたいだな。だが、もう一度、此の女子おなごに意思を確認してみよ』

 何事にも慎重な閻魔大王だった。

 猛が蓮華瑠衣に再確認したら、やっぱり構わないそうである。異性に自分の身体を覗かれる事に生理的嫌悪感を抱いているだけで、同性ならば気にしない。憑依される見返りに特技を手に入れられるならば、全く問題無い。極めて合理的な回答だった。

『であれば、ワシは一旦、地獄に戻ろう。そして、猛に教えて貰った事を旱魃姫に試してみる』

 まだ現世に止まると思い込んでいた猛は、閻魔大王の唐突な宣言に戸惑った。

「もう?」

『ああ。ところで、猛。汝に頼みが有るのだが・・・・・・』

「何?」

『汝のバイオリンをワシに譲ってはくれぬか?』

「譲るのは構わないけど、如何どうするの?」

『地獄に持って帰る』

「そんな事できるの?」

『出来る』

 そう力強く言い切ると、閻魔大王は「ウムっ」と声に力を込めた。

 すると、半透明だった閻魔大王の姿が、服装の色彩も含めて、猛が地獄で見た通りの実態の有る物に変わった。

『解脱だ。解脱すると猛の身体とは完全に切れる。

 此の解脱した状態で現世の物を身に着けて戻れば、地獄に持ち込める』

 猛も初めて見る光景なので、「へえ~」と感嘆の声を上げた。

 蓮華瑠衣にとっては全てが初めての経験なので、今まで以上に驚く事は無い。目を見張ったまま、猛と閻魔大王の遣り取りを見ている。

「分かった。じゃ、あそこに見えている学生会館の部室からバイオリンを取って来るから、此処で待っていて!」

 閻魔大王と蓮華瑠衣を残して、猛は陸上トラック脇の草地を駆け出した。

 閻魔大王と並んで立っている事に気不味さを感じた蓮華瑠衣は、社交辞令的に閻魔大王に話し掛けた。

「地獄って、どんな処なんですか?」

『どんな処と聴かれてもなあ。鬼と亡者ばかりだ、地獄だからのう。汝も試しに地獄に来てみるか?』

 蓮華瑠衣は激しく頭を振った。地獄に行きたがる人間なんて、普通は居ない。

『そうか。猛の連れ添いならば、いつでも歓迎するぞ。気が変わったら、猛に頼むが良い』

「連れ添いって、どう言う意味なんですか!?」

 “連れ添い”と言う表現に“恋人”と言うニュアンスを感じた蓮華瑠衣は、強く反応した。蓮華瑠衣の思考が超常現象の世界から一挙に現実世界に戻って来た。

『いずれ、猛と連れ添う事になるのだろう? 猛の方は汝の事を好いておるぞ』

 蓮華瑠衣は自分の頬が赤く熱を帯びるのを自覚した。此処が暗くて良かったと、少し安心した。

「未だ分かりませんよ。交際してもいないんだから。鬼頭君の事は何も知らないんですよ!」

 ムキになって閻魔大王に反論する自分に対し、我ながら変だなとも思う。ムキになる必要は全く無い。

『交際すれば良いじゃないか。猛は良い人間だぞ。ワシは猛の性根を調べたから、保証できるぞ』

「性根?」

『ああ、性根だ。地獄に来た事の無い汝に性根を説明するのは、至難の技だがな・・・・・・。

 其の内、学鬼にでも教えて貰うが良い』

「学鬼?」

『ああ、いずれ汝も学鬼に会うだろう』

 閻魔大王が相手なので半分以上は仕方無いのだが、自分が説教されてばかりの様な気がした蓮華瑠衣は、話題を変える事にした。

「さっき、「鬼頭君に教えて貰った事を旱魃姫に試してみる」って言っていましたけど、どう言う事なんですか?」

 今度は逆に、閻魔大王が押し黙った。怪訝に感じた蓮華瑠衣が、閻魔大王の顔を見上げる。

 恥ずかしがっている気配を感じた。こう言う機微を敏感に察知するのは、女性特有の特技である。

「もしかして、旱魃姫って言う方は、閻魔大王様の恋人なの?」

『・・・・・・。未だ、恋人とは言えん。・・・・・・これから恋人になって貰う』

(閻魔大王って、可愛い!)

 蓮華瑠衣の緊張は一挙に解けた。急に閻魔大王に親近感を感じ始めた。

「鬼頭君が閻魔さんに教えた事って、何なの?」

 “閻魔大王様”の呼び名が“閻魔さん”に様変わりする。猛に倣って、口調も砕けた感じになる。

『2人して同じ音楽を奏でる楽しさだ。

 旱魃姫は胡弓を奏でる。ワシはバイオリンで以って、旱魃姫の胡弓と合奏したいのだ。旱魃姫の寂しさを紛れさせる事が出来るだろう』

「フ~ン。閻魔さんって、ロマンチックなのね」

『ロマンチックと言うのは、どう言う事か?』

「そうねえ。女心をウットリさせるって事かしら。旱魃姫と言う方は、きっと喜ぶと思うわ」

『そうか。女子おなごに太鼓判を押して貰うと、ワシも心強い』

「鬼頭君が教えた事って、其れだけ?」

『二つ目は、先程、見せて貰った』

「何を?」

女子おなごとは、自分の知らぬ事を見せ付けられると、あれほど強い関心を抱くのだな。

 汝の様子を見ていて、大いに興味深かったぞ』

 自分が間抜け面をしていただろう事を思い出し、蓮華瑠衣は頬をまた赤らめた。

 そんな他愛もない会話をしているうちに、バイオリンケースを抱えた猛が戻って来た。息急き切って走ったので、ハアハアと呼吸が荒い。

「はい! バイオリン」

『ウム。かたじけない。しかし、自分で求めておいて何だが、明日から猛は如何どうする?』

「母さんに買って貰うよ。今のバイオリンが壊れたからって。下北沢の中古楽器屋で安く売っているだろうし。

 でも、そろそろ俺もアルバイトを始めないとなあ」

『アルバイトとは?』

「働く事だよ。小遣いを稼がないと。ああ、小遣いって、金銭の別の呼び方ね」

『そうか。学鬼が興味を抱きそうな話だな。それでは、また次に会う時まで』

 バイオリンケースを手に持った閻魔大王の姿がユラユラと揺れ始める。どんどん色彩が薄くなる。

 そして、猛と蓮華瑠衣の2人だけが夜のグランドに残った。

「閻魔さん、帰っちゃったわね」

「ああ」

「閻魔さんって、良い人ね。私、好きだわ」

「ああ」

 立ち去った閻魔大王を思い出し、余韻に浸る2人だった。

 だが、其の余韻も冷めやらぬうちに、猛の頭の中で学鬼が話し掛けて来る。

(猛君! 久しぶり。再び現世に来られて、私も嬉しいよ)

(本当に目紛めまぐるしいね。閻魔さん、帰ったばかりだよ)

(一瞬は永遠、永遠は一瞬なのさ。地獄には時間の流れと言うものが無いからね)

(其れは良いけど、学鬼さん。蓮華さんに挨拶して行かない? 折角だから)

(挨拶?)

(うん。幽体離脱して、学鬼さんの姿を蓮華さんに見せてよ)

(そんな事をして大丈夫なのかい?)

(今の今まで閻魔さんも自分の姿を彼女に見せていたんだよ。

 幽体離脱だけじゃなくて、解脱までして見せてくれたよ)

(なんと!? 閻魔様も大胆だなあ。けれど、閻魔様も姿を見せたのなら、私も挨拶するか)

 呆れた気持ちと諦めの気持ちの入り混じった感情を少しだけ滲ませた学鬼は、猛の背後に幽体離脱した。

 学鬼の訪問を夢想だにしない蓮華瑠衣は、猛の背後に立ち上る白く半透明の煙に気付くと、「キャっ」と小さな悲鳴を上げて後退あとずさった。

「閻魔さん、戻って来たの? 何か忘れ物?」

 半透明の煙が学鬼の姿に変わると、蓮華瑠衣は二度目の「キャっ」と言う悲鳴を上げた。

 猛の腕に縋り付くのが良いか、単純に飛び下がった方が良いか、蓮華瑠衣の身体は反射的に戸惑った。結局、飛び下がった。未知の存在への恐怖感が少しだけ勝った。

「蓮華さん。こちら、学鬼さん」

「学鬼です。初めまして」

 閻魔大王と同じ位に身長の高い学鬼がお辞儀した。蓮華瑠衣も上目使いにお辞儀する。

「鬼頭君の身体って、絶えず誰かが憑依しているのね」

 長身ながら細身なので威圧感を感じさせない学鬼であるが、そんな事とは無関係に、もう鬼を怖い存在だとは思わない蓮華瑠衣であった。

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