6. 閻魔様の初恋

 現世から戻った閻魔大王は、浄瑠璃鏡じょうるりかがみの判じ事を無事にこなしている赤鬼にウムと頷くと、「極楽に行って来る」と宣言した。思った以上に早く地獄に帰って来たからには、引き続き留守にしても問題は無いだろうと判断したのだ。

 血の池の上空に開いた現世との抜け口を塞いで貰うよう、普請ふしんの上奏を神様にしなくてはならなかった。

 もっとも、閻魔大王が神様にお目通りを願っても叶えられず、閻魔大王は釈迦に上奏文を預けるだけである。預かった上奏文を釈迦は極楽で最上位の黄帝に取り次ぎ、黄帝から神様に奏上願わなければならない。

 閻魔大王は判じ場に金斗雲を呼んだ。

 ズズイっと金斗雲の霞みを分け入るようにして、金斗雲の中央部分にまで進む。

 判じ場の一方に構える金色門の方向に閻魔大王が顔を向けると、金斗雲が僅かに浮上する。閻魔大王の目線も少し上昇した。

 再びウムと閻魔大王が頷くと、音も無く、風に靡いたように金斗雲が進み出る。閻魔大王は、金斗雲の上に屹立したまま、金色門を潜った。

 金色門を潜ると、眼前には無数の輝きが集まっていた。大河を形成し、蛇行して遥か彼方まで続いている。

「成仏!」と宣託された亡者達は、金色門を潜ると光の輝きに変わってしまう。光の輝きの一つ一つは亡者の魂の化身だった。

 金色と白の中間色をした魂の輝きは、眩しくはなく、寧ろ優しい。魂の輝きは強くなったり、弱くなったりしている。個々の輝きは積み重なっているようでもあり、重複しているようでもある。揺れているようでもあり、コロコロと流れているようでもあり、小川の水面が光を反射させている風でもある。

 閻魔大王を乗せた金斗雲が光る大河の上を飛んで行く。

 猛スピードで飛んでいるはずだが、向かい風は全く起きていない。閻魔大王の放射状に伸びた頭髪も揺れず、モジャモジャとした顎鬚あごひげも微動だにしない。光る大河の蛇行が金斗雲の移動を知らしめるのみであった。


 時間の概念の無い世界で“しばらく”と言っても詮無い事ではあるが、しばらく金斗雲を飛ばし続けた後。

 横一直線に延々と伸びる巨大な城壁が、前方に見え始めた。城壁は見る見る内に大きくなり、間近に接近した時の城壁の高さは、大男の閻魔大王さえもが見上げる程である。

 城壁の上や麓に警護衛士の姿は無い。幟の類も全く無い。誰かを威圧する必要も無く、警戒する必要も無い。此処には安寧が有るのみである。

 静寂で荘厳な佇まいの建築物が金色の後光を放ち、雲海の中に建っているだけであった。全ての世界の中心である事が一目瞭然であった。

 金色に輝く大きな堀の様に、魂達の輝きが城壁の周囲を取り囲んでいた。

 金色の外堀が地獄から彷徨さまよって来た魂達の終着点なのだが、一見すると高低差のギャップから、逆方向に流れているのだと錯覚してしまう。輝く大河は一段と高い場所に在る外堀から流れ出し、地獄へと悠久の流れを紡いでいるとしか見えない。

 閻魔大王を乗せた金斗雲は、城門の一つに架かるアーチ橋の上を滑るように進んで行く。アーチ橋の下では、外堀が金色の輝きを湛えている。

 城門を通過すると、其処には外城が広がっている。

 外城の一面には、稲の如く、麦の如く、或いはススキの如き物がビッシリと生え、穂先の頭を揺らしていた。

 1本を子細に観察すると、先端は卵ほどの大きさで米粒の様な流線型。先端の大きな米粒を支えようと、細い茎が下に伸びている。地面に張った根が稲穂を支える風ではなく、空に浮かぶ風船の糸が下に垂れていると言う比喩の方がシックリする。

 米粒みたいな先端もまた金色に輝き、そして波間に浮かぶクラゲの様だ。流線型の先端が幾つも揺れる様を遠目に眺めると、黄色く稲穂の実った田圃を秋風がソヨリと撫でている様な趣が有る。

 薄く透き通る羽衣はごろもに袖を通した産女うめが、羽衣はごろもの裾を旗めかして優雅に飛んでいる。外城の至る処で何千何万と言う数の産女うめ達が縦横無尽に飛び回っていた。

 産女うめは一様に若い女性の姿をしており、健康的な裸体が羽衣に透けて見える。まるで春を迎えて咲き乱れる花園を飛び回るミツバチの様であった。

 産女うめ達の半数が手にしている物は柄の長い柄杓ひしゃく。柄杓で城壁の外を取り囲んだ大河の輝きをすくうと、外城まで舞い戻り、何も生えていない一画に蒔いていた。其の場にジィっと佇んでいれば、産女うめの蒔いた輝きが徐々に流線型の形を成し、糸を垂らし始める様を観察できるだろう。

 浄化された魂の最終形だった。糸を垂らした流線型に熟する事で、輪廻転生の準備が整う。

 輪廻転生の順番を迎えた魂を刈り取るべく、別の場所では別の産女うめ達が飛空していた。右手で稲穂に似た魂を摘み取り、糸を握った左手からは輝く流線型の先端が花束の様に垂れている。

 刈取りを終えた産女うめ達が向かう先は、内城に通じる城門である。

 閻魔大王を乗せた金斗雲もまた、遥か向こうに見える城門の一つを目指した。

 城門を潜ると、広大な内城エリアが広がっている。

 内城では、輝輪きりんと呼ぶ光輝く輪を頭頂部の少し上に浮かべた産女うめ達が別の作業をしていた。羽衣をまとった産女うめ達は、ほんの少しだけ地面から浮いた中空に思い思いの姿勢で寛ぎ、外城から運ばれて来た魂に何やら手を加えていた。

 海で遊ぶ幼児が作る砂山くらいに山積みされた魂の一つを手にすると、もう片方の手を竹で編んだ魚籠びくの如き容器に突っ込み黒い短冊を取り出す。黒い糸のもつれた束としか見えない短冊を、魂から垂れた金色の糸で結んだ。

 黒い短冊とつながった魂を片手で頭上に持ち上げ、輝輪の中にポトリと落とす。輝輪の上から放り込まれた魂が産女うめの頭にバサリと落ちる事はない。輝輪を通過する時に消えてしまっている。

 魂が輝輪の中に消える現象は輪廻転生が無事に済んだ事を意味した。短冊は魂が次に紐付くべき相手先。手紙の宛名書きに相当した。

 縺れた風に見えた黒い糸の正体は、梵字の文章。内城の更に奥。皇城に仕える菩薩達が宙空に書き連ねた梵字だ。紙や竹簡の類は無く、宙空に直接書かれた文字だけの存在だった。

 頭上に輝輪を浮かべた何千何万もの産女うめ達が、見渡す限りの場所に陣取り、一連の作業に没頭していた。

 或る者は座り、或る者は寝そべって、好き勝手な姿勢で作業を進めているが、全体として眺めると、紡績工場の女工哀史を思い浮かべないでもない。

 疲労や倦怠とは無縁の彼女達だったが、極楽にしては、少々シュールな光景だった。

 さて、極楽世界の中核である皇城は、中国の明・清王朝の皇帝が居を構えた紫禁城に似た城郭であった。建物全体が淡く金色に輝いている。

 皇城には午門、東華門、西華門、神武門の4つの城門があるが、閻魔大王を乗せた金斗雲は、真っ直ぐ午門に進んだ。

 皇城の主である黄帝は、神様のおわす紫禁星を背に鎮座している。紫禁星は神武門の方角にある。

 皇城内で菩薩達が黄帝に拝謁する際、神武門の方角に尻を向ける事は許されない。拝謁を終えた菩薩は振り向かずに、後退あとずさって退室するのが習わしであった。

 ちなみに、現世の古代中国では神様の事を天帝と呼んでいたが、キリスト教徒やイスラム教徒が崇める神様と同じ存在である。

 判じ場の金色門を潜ってから皇城に至るまで、極楽の空の色は宵の空、或いは明けの空の様であった。太陽が地平線に顔を出す直前の、少し明るいけれど、星々の姿を追いってはいない時間帯の空。仄かに赤い地獄の空とは違い、仄かに青黒い空であった。

 極楽の空には、ひときわ明るく輝く紫禁星が不動の位置を占め、紫禁星を中心に幾重もの白い円が波紋の様に重なっている。

 シャッターを開放した状態のカメラで星空を撮影すれば、北極星を中心とした同心円が幾重にも重なった写真が出来る。其れと同じ光景が夜空に広がっていた。

 地獄と同様、極楽の世界にも時間と言う概念がない。

 もしかして、紫禁星を中心とした星々は物凄く速い速度で回転しているのかもしれない。ただ、全てが静寂に包まれており、星空は止まっているようにしか感じられない。


 閻魔大王は午門を潜った処で金斗雲から降りた。黄帝の臣下たる閻魔大王は、皇城内では自らの足で移動しなければならない。閻魔大王に限らず、全ての臣下はそうするのが、決め事であった。木靴を鳴らして歩みを進め、太和門を更に潜り、太和殿に登庁した。

 太和殿の広い廊下を仙女せんにょ達が行き交う。

 羽衣はごろも越しに裸体の見える産女うめとは違い、仙女せんにょは羽衣の下に薄い襦袢じゅばんの如き着物を着ている。髪の毛も結っていて、簡素な櫛で留めている。

 極楽を形容する表現としては違和感が有るが、外城や内城と違って、太和殿の中には文明の香りが漂っている。其れも其のはずで、太和殿は極楽を運営する中枢であった。

 閻魔大王は行き交う仙女せんにょの1人を呼び止め、「謁見を願う」と大声で自分の来訪を伝えた。

 閻魔大王の姿を見間違う者は居ない。しかも、極楽を訪れる外部の者となれば、閻魔大王しか存在しない。

 閻魔大王に呼び止められた仙女せんにょは、ニッコリと上品な笑みを浮かべると、楚々と小走りに奥へと歩いて行った。羽衣はごろもを着ている仙女せんにょもまた、太和殿での浮遊は禁じられていた。其の分、余計に待ち惚けを食う事になるが、閻魔大王はジッと直立したまま間口で取次ぎを待っていた。

 しばらくすると、先程の仙女せんにょが戻って来て、「こちらへ」と閻魔大王を奥へと誘う。

 仙女せんにょは素足だ。埃や塵の無い極楽。足袋を履く必要も無い。音も無く廊下を据腰に楚々と摺り歩く仙女せんにょの後を、閻魔大王が大股でゆっくりと追い掛ける。床を打つ木靴がコツンコツンと靴音を鳴らす。

 廊下に沿っては無数の執務室が連なり、執務室の中では菩薩達が宙空に小枝の如き物で梵字を書いていた。

 輪廻転生の宛名書きである。

 菩薩達の執務室の最も奥まった部屋まで来ると、仙女せんにょは入口で拝礼した。閻魔大王を振り返り、笑みを浮かべる。入口で控えたままの仙女せんにょの脇を通り、閻魔大王が部屋の中に進み出る。

 部屋の奥では、宙空に浮かんだ蓮の花の如き台座の上で、釈迦が座禅を組んでいた。台座に座った釈迦は、起立したままの閻魔大王の顔を見上げる形になる。

「よう来られた、閻魔大王。久しいな」

 耳に心地良いバリトンの声で、釈迦が閻魔大王に挨拶した。

「ワシは、極楽には縁が無いからな」

「して、此の度は、の様な御用向きで?」

 閻魔大王は自分の袖の中をいじくり、菩薩達が書いていた梵字の短冊と似た物を取り出した。短冊を両手で戴くと、「此れで御座る」と釈迦の方に進み出た。

「ほう。地獄の普請ふしんか。地獄の者で普請を賄えるのか?」

「いや。ワシらでは無理だ。黄帝様より神様に奏上願わねばなるまい」

 釈迦は「そうか」と頷くと、少しの間だけ思案した。

 思案したと言っても、元々が細目なので、顔の表情は殆ど変わらない。熟達したポーカーフェイスである。何を考えているのか、そばに居る者には伺えない。

「閻魔大王よ。黄帝様は後三宮にいらっしゃる。私が案内するゆえ、黄帝様に謁見して行くか?」

「ワシが黄帝様に謁見しても構わぬのか? 黄帝様に謁見できるは、釈迦のみであろう?」

「閻魔大王が極楽を訪れるのは久しいしな。黄帝様も閻魔大王の顔を御覧になりたかろう」

 座禅を組んでいた足を解き、釈迦は蓮の花の台座から降りて、閻魔大王の目の前に立った。

 釈迦もまた閻魔大王と同じ位の大男。但し、ほっそりとした体躯なので、釈迦の方が小さく見える。

「では、参ろうか」と言って先導する釈迦に続き、閻魔大王は部屋を出た。

 太和殿の更に奥に建立された後三宮は黄帝の鎮座する建物である。極楽の中でも唯一、後三宮の周囲には庭園が広がっており、水の如き物が池を成している。

 池には蓮の葉が浮かび、庭園のあちらこちらでは梅や桃の如き樹木が花を咲かせている。目を凝らして眺めれば、池の水面には亀が頭を覗かせ、鶴の如き鳥が庭園を歩いている。

 後三宮では仙女せんにょの楽団が仕えており、琴、竪、胡弓、琵琶、三弦、方響、拍板など様々な弦楽器や打楽器が奏でられている。ゆったりとして優雅な調べの演奏を聞かせ、黄帝の心を安らかにするのだ。

 時には、仙女せんにょが舞いを踊る。此の時ばかりは、皇城といえども、羽衣はごろもを使った浮遊が許された。

 釈迦が閻魔大王を伴って赴いた時、黄帝は居室に1人で鎮座し、御簾みす越しに庭園を愛でていた。

 庭園の遠く向こうには崑崙山こんろんさんが望める。崑崙山こんろんさんとは黄帝を助ける七天女達が暮らしている山である。正確に言えば、七天女の内、旱魃姫かんばつひめだけは崑崙山こんろんさんとは別の場所で暮らしているが・・・・・・。

 黄帝の居室の中を伺う遥か手前から、釈迦と閻魔大王の2人は両手を前で組んだ腕の輪に頭を埋めている。廊下に目線を落した状態で、膝立ちしたまま歩み寄る。

「釈迦に御座います。此の度は、閻魔大王も拝謁させとう思います。どうか御許しくださいませ」

 と、釈迦が大声でお目通りを願い出た。

「ウム。許す。苦しゅうない。近う寄るが良かろう」

 野太くも皺枯しわがれた声音こわねで黄帝が許しを下した。

 釈迦と閻魔大王はハハァと畏まると、膝立ちしたままで更に進み出る。

「苦しゅうない。2人共、顔を上げるが良かろう」

「ハハァ」

 釈迦と閻魔大王は畏まって顔を上げる。

 但し、黄帝とは視線を合わせぬよう、少しだけ俯き加減だ。眼前で組んだ腕もほどかない。

「して、此の度は何用じゃ?」

「ハハァ」

 釈迦が右の掌で袖の中から短冊を取り出した。閻魔大王が持参した短冊を両手で掲げると、膝立ちのままで黄帝の足元まで近付く。

「此れにて、閻魔大王より地獄の普請ふしんが奏上されました。

 黄帝様におかれましては、是非とも、神様に御取次頂きますよう、切に願う次第でございます」

 短冊を黄帝に献上すると、釈迦は後退あとずさり、閻魔大王の左隣の位置に戻る。

「分かった。時宜を得て、神様にお願いしておこう。

 ところで、神様も極楽と地獄の様子は気に掛けるであろう。閻魔よ、地獄の状況は如何いかがか?」

 黄帝に地獄の業務報告をするとは予期していなかったので、閻魔大王はギョロリとした両眼を白黒させた。だが、替わり映えのしない日常である。「どうか?」と問われても、大した答えにはならない。

「ハハァ。全てが恙無つつがなく。

 ただ、現世での人間共の数が増えておりますので、かつてに比べて多忙にはなっております」

「ウム。其れは極楽でも同じじゃな。仙女せんにょ達もテンテコ舞いのようで、此の通り、ワシも放っておかれておるよ」

 思わぬ話題の転び様に、閻魔大王の左隣で、釈迦が「恐縮至極です」と詫びを入れた。

「苦しゅうない。釈迦を責めておるのではない。全ては自然の摂理であるからな。

 だが、其の様な結果になっておる事は、合わせて神様に報告しておこう」

 釈迦と閻魔大王が、異口同音にハハァと畏まり、頭を腕の輪の中に沈めた。

「ところでな。ワシもこんな感じなのでな、良い機会じゃ。娘の旱魃かんばつを訪ねようと考えていた処なんじゃ」

旱魃姫かんばつひめ?」

然様さよう。あの娘がるとな、此の池も干上がってしまって、如何どうようも無い。

 流石さすがに城郭周辺の魂の大河が枯れる事は無いだろうが、そうなっては一大事じゃ。

 だから、旱魃かんばつには寂しく係昆山けいこんざんにて独り暮らしをさせておる。偶に父親のワシが見舞ってやれば、旱魃かんばつの慰めにもなるだろう」

 未だ人間が存在せず、現世にも雲上人だけが存在した神代の時代。黄帝は蚩尤しゆうと現世の覇権を争ったのだった。

 蚩尤しゆうの身体は獣の体毛で全身を覆われており、首から上は大きな角を生やした水牛の様。手足に指は無く、替わりに牛の蹄を持っていた。尻からは牛の尻尾を生やしていた。様々な動物の姿かたちをした魑魅魍魎を従え、黄帝の指揮する軍と大きないくさを繰り広げたのだ。

 蚩尤しゆうは滅びたが、魑魅魍魎は今でも現世の夜陰に紛れてヒッソリと生き伸びていた。慈愛に満ちた黄帝軍は非力な魑魅魍魎まで根絶しようとはしなかったのだ。

 勝利を収めた黄帝軍は、現世を人間の世界と定めた神様の裁定に従い、自らに容姿の似た人類を創生した。黄帝軍は新たに創世した極楽に引き揚げた。

 加えて、地獄をも整備した。それまでは輪廻転生する人間が居なかったので、地獄は三途の川が流れるだけの存在だった。三途の川が流れていれば、動物達の輪廻転生は滞りなく営まれる。

 人間達の輪廻転生に備えて、閻魔大王の統べる地獄が創世された。大事業であった。

 仮に蚩尤しゆう軍が黄帝軍に勝利していれば、人類は生まれず、今とは違った現世となっていたであろう。動物達と魑魅魍魎の王国になっていたはずである。

 此の蚩尤しゆうとの大戦において、黄帝の娘である旱魃姫かんばつひめも従軍し、多大な戦果を上げたのだ。特に蚩尤しゆうが壊滅的な暴風雨を巻き起こして黄帝軍を遁走させようと企んだ際、暴風雨を霧散させる事で黄帝軍を勝利に導いた。言わば、旱魃姫かんばつひめは大立役者だった。

 ところが、旱魃姫かんばつひめの能力は余りに強力過ぎた為、黄帝を始めとする全ての雲上人が現世から引き揚げた時、自らは地獄と極楽の間に位置する係昆山けいこんざん蟄居ちっきょする事になったのだ。

「それでじゃ。閻魔よ。

 汝が地獄に戻る途中、係昆山けいこんざんに寄り路をして、旱魃かんばつにワシの訪問を知らせて貰いたいのだ。

 何なら、汝自身が旱魃かんばつの話し相手になっても構わん。旱魃かんばつも喜ぶであろう」


 黄帝からの直々の要請に従い、閻魔大王は、後三宮からの帰路、係昆山けいこんざんに立ち寄る事にした。

 係昆山けいこんざんは大きな奇岩が積み上がって出来た山である。山肌にも草木の類は生えていない。

 雲を貫く山頂には、1軒の小さな庵が建っていた。庵の脇には、決して枯れる事が無いと言われる永湧泉えいゆうせんが湧いている。

 此の質素な庵で、旱魃姫かんばつひめは独りで暮らしていた。茶を楽しんだり、胡弓を弾いて独り暮らしの寂しさを紛らわせている。

 時折は蟠桃園ばんとうえんで採集された仙桃が崑崙山こんろんさんから届けられた。鶴の如き姿をした青鳥せいちょうが仙桃を包んだ風呂敷を咥えて飛んで来た時に、母親の雲華婦人うんかふじんや幼馴染の七仙女せんにょ達からの伝言を諳んじてくれると、会話の様なものを楽しむ事も出来た。

 ただ、実際に庵を訪問する者は滅多に居なかった。

 そんな係昆山けいこんざんの庵を、主人の旱魃姫かんばつひめにとっては随分と久方ぶりの珍客として、金斗雲に乗った閻魔大王が訪ねて来た。

 庵に近付くと、胡弓の寂しい音色が漂って来る。音色に誘われる様に、閻魔大王は金斗雲を庵に向かわせた。

 白壁に赤い屋根瓦を乗せた小さな庵。扉も無く、四角い間口が開いただけの戸口。

 入口に降り立つと、

「御免!」

 と、閻魔大王は大声で自分の来訪を告げた。

 途端に胡弓の音色が途絶える。

 庵の中から、軽く身じろいだ時に発する衣擦れの音が聞こえた。閻魔大王の耳は地獄耳であった。

 椅子を立ち、小歩きに戸口まで近付く女性の気配。

 旱魃姫かんばつひめの姿を認めた時、閻魔大王は思わずハっと息を飲んだ。

 閻魔大王の胸の高さまでしかない小柄な身体は少女の様に華奢で、独り暮らしを余儀なくさせる程の強大な力を内に秘めていようとは、全く想像できなかった。

 細く整った眉毛の下にはつぶらな黒い瞳が輝いており、鼻筋は通っているけれども控え目で、其の下には決して大声を出しそうにない小さな唇が結ばれていた。

 雪の様に白い肌をしているが、頬だけがほんのりと紅潮している。初対面の大男を目の前にして、頬には恥じらいを、口元には軽い緊張を浮かべていた。

 戸口の陰に隠れるようにして顔の半分だけを覗かせ、閻魔大王を凝視している。

「ワシは閻魔大王と申す。黄帝様より言伝ことづてを預かりましたので、お伝えに参った次第」

 要件だけを短く伝えた閻魔大王は、無言で旱魃姫かんばつひめの顔を見下ろしている。

 沈黙が続く。女性との会話経験が無い閻魔大王には他に何を言えば良いか、想像すら出来なかった。

 女性の冷鬼に対しては失礼な物言いだが、冷鬼の事は部下として見ている。老婆姿の怠鬼や臭鬼においては、女性として見ろ――と言うのが無理難題であった。

 こう言う場合、手綱を引くのは女性である。

 言葉を続けようとする気配が閻魔大王に無いので、旱魃姫かんばつひめは小声で「どうぞ」と、庵の中に誘った。

 旱魃姫かんばつひめの衣装は、皇城に仕える仙女せんにょ達が着ている型苦しい襦袢じゅばんではなく、フワリと柔らかな感じのデザインである。シルク調の生地を加工した純白のネグリジェ衣装の上に、半透明の羽衣はごろもを被せている。

 衣装の裾から華奢な素足を覗かせ、旱魃姫かんばつひめが小股でゆっくりと歩く。旱魃姫かんばつひめが歩くたびに衣装がフワリと柔らかく揺れる。

 閻魔大王は無言で旱魃姫かんばつひめの後に続く。木靴の足音だけがコツンコツンと小さく響いた。

 庵の家財道具は黒光りのする円卓と椅子が2脚。外側に軽く膨らんだ円卓の華足けそくと椅子の華足の表面には雲を優雅にかたどった彫り物が施されている。

 他には小さな窯が有るのみである。窯の中では青白い炎が揺れている。庵を結んだ際、七天女の1人である雲華婦人うんかふじんが贈ってくれた、如何いかなる時でも消える事の無い永炎えいえんであった。薪は無い。

 極楽の住人もまた睡眠とは縁がない。従って、寝台に相当する家具は無い。


「ただいま、茶を淹れますゆえ、椅子に座って御待ちになってくださいな」

 と、物静かな鈴の様な声で、閻魔大王に着座を薦めた。

 旱魃姫かんばつひめは、壁に打ち付けられた棚から鉄瓶を取り、庵の外の永湧泉えいゆうせんで水を汲んで来た。水を満たした鉄瓶を窯の上に置く。

 お湯を沸かす間に、四角い茶器台を棚から円卓に移した。茶器台の格子状の上底に小さな茶碗を二つ並べ、鉄瓶の湯を掛けて暖める準備をする。

 旱魃姫かんばつひめは、閻魔大王とは少し距離を開けながらも、横に寄り添う様な位置に椅子を動かす。腰を降ろすと、背筋を伸ばし、吹き晒しの窓の外に視線を向けた。

 旱魃姫かんばつひめの横顔を不躾に眺める事に気後れした閻魔大王も、仕方無く窓の外に視線を転じる。2人して眺める窓の外には星空が広がっている。

 庵の下に広がる雲海から天空までの眺めを邪魔する物は何も無い。言い換えれば、眺めるべき物が何も無い。変化の乏しい場所であった。

 此処に比べれば、地獄は変化に富んだ処である。それでも退屈蟲が湧くのである。閻魔大王は旱魃姫かんばつひめの境遇を気の毒に感じた。

「お湯が湧くまでの間、一曲、奏でましょうか? 此処には胡弓しか有りませんが・・・・・・」

 旱魃姫かんばつひめも沈黙を気詰まりに感じたのか、伏し目がちに問うた。

「よろしく、お頼み申す」

 閻魔大王が無粋に一言だけ答える。密かに少し緊張しているのかもしれなかった。

 旱魃姫かんばつひめはスウっと椅子を立つと、棚から胡弓を取った。再び椅子に座る際、椅子を円卓から少し離れた位置に動かした。

 胡弓の胴を膝に乗せ、左肩に当てた棹の頭を左手で軽く抑えた。右手に持った弓を弦に当てる。

 空を舞う落ち葉の様に弓を左右に振り、物悲しい調べを演奏し始めた。

 濃淡のみで情景を描き出す水墨画の様な胡弓の調べが此の庵には合うと、閻魔大王は思った。旱魃姫かんばつひめの演奏に閻魔大王は瞼を閉じて聴き入る。

 演奏の途中から、鉄瓶がシュンシュンと遠慮勝ちな音を立て始めるが、旱魃姫かんばつひめは最後まで弾き通した。演奏を終えると軽く会釈し、また胡弓を棚に戻した。今度は椅子を素通りすると、窯から鉄瓶を取って来た。

 鉄瓶からお湯を注ぎ、茶碗を温める。お湯を茶器台に捨て、茶筒から茶を一掴ひとつかみずつ茶碗に入れると、またお湯を注いだ。茶碗に蓋をして中を蒸らす。頃合いを見て蓋を外し、茶椀の一つを閻魔大王の前に差し出した。

 閻魔大王は小さな茶碗を大きな掌でつかむと、ゆっくりと口元まで運ぶ。茶碗を軽く揺らし、鼻孔をくすぐる湯気の香りを楽しむ。

 茶碗の縁に軽く口を付け、唇を濡らすようにして一口含んだ。閻魔大王の顔に陶然とした表情が広がった。

 現世に行き、猛の身体を通じて味わった食事とは明らかに違う感覚だった。猛の身体で味わった食事が肉体の活力を得る仕草であるならば、旱魃姫かんばつひめの淹れた茶は心に活力を生むものだ。

旱魃姫かんばつひめの周りからは水と言う水が無くなると、聴いておりましたが・・・・・・」

「此れは永湧泉えいゆうせんの水です。永湧泉の御陰で、私には茶の楽しみが増えました・・・・・・」

 そう儚げに言うと、旱魃姫かんばつひめは窓の外の星空を見遣った。

 閻魔大王は右手に小さな茶碗を持ったまま、旱魃姫(かんばつひめ)の横顔に見入った。

――彼女を守ってやりたい。

 害を為す存在など極楽に居ないのだが、心の奥底からそう思った。

 そして、旱魃姫かんばつひめの寂しげな表情ではなく、笑顔を見てみたい――と、強く思った。こんな感情を抱くのは初めての経験であり、閻魔大王は自身の心の揺れに戸惑った。

「黄帝様が、旱魃姫かんばつひめを御訪ねして慰めてやりたいと、おっしゃっておりました」

 旱魃姫かんばつひめは視線を窓の外からゆっくりと戻し、閻魔大王の顔を振り返った。

 旱魃姫かんばつひめと見詰め合う閻魔大王の頬も少し紅潮する。照れを自覚すると、困ったように視線を彷徨さまよわせた。

「そうですか。其れは楽しみです」

「日頃、旱魃姫かんばつひめの話し相手はるのですか?」

「此の様な処ですから・・・・・・」

「・・・・・・時には、外を出歩いては如何いかがですか」

「迷惑になりますゆえ・・・・・・」

「寂しくはないですか?」

 寂しいに決まっている。旱魃姫かんばつひめは遠い目をして、また窓の外を眺めた。

「自分で奏でる胡弓の音色で、自分自身を慰めております」

 口ベタな閻魔大王には次なる話題を見付けられなかった。黙り込む。焦る気持ちで目玉をグルリと回すが、気を惹く話題は思い浮かばない。

 仕方無く、

「そのう、旱魃姫かんばつひめ。姫の胡弓を、もう少し、お聴かせ願えませんか」

 と、他力本願な御願いをした。

 旱魃姫かんばつひめがクスリと笑う。

 旱魃姫かんばつひめの笑顔を見ると、天にも昇る気分になった。2人の居る此処こそが正に天なのだったが・・・・・・。

 閻魔大王の頬が、もう少しだけ、赤みを増した。

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