6. 閻魔様の初恋
現世から戻った閻魔大王は、
血の池の上空に開いた現世との抜け口を塞いで貰うよう、
閻魔大王は判じ場に金斗雲を呼んだ。
ズズイっと金斗雲の霞みを分け入るようにして、金斗雲の中央部分にまで進む。
判じ場の一方に構える金色門の方向に閻魔大王が顔を向けると、金斗雲が僅かに浮上する。閻魔大王の目線も少し上昇した。
再びウムと閻魔大王が頷くと、音も無く、風に靡いたように金斗雲が進み出る。閻魔大王は、金斗雲の上に屹立したまま、金色門を潜った。
金色門を潜ると、眼前には無数の輝きが集まっていた。大河を形成し、蛇行して遥か彼方まで続いている。
「成仏!」と宣託された亡者達は、金色門を潜ると光の輝きに変わってしまう。光の輝きの一つ一つは亡者の魂の化身だった。
金色と白の中間色をした魂の輝きは、眩しくはなく、寧ろ優しい。魂の輝きは強くなったり、弱くなったりしている。個々の輝きは積み重なっているようでもあり、重複しているようでもある。揺れているようでもあり、コロコロと流れているようでもあり、小川の水面が光を反射させている風でもある。
閻魔大王を乗せた金斗雲が光る大河の上を飛んで行く。
猛スピードで飛んでいるはずだが、向かい風は全く起きていない。閻魔大王の放射状に伸びた頭髪も揺れず、モジャモジャとした
時間の概念の無い世界で“しばらく”と言っても詮無い事ではあるが、
横一直線に延々と伸びる巨大な城壁が、前方に見え始めた。城壁は見る見る内に大きくなり、間近に接近した時の城壁の高さは、大男の閻魔大王さえもが見上げる程である。
城壁の上や麓に警護衛士の姿は無い。幟の類も全く無い。誰かを威圧する必要も無く、警戒する必要も無い。此処には安寧が有るのみである。
静寂で荘厳な佇まいの建築物が金色の後光を放ち、雲海の中に建っているだけであった。全ての世界の中心である事が一目瞭然であった。
金色に輝く大きな堀の様に、魂達の輝きが城壁の周囲を取り囲んでいた。
金色の外堀が地獄から
閻魔大王を乗せた金斗雲は、城門の一つに架かるアーチ橋の上を滑るように進んで行く。アーチ橋の下では、外堀が金色の輝きを湛えている。
城門を通過すると、其処には外城が広がっている。
外城の一面には、稲の如く、麦の如く、或いはススキの如き物がビッシリと生え、穂先の頭を揺らしていた。
1本を子細に観察すると、先端は卵ほどの大きさで米粒の様な流線型。先端の大きな米粒を支えようと、細い茎が下に伸びている。地面に張った根が稲穂を支える風ではなく、空に浮かぶ風船の糸が下に垂れていると言う比喩の方がシックリする。
米粒みたいな先端もまた金色に輝き、そして波間に浮かぶクラゲの様だ。流線型の先端が幾つも揺れる様を遠目に眺めると、黄色く稲穂の実った田圃を秋風がソヨリと撫でている様な趣が有る。
薄く透き通る
浄化された魂の最終形だった。糸を垂らした流線型に熟する事で、輪廻転生の準備が整う。
輪廻転生の順番を迎えた魂を刈り取るべく、別の場所では別の
刈取りを終えた
閻魔大王を乗せた金斗雲もまた、遥か向こうに見える城門の一つを目指した。
城門を潜ると、広大な内城エリアが広がっている。
内城では、
海で遊ぶ幼児が作る砂山くらいに山積みされた魂の一つを手にすると、もう片方の手を竹で編んだ
黒い短冊と
魂が輝輪の中に消える現象は輪廻転生が無事に済んだ事を意味した。短冊は魂が次に紐付くべき相手先。手紙の宛名書きに相当した。
縺れた風に見えた黒い糸の正体は、梵字の文章。内城の更に奥。皇城に仕える菩薩達が宙空に書き連ねた梵字だ。紙や竹簡の類は無く、宙空に直接書かれた文字だけの存在だった。
頭上に輝輪を浮かべた何千何万もの
或る者は座り、或る者は寝そべって、好き勝手な姿勢で作業を進めているが、全体として眺めると、紡績工場の女工哀史を思い浮かべないでもない。
疲労や倦怠とは無縁の彼女達だったが、極楽にしては、少々シュールな光景だった。
さて、極楽世界の中核である皇城は、中国の明・清王朝の皇帝が居を構えた紫禁城に似た城郭であった。建物全体が淡く金色に輝いている。
皇城には午門、東華門、西華門、神武門の4つの城門があるが、閻魔大王を乗せた金斗雲は、真っ直ぐ午門に進んだ。
皇城の主である黄帝は、神様のおわす紫禁星を背に鎮座している。紫禁星は神武門の方角にある。
皇城内で菩薩達が黄帝に拝謁する際、神武門の方角に尻を向ける事は許されない。拝謁を終えた菩薩は振り向かずに、
判じ場の金色門を潜ってから皇城に至るまで、極楽の空の色は宵の空、或いは明けの空の様であった。太陽が地平線に顔を出す直前の、少し明るいけれど、星々の姿を追い
極楽の空には、ひときわ明るく輝く紫禁星が不動の位置を占め、紫禁星を中心に幾重もの白い円が波紋の様に重なっている。
シャッターを開放した状態のカメラで星空を撮影すれば、北極星を中心とした同心円が幾重にも重なった写真が出来る。其れと同じ光景が夜空に広がっていた。
地獄と同様、極楽の世界にも時間と言う概念がない。
もしかして、紫禁星を中心とした星々は物凄く速い速度で回転しているのかもしれない。ただ、全てが静寂に包まれており、星空は止まっているようにしか感じられない。
閻魔大王は午門を潜った処で金斗雲から降りた。黄帝の臣下たる閻魔大王は、皇城内では自らの足で移動しなければならない。閻魔大王に限らず、全ての臣下はそうするのが、決め事であった。木靴を鳴らして歩みを進め、太和門を更に潜り、太和殿に登庁した。
太和殿の広い廊下を
極楽を形容する表現としては違和感が有るが、外城や内城と違って、太和殿の中には文明の香りが漂っている。其れも其のはずで、太和殿は極楽を運営する中枢であった。
閻魔大王は行き交う
閻魔大王の姿を見間違う者は居ない。しかも、極楽を訪れる外部の者となれば、閻魔大王しか存在しない。
閻魔大王に呼び止められた
廊下に沿っては無数の執務室が連なり、執務室の中では菩薩達が宙空に小枝の如き物で梵字を書いていた。
輪廻転生の宛名書きである。
菩薩達の執務室の最も奥まった部屋まで来ると、
部屋の奥では、宙空に浮かんだ蓮の花の如き台座の上で、釈迦が座禅を組んでいた。台座に座った釈迦は、起立したままの閻魔大王の顔を見上げる形になる。
「よう来られた、閻魔大王。久しいな」
耳に心地良いバリトンの声で、釈迦が閻魔大王に挨拶した。
「ワシは、極楽には縁が無いからな」
「して、此の度は、
閻魔大王は自分の袖の中を
「ほう。地獄の
「いや。ワシらでは無理だ。黄帝様より神様に奏上願わねばなるまい」
釈迦は「そうか」と頷くと、少しの間だけ思案した。
思案したと言っても、元々が細目なので、顔の表情は殆ど変わらない。熟達したポーカーフェイスである。何を考えているのか、
「閻魔大王よ。黄帝様は後三宮にいらっしゃる。私が案内するゆえ、黄帝様に謁見して行くか?」
「ワシが黄帝様に謁見しても構わぬのか? 黄帝様に謁見できるは、釈迦のみであろう?」
「閻魔大王が極楽を訪れるのは久しいしな。黄帝様も閻魔大王の顔を御覧になりたかろう」
座禅を組んでいた足を解き、釈迦は蓮の花の台座から降りて、閻魔大王の目の前に立った。
釈迦もまた閻魔大王と同じ位の大男。但し、ほっそりとした体躯なので、釈迦の方が小さく見える。
「では、参ろうか」と言って先導する釈迦に続き、閻魔大王は部屋を出た。
太和殿の更に奥に建立された後三宮は黄帝の鎮座する建物である。極楽の中でも唯一、後三宮の周囲には庭園が広がっており、水の如き物が池を成している。
池には蓮の葉が浮かび、庭園のあちらこちらでは梅や桃の如き樹木が花を咲かせている。目を凝らして眺めれば、池の水面には亀が頭を覗かせ、鶴の如き鳥が庭園を歩いている。
後三宮では
時には、
釈迦が閻魔大王を伴って赴いた時、黄帝は居室に1人で鎮座し、
庭園の遠く向こうには
黄帝の居室の中を伺う遥か手前から、釈迦と閻魔大王の2人は両手を前で組んだ腕の輪に頭を埋めている。廊下に目線を落した状態で、膝立ちしたまま歩み寄る。
「釈迦に御座います。此の度は、閻魔大王も拝謁させとう思います。どうか御許しくださいませ」
と、釈迦が大声でお目通りを願い出た。
「ウム。許す。苦しゅうない。近う寄るが良かろう」
野太くも
釈迦と閻魔大王はハハァと畏まると、膝立ちしたままで更に進み出る。
「苦しゅうない。2人共、顔を上げるが良かろう」
「ハハァ」
釈迦と閻魔大王は畏まって顔を上げる。
但し、黄帝とは視線を合わせぬよう、少しだけ俯き加減だ。眼前で組んだ腕も
「して、此の度は何用じゃ?」
「ハハァ」
釈迦が右の掌で袖の中から短冊を取り出した。閻魔大王が持参した短冊を両手で掲げると、膝立ちのままで黄帝の足元まで近付く。
「此れにて、閻魔大王より地獄の
黄帝様におかれましては、是非とも、神様に御取次頂きますよう、切に願う次第でございます」
短冊を黄帝に献上すると、釈迦は
「分かった。時宜を得て、神様にお願いしておこう。
ところで、神様も極楽と地獄の様子は気に掛けるであろう。閻魔よ、地獄の状況は
黄帝に地獄の業務報告をするとは予期していなかったので、閻魔大王はギョロリとした両眼を白黒させた。だが、替わり映えのしない日常である。「どうか?」と問われても、大した答えにはならない。
「ハハァ。全てが
ただ、現世での人間共の数が増えておりますので、
「ウム。其れは極楽でも同じじゃな。
思わぬ話題の転び様に、閻魔大王の左隣で、釈迦が「恐縮至極です」と詫びを入れた。
「苦しゅうない。釈迦を責めておるのではない。全ては自然の摂理であるからな。
だが、其の様な結果になっておる事は、合わせて神様に報告しておこう」
釈迦と閻魔大王が、異口同音にハハァと畏まり、頭を腕の輪の中に沈めた。
「ところでな。ワシもこんな感じなのでな、良い機会じゃ。娘の
「
「
だから、
未だ人間が存在せず、現世にも雲上人だけが存在した神代の時代。黄帝は
勝利を収めた黄帝軍は、現世を人間の世界と定めた神様の裁定に従い、自らに容姿の似た人類を創生した。黄帝軍は新たに創世した極楽に引き揚げた。
加えて、地獄をも整備した。それまでは輪廻転生する人間が居なかったので、地獄は三途の川が流れるだけの存在だった。三途の川が流れていれば、動物達の輪廻転生は滞りなく営まれる。
人間達の輪廻転生に備えて、閻魔大王の統べる地獄が創世された。大事業であった。
仮に
此の
ところが、
「それでじゃ。閻魔よ。
汝が地獄に戻る途中、
何なら、汝自身が
黄帝からの直々の要請に従い、閻魔大王は、後三宮からの帰路、
雲を貫く山頂には、1軒の小さな庵が建っていた。庵の脇には、決して枯れる事が無いと言われる
此の質素な庵で、
時折は
ただ、実際に庵を訪問する者は滅多に居なかった。
そんな
庵に近付くと、胡弓の寂しい音色が漂って来る。音色に誘われる様に、閻魔大王は金斗雲を庵に向かわせた。
白壁に赤い屋根瓦を乗せた小さな庵。扉も無く、四角い間口が開いただけの戸口。
入口に降り立つと、
「御免!」
と、閻魔大王は大声で自分の来訪を告げた。
途端に胡弓の音色が途絶える。
庵の中から、軽く身じろいだ時に発する衣擦れの音が聞こえた。閻魔大王の耳は地獄耳であった。
椅子を立ち、小歩きに戸口まで近付く女性の気配。
閻魔大王の胸の高さまでしかない小柄な身体は少女の様に華奢で、独り暮らしを余儀なくさせる程の強大な力を内に秘めていようとは、全く想像できなかった。
細く整った眉毛の下には
雪の様に白い肌をしているが、頬だけがほんのりと紅潮している。初対面の大男を目の前にして、頬には恥じらいを、口元には軽い緊張を浮かべていた。
戸口の陰に隠れるようにして顔の半分だけを覗かせ、閻魔大王を凝視している。
「ワシは閻魔大王と申す。黄帝様より
要件だけを短く伝えた閻魔大王は、無言で
沈黙が続く。女性との会話経験が無い閻魔大王には他に何を言えば良いか、想像すら出来なかった。
女性の冷鬼に対しては失礼な物言いだが、冷鬼の事は部下として見ている。老婆姿の怠鬼や臭鬼においては、女性として見ろ――と言うのが無理難題であった。
こう言う場合、手綱を引くのは女性である。
言葉を続けようとする気配が閻魔大王に無いので、
衣装の裾から華奢な素足を覗かせ、
閻魔大王は無言で
庵の家財道具は黒光りのする円卓と椅子が2脚。外側に軽く膨らんだ円卓の
他には小さな窯が有るのみである。窯の中では青白い炎が揺れている。庵を結んだ際、七天女の1人である
極楽の住人もまた睡眠とは縁がない。従って、寝台に相当する家具は無い。
「ただいま、茶を淹れますゆえ、椅子に座って御待ちになってくださいな」
と、物静かな鈴の様な声で、閻魔大王に着座を薦めた。
お湯を沸かす間に、四角い茶器台を棚から円卓に移した。茶器台の格子状の上底に小さな茶碗を二つ並べ、鉄瓶の湯を掛けて暖める準備をする。
庵の下に広がる雲海から天空までの眺めを邪魔する物は何も無い。言い換えれば、眺めるべき物が何も無い。変化の乏しい場所であった。
此処に比べれば、地獄は変化に富んだ処である。それでも退屈蟲が湧くのである。閻魔大王は
「お湯が湧くまでの間、一曲、奏でましょうか? 此処には胡弓しか有りませんが・・・・・・」
「よろしく、お頼み申す」
閻魔大王が無粋に一言だけ答える。密かに少し緊張しているのかもしれなかった。
胡弓の胴を膝に乗せ、左肩に当てた棹の頭を左手で軽く抑えた。右手に持った弓を弦に当てる。
空を舞う落ち葉の様に弓を左右に振り、物悲しい調べを演奏し始めた。
濃淡のみで情景を描き出す水墨画の様な胡弓の調べが此の庵には合うと、閻魔大王は思った。
演奏の途中から、鉄瓶がシュンシュンと遠慮勝ちな音を立て始めるが、
鉄瓶からお湯を注ぎ、茶碗を温める。お湯を茶器台に捨て、茶筒から茶を
閻魔大王は小さな茶碗を大きな掌で
茶碗の縁に軽く口を付け、唇を濡らすようにして一口含んだ。閻魔大王の顔に陶然とした表情が広がった。
現世に行き、猛の身体を通じて味わった食事とは明らかに違う感覚だった。猛の身体で味わった食事が肉体の活力を得る仕草であるならば、
「
「此れは
そう儚げに言うと、
閻魔大王は右手に小さな茶碗を持ったまま、旱魃姫(かんばつひめ)の横顔に見入った。
――彼女を守ってやりたい。
害を為す存在など極楽に居ないのだが、心の奥底からそう思った。
そして、
「黄帝様が、
「そうですか。其れは楽しみです」
「日頃、
「此の様な処ですから・・・・・・」
「・・・・・・時には、外を出歩いては
「迷惑になりますゆえ・・・・・・」
「寂しくはないですか?」
寂しいに決まっている。
「自分で奏でる胡弓の音色で、自分自身を慰めております」
口ベタな閻魔大王には次なる話題を見付けられなかった。黙り込む。焦る気持ちで目玉をグルリと回すが、気を惹く話題は思い浮かばない。
仕方無く、
「そのう、
と、他力本願な御願いをした。
閻魔大王の頬が、もう少しだけ、赤みを増した。
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