5. 黄泉帰り

 木靴をコツン、コツンと鳴らしながら大股で歩く閻魔大王の後を、猛は小走りで追う。

 浄瑠璃鏡の脇を通り、階段を下りる。階段の踏み面の奥行きが広いので、閻魔大王の歩幅には丁度良いが、猛は池に浮かんだ石廊を渡るようにヒョイヒョイと軽くジャンプしながらいて行った。

 黄鬼達の鍛錬場に閻魔大王が到着すると、鬼達は作業を止め、直立して閻魔大王を出迎えた。

 閻魔大王は邪鬼達にも丁寧に、ウムと頷いて彼らの労を労った。鉄鋏を持った抜鬼ばっきや、窯の中を覗き込んでいた熱鬼ねっきの横を通る時には、片手を僅かに上げてウムと彼らに頷いた。

 ハンマーを手にした黄鬼の目の前に来ると、ようやく口を開いた。近付く閻魔大王のオーラを少し前から感じていた黄鬼は、ハンマーで咎人とがにん達の性根しょうねを叩く作業を止め、大きな金床の脇に控えて直立していた。

『黄鬼よ。大儀である』

 閻魔大王の労いの言葉に、黄鬼が軽く頭を下げる。

『汝の役務を邪魔立てして申し訳ないが、ワシは、少しの間、是奴こやつを連れて現世に行って来る。黄泉よみを使わせて貰うぞ』

 閻魔大王の言葉に、性根を水中から挟み上げる準備をしていた邪鬼達が「キキーっ」と言って、黄泉の周囲から離れた。

 黄泉の脇まで進むと、閻魔大王は猛の方を振り向き、

『猛とやら。今から汝の身体に入り込むゆえ、安静にしておけよ』

 と、言った。

 猛は、嘘だろう?――と思ったが、為すすべはない。ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 そんな猛の緊張を気にもせず、閻魔大王はギョロリとした双眸をカっと見開いた。気合いを入れる。

 閻魔大王と猛の間には小さな旋風つむじかぜが渦を巻き、霞みの様に薄くなった閻魔大王の身体は衣装と共に、猛の胸の中に吸い込まれて行った。

 猛の身体には痛みも圧迫感も何も感じられなかった。閻魔大王が入り込んで来たと言う肉体的な兆候は全く無かった。

 だが、直ぐに頭の奥で、

(猛よ。今から汝の身体をワシが操るでな。身体から力を抜くのだぞ)

 と言う閻魔大王の声が聴こえた。

 耳を通してではないので、心に響いたと言えば良いだろうか。

 猛の身体は勝手に動き始め、黄泉の水の中に足を踏み入れた。水面に水紋の輪が広がって行く。

 焦った猛は、思わず首を左右に振って嫌々と言う仕草をし、った顔で叫んだ。

「ちょっ、ちょっと待ってください。閻魔様。

 私、溺れ死んじゃいますよ。私は未だ死んでいないんですから」

(心配無用ぞ。ワシが乗り移っておるのだ。息が苦しくなったりはせん)

 猛の心配を他所に、首から下の胴体部分は黄泉の水面を進み出て、徐々に深みへと足を踏み入れる。水面が腰から胸へ、胸から首へ、首から顎へと上がって来る。

 黄泉の水が口や鼻から入る直前、猛は声にならない悲鳴を上げた。

 呼吸の動きに合わせて、鼻孔から入った黄泉の水が肺の中に浸み渡って行くのを感じる。冷たいとも温いとも感じず、ただ水の流れのみを感じた。息を吐き出すと、肺から鼻孔へと逆流する水の流れを感じる。

 不思議と息苦しくは無かった。必死で閉じた口を開け、口で呼吸してみたが、同じだった。

 猛の頭は水面下に没した。恐る恐る目を開けると、辺りは真っ暗闇だった。前方に微かな光明が浮かんでいる。

 猛の身体は光明に向かって歩みを進めた。水の抵抗は感じるが、泳いでいる風ではない。浅瀬を歩く際に足で感じる水の抵抗感が、全身で感じられると言えば良いだろうか。

 既に池の底を離れ、両足は何も踏んでいなかったが、それでも歩く事が出来た。泳いでいると言う実感が湧かない理由の一つだ。水がまとわり付いているが、歩くと言う表現がシックリ行った。

 そう遣って光明に向かって歩くに連れ、白い光の輝きは強くなる。仕舞いには眩いばかりであったが、閻魔大王に憑依された猛の身体は目を覆うでもなく、光の中に足を踏み入れた。

 天岩戸の如き光の壁を通り抜けると、猛の眼前には、・・・・・・自宅が有った。

「此処は、何処?」

(はて? 汝の家ではないのか?)

「いや。私の家です」

 いきなり自宅の前に戻ると、流石さすがに戸惑ってしまう。

 戸惑うと言えば、此の寒さ。Tシャツにジーパン姿の猛には、特に上半身が凍えそうだ。実際、腕には鳥肌が立っている。

 クシュンとクシャミをすると、猛は自宅玄関の引き戸を開けた。

「ただいま!」

 太陽の傾きから午後も少しばかり過ぎた頃だとは思っていたが、玄関から台所につながる短い渡り廊下が想像以上に薄暗い。ひっそりとしている。

 猛は玄関の三和土たたきで運動靴を脱ぐと台所に向かった。誰も居ない。

 2階に続く階段をミシミシ言わせて自分の部屋に向かう。Tシャツの上に何かを重ね着しないと、此の儘では風邪を引いてしまう。

 自分の部屋のドアを勢い良く開けると、猛の勉強机に座って涙ぐんでいる母親が居た。

 訳も分からず、ドアノブに手を掛けたまま、猛は固まってしまった。開いたドアに驚いた母親の方も同じらしく、ポカンと口を開けて猛を見詰めたまま、微動だにしない。

 そんな状態が数分間は続いたであろうか。

「ただいま」

 母親は口を開けたままだ。ただ、帰宅した猛の挨拶を聞いて、ゆっくりと右手で口を押さえた。

「あんた・・・・・・。生きとったんかい」

 猛は答えに窮した。

――地獄から戻ったとは言え、「生きとったんかい」とは、どう言う意味だろう?

「そりゃあ、死んじゃいないよ。・・・・・・当たり前だろ?」

 最後に「当り前だろ?」と付けたものの、猛には一抹の不安が有った。何かがおかしい。

 そんな猛の懸念を他所に、母親はワッと言って椅子から跳び上がった。猛の身体にしがみ付き、オイオイと泣き始めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。如何どうしたの、母さん? 何か変だよ」

 母親が泣きながら猛に説明をした処に依ると、今は12月初旬。猛が竜神バンジーで行方不明になってから4カ月以上もの時間が過ぎていた。

 精力的な捜索が行われたが猛の遺体は見付からず(其れはそうだろう)、既に猛の葬式も挙げたと言う。1階の居間には、改造した押入れに仏壇が据えられ、猛の遺影が飾ってあると言う。

(どう言う事?)

 猛は頭の中で閻魔大王に問うた。

(少々、連れて来る瞬間を間違えたようだのう。な~に、大した刻限のズレでは無かろう)

 閻魔大王が気安く答える。

 母親が涙を拭っているのを良い事に、猛は血相を変えて閻魔大王に食って掛かる。

(閻魔様! 俺にとっては、高校3年生の大事な時期だったんですよ!

 受験勉強もしなくちゃならなかったのに。ああ、これじゃ浪人が確定だあ~)

 地獄では大人しかった猛が取り乱す様子を前にして、閻魔大王も少々戸惑ったようである。

(猛。受験勉強とは何じゃ?)

(大学受験ですよ。入学試験に合格しないと、大学に入れないんです。合格する為には勉強しなくちゃ)

(学問の事か?)

(そうですよ)

 猛はムスっとした表情を浮かべ、頭の中で閻魔大王に投げ遣りな態度で答えた。

 涙を拭い終わった母親は、無言で直立したままの猛の様子に不審を感じたようだ。

「猛。どっか身体の調子が悪いの? 押し黙っちゃって。病院に連れて行こうか?」

「いや。心配しないで、母さん。大丈夫だから。

 受験まで間が無いって聞いて、ちょっと慌てただけだから」

「何、言っているの! 受験なんて、いつだって出来るんだから。

 あんたが無事に戻って来ただけで、母さんは十分嬉しいんだから。そうだわ! 父さんにも知らせなくちゃ!」

 母親はバタバタと慌ただしく階段を降りて行き、居間の受話器を手に取った。

 猛の部屋に静寂が戻る。早速、閻魔大王が話し掛けて来る。

(猛。さっきの話だがな。汝の人生を狂わすのは、ワシの本意ではない。

 どう対処すべきかを考えねばならぬが、問題の所在を、もう一度、教えてくれるか?

 汝の学力では其の大学とやらに入れぬのだな? だからこそ精進が必要だが、精進に必要な時間が残されていないと言うのだな?)

 否定しようの無い事実だった。自覚しているとは言え、他人から指摘されると少しムっとする。

(そうだよ)

(であれば、汝の学力を上げれば良いのだな? 学力と言っても、科挙に合格する知識の事だろ?)

 勉強不足の猛には「科挙」と言う言葉の意味が分からなかったが、閻魔大王の確認内容は概ね正しいと思った。

(そうです。でも、如何どうようも無いですよね)

 平常心を取り戻すと、頭の中とは言え、猛の言葉遣いも丁寧になる。

(そうであれば、科挙に臨む際、ワシと学鬼とで入れ替わろう)

(学鬼さんと?)

(そうじゃ。学鬼はワシよりも豊富な知識を持っておる)

(でも、学鬼さんは受験勉強にも詳しいのかなあ?)

(心配無用。学鬼の実力で叶わぬならば、出題者の頭を覗くまでの事。

 所詮は人間共の作る問題。ワシらに解けぬはずが無かろうが)

(でも、其れって、卑怯な手段を取るって事じゃないですか?

 其れこそ性根の曲がる様な行為だと思いますけど・・・・・・?)

(心配無用。汝は憑依されておるのだ。

 憑依された状態で何を体験しようとも、汝の性根には何ら影響せぬ。

 閻魔大王が言うのじゃ、間違いは無い)

 何だか論点がズレている様な気がしたが、大学受験に臨めるならば、猛に異存は無い。

(ところで、学鬼さんが憑依してくれるなら、の辺のレベルの大学まで合格できるのでしょうか?)

の辺のレベルとは? 大学とは一つではないのか?)

(たくさん有りますよ。ピンからキリまで。合格に必要な偏差値も、大学の人気度に応じて変わってきます)

(偏差値とは何だ?)

(まあ、平たく言うと、入学に必要な学力です)

(だったら、現世での最高学府を狙え。

 氾濫した三途の川にも転覆せぬ大船に乗った気持ちで、ワシに任せろ)

 現世の最高学府と言われても、猛には海外の大学に関する情報が無い。今からネットで調べてみても構わないが、外国語をマスターするのが大変そうである。

 そんな猛の逡巡に気付いたようで、閻魔大王が、

(言語の事は心配要らぬぞ。汝は既に鬼に憑依された身。たとえ鬼が抜け出ようとも、心で伝えあうすべは失われぬ)

 と、懇切丁寧に言い添えてくれた。

 学鬼が教えた通り、言葉には大した意味はない。少なくとも、頭の中で閻魔大王と対話する分には言葉が不要だった。

――さて、それでは海外の一流大学を目指すか?

 でも、海外で暮らすと成れば、生活費もかさみそうである。猛の家庭は決して裕福とは言えなかった。サラリーマンの父親が稼ぐ給料は、ごく平均的な所得水準だった。

――ここは地道に、千葉の実家からでも通学可能な大学にしよう。

 それでも・・・・・・と、欲が出る。

(それじゃあ、日本で最も優秀と言われる東京大学でお願いします!)

(良し。引き受けた。

 ところで、裕福とか貧乏とか、其れはどう言うものだ?)

 猛は金銭と言う物の存在を閻魔大王に説明したが、金銭を使った経験が無いだけでなく、買い物と言う行為をした事が無い閻魔大王には理解できなかった。猛は金銭の説明を諦め、後日、実地で説明する事にした。


 猛の黄泉帰りからの1週間。家の内も外もテンヤワンヤだった。

 まず、母親からの電話を受けて、父親が会社を早引けして来た。

 黄泉帰りした当日の夜は特上の寿司を出前で取り、クリスマスと正月が一緒に来た様な宴会だった。猛自身は未成年なので、父親と母親が酒を酌み交わし、上機嫌の赤ら顔をするのみである。

「父さん、母さん。俺、東京大学を受験するから」

 と、陽気になった両親に猛が宣言すると、「そうか、そうか」と明らかに本気にしていない風で喜んだ。

 ちなみに、素面に戻った両親を前にして翌日も同じ事を宣言すると、「お前、頭は大丈夫か?」と心配された。

 出前を待っている間に、母親が親類縁者に電話で猛の帰宅を報告する。猛自身も、竜神バンジーに一緒に行った友人2人、其れ以外のクラスメイト達や担任教師にも電話で自分が帰宅した事を伝える。受話器の向こうで絶句したり、素頓狂すっとんきょうな声を上げたりと、反応は様々だった。

 何人かは、当日の内に我が家を訪問し、猛の帰宅を直に確認して行った。担任教師は翌日の午前中に、大半のクラスメイト達は夕刻の下校時に立ち寄り、猛の無事を確認して行った。

 父親は翌日も会社を休み、市役所に行って死亡届の訂正方法を相談して来た。相談された戸籍課の職員も、「出生届を出してください」とも言えず、対応に困っていたそうだ。結論を言えば、家庭裁判所まで行く必要が有った。

 そんな騒動を耳聡く聞き付けた新聞社や週刊誌の記者達が、鬼頭きとう家に押し掛けるようになった。「神隠しに遭った少年」と言う小見出しで、ベタ記事が幾つか掲載された。都市伝説を特集するテレビクルーが訪れたタイミングは数カ月後の事だった。

 勿論、猛は地獄で見聞した事は伏せておいた。

 気付いたら自宅の前に居たと言う説明が簡単だったし、誰も地獄の存在を信じないだろう。神隠しに遭って気が触れたと後ろ指を差されるのがオチだとは、高校生の猛にも容易に予想できた。

 だからこそベタ記事扱いにしかならなかったと言う側面がある。

 此の間、閻魔大王は興味津々の体で、猛の目を通して人間社会を観察していた。様々な友人知人の相手をしなければならない猛に遠慮して殆ど黙っていたのだが、夜、ベッドに入ると頭の中で語り掛けて来る。

(汝のまばたきは忙しないのう。そんなに頻繁に開け閉めせねばならぬものなのか?

 視界が遮られて、落ち着かぬのう)

 瞬きをしない閻魔大王にとっては当然の反応だった。閻魔大王が目を閉じるのは寝る時だけだ。それも瞬きと言う一瞬の間だけだ。だから、

(汝ら人間と言う者供は、かくも長きに渡って目を閉じているのだなあ。

 あんなに眠っていて、限られた人生の時間が勿体無いとは思わぬのか? 永遠の天寿を有するワシでさえ、あの睡眠時間の長さは勿体無いと感じるのに・・・・・・。

 それに汝が眠っている間、ワシは暇で仕方無い)

 と言う嘆息を、黄泉帰りから数日が経った朝、猛に訴えて来た。

 瞬きも睡眠も自然な生理現象なので、(そう言うものなんですよ)と、猛は苦笑するしかなかった。


 猛が起きている間、閻魔大王が全く語り掛けて来なかったわけでもない。

 食事が閻魔大王にとっては初めての経験だった。

 母親の料理を口に運び、咀嚼そしゃくする度に、

(舌で感じる、此の感覚は何と表現しているのだ?)

 と、頭の中で何度も質問する。

 質問される度に、猛も頭の中で(其れは辛い)、(其れは甘い)、(其れは塩っぱい)と教えて遣った。次第に閻魔大王も、(此れは辛いと甘いが微妙に混ざった味だ)とグルメ評論家みたいなコメントを口にし始めた。

 猛が(勘弁してください)と懇願したのは、トイレでの出来事だった。

 閻魔大王は食事を摂った事が無いので、当然ながら排泄行為とも縁が無かった。

 小便の時には、

(此の突起部分は、其の様に使う器具であったか!)

 と、煩かった。

 ずっと後になって確認した処では、閻魔大王の身体にも突起物は付いているそうだ。ただ本人は、生まれてからずっと、突起物の存在を不思議に思っていたそうである。

 困ったのが大便の時で、便座に座って大便を捻り出した際、

(何じゃ?!、得体の知れぬ快感と共に尻の穴からいずる物は!)

 と、閻魔大王が立ち上がりそうになったので、猛は自分の身体を慌てて便座に座り直させた。

 其の後、大便を洗い流しもせずに、

(汝ら人間の身体の中には此の様な物が詰まっているのか?)

 と、驚いてはジックリと茶色い物体を観察し、挙句の果ては、

の様な感触なのだ? 少し触ってみても構わぬか?)

 と、便器の中に指を伸ばそうとしたので、猛は慌てて制止した。

(これまで身体の中に有ったのだから、今さら触ったとしても何ら差し障り有るまい?)

 理路整然と疑問を呈するが、厭なものは厭であった。


 騒動が過ぎ去り平穏な日々が戻ると、閻魔大王は「猛に外出しよう」と頻りに催促し始めた。家の中に居ても変化に乏しいのだから、閻魔大王の気持ちは理解できる。

 猛自身は閻魔大王に東京大学合格を約束して貰った気軽な身だけれど、他のクラスメイト達は受験勉強の真っ最中だ。邪魔する事も出来ないので、仕方無く、猛は独りで都心まで電車で出て、街中をブラブラする。

 街中はクリスマス商戦のイルミネーション一色である。

(クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う行事なんだよ)

 と、猛が閻魔大王に教えると、

(最下位の序列の菩薩を特に祝うとは、不思議な事をするなあ。菩薩達を統べる釈迦の生誕も祝うのか?)

 と、閻魔大王が質問して来る。

(俺は聞いた事が無いなあ~)

 と、猛が自信無げに返事する。

(此の世ではイエス・キリストの方が釈迦より身近なんだな)

 と、閻魔大王が感想を言うので、

(でも、葬式は仏教式が多いけどね・・・・・・)

 と、猛が軽口を叩くと、閻魔大王は少々混乱したようだ。

(それでは、イエス・キリストとしてではなく、聖徳太子として祝うのが筋だろう? 此の国での生れ変りなんだから)

 と、閻魔大王が追及する。

(いやあ、聖徳太子がイエス・キリストの生れ変りだと知る人は居ないよ)

 と、猛が解説すると、閻魔大王は益々混乱していた。


 そんな珍問答を繰り広げながら街中を歩いていたのだが、閻魔大王が最も関心を示した物は金銭であった。

 猛がファーストフード店でハンバーガーを注文する時、受付の女の子に渡した代金を凝視していた。猛が目線を動かそうとしても動かなかったので、どれほど閻魔大王が関心を示したのかがく分かる。

 手渡されたハンバーガーセットの御盆を持ってシートに着席した際も、早速、矢継ぎ早に質問して来た。

(先程の紙切れが、金属の並ぺったい物と此の食べ物に交換されるのか?)

(紙切れは紙幣、金属の方は硬貨と呼ぶんですよ)

(お互いに物々交換すると言うのは理解できるが、どう考えても、紙幣とやらの価値が最も小さそうだ。

 あの女子おなごは、何故なにゆえ、価値の小さい紙幣と価値の大きい硬貨や食物を物々交換するのだ?

 損得勘定と言う知恵が少し足らんのか?

 れ者の弱みに付け込むようでは、人間共の性根は曲がる一方だな)

(いやいや、等価交換になっているんです。

 一見すると、紙幣の価値が小さいように感じますが、それだけの価値が有ると全員が信用しているんです)

(信用? 何を根拠に信用しているのだ?)

(日本政府が紙幣を印刷していますから)

(フ~ン。しかし、誰かが信用しなくなったら、どうなるんだ?)

(そんな事は有りませんよ。小学校に上がる前の小さな子供だって、紙幣の方が価値の大きい金銭だって、知っています。

 だって、紙面にゼロの多い数字が印刷されていますから)

(日本政府と言う奴は、好きなようにゼロの数を増やしたり減らしたりして印刷できるだろうに。

 人間は皆、紙幣の1枚1枚のゼロの数を確かめてから、物々交換に臨むのか?)

(そんな事はしませんよ。全面的に日本政府を信用しています)

(フ~ン。人間とは相手を信用する生き物なんだなあ。

 でも、それなら何故なにゆえ、性根が曲がってしまうのだろう?)

 閻魔大王は腕組みして悩み始めた。

 深く悩んでいたからなのか、猛は腕組みした自分の腕をほどく事が出来ず、目の前のハンバーガーを眺めているだけである。


 金銭を介した買い物なら未だしも、クレジットカードを使った買い物については、閻魔大王の理解を完全に超えていた。

 猛自身はクレジットカードを所持していないが、デパートに足を踏み入れた時に、何処かの御婦人がクレジットカードで買い物をしている現場を目撃したのだ。

(猛! あれを見よ。あの女子おなごは金銭を渡さずに、物を受け取っているぞ。あの相手の女子おなごは可哀そうに、完全に頭がおかしくなっているぞ)

(いやいや。あれはクレジットカードと言う物です)

(クレジットカード?)

(あのクレジットカードを機械に通しているでしょ。あの操作で、おばさんの銀行口座からデパートの銀行口座に貯金が動くんです。

 だから、しっかり代金を払った事になるんです)

(銀行口座? 貯金?)

(ええ。日本人は必要以上に金銭を持ち歩かないんです。泥棒に盗まれるかもしれないし・・・・・・。

 其の替わり、銀行に預けておくんですね。

 銀行に預けた金銭を貯金。貯金を保管しておくバーチャルな財布みたいなものを銀行口座と呼ぶんです)

(やはり盗人は今でもるんだな。だが、盗人の事は警戒するのに、日本政府とやらは信用するのか?)

(国ですからねえ。国を信じないと、何も始まりませんよ)

(日本政府とは聖人君主の集まりなのか?)

 中々難しい質問である。

 政治家を聖人君主だと言う日本人は1人も居ない。少なくとも、猛は会った事が無い。

(いえ。聖人君主ではないみたいです)

(それなのに何故なにゆえ、人々は信用するのだ?)

 今度は自らの意思で、猛は腕組みをして考え込んだ。


 現世に戻って来てから約2週間が過ぎた頃。

 現世への興味は尽きないものの、猛と直接遣り取りしても理解の進み具合が今一つである事と、睡眠中の手持無沙汰に根を上げた事から、閻魔大王は地獄に戻って行った。

 替わりに遣わされたのが学鬼である。

 学鬼に課された使命は、猛に憑依して大学受験を手助けする事。付随的な使命は、学鬼自身が現世の社会の仕組みを理解して、地獄に戻ってから閻魔大王に講釈する事であった。

 現世を訪れた経験の無かった学鬼は、閻魔大王からの指示を喜んで引き受けた。百聞は一見に如かず。

 溢れんばかりの探究心を胸に、学鬼は猛に乗り移って来た。自分が黄泉に潜った直後の瞬間を狙って地獄に戻りさえすれば、動物の亡者達を相手にした教育活動が滞る事も無い。

 博識な学鬼にしても、食事と排便に対する反応は閻魔大王と同じであった。其れ以外については、閻魔大王に比べると、かなり冷静だった。

 学鬼は持ち前の冷静さで以って、猛が顔面蒼白となる事実を告げた。

(猛君。君に一つ、重要な事実を伝えなければならない。心して聴いて欲しい)

(はい)

(残念ながら、私には君らが使う文字を判読できない)

(えっ!? 心で相手の言いたい事を理解できるって、おっしゃっていたじゃないですか!)

(ウム。面目無い。でも、紙には心が無いからね)

(それじゃ、受験は無理じゃないですか。答案用紙とにらめっこですよ。誰も話し掛けて来ませんよ)

(ウム。ただ、対処の方法が無いわけじゃない。

 受験当日、君が心の中で問題を読み上げるんです。そうすれば、私は問題を理解できる)

(それじゃあ、答案用紙に書き込む時は?)

(君が想像する通りだ。私が言う答えを、君が、君らの使っている文字で書き連ねないといけない)

(そうすると、私が問題を読み上げるスピードが重要になってきますね)

(中々理解が早いね。其の通りだ。だから、読み上げる練習は避けて通れない)

 残念な指摘だったが、他のクラスメイトが取り組む受験勉強に比べれば、遥かに恵まれている。

 猛は、遅ればせながらの受験勉強に取り組み始めた。受験勉強とは言い難かったが・・・・・・。

 まずは、高校1年生の時からの教科書を全て音読した。一度だけ。二度は必要無い。

 学鬼は、猛が読み上げる音声を1回聞いただけで、全ての記載内容を理解してくれた。どもったり突っ掛って巧く朗読できなくても、聡明な学鬼には問題なかった。

 並行して毎日、新聞も一面から最後の面まで全てを音読した。受験勉強の一環だからと、猛が新聞を読み始めたので、父親が「それならば日本経済新聞だ」と、新たに定期購読してくれた。

 新聞読みも加わって、猛自身が時事ネタに詳しくなった。門前の小僧、習わぬ経を読む、である。

 一方で、学鬼の方も目覚ましい進歩を遂げた。1カ月余りの猛の音読に付き合った結果、文字でも日本語を理解できるようになった。ただ、完全ではない。

 だから、受験当日には、やはり猛の黙読が必要であった。

 東京大学にしておいて本当に良かったと、猛は胸を撫で下ろしていた。はたから聞いていると贅沢な物言いだが、閻魔大王の口車に乗って海外の一流大学を受験していたら、身の破滅を招いていた。

 よしんば、万が一、合格したとしても、英語のビッシリ詰った教科書を相手に勉学するなど、不可能だった。絶対に卒業できるわけがない。

 そんな、ちょっとした苦労を経験して、猛は1月下旬のセンター試験に臨んだ。

 志望校ではないが、会場とされた近所の大学構内の大講堂で、他の受験生と一緒に着座する。学鬼が憑いているとは言え、流石さすがに緊張する。

 机の上に置かれた袋綴じの問題用紙とマークシート方式の回答用紙。

 試験官の「始め」の合図で袋綴じの一辺を破る。1問目から問題文と選択肢となる回答群の黙読を開始する。読み終わると、即座に学鬼が答えを頭の中でささやく。

 制限時間をかなり余らせた時間に全ての回答を終えた。

 さて、此処で新たな問題が生じる。

 学鬼がささやいた回答は満点のはずであった。猛に確証は無かったが、そのはずであった。

 全科目が満点だと不正行為を疑われ兼ねないので、幾らかはワザと間違えなければならない。不正解な回答をする問題の選択は猛に委ねられていた。

 学鬼からは、

(君自身が難しいと思う問題から、誤った選択肢に書き換えておくれ)

 と言われていたが、猛にとっては全ての問題が難しい。

 しかも、どれだけ間違えれば良いのかの匙加減がサッパリ分からない。

 間違え過ぎては元の黙阿弥である。だから、間違う箇所は少なくしたい。

 一方で、点数が良過ぎても疑われるのだが、学鬼の回答結果が本当に満点なのか?――も疑い始めればきりが無かった。

 周りの受験生とは違った意味で、猛は冷や汗を流していた。

 こう遣って、国語、数学、英語、日本史、政治・経済、生物、地学とセンター試験に向き合って行った。

 受験して分かった難点が英語のリスニングだった。

 英語に関しても、猛は教科書を音読しただけだ。発音に関する問題については、学鬼もお手上げだった。猛の怪しげな発音で音読されても、正しい情報が学鬼に行き届いていなかったからだ。

 だから、運を天に任せてマークシートを黒塗りした。

 大船に乗った気分は微塵も感じない猛であったが、結果を先に言えば、センター試験を無事に通過する事が出来た。東京大学の受験に道が拓けたのだった。

 センター試験から本番の東大受験日までの1カ月半。

 英語に関しては、両親に頼み込んで、東京の本屋に並んだCD付きの参考書を全て買い漁った。インターネットでも、文章と同時にネイティブの発音が流れる英会話サイトに片っ端からアクセスした。

 英語だけではない。

 社会と理科に関しては、分厚い参考書を買い込んで、一度切りだったが、最初から最後まで音読した。

 数学だけは、(万国共通だから、私に任せておいてくれ)と言う学鬼の太鼓判に甘えて、一切の勉強を放棄した。

 国語は、古典を中心に参考書を音読した。

 結構、疲れた。睡眠時間も人並みに短かった。

 だから、東京大学の本郷キャンパスに貼り出された合格発表を見に行った時、自分の受験番号を見付けた猛は思わず涙ぐんでしまった。

――努力が報われて良かった・・・・・・。

 周囲の受験生が真相を知れば、怒り出す様な努力に過ぎなかったが・・・・・・。

 こうして猛は、東京大学の経済学部に入学する事になった。

 経済学部を専攻した理由は、金銭に関する閻魔大王の質問攻めに考え込む事が多かったからである。

 元々、勉強が好きなタイプではなかったし、他の専攻科目には全く興味が湧かなかったと言う消去法的な選択でもあった。

 とは言え、れっきとした東大生である。4月からは教養学部の駒場キャンパスに通う事になる。

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