第52話 うまく言えない

 チェリカは傷一つ無い自分の耳をそっと撫でると、トアンにペコリと頭を下げた。

「お礼なんていいよ、チェリカ。オレは君の傷を治してあげたかっただけだから」

 ぶんぶんと手を振ってトアンが言うと、チェリカは笑いながら顔を上げる。青い瞳を優しげに細めると、ふいに首を回して周囲を見渡す。

「……トアン、私気づいてるよ」一歩踏み出したチェリカがトアンの耳元で囁いた。

「魔力が削られたせいで詳しくはわからなかったけど……誰か来てたね?」

「──うん。ゲルド・ロウがいた」

「ゲルドが?」

 顔を離し、不可解そうに眉を寄せてチェリカが呟いた。トアンが一歩下がると、チェリカはすぐさま踏み込んでくる。距離も取れたことだし小声でのやりとりなので、何か考え込んでいるルノには聞こえていないだろう。トアンはルノの様子をよく確認してから続ける。

「……でも、よくわからないんだ」

「何が?」

「あいつの目的が」トアンは一度言葉を区切ると自分の手を見つめた。即座に斬りかかったこの掌──あの時の自分が今思うと少し怖い。

「オレはさ、ルノさんを殺しに来たのかと思ったけど、なんか違うみたいで」

「違う……? 私はよくわからないけど」

「ごめん、オレ頭に血がのぼってて、全然考えとか浮かばなくて……でもルノさんが狙いならもっと手っ取り早い手段があったと思うんだよ」

「……そう。ねえ、トアン」口元に手を当てたチェリカの問いかけに首を傾げると、チェリカは真摯な瞳でトアンを見て、そっと笑った。

「あとでもう少し詳しく話そう? ……ゲルドのことはよくわからなかったけど──私も、私もね? 『もうひとり』のこと感じたんだよ」


 ピュトの森を後にしたトアンたちは、幸運にも馬車を拾い、その日のうちに港町ラッセタに戻ってこれた。高級なホテルではないが海が見渡せる高台の宿をとり、新鮮な魚介類を使った食事を楽しんで、食後に輪になってセイルが買ってきたトランプをしていたところだ。

「また俺様の負けー?」

 うーとうなりながらセイルが手札をバラバラと落とした。それを聞いてトアンは胸を撫で下ろす──このターンでセイルが詰まらなければ、トアンに黒星がついていたのだ。

「罰ゲームだよ、セイル」

「痛いのはもうヤなの……」

「だーめ」

「いぎゃぁああ──!」

 チェリカがころころと笑いながらセイルの足をひっぱり、ピンポイントで指圧をお見舞いした。可哀想なことにセイルはすっかり涙目で、床をバンバンと叩いている。

「トトォー、トトォー! 俺様死んじゃう、助けてぇええ」

「兄ちゃん……」

 ふっと優しい笑みを浮かべたトト──今回の一位が気遣わしげにセイルの頭を撫でる。しかし決してチェリカを非難しないところに、トアンはトトの黒さを見た気がした。

「あううー痛いのぉ!」

「ごめんね、罰ゲームだもの……でも兄ちゃん、兄ちゃんは強いよね? 大丈夫だよね」

「……う。チェリカ」

「ん?」

 小さな足でセイルの腰をプニプニともんでいたチェリカが首を傾げる。セイルの苦痛の声はかなり落ち着いてきていた──トアンは少し羨ましいと思ったりしつつも、成り行きを見守る。

 セイルは決意を固めた顔で肩越しにチェリカを見つめ、キッと眉を寄せて言った。

「もっと強くして、俺様、平気よ!」

「お? ううん、よく言ったねセイル。じゃあ……遠慮なく。トト、そうそうそれ取って」

「……ギャァアアア──!!」

 チェリカはセイルの腰の上に跨るとトトに手を差し伸べる。トトは壁にかけてあったチェリカのマントから最近はちっとも使われていない短い杖を取り出すと、チェリカの掌へ握らせる。それでチェリカは問答無用でセイルの足ツボを押したのだった。

(かわいそうだなぁ……)

 トアンは気の毒に思いながらも、そっと口の端を持ち上げて苦笑すると散らばったトランプを片付けた──ふと手が止まる。

 

 ──キングのカード。


 王。王様。ベルサリオの頂点に君臨していた、鋼の翼を持った竜ゼロリード。そしてその子供として生を受けた、『シアング』という存在。

 トアンは端整に描きこまれた絵柄を見つめながら、今は部屋にいないルノのことを考えた──ルノは、既にこの部屋に居ない。トランプが始まる少し前、風に当りたいからという理由で部屋を出て行ってしまったのだ。

 トアンは、引き止めることができなかった。理由はチェリカが動かなかったからだ。

 今の自分の力では、思考の海に沈んでいるルノを傷つけてしまうかもしれない。夕食のときのルノにほとんど変化は見られなかったが、それでも手が時折止まったり、話を聞いていないことが数回あったのも確かな話である。


 トアンはしばらくそのまま動かないでいたが、拳を握り締めるとトランプを綺麗にに整頓して箱に戻し、チェリカに声をかけた。

「なあに?」

 セイルをいじめるのに夢中になっている彼女の声は弾んでいた。ああーとかあうーなどのセイルの悲鳴の中で、キラキラと輝いてトアンの耳に届く。

「──森の奥で起こったことなんだけどさ」

「……うん」

 トアンの言葉を聞くなり、ぱっとセイルの体を解放すると、チェリカはトアンの正面に座り込んだ。一度瞬きして、開く。するとあどけなかった表情が引き締まり、真摯な瞳に変わった。トアンは足を崩して胡坐をかく。セイルとトトも寄ってきた。

「オレたちは、シアングに会ったよ」

「──トアン!」目を丸くするトトと俯くチェリカの横で、セイルが噛み付くように叫んだ。

「トアン、俺様が違うって言ったら違うの! トアンの考えもわかるけど、チェリカやトトにはわかるように説明しなきゃ、あいつをシアングだなんて呼んじゃダメッ!」

「……でもセイル。私も少しだけ感じたんだよ? あんな純粋で研ぎ澄まされた雷の力を持つの、君かゼロリードか……あとはシアングしか考えられないよ。一族制だけど、今はその三人しか居ないでしょう」

「──親戚は、いることはいるの」

「違う、そういう意味じゃない。雷鳴竜としてのあの独特の力を持つのは三人だけってこと。間違ってないよね?」

「……あう」

 人差し指を立てたチェリカの表情は怒ってなどいない。しかしセイルは畏怖を感じた犬のように項垂れ、けれどもトトに助けは求めなかった。

 トアンは一拍置いてから口を開く。

「魔力のことはオレにはわからないけど……外見も髪の長さも仕草もなにもかも、オレにはシアングにしか見えなかった。瞳の色も金だったし──それに、本人に敵意があったのかどうかはわからないけど、命令されてオレには手をあげても、ルノさんのことは守ってたんだ」

「お兄ちゃんを、かぁ……セイルのその自信は」

「俺様、『影抜き』だもの」チェリカの語尾を奪って、セイルが呟いた。

「俺様はあいつの影。元々が逆だしても、今の俺様は影なの。どんなに離れても心の一部が見えない線で繋がってる……シアングが死んだあの瞬間、俺様はそれが引き千切られるのを確かに感じたのよ。あれ以来、俺様は還る場所も、線の先もなくしたまま。もし、もしあいつが生きているんだとしたらよ? 俺様にそれがわからないはずはないの──……」

 

 ──間違えないために、と森の中でセイルは言った。

 けれどもそのセイルの口から綴られる真実は、トアンの希望もセイル自身の淡い期待も打ち砕くものなのだ。

 それは何度も口にするセイルが、きっと一番辛いこと。トアンにも痛いほど伝わってくるセイルの嘆き。

「……一体何者なんでしょうね、リングさんは」

 黙って話を聞いていたトトがポツリと呟いた。トアンははっとしてトトを見る。未来からきた彼なら、何か関係する記憶を持っているのかもしれない。

 けれども、トトはトアンの願いを先読みしたように首を横に振ると、そっと微笑んでみせるだけだった。

「駄目です」

「……そっか。記憶にはないか」

「でもトアンさん。確実にそのリングさんには、また会いますよね。オレたちがゲルド・ロウを追う限り、その僕として忠誠を使うリングさんには、絶対にまたぶつかる。その時に話ができるはずです」

「それは確かだけどさ。でもオレ、どうしたらリングと話ができるかわかんないんだよ。あのヒト、ルノさんには心を開いてたみたいだけど……」

「じゃ、お兄ちゃんだね」

 ポンと手を叩いてチェリカが言った。

「チェリカ……? ルノちゃんが、どうなの?」

「うん、だからお兄ちゃんにやってもらうの。信用されてるなら会話くらいできると思うよ」名案だ、とでも言うようにチェリカは胸をはって見せたが、ふと顔を曇らせて小さく眉を顰めた。どうしたの、とセイルが尋ねると、首を傾げながら呟く。

「お兄ちゃん、シアングのことわからないんだよね」

「そうみたいよ。俺様のこと見ても、普通だったもの」

「……だからリングのことも知らない。リングがどれほどシアングに似ているか私にはわかんないけど、そんなリングの傍にいてもお兄ちゃんは記憶を取り戻すことはなくて、だからパニックにならなかった」

「何か思い出しそうなものですけどね」

「うん……」

 口篭るチェリカの横顔は何かに迷っているようだった。トアンは少しだけ考えてから、できるだけ真っ直ぐな声で問う。

「何か知ってるの?」

「……確信はできないけど」

「教えて! オレ、知りたいよ!」

 いつもより強い口調に、トアンを見返すチェリカの瞳がまんまるになった。一泊置いて、チェリカは静かな声で言う。

「誰かに優しくされた記憶っていうのは、体とか心の奥が覚えているものだと思うの。シアングとお兄ちゃんの絆は、プッツリと切れるものなんかじゃない。いくら心が少しだけ壊れてしまっても、完全に忘れれられるわけはないんだよ」

「……でも、言い方は悪いけどセイルさんを見ても平然としてたよ?」

「うん。だから、思い出せないの。体は覚えていても、明確な一歩が踏み出せない……それはお兄ちゃんが一つだけ、見失ってしまったものがあるから」

「見失ったもの──?」


「お兄ちゃんが忘れているのは、名前かもしれない」







「……はぁ」

 宿に備え付けられた非常階段の上、大きなテラスとなっている場所でルノはため息をついた。本当は屋根の上までのぼりたかったのだが、どうも高いところは苦手だ。それにテラスでも海からの涼しい風が通るので、もう十分だろう。

 ぼんやりと夜空を見上げながら、ポケットからあるモノを取り出して星に照らす……それは、あの不思議な髪飾りだ。誰のものかは相変わらずわからないのだが、捨てようと思うと手が動かないモノ。

 わからないならチェリカやトアンに問えばいいのに、何故だか見せる気にはならなくて、けれども喉にささった魚の小骨のように気になり続ける存在。ルノは目を細め、ふとリングの笑みを思い出した。

(──あいつは、きっと恐ろしく純粋なヤツなんだ、そうに決まっている。あのゲルド・ロウという男の配下のようだが私を助けれくれたのは事実なんだ……トアンを攻撃したことも)

 それでもルノの頭の中には、ユニコーンを微笑んで見つめるリングの表情が離れない……何故だろう、重い前髪に閉ざされたあの金の瞳を、良く知っているような気がするのは。そしてユニコーンが気づかせてくれた、自分の記憶の抜け落ちた部分は一体なんなのだろう?

(……今なら、出逢った当初のレインが無性に苛立っていたわけがよくわかるな。何か大切なことを忘れていることは確かだが──トアンに聞けば、分かるだろうか)

 

 ……いや、意味がない。

 ルノにはわかっていた。他者から聞いた事実は、自分にとっての事実ではない。それを記憶として思い込むこともできなくはないだろうが、それでは自分が本当に忘れていることを完全に見失ってしまう。


「……コレの、持ち主なのか?」

 問いかけてみても髪飾りは鈍く光るまま答えなどはくれない。ルノはもう一度ため息をついて、頭痛がする額に人差し指を当てた。ほつれた鬢髪が風に撫でられていく。


 ──ピュトの森につく前、馬車の中で一泊したときに、ルノは夢を見た。内容はほぼ覚えていないのだが、真っ白な光が満ちていた瞬間だけがくっきりと残っている。……まるで、夢ではなく実際にあったことのように。

 そしてその強い光は決して優しいものではなく、あらゆるものを焼き尽くす強い悪意がある光だということも、目覚めた直後ルノにはわかった。暴れる心臓と背中に伝う冷たい汗に、最悪の目覚めだということを自覚する。何故か真っ直ぐに伸ばされた手の行き場をなくし、ゆっくりと降ろした。


 十五にもなって悪夢に怯えるなんて!

 馬車の中なんかで安眠できるかと悪態をつきそうになって、はっとした。


 ──本当に夢だったのか?




「……ああリング、もう一度だけ話がしたい。お前は誰なんだ? お前のことを、私は知っているのか……?」


 テラスに突っ伏した、その時だった。


「……ルノちゃん」

 遠慮がちに掛けられた声に振り返ると、いつの間にかセイルがすぐ後ろに立っていた。リングと良く似た姿を持つセイルに、ルノの心臓は一瞬跳ね上がる。

「セ、セイルか……なんだ、何のようだ?」

「風邪ひくのよ。ずーっとこんなとこにいたんじゃあ」

 にこりと笑うセイルの笑みはいつ見ても無邪気で、ルノは心が安らぐのを感じて微笑みを返した。

「ありがとう。そうだな、そろそろ戻ろうか。態々呼びにきてくれたのか?」

「うん……」

 煮え切らない返事に思わず首を傾げる。セイルは相変わらずルノの一歩後ろに立ち止まり、それ以上近づいてこない。幼さを感じさせる丸い瞳に珍しく複雑そうな感情が渦巻いているのが伝わってきて、ルノは困惑した。

「セイル? どうしたんだ。何か悩みでもあるのか?」

「……ううん」

「では、何だ。チェリカにでもいじめられたのか?」

 あいつはしょうがないな、と言いながらルノは苦笑してみせるも、セイルの顔は晴れないままだ。ほとほとに困り果て、ルノは夜空の下セイルを見つめた。

「ねえルノちゃん」

「うん?」

「俺様のこと……好き?」

「す……え?」

「だから、俺様のこと好きなの?」

 真顔で囁かれた言葉にルノは唖然とする。

 しばらくポカンとした顔のまま、頭の中でセイルの言葉を繰り返した。好き、好き? 好きということは、あの好きなのか?

「な、なあセイル」

「どっち?」

 何とか話を逸らそうとするものの、セイルは譲らない。一歩分の距離がいやに目に付く。ルノは頭を抱えたくなったが、今の自分の気持ちを正直に告げるのが一番だと考えてゆっくりと言葉を選び始める。

「……好きといえば好きだ」

「じゃあホントは嫌い?」

「違う、ほら! 友達として好きだという意味だ! それ以上ではないぞ」

「……嫌いじゃあ、ないの?」

 そう呟いたセイルの瞳が何故か潤んだ。ルノは慌てて弁解をする。

「す、すまない。私なんかに好かれて迷惑か?」

「違うの。そういう意味じゃあ、ない」

「? では何だ」


「……ルノちゃんは、全部思い出した後も俺様のこと好きでいてくれる? 友達って言ってくれる?」


 そういうセイルの顔は何故かとても悲しそうで、そしてルノの心の底が嘆きではない痛みを一瞬だけ訴えた。哀れみでも寂しさでもない、もっと攻撃的なもの。

 ──しかし、その感情の悲しい意味も、今のルノにはわからない。



「……セイル、聞いて欲しい。お前は何故そんなにも怯えているのだ?」

「おびえ……あう」

「私はお前を嫌ったりしないよ」

 そういってルノはにっこりと笑いかけた。きっと心からそう思って……。セイルの片目が軽く伏せられ、もごもごと口篭る。本当に? といわれた気がして、ルノはしっかりと頷いてみせた。

「……でもルノちゃん。ルノちゃんは、あのリングってやつのこと信じてるのよね」

「ああ……命を救われたからな。それにトアンに手はあげたが、あいつは弱りきったユニコーンの世話をしていたんだ。すごく、優しいやつだと思うのだが」

「ルノちゃん、違うよ」

 言うやいなや、セイルはたった一歩分の距離を詰めるとルノの両肩に熱い掌を乗せて続けた。

「あいつは違うのよ? ルノちゃんが思ってるやつじゃない! トアンも誰も信じてくれない、俺様はそれでもいいと思うけど、でも、でも今の俺様にはルノちゃんを守るって義務があるの。守らせてほしいの……!」

 がくがくと揺さ振られ、セイルがとても焦っていることが伝わってくる。その赤い瞳はどこまでも真摯で、幼い言葉遣いながらも必死に選んで、ルノに伝えようとしてくるセイル。

「ちょ、ちょっと待てセイル! あいつとは誰だ?」

 堪りかねてルノが叫ぶと一瞬だけセイルの手が止まった。くしゃり、と顔を歪め、次の瞬間セイルは咆哮したのだ。


「『××××』! 『××××』のことなの!!」


 叫んでからセイルは焼けどをしたかのようにルノから手を引いた。そして恐る恐る、叱られた子供のような目でルノに視線を送ってくるのだ。

 

 ──けれども、ルノは首を傾げた。


「すまない、今、何と?」

「……ふえ?」

「聞き取れなかったんだ。何だろう、耳に全く覚えが無い言葉だったな」

「……ほ、ホントにわからないの? 『××××』のこと、思い出せないの、俺様、またルノちゃんのこと傷つけたの……?」

 たちまち濡れた子犬のように項垂れるセイルにルノは慌てる。セイルが何を言っているのか良くわからないのは本心だ。その正体を糾弾したい気がないわけではないが、今はこんな様子のセイルを見ているのが辛い、とルノは思うのだ。

「セイル、とにかく落ち着いてくれ。何度も言うように、私はお前を嫌わない。傷つけられた覚えもないぞ。その良く聞き取れない言葉が雷鳴竜独特の悪口ならば私は怒るべきなのだろうが、そういうことではないのだろう?」

「……ルノちゃん、でもね」

「セイル、私はセイルが好きだぞ? さ、そろそろ戻ろう。みんなが心配をしてしまう」

「うん……ごめんなの、ありがとう」

 そういって笑ったセイルの笑顔は、どこか無理しているものがあるとルノには感じられた。けれどもそれ以上踏み込む術をルノは持たない──だから微笑んで彼の手を握ることしかできなかった。くらり、眩暈がした気がする。

 

 インクブルーの夜空の下、星たちを背負ってそこに立つセイルは、ルノのよく知る無邪気な彼とは違い、憂いを湛えた瞳でルノを真っ直ぐに見つめていた──……



「一度チャルモ村に戻ろうよ。やっぱりお兄ちゃん、具合悪いみたい」

 ベッドに寝転がったチェリカが口を尖らせた。海から入ってくる涼しい夜風がとても気持ちがいい。トアンはチェリカの横に腰掛けていたのだが、彼女の言葉にうんと頷いた。

 先ほどセイルと共に部屋に戻ってきたルノは、チェリカの姿勢をはしたないぞと一応注意をし、そのままベッドに倒れこむと寝入ってしまった。ベッドは全員分この広い部屋にあるのだが、あえて隅っこに寝るところがルノらしい。

「あれじゃあ風に当れないよ」

「トアン、運んであげたら?」

「……ルノさん一人ならなんとかなるけど……」

 ふっと苦笑してみせるとチェリカがころころと笑った──ルノのすぐ横に、丸まったセイルが寝ているのだ。しっかりとルノの手をつかんで、まるでどこへも行かせないように。

「……今のルノさんはきっと、落ち着いているように見えてすごく不安定なんですね。やっぱり連れ出さないほうが良かったのかもしれません」トアンとチェリカの隣のベッドに腰掛、コガネの毛を梳かしながらトトが言う。

「あまり俺たちから詮索はしませんけど、ルノさんはシアングさんのことだけ忘れているんですよね。でもそれって、かなり歪な記憶になってしまうと思うんです」

「……一年前と、随分変わっちゃったね」チェリカがしみじみと呟いた。

「私達、それぞれ隠し事と内緒のことばっかり。今ここにいる全員はトトの正体を知ってるけど、ウィルとレインは知らないまま。お兄ちゃんは大事なヒトの名前をなくして、でも私達はただ隠し続けるだけ……どうして?」

 チェリカの言葉は独り言のようだったが、トアンの胸を深く、抉る。


 ……もう一度旅がしたいと思っていた。

 そしてどういうわけか再び旅が始まった。


 ──その結果は、こんな歪んだ現在、あんな壊れた未来……。



「トアンさん」

 トトの呼びかけに首を回すと、群青色の瞳が優しく、そして心配そうにトアンを見つめていた。全てを見透かし、それでも包み込むような目にトアンは動揺する。

「トアンさん、一度村へ帰りましょう。あそこが今の俺たちの帰る場所……。俺はあなたを信じています。あなたを救うために今ここにいるんです」

「……ありがとう。でもさ?」

 トトの言葉は真っ直ぐに胸をうつ。無性に嬉しさがこみ上げて、トアンは目頭が熱くなるのを感じた。それを誤魔化すために茶化す。

「もしウィルと兄さんのことがオレの所為だったら、トトさんはどうするの?」

「その時は……」

 ──戦います。トトならそう言うだろう。

 トアンは覚悟をしていたのだが、トトはそっと首を傾けて微笑んだ。

「……その時です」

「なあに、それ」

 話を聞いていたチェリカが笑う。トトはチェリカの笑みに応えると、再びトアンに視線を据える。

「俺は確かにあの二人のためにここに来ました。だけど、今はこうしてトアンさんの仲間としてここにいるんです。……そんなに俺って信用ないですか?」

「い、いやそういう意味じゃ……!」

「……ええ、わかっています。だから、あまり一人で抱え込まないでください。チェリカさんだって、わざと言ったわけじゃないでしょう」

 トトの言葉に、チェリカの瞳がはっと見開かれた。ようやく自分の言葉の刃を見つけたのだ。

「ごめん、私そういうつもりじゃないんだよ。今の状況はトアンの所為じゃないよ、私だってトアンに会いたかったもの……」

「チェ、チェリカまで……! オレが勝手に落ち込んでただけだよ!」

 トアンは慌てて弁解するも、チェリカはううんと首を振った。トアンはますます焦るのだが、その様子をトトが楽しそうに見ていることも視界の端に捕らえている。



 ──運命は、変えられるのか。

 変えてみせる、とトトは思う。

 絶対に変える、変えてみせる。トアンもチェリカも、ルノもセイルも救ってみせてやる。

 同意を求めるように窓の外を眺めるコガネを見ると、彼女の金色の毛並みは少し逆立っていて、漆黒の瞳は満天の夜空を見つめていた。

 

 ──膨らんだ長い尾にトトは胸騒ぎを感じ取る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハルティア─Reverse Dagger─ 森亞ニキ @macaro_honey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る