第51話 記憶と、かけらと、消失と。

「……お前は誰だ?」

 ルノはリングの制止を振り切りユニコーンの前に飛び出すと、ローブの男をにらみつけた。

『ルノ……!』

「すぐ助ける。待っててくれ」

『しかし……』

 ユニコーンが苦しげに呻いたが、ルノは一度振り返っただけでその場から動かなかった。男は意外そうに首をかしげ、くっくっと喉を鳴らして笑う。

「──ルノ。私がわからないか、そうかそうか……ふふ」

「何故こんなことをした!」

「ルノ、君がここに居たからだ。それ以上に理由はない」

「……はぁ?」

 男の不可解な言葉に眉を寄せ、ルノは侮蔑の視線を送った。

「おやおや。お前は他人を拒絶することがよくあるとは思っていたが……ここまで極端にやられると悲しいな。そうでなくても、お前はその姿なのだから」

「……姿?」

「そうでなければ、とうに私の手で始末していた。禁忌の子の名の通り、醜いバケモノとして生まれてきてくれれば、ここまで面倒なことにはならなかったのだがな」男はふっとため息をつくとフードを脱いだ。声の割りに、外見は二十代半ばの青年だ……しかしルノにはこんな男との面識はなかった。男は続ける。嘆くように目元を手で覆っているが、口元はにんまりと楽しそうに笑いながら。

「お前をさっさと片付けてしまえば、ベルサリオの王子も死を選ばなくても良かったのだ。いや、王子もどきか? もうどうでも良いことだがな」

「……ベルサリオの、王子?」

 セイルのことだろうか? ルノは不可解な言葉に眉を寄せる。ベルサリオの王子といえばセイルだ。そのセイルはピンピンと元気に生きている。元気すぎるほど。

 

 しかし……。



 ──何故か、何故か高いところから落ちるような、内臓がふっと持ち上げられるかのような嫌な感覚が走ったのだ。


「……お前は忘れているのか。愚かな、あんなにも泣き叫んで必死にすがり付いていたというのに!」

「ちょ……ちょっと待て。何の話をしているんだ、私は」

 そんな話知らない、とは、いえなかった。男はルノの心の葛藤を見透かすように、一歩近づいて手を伸ばしてくる。

「思い出させてやろう」

「……く、くるな」

「怯えるなよ、お前の愛しい愛しい哀れな竜の存在をそこまで忘れたいのか。お前があれほどまで愛し、けれども結局はその目の前でチリと消えたあの竜を!」

「やめろ、やめろ……そんな、そんな話は……っ」

 激しい頭痛に襲われたルノは頭を抱えて一歩下がる。男は二歩進み、ふふふ、と笑った。

「あまり生意気な口ばかりきくんじゃない……その姿の価値を汚し、貶めるばかりだ。壊れたお前は、もっともっと美しかった。中途半端に修復されたせいで台無しになってしまってはいるがな」

「価値……? 修復? なんの話だ、私は私だ、他の誰でもない! 確かに記憶は混乱しているが……私は、私は!」

「ならば何故逃げる? お前はお前としての誇りがあるというのに」

「それは……」

「怖いのだろう……だが知りたいのだろう? 自分の心の奥底を、失ったものを! あの哀れな竜との記憶を!」

 必死に抗うルノの耳に、ヒタヒタと男の声はにじり寄ってくる。暗く、甘く、けれども逃れられない。どんなに逃げても否定しても、少しずつルノの中を侵食してくる──!


「──ルノ!」


 凛とした声が狭まりつつある空間を切裂いた。はっとして顔をあげると、ルノの前に両手を広げたリングが立っていた。

「やれやれ……邪魔をするのか」

「ゲルド、やめろ」

「ふん」ローブの男──ゲルドというらしい──は鼻をならし、リングをつまらなそうに見る。

「お前はやはり失敗作だな。どうだ? ルノの心の傷に触れることはできたか? 無遠慮に触れてその隙間に指を捻じ込んで、楽しく無理矢理引き裂いてズタズタに壊すことができたか!?」

「……。俺は、ルノの友達」

「この役立たずのゴミ人形! 創ってもらった恩を忘れたか!」

 男は口調こそ荒れているものの、顔はどこまでも楽しそうに歪んで笑っていた……ルノの背筋を冷たいものが流れ落ちる。

 ──この男の真意が読めない……。

 ルノたちを殺すつもりなら、とうに攻撃をしてきてもおかしくはない。けれどもそうはしない。


 リングはそんな言葉の槍の雨を一身に受けながらも、平然とした表情でゲルドを見つめ返していた。男の眉が感心したように寄せられる。

「ふむ……ここまで言ってもゴミはゴミのままか」

「ゲルド、ここから去れ」

「うん?」

「ユニコーンを傷つけた。お前はここに居てはいけない」

「……そうだな、ルノの現在の様子も確認できたことだ。それに、もうすぐ厄介なのが飛んでくる」

「……お、お前の目的はなんだ……!」

 リングの後ろから一歩踏み出し、ルノは男を睨み付けた。すると男はにこりと笑みを浮かべ、はっきりと言ったのだ。


「君を壊すことだよ、ルノ」


「わ、私を?」

「そうだ、禁忌の子供。お前は結局今日まで生き残ってしまった、そして私はお前に直接手は出せないだろう」くつくつと喉を震わせて男は笑っている。

「……けれど、直接手を下さなくても、私の邪魔をさせないようにすることはどうにでもできるのだよ」

「邪魔……? お前が何をしようとしているのかは知らないが、そんなこと私には関係ないだろう?」

 ルノはきっぱりと言い返す。リングの背から離れ、まっすぐに男をにらみつけた。

 男が何者かはわからない。しかしどうしてか、とても恐ろしい、心にざわざわと鳥肌が立つような感覚を覚えるのだ。男の勘違いであってほしいと本気で願う。それにルノには、男の言っている言葉の意味がまったくわからなかった。

 しかし、男は哀れむような目でルノを見返してきた。

「…………。知らないだけなのだな、お前は。自らが何故禁じられた存在なのか、自らが生まれたことの意味すらも」

「男だからだ。男の氷魔だから、私は幽閉されていたんだ。氷の精霊からの報復を恐れられて──」

「違うね」はっきりとした声で男は言い切り、やれやれとでも言うかのように首の裏を掻いた。

「愚かな子だ、お前は本当に……いや、あの竜がお前の耳を柔らかく塞ぎ続けてきたからなのか、ふむ。いや、いいか。どうにも今日は喋りすぎてしまった……」

 そういって男は一人で勝手に自己完結すると、人差し指を立ててルノに真っ直ぐに突きつけた。

「腕の一本くらい、土産に持っていくかな」

 ──ゾクリ。

 地を這うような恐ろしい声にルノは青ざめる。恐らく男は本気だろう。しかしルノの体は蛇に睨まれた蛙のように動かない。

 思わず瞳を閉じかけたその瞬間、



 バチュ──ンッ!



 何かが弾け飛ぶような音に驚いて逆に目を見開く。

 薄い光の壁がルノたちを包むように覆っていて、男の指先の延長上の位置にあたる部分が焼け焦げていた。壁の傷はシュウシュウという白い煙と焦げ臭い匂いを上げていたが、それは徐々に小さくなって消えていく。

 ──たち。つまり、壁の中に居るのはリングとルノだ。ルノの前に立ちふさがるリングこそが、この結果を作り出した主だと直感するのにそう時間はかからなかった。

「リング! お前は関係ない!」

「……友達だから」

「な、なんだって?」

 リングは答えずに前を向く。壁の向こうで男は感心したかのように顎に手を当てていた。

「……ほう、人形よ。中々やるな」

「……。」

「これは雷の障壁だな? お前にもこんな芸ができるとはな。甘く見すぎていたようだ」 

「リング……お前は一体……?」

「……。」

 またリングは答えなかった。前髪の間から光って見える金色の瞳が、何か言いたげに細められている。けれども彼が言葉を発することはない。

「雷の魔法なんて、セイルにすら使えないのに」

「……俺、は」再びプイと前も向いたリングが、小さな声を漏らした。その間にも男が第二撃を放ってきたが、リングはそれも容易く弾き返す。男も予想通りだったようで、ふむともう一度鼻を鳴らしただけだった。

「…………人形、だから」

「に……人形?」

「そうとも」

 男が会話に割って入ってくる。リングは警戒しているようで今だ壁を出したままだ。

「お前はヒトだろう?」

「違う。俺は──……」

 しかしリングの小さな告白は、森に響き渡った怒声にかき消されることになる。


「ゲルドォオオオオ────!!」


 ルノは肩を竦ませ、そして一拍を置いて背筋を凍らせた。今の声の主が、ここまで怒りを露わにしているところを知らないからだ。直後、緑の光が散ったかと思うと、真っ赤な剣を振り翳したトアンが飛び出してきた。


 *


 ──時間は少し前に遡る。


 走っても走ってもルノに追いつくことができず、トアンの焦りはますます加速していった。ルノはどこまで行ってしまったのだろう。それとも緑のこの森に愛され囚われて、手の届かないところに迷い込んでしまったのだろうか……そんなバカバカしい想像に惑わされながらも、足は止めない。

「──トアン、魔法なの!」

 セイルの緊迫した声が耳を掠めた瞬間、どこか遠くで何かがはじけるような音がした。

「魔法?」

「雷の魔法なの、今感じたの!」

 トアンはセイルが慌てる意味が理解できず、思わず首をかしげた。

 夢幻道士の力を色濃く継いだ自分には感じられないことだが、雷の魔法の素質を持つものなんて、この世の中には大勢いるはずだ。

 ……などとぼんやり考えていたトアンの表情に、考えを読んだようにセイルが癇癪を起す。

「違うの、トアン! 俺様だってそんなことわかってるの!」やはりトアンの、そんなに特別なことではない、という考えは伝わっていたようだ。セイルは駄々っ子のように唸りながら続ける。

「純粋な、すごーく純度の高い魔力の質なの! ……あんな雷の魔法が使えるのは、雷鳴竜や雷の精霊に近いのだけ。俺様とか、おとうさんとか……シアングとか」

「それ、どういう意味……?」

「どういう意味もなにも、聞いたまんまなの! それに……俺様は理論上は使えるはずの雷の魔法が使えない。全部そういうのシアングの中においてきちゃったから、今更使いたくても使えないの。おとうさんがここにいるわけが、ないし……」

「……じゃあ、シアングが居るってこと!?」

 セイルの言葉がようやく飲み込めてきた。しかしそこから見出したことは、ありえない事実だ。トアンは肌が粟立つのを感じながら、セイルに問う。

「そ、それは……」けれどもセイルは悲しそうに目を伏せた。

「絶対、あ、ありえないの……」

 そう、自ら口にしながら自らを何度も疑った。

 ──シアングは死んだ。跡形もなく消え去って。……それは事実だ。どんなに否定しようがどうしようが、あの瞬間をこの目でみている。それに『影抜き』であるセイルが繋がりが切れたといった以上、シアングが生きていることはまずありえないのだ。

「じゃあ誰だっていうんだよ! そんなことができるのなんて!」

「ああう、わかんない、わかんないのよ……」トアンの剣幕に気圧されたようにセイルが慌てて両手をあげる。

「でも誰かがいる、いるの! それは事実なの。俺様にあるべき力をもった誰かが、この先にいる……!」

「くそ、何がどうなってるんだ……って、ごめん、セイルさん」

 どうやらすっかり怯えさせてしまったらしい。トアンが慌てて謝ると、セイルはゆるゆると首を振った。

「いいの、ちょっとカッコよかったし」

「へ?」

「トアンって、もっと頼りないやつかと思ってたの。でもびっくりしたの」

「そ、そうかな……」

 ──言われて見れば、最近感情のコントロールが上手くいかないことが多い。そのことに自分でも驚いていた。感情に振り回されて怒鳴ったり、悲しんだりなんてことが頻繁にある。……自分が心に負った傷が、浅くはないのだとトアンは実感する。

 それでも筋は通さなければ。トアンは真っ直ぐにセイルを見上げ、もう一度謝った。

「本当にごめんね」

「……ううん、もういいの」

 そういって微笑むセイルの顔は、傷を隠したものに見えた。

「セイルさん……」

「ね、もういいのよ。これ以上謝ったら許さないの」

 ニッコリと無邪気に微笑んでみせるセイルを見ると、トアンの良心がズキズキと痛む。それでも彼の気遣い通りに頷いて見せ、トアンは謝りかける口を止めた。

「……ルノさんを捜さないとね」

「うん! ルノちゃんになにかあったら俺様あいつにあわせる顔がないのよ……でも変なの」

「ん?」

「さっきの力も、何かぼやけてたの。フィルターがかかってるみたいによく感じ取れなくて。多分、この森にかかってる魔法の所為なのね」

「……魔法が? まさか、オレたちが似たようなとこぐるぐる回ってるのってその所為?」

「うん。ユニコーン以前に、この森自体に魔法がかかってるんだと思うの。きっとここはとても神聖な森。だから奥まで入れるかどうか、森自身が試しているのね」

「そんなの……どうしようもないじゃないか」

 ふう、とトアンはため息をついた。汗で張り付いた前髪をかきあげ、やはりウィルに途中まででも案内してもらうべきだったと口の中で呟く。

「トアン、きっと何か方法があるのよ」

 セイルの根拠のない慰めに再びもやもやとしたものが腹にたまるが、トアンはそれを飲み込んだ。セイルに当っていても仕方がないのだ──第一、セイルは悪くない。

「方法ねえ」

「うんうん、あら?」

 唐突にセイルの声がふんにゃりと曲がった。何事かとトアンが目線を写すと、降り注ぐ雪のように二人に緑の光が舞い降りてきていた。

「そういえば、これ……そうだ、この光を使って……」

 トアンはひらめいた光る案を口にしようとするが、セイルが遮った。声に緊張感を携えて。

「──トアン、繋がる!」


 何が、と聞き返す前に、トアンとセイルは光の嵐に飲み込まれた。

「う、うわああああああああ!?」

 竜巻の中に放り込まれた哀れな布切れのように回転しながらトアンは悲鳴を上げた──が、意外にもしっかりとしたセイルの声が耳に届く。

「大丈夫なの、怖くない」

「こ、これは……?」

「森の奥に繋がっているの」

 セイルの声はするものの、眩しすぎて目が開けられない。トアンはなんとか水平を保とうと手を伸ばした……すると回転はゆっくりと減速していき、次第にピタリと収まる。

 光が徐々に収まっていくと、ふっと体の重みが戻ってきた。どうやらセイルの言う通りなにも怖がる必要はなかったようだ。ほっと一息ついたトアンがようやく目を開けると、真っ白な世界に色がついていくところだった。

 ……しかし、その世界で真っ先に色が着いたのは、見覚えのあるローブだった。

 ローブが揺れ、蛇のような瞳がトアンを見て、笑う。





 ──トアンの中で、何かが音を立てて切れた。





「うぉぉぉぉぉおおおお!!」

 叫んだ瞬間、辺りの様子がさっと浮かび上がる。トアンは無我夢中で剣を抜き、男──ゲルド・ロウに切りかかった。


「はっ、ようやくご到着か。久しぶりだな」

 ゲルド・ロウはひらり、と身をかわし、悠長な挨拶をする。トアンは思い切り踏み込んで第二撃を振ろうとするが、踏み出した先のピチャンという水音と不安定な足場に一瞬のひるんでしまった。舌打ちし、周囲の様子を確認する──酷く純粋な水が足元に満ちている。森というより、泉に木が生えているようだ……より深く踏み出していれば、片足は膝上まで水に飲まれていただろう。

 しかしゲルド・ロウはそんなトアンの考えを鼻で笑うように一息つくと、くかかか、と声を立てて笑い出した。その声にトアンはぎょっとし、いまさらながら笑う男の顔を見た。

(──そんな、若返って……いる!?)

 ──男の外見は、青年そのものだ。

 けれども決して違う、以前とは違う! しかし声は以前感じた疑問と同じ、中年のもの……。

 どうやら相手はトアンの愕然とした心境を読んだらしい。に、と口の端を釣り上げて言葉を口にする。

「ふむ? 解せない、という顔だなトアン・ラージンよ」

「……オレの考えも読んでいるだな。どうして若返ったんだ?」

「お前もあれも、言葉遣いが私に対しては随分酷いのだな……チェリカに対してはどうだ? あんな情けない声をだし……」

「関係ないだろッ! 答えろよ!」

 ぐ、と奥歯をかみ締めてトアンは怒鳴った。

(なんなんだこの男、人をおちょくるような発言ばかり! ……シアングの命を奪っといて、全然何考えてるかわからない……!)

 けれどもゲルド・ロウは長い長いため息をつくと、ぽつりぽつりと語り始めた。トアンはふと気がついたのだが、男は水面からほんの少しばかり浮いている。だからあんなにも身軽に剣撃をかわすことができたのだろう。

「……私は、取り戻しているだけだ。いや、私が自分のためにしている行動でもないし、私だって驚いているさ。まあこれもまた、一興かと」

「……意味がわからない言葉を並べて逃げるつもりか?」

「理解できないのはお前が愚かなだけだ。私の所為にしないでもらいたいね」

「なんだとッ!?」

「ははは……さて帰ろうか。面倒なことになってきた。お前ごとき恐れるに足らぬが、その月千一夜は厄介なものだからな」

「……ただで帰れると思っているの?」

「もちろん」

 トアンの脅しをウィンクで交わすと、ゲルド・ロウはさっと両手を伸ばした。警戒するようにトアンは身構えるが、ここで予想外のことが起きた。

 ──バチィイィイィン! 

 何かが弾けるような音を耳が捉えたと思った次の瞬間、トアンの体は唐突に吹っ飛ばされた。

「あぐっ」

 勢い良く木に打ち付けられ、息が詰まる──一体、何が、くらくらと頼りなく回る頭の所為でうまく目線がまわせない。しかし耳はきちんと動いていた。


「なにをするんだ!」


 ──ルノの声だった。それもとても悲痛な声。 

(ル、ルノさん……?)

 衝撃のせいか、体が痺れたように思うように動かせず起き上がれない。

 ……そういえばルノは無事だっただろうか。逆上して感情に身を任せたあまり、すっかり彼の安否を確認するのを忘れていた自分を嫌悪する。それでもルノの声を頼りにぼんやりと霞む視線を動かし──トアンは、固まった。


 ──シアング。


 ルノの前に立ち、トアンに向かって手を突き出していたのはシアングだった。

 ……見間違えるはずもない、あの立ち方、あの構え方。長い前髪で目元が隠れてしまっているが、あの長い髪は間違いなくシアングだ。

 そして、今自分を襲った衝撃と痺れは……彼の魔法だ。


 何故。

 何故ここに、何故生きていて、何故自分に手を上げたのだろう。

 しかし──それでも十分だった。叫びだしたいほどの衝撃がトアンを襲った。嬉しい、嬉しい嬉しい。泣き出しそうだった。理由はわからない、でも生きていた。生きていてくれた……!

 叫びたくても喉が引き攣るトアンの代わりに、ルノが叫んだ。


「彼は敵じゃない、私の仲間だ! ……リング、やめろ!」

 バチン! トアンのすぐ隣の木の表面が焦げた。ルノが男の手にしがみ付いて軌道をずらしたのだ。

「やめろと言っているだろう!」

 必死にルノが叫ぶ。今にも泣き出しそうなその顔を男は見つめて、ゆっくりと手を下ろした。目元が隠れたその顔からはなんの表情も読み取れないが、ルノは安心したようだった。

 が、唐突に男はルノを突き飛ばす。バシャンという派手な水音を立てて水面に尻餅をついたルノと男の間を、銀の光が一閃した──セイルだ。

「……あんた、誰なの。ルノちゃんに、トアンに何をするの」

「……。」

「セイル、違う! 彼は別に悪気があるわけではない……!」

 そのままの体勢のままルノが訴えるのを、セイルは肩越しに聞いて驚いているようだ。……そして、ふと眉を下げる。

「ルノちゃん、思い出したわけじゃないのよね」

「……なに?」

「ううん。なんでもないの……でもね、こいつは違うのよ、絶対に違う。何より近い、この俺様が間違えるはずがないんだから!」

 ルノは困惑しているようだが、セイルはきっぱりと言い切ると男と対峙する。抜いた双剣は森の光を浴びてキラリと煌いた。

「……お前は」

 男が呟き、ゆっくりとセイルに向かって手を伸ばす。ルノが声をあげるが、セイルは構わず剣を握りなおした。

「なぁに。俺様、あんたみたいなのと話す気はないのよ」

「……俺と同じ……?」

「違う。俺様はあんたと違う。あんたがその姿でいることは許されないの!」

「…………許され、ない……」

 それは独白だった。男は雨音のようにぽつりと小さく呟いて少し顔を伏せる。が、すぐにセイルを見ると再び手を伸ばす──セイルが威嚇するように剣を振っても、その手は止まらなかった。男の右手の光に一筋の紅い線が走る。

「くるなぁ! 俺様、本気なのよ! お前のことなんて簡単に殺せるんだから!」

「セイル、やめろ……彼は本当はいいやつなんだ。ユニコーンを守っていた、心の優しい……」

 ルノが体を起こそうとするが、その喉元にセイルの右手の剣が真っ直ぐに突きつけられた。左手は男に向けられたままだ。ルノの顔がさっと青ざめる。

「……ルノちゃんはそこに居て。動かないで」

「セイル!」

「ユニコーンを守ってた? だから何? 俺様はルノちゃんを、トアンを守る義務があるのよ。大体、ルノちゃんはこいつにだまされてるに違いないの」

「頼むからそんなことを言うな! リングはそんなやつじゃあない!」

 ルノが叫んだ瞬間、ぴくりとセイルの肩が戦慄いた。

「……リング?」それは、男の独白と同じくらい儚い呟き。

「そう名乗ったの、こいつ」

「そ、そうだ」

 ルノはなんとかセイルを宥めようとしているようだが、セイルは一人で納得すると男に向けた切っ先を横向きに流した。

「ふうん……どこで知ったか知らないけど、あんた何が目的? ヒトの名前と姿、勝手に使って」

「……人形」

「はぁ?」

「俺はツギハギの、人形……」

 そう呟いた男は、何故かとても寂しそうに見えた。男はぐるりと視線を回してゲルド・ロウを見ると、ゆるゆると首を振った。

 ゲルド・ロウは男の意思をくんだらしい。ふむ、と鼻を鳴らすと腕を組む。

「……いいだろう、人形よ。もうここに居てはいけないというのだな? 私も時間が限られた身、いつまでも遊んではいられない。帰ろうか」

「ま、待て!」こくん、と頷く男を、ルノの声が止める。

「……リング、お前は私を助けてくれた。けれどその男についていくのか!? ……お前はセイルの言う通り、私をだましているのか? 違うのだろう、絶対に違うだろう?」

「……友達、だから」

 セイルがまったく警戒を解かない前をゆっくりと歩きながら、男が呟く。ぴちゃん、という水音に惹かれてみれば、彼の裸足が美しい水に浸かっていた。

「とも、だち?」

「そう。ルノは、俺の友達だから助けた……だけ。でも俺はゲルドの人形だから──」一呼吸とめて、男が足を止める……その前髪に隠された目はトアンを見ていた。

「ゲルドの敵は排除する」

「トアンは敵ではない!」

「敵。ゲルドが言ってた」

「あの男の言うことは信用できるのに、私の声は届かないのか?」

 ルノがセイルの切っ先をそっと除けると立ち上がって彼を見る。ルノの悲しそうな声に、男は少しだけ俯いた。

 セイルは動かない。手はただなすがままに伸ばしたままだ。それでも丸い片目は真っ直ぐにリングを見つめている──セイルの表情は、セイルらしくないほど強張ったままだった。

「……ゲルドは、絶対。そうしないと、俺は何のために存在しているのかわからない」小さいが深い、掠れた声で男が言う。もう一度歩き出して何も言わないゲルド・ロウのすぐ目の前まで行くと、振り返らないまま続けた。

「でも、一つわかった」

 ゲルド・ロウは、哀れんでいるのか嘲笑っているのかわからない不思議な笑みを浮かべたまま手を伸ばす。パチン、と小気味よく指を鳴らすと、男とゲルド・ロウの姿は忽然とその場から一瞬で消え去る。

 辺りは唐突に静寂に支配されるが、しかし。

 ……消え去る瞬間、男が放った染み渡るような声がトアンたちの耳の中で響いていた。



「もう一度会うためだった……ような気がする」



 ……確かに、男──リングはそう言ったのだった。





 *


「……トアン、大丈夫なの?」

 セイルに無遠慮にゆさゆさと体を揺さ振られてトアンは悲鳴をあげる。それは今だ残る痺れが、まるで針のように体の内側を駆けずり回ったからである。けれどもセイルはそうは思わなかったようで、慌てて声を上げてルノを呼んだ。

「ルノちゃあん、トアンが死んじゃうー!」

「死、死なないよ、ゆ、揺らさないで」

「あああん、俺様がもっと早くこっちにくればー! トアアアアン、死んじゃいやあああああ!」

「ちょ、ちょっと話聞いて……」

 一種悪意さえ感じるセイルの気遣いにトアンは小さく抗議するしかできない。少々乱暴だが、頭の一発でも殴らないとセイルは落ち着かないだろう。


 ゲルド・ロウとあのリングという謎の青年が消えて、まだ十分も経っていない。セイルの高ぶった気持ちが収まらないのも無理はなかった。

 ルノはすぐさまユニコーンの治療を始め、セイルはトアンの元へと走ってきてくれた。トアンはリングから受けた攻撃のダメージが尾を引き、結局立ち上がることはおろか、背を向けたリングに言葉をかけることもできなかったのだ。

(……シアング)

 リングが最後の最後に残した言葉。それは、トアンが夢で見たシアングの最期の言葉そのものだ。偶然か意図的なものかはわからないのだが……トアンの頭はすっかり混乱していた。

「あう……トアン、死んじゃった?」

 すっかり反応を返さなくなったトアンを心配したようにセイルが呟く……ということは、トアンが呻いていた声は届いていたらしい。それでもその瞳に悪気は見えなく、トアンは疲れ果てた笑みを浮かべた。

「ううん……生きてるよ」

「良かった! 良かったの~、俺様、すごいすごーい心配したのよ!」

「う、うん、ありがとう……」


「……ね、トアン」


 ふとセイルが声のトーンを落とした。トアンは漸く回復してきた体を動かして何とか起き上がり、セイルと目線を合わせる。

 トアンの正面に正座をしたセイルは、まるで叱られた子供のように俯いていた。

「ん、なに? オレはもう平気だよ」

「違うの……トアン、見たのよね。さっきの」

「あ……」

「ルノちゃんは思い出してないみたい。俺様に今もフツーに接してくれるもの」

 ──消え去りそうな声でセイルは言う。

「ルノさんは本気でセイルさんのことを憎んでたわけじゃないよ……?」トアンはそっと、彼に優しく声をかけた。

「慰めはいいの、俺様だってわかってる。こんなの、偽りでしかないもの……」

 膝の上に置かれたセイルの握りこぶしが震えている。トアンはその様子を見て、ゆっくりと口を開く。セイルを傷つけないように、そっとそっと。

「セイルさん……あのヒト、シアングだよね?」

 トアンの問いに、セイルのまん丸な瞳が閉じた。その一瞬、幼い顔は精悍な顔立ちの青年にぐっと近くなる。そして同じようにゆっくりと瞳を開けると、セイルは眉を下げた悲しそうな表情で言った。


「違う」


「……どうして? ルノさんが思い出さなかったから……?」

 予想していなかったきっぱりとした言葉にトアンは戸惑う。セイルが断言する理由が見つからないのだ。

 誰がどう見ても、あの男はシアングで──……。

「シアングなわけないのよ、トアン」トアンの心を見透かしたようにセイルが呟いた。

「シアングは死んだ。それは事実なの。『影抜き』である俺様と、完全に繋がりの線が切れた。だから『絶対にありえない』」

「それはわかってるよ! でも、でもあれは確かに……」

「違う違う違う! あいつは自分で言ってた、人形だって! だから違う、あいつは勝手にヒトの名前と姿を使ってるの」

「……名前?」

「そうよ」そう言ってセイルがちらりと肩越しにちらりとルノを振り返った。ルノはユニコーンの傍らにしゃがみ込んだまま、こちらを振り返る気配はない。

「あいつは、どういうわけだか知らないけど名前を知った。姿をドロボウした。絶対にシアングじゃないのに、その名を名乗った」

「どういう意味? 名前ってなんのこと?」

「……トアンは、シアングの墓を見たのよね?」

 セイルの呟きに、トアンはあのどこまでも青い空の日を思い出した。シアングの冷たい石の家の前にチェリカと二人で立っていたあのとき、真っ赤な夕焼けがじんと目に染みたっけ……。


 ──あの時、冷たい墓石に刻まれた名前をトアンは見た。

「見たよ」

「刻まれた名前も?」

「名前……?」

 あの時は深く考えなかったシアングの名前──シアング・R・コユズスタ。セイルが『影抜き』のセイルとして生きていくことを決意し、『シアング』の名前を渡したことで『シアング』の名前はシアングのものとなった。

 ……しかし、シアングという名前はベルサリオの王子の役名にすぎないのかもしれないとトアンは思う。けれどその役名すらも奪ってしまうと、一緒に旅をしたあの青年の名前は無くなってしまうのだ……ならば奪えない。それにシアングはシアング、ただ一人なのだと結論をだし、トアンはセイルを見る。

 セイルは珍しく真剣な表情を浮かべると、もう一度だけルノの様子を確認した。そして、声のトーンを落として言う。

「シアング・R・コユズスタ……あいつの名前。あいつのために用意されたものじゃないけど、あのお墓に確かに刻まれた名前。その意味がわかる?」

「意味って? 名前は名前じゃないの?」

「違うのよ……シアングっていうのは確かにあいつの名前。でもあいつの魂に刻まれた名前じゃない。レインがスノーだったり、ウィルがウィルアークだったり、俺様たち『影抜き』には見える本当の名前……あいつには無いのよ」トアンの心の揺れを読んだかのような答えを言うと、セイルは顔を歪めた。トアンにはその表情が、命を落とすことが分かりきった戦場に向かう戦士の顔に見えた。

「……トアンには、その大事な名前の意味がわからない?」

「わかるよ。魂の名前のせいで……って言っちゃいけないんだろうけどさ。オレはともかく、兄さんは大変な目にあったから。……やっぱり、それがシアングにはなかったんだね」

「……うん。だから俺様、俺様たち二人の名前の『シアング』じゃなくて……あいつだけの、本当にあいつだけの名前をお墓に刻んだの。考えたのは俺様じゃないけど──」く、と唇を噛んでセイルは一旦言葉を切った。そしてトアンの瞳を真っ直ぐに見つめると、叩き付けるように叫ぶ。


「それが──リング。刻まれた名前はシアング・リング・コユズスタ! あいつのためだけの名前なの! なのに、あんなわけわかんないやつに盗られちゃってぇええ──!」


 ……ぼろぼろと涙を零し、握りこぶしの両手を目に当てて駄々をこねるようにセイルは泣いた。

「……セイルさん」トアンはそっと手を伸ばして、背伸びをしてセイルの頭を撫でてやった。ひぐ、とセイルの喉がつまる。

「泣かないで……大丈夫、何も悪いことはおきてないよ」

 ──それは気休めにもならない慰めだ。けれどもトアンは、セイルの心の内側にある葛藤に触れていた。

 一つは、ルノが記憶を取り戻した際にまた嫌われることを恐れていること。そしてもう一つが、それでもシアングのことを忘れていてほしくないという願い。

 突然現れた『リング』という青年の存在が、セイルの揺れる覚悟の前に立ちふさがっているのだろう。

「うう、う──……」

「……ルノさんはまだ何も思い出してないみたいだ。ごめんね、オレもよくわからない。けど一つ教えて欲しい」

「な──なに?」

「あのリングってヒト、シアングじゃないんだよね?」

「……た、多分。あう……」

 ずずず、と鼻を煤ってセイルが答えた。

「多分?」

「うん、お……俺様、あれからシアングの気配を感じていない。『影抜き』は魂に刻まれた名前がみれる。けど、あいつには何もなかった。からっぽで、うつろだった」肩に顔を押し当てて涙と鼻水を拭いて、セイルは続ける。トアンはポケットをまさぐってみたがハンカチは見つからなかった……それでもセイルが落ち着いてくれて、良かった。

「……あいつ、名前が無かった。でもあの術、前髪の隙間から見えた瞳──それが、金色だったの。あれはシアングじゃない、けど、じゃあなんなのかはわからない」

「名前が──ない、か」

 ……いくら考えてみてもトアンには答えなんて見つからなかった。

(あとでチェリカに聞いてみよう……チェリカならきっと、オレよりいい答えが見つけられる)

 それでも、彼がシアングであってほしいと望む自分が消えないことは確かなことである。

 そんな出口の見えないトアンの思考は、ルノの呼びかけによって打ち破られた。

 振り向くとユニコーンを支えるように孤軍奮闘しているルノの姿がある。トアンとセイルは顔を見合わせ、浅い水を掻き分けてルノの元へと駆け寄った。


『……やあ、初めまして』

 近くで見るユニコーンはとても美しい姿をしていた。銀色の睫毛と深い深い漆黒の瞳に、ルノの横顔が写っている。

「トアン、お前は大丈夫なのか……?」  何故か気遣うようなルノの目線に、トアンは首を振る。

「平気。さっきまで痺れが残ってたけどね」

「……すまない」

「? どうしてルノさんが謝るの?」

「……。リングを、責めないで欲しいんだ。私には、彼に悪気があったようには──思えなくて」

 ルノの言葉にセイルが身を固めた。ルノはそれに気づいたようだが、声を少し落とすだけで決して口は噤まなかった。

 ……トアンは少しだけ考えるふりをして、ルノを見つめた。答えなんてもうでている。

「オレ、信じるよ」

「トアン……」

「トアンッ!」

 ルノのほっとした表情とは別に、セイルが眉間に皺を寄せた。トアンはそれをゆっくり手を振って宥めると、ルノに言う。

「オレは敵として攻撃された。でも、ともだちっていう理由だけで、リングさんはルノさんを庇ったんでしょう。ならきっとまだ話し合える」

「トアン、俺様の話聞いてたでしょ」

「うん。セイルさんのいう事も信じてるよ。でもまだ、あのヒトが完全に敵だって決まったわけじゃない、と思う。ゲルド・ロウの手下だけど、ルノさんを助けるために歯向かってた。これも事実なんだ」

「……トアンの……ばかぁ……」再びセイルの瞳がうるりと揺れた。思わず差し伸べたトアンの手を払いのけ、セイルは自分の袖口で顔を拭う。

「いいのよ、どうせ俺様のことなんてホントは信じてないんでしょう」

「信じてるよ」

「嘘よ嘘。どーせ、また嘘つくんでしょ」

「セイルさん!」

「……いいのよ。トアンがあいつを信じるのは勝手だもの。でも、俺様は信じないの。また会ったら、オトシマエ付けさせなくちゃいけない」拗ねたようにセイルは呟いて、それからふと目を丸くしてトアンを見返してきた。

「……俺様、別に思ってないけど」

「え?」

「お、俺様は別に、あいつのことを絶対に信じないけど! ……でも、トアンとルノちゃんが信じて、俺様が信じなかったら。そうしたら選択肢が二個もある。だから、間違えないのよね?」

 セイルの唐突な問いにトアンは驚くも、すぐに意味をくんで頷いた……セイルがシアングの死を人一倍後悔していることは十分すぎるほど分かっている。……絶対に違うと言い切りながら、セイル自身もほんの少しは期待を抱いているのかもしれなかった。


 トアンはセイルに微笑むと、今度はユニコーンにきちんと向き合う。膝を折ろうとしたが、白馬はゆるゆると首を振った──白いわき腹に、血が滲んでいる。

『……ルノの力を借りても、さすがに難しいようだ』トアンの視線に気づいたユニコーンが言う。

『まあ、元々の自己治癒力に働きかけている部分も少なくないからね。もう時期森に還る私には、十分すぎる成果かな』

「……チェリカを治したら、もう?」

『だろうな。いや、今こうしてまだ息があること自体ルノに感謝すべきなのだから問題はない……君の名前は?』

「トアンです。トアン・ラージン。こっちがセイル」

 トアンがぺこりと頭を下げると、セイルも同じようにした。意味はわかっているのか不安だが、一件礼儀をわきまえているように見えるので問題はないだろう。

 ユニコーンはトアンの言葉を聞くとひょいと首をかしげて、問う。

『トアン・ラージンよ。君の母親は、アリシア・ローズか?』

「そうです」

『……ふむ』

「あの……母さんが何か?」

 恥じる必要はないときっぱり言い放ったトアンに対し、ユニコーンの反応は煮え切らない。トアンは不安を感じて尋ねるが、ユニコーンはそと首を振ってくれた。

『いや。彼女の噂を聞いたことがあってね……君からは血華の力は感じないが、アリシア・ローズの手をとって逃げ出したのはキーク・ラージンという男と聞いていたのだよ』

「ああ、なるほど」

『彼女はまた歩き出せたのだね……』

 それはトアンに対しての言葉のはずなのだが、ユニコーンはひとりで何か考え込むようにしていた。濡れた黒い瞳をゆっくりとした瞬きに隠し、不意についと首を伸ばす。黄金の角が森の光に煌いた。

『……ルノ。君の妹を呼ぼうではないか。可憐な少女にいつまでも傷を残すことは、乙女を守る存在としてはいただけないからね』

「……いいのか?」

 ルノが何故か悲しそうに言う。ユニコーンはそんなルノを見ると目を細め、そっと笑ったようだった──次の瞬間、静かな森に勢い良く風が吹き荒れる。風の中に光が舞い、それは徐々にひとの形を作り上げ──ホタルが逃げるように散った。


「……お兄ちゃん」


 光の中から、チェリカが足を踏み出して、どこかとろりとした目線でルノを呼ぶ。

「チェリカ。待たせたな、ユニコーンと会うことができたぞ」

「お兄、ちゃん」

「……なんだ?」

 再度名前を呼ぶ妹にルノが顔を訝しげに曇らせる。と、チェリカの後ろから続いてでてきたトトが周囲を見渡し、のんきにセイルに手を振った。セイルも即座に顔を輝かせて振り返す。

 チェリカはルノの様子を暫く真っ直ぐに見つめていたが、やがてふっと息をついて笑った。

「……そっか。ごめんごめん、なんでもない」

「?」

「なあんでもないって!」

 にっこりと愛らしい笑みを浮かべてみせるチェリカだったが、一瞬だけトアンに視線を投げかけてきた。それは悲しそうな、寂しそうな、混乱しているような。トアンは気づく。

(……チェリカも、リングさんのこと、気がついてるんだ)

 そう結論を出し、トアンはルノの後ろで頷いて見せた。後で話すから、全部。

 チェリカが安心したように目を細めて、ルノのすぐ傍のユニコーンに目を向ける。

「……怪我してるね」

『ああ。だが心配はいらないよ』

「君の命と引き換えに、私のこんな傷を治すの?」

『こんな、ではないよ……最も、私が一番治したい心の傷までは癒せないが。君の可愛らしいその耳が治れば、ほんの少しでも君の心は安らぐであろう?』

 ユニコーンは優しい視線をチェリカに向けると、一歩踏み出した。途端によろける体を慌ててルノが支える──トアンも急いで手伝うが、ユニコーンは不要と首を振った。

『離れておいで、二人とも。私はユニコーン。けれど馬のようなものだ。私の体の下敷きになれば、そんな細い腕簡単にへし折れてしまう……大丈夫だから』

「し、しかし……わかった」

 心配そうな視線を向けながらもルノは一歩下がり、トアンと共に大人しくユニコーンを見守る。ユニコーンはそっと前足を折るとチェリカに頭を垂れ、服従の意を露わにした。

『空の子チェリカ。ヴェルダニアの意思を切裂き生まれた、気高き魂。それを救う機会に恵まれ、光栄に思う』

「……ありがとう。でも私はもう、そんなにすごいものじゃないよ?」

『君は、自分のことを知りすぎている。けれどそれと同じくらい知らないのだよ。君が今後どんな選択をしようが、私は今この瞬間を後悔することはない。願わくば、君も君の意思を真っ直ぐに持ち続けられることを』

 意味深なユニコーンの言葉をどう受け取ったのだろうか。チェリカはただそっと微笑むとそれ以上何も言わず、ユニコーンの細く繊細な首筋に抱きついて鬣に顔を埋めた。

 ユニコーンは天を仰ぎ、瞳を細める。そして独り言のように小さな声で呟いた。

『……リングを、救っておくれ。私は彼を良く知らないが、私も彼の友人だ』

 ……それは、トアンのすぐ横にいる、ルノに向けられた言葉だったのかもしれない。

 白雪のように純白の体の内側から輝きだした命のともし火が、一際大きく燃え上がった。白く優しい光がトアンの目を撫で、体の痛みをどこかへ連れ去っていく。

「ユニコーン……!」

 ルノが小さく叫んだ瞬間、視界が一瞬だけ白く塗りつぶされた。

 

 ──そして次の瞬間には、森には再び静寂が訪れていた。



 それは一瞬だったのか、長い時間だったのかはわからない。

 ……幕が開くように光がはけると、そこにはひとり、チェリカが佇んでいた。まるで見えない手に頭を撫でられるように瞳を閉じ、ほのかに心地良さそうな笑みを浮かべて。

「チェリカ……チェリカ!」

 ルノが駆け出し、妹の肩に手を置いて揺さ振る。眠りから覚醒するようにチェリカは瞳を開け、ルノを青い瞳に写した。

「お兄ちゃん、ありがとう。ユニコーン、感謝してたみたいだよ」

「そんな、私は何もしていない! ……お前、傷は?」

「ん? ああ、うん。いいみたい、どう? 見えないからわからないけど」

 そういってチェリカは耳にかかる不揃いな髪の毛をかきあげて見せた──その白い耳を覆っていた消毒液の匂いと包帯はもう、ない。一流の彫刻家が端整をこめて彫り上げたような美しい形の耳が、柔らかな森の光の中に照らし出されている。

「……治っている。跡形もなく──……そうか。ユニコーンは、還ったんだな」

「そんな悲しまなくていいんだよ」

 のほほんとしたチェリカの一言に、ルノが眉間に皺を寄せる。そして苦しそうに言った。

「頭ではわかっている。巡り巡る命だ、けれど……!」

「違う違う、そういう意味じゃあない」

「なに?」

「お兄ちゃん、ここに手を当てて」チェリカの白い手が、ルノの手をとってルノの小さな心臓の上に乗せる。青い瞳をそっと細め、チェリカは続けた。

「彼は、ここにいる。お兄ちゃんはユニコーンに認められて受け入れられたんだよ」

「……受け入れられた?」

「そう。あんなに優しそうな目をしていたけど、私が来たら逃げちゃったと思う。セイルでもトトでもトアンでも、ユニコーンとは話ができなかったと思うの。でもお兄ちゃんは彼と友達になれた」

「……ともだち、か」

 そっと呟いたルノが振り返り、トアンを見た。トアンは思わず目を瞬かせるが、ルノはふっとため息をつくと目を泳がせる──トアンはやっと、ルノが自分を見ていたわけではないと気がついた。

 そっと二人に近づいて、ルノではなくチェリカの目線と自分の目を合わせる。

 チェリカはそれにウィンクして応え、大人びた表情を浮かべ、ルノに言う。

「それがどういう意味なのか私にはわからない。けど、それがとても光栄で、すごいことなんだなぁってのはわかるよ」

「……私は、何も……」

 そう呟くなり顔を伏せたルノとは正反対に、顔を上げてチェリカがトアンを見た。トアンは先手を取る。


「治ってよかった」

「えへへ、ありがとう。……でも、ピアスは取られたまんま」

「取り返すよ。チェリカの魔力ごと絶対に」

「……魔力は別に、いらないよ。またこうして旅ができるのも、ピアスが無くなったおかげだもん」

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