第50話 ルノと人形




 再び太陽が顔をだし、暖かな光が射しこむ時刻。

 トアンは身支度を終え、以前も利用した港に着ていた。

「また……船に乗るのか」

 船酔いしやすいルノがうんざりした顔で呟く。と、その背をバシンと叩いて、チェリカが笑った。

「しっかりしてよお兄ちゃん。船酔いなんて、ちょっと気の迷いだよ」

「そ、そうだろうか?」

「そうそう。だから、大丈夫って思ってれば案外大丈夫なの……ね、トアン」

 そういって笑いかけるチェリカを見ると、思わずトアンの胸がキュンと高鳴る。丁度その時、セイルがトトと一緒にチケットを持ってこちらに走ってきた。

 ──そう、今度の旅はチェリカも一緒だ。森の奥深くまでは行動できないが、それでもトアンは、チェリカが傍にいてくれるのがこんなにも胸が躍るのかと改めて知った。

 ルノはもちろんのこと、トトはチェリカと一緒に森の入り口付近で待つということで同行し、セイルはチェリカのためなのとついてきた。今回は五人の旅になる。

 ……実は、プルートとシオンも同行するはずだったのだが、プルートが駄々をこね始め(シオン談)行かないと頑なに首を振った──あんなにシオンにからかわれ続けては、その気持ちもわからないでもないが。トアンはちょっぴり、プルートに同情した。

「チケットとってきましたよ」

「ね、ね、早く乗ろうよぉ。お弁当あるんだよね、おっべんとー」

 トトの手を取って、チェリカが嬉しそうに小躍りする。ウィルとレインは見送りにはこれないが、せめてもと弁当を用意してくれた。チェリカはそれが嬉しくてたまらないようだ。

(あんな無邪気なチェリカ、久々に見たかも……)

 シアングの死以降、また色んなことがあった。チェリカは、真面目な顔か悲しそうな顔、もしくは泣きそうな顔をしていた。だから本当に久しぶりで──何故か懐かしい。

「トアン? 何をしているんだ」

「あ、うん、今行く」

 感傷に浸るのをやめ、トアンはルノの後を追う。

 今更ながら気付いた潮の香りが、さらに心を晴れ晴れと照らしてくれる。

 今回の船は焔城に向かったときよりも一回り小さいが、その分機敏性に長けているようだ。風になびく白いマストは、チャルモ村の家の、洗濯物を沢山ほした物干し竿を思い出させる──などと考えているど、カンカン、と出港の合図の鐘の音が、天高く響き渡った。


 トアンたちを乗せた船は潮の流れに乗って予定よりも順調に航海を進め、次の日の早朝の予定が、その日の夜にはミスカル大陸の北の岬の小さな港街、ラッセタに到着した。港で見た大陸の地図によると、ピュトの森はここから馬車で三時間ほど先にある。

「この大陸は、半分が未開地域なんですね。ピュトの森みたいにまったく人間の手が触れていないところがたくさんある」

 と、トトが感心したように呟いた。すっかり眠そうなセイルが欠伸まじりに答える。

「そーなの……? ああ、俺様、よくわっかんないの……ふわあ」

「あはは、もう眠いの? どっちかが勝ってたり、自然と人間が共生しているところはあるけど、ここまでハッキリわかれてるのは珍しいんだよ」

「ね、眠くないの、眠くないのよ」

「うそでしょー」

「違うの! 違うの!!」

 きひひと笑うチェリカにセイルが必死に反論し、そして大きな欠伸をする。三人のやり取りを見ながら、ルノが微笑みながらトアンに話しかけてきた。

「……トアン、どうする? 地図を見る限り、ピュトの森は相当広いぞ……そういえば私たち、ほとんど情報のない状態でここにいるんだ。森のどのあたりに目的のユニコーンがいるかわからないんだから、今日は一度休息をとってから森へ行こうか」

「……。」

「どうだろう?」

「……オレは、できれば、少しでも早くチェリカを治してあげたい」

「何故口篭る」

「だって、みんな疲れてるでしょう? ルノさんだって船の上でなんどもなんども」

「その話はいい! ……疲れているが、なんとかしようと思えばなるものだ。馬車を借りていけるだけ行ってみるか? 寝心地は悪いだろうが、仮眠はできるだろう……私はお前の意見が聞きたくて尋ねているんだ。もう、遠慮はいい関係だろう?」

「うっ」

 真っ直ぐな目で見つめられては、もう何も言い返せない。トアンは言葉を詰まらせた挙句にしどろもどろになってしまった。それを見たルノはそっとため息をつくと、笑う。

「……ふふ、変な奴だな」

「あ、そうかな……」

「変だよ。普段はこんななのに、何かあると人が変わるな、トアンは」

 一瞬シアングの話題なのかと思いヒヤリとしたが、ルノはニコニコと笑ったままだ。その事実がトアンの胸を締め付ける──傷は、まだまだ生々しいのだと自覚している。コレでよかった、コレしかなかったのだと思いながらも。

「じゃあ……馬車を探してくるよ。ルノさんはみんなと一緒にここでまってて」

「わかった」

「あれ、トアンどこいくのー?」と、話を全く聞いていなかったチェリカが能天気に呼んでいる。ルノがすかさず説明をしてくれたので、トアンはそのまま歩き出した。

「トアン、待ってー。何かおいしいものも買ってきて」

「はあい、わかったよ」

 きゃらきゃらとした可愛らしい笑い声を背中で受けながら、トアンは足を速めた。


 ──考えないように頭から追い出した傷。それは何度見ても、あれから少しは時間がたったのにちっとも癒えてなどいない。

(セイルさんの笑顔を見てもなにも痛まないけど、ルノさんの言葉は……違う、違うんだ)

 それでも何もできない自分が、ただ歯がゆくて、不意に泣きそうになった自分を叱咤する。


 

 数十分後、トアンは無事に一台の馬車と契約することができた。小さな港町なので、隣町に向かう足は発達している。

 馬車乗り場、と書かれたロータリーには、黒白茶色と様々な馬がいて、馬の横にはまた様々な従者がいた。トアンが選んだのは、気の良さそうな老人だ。

 その後テントを並べる屋台で適当に食べ物を購入し、仲間の元へ戻る。保存食は買っていない。どうやら大きな道には露店がかなりあるようで、今ここで多く買う必要はないと思ったからだ。

(森に入れば、また食べ物があるだろうし)

 トアンは秘伝だというタレをたっぷり絡めた焼き鳥と焼きたてのパン、魚のつみれのスープの入った容器を大事そうに抱え、人ごみを掻き分けていく。従者とは、町の門をでた先で待ち合わせだ。

 ちらりと振り返ると、大きな船が影になって港にひしめき合っている。

 トアンの足は自然に止まって、ふと赤紫色の髪の毛を思い出した。


 ……ジクリ。


 胸の傷がまた痛む。

(……考えても仕方ないことじゃないか)

 このもやもやの解決策は見つかった。簡単だ、ルノがシアングの存在を思い出せばいい。君を必死で守って君を頼りにしていた彼のことを、君は何故忘れてしまったの?

 ……けれども、シアングを思い出すことはすなわち、ルノの心を再び揺さ振ることになる。シアングの死によって壊れたルノの心は、歪な形で修復されてしまった。なんとかツギハギだらけで治した心は、カケラを一つ、どこかへ落としてしまったのだ。

(……そう、仕方ないんだ)

 何度も何度も自分に言い聞かせると、トアンは足を無理にでも進めると、視線を船から強引に剥がす……空には星が煌いて、トアンをそっと見守っていた。


 *


「トアン、元気ないね?」

 まだ温かいスープの器に口をつけていたチェリカが首を傾げる。馬車がごとごとと揺れるのでスープを飲むのも一苦労だが、チェリカは自分のペースでこくこくと飲んでいた。

「え、そうかな」

「そ、だよ」シギ、とネギを噛む小さな音が聞こえる。

「……なんだかぼーっとしてる。疲れちゃった?」

「そ、そうかも……」

「買出し一人でいかせちゃったし、ごめんね」

「ううん、いいんだ」

 買出しなんて別に一人で十分な量だったし、とトアンは付け足す。いままで天空の箱庭にいたチェリカに、少しでも色んな景色を見せて自由にさせてやりたかったのだ。……彼女が自由を憧れ、そしてどれだけ愛しているか、知っているのだから。

 トアンとクッションにもたれるチェリカの前では、セイルが床にさっそくスープを零してルノに怒られて小さくなっていた。まあまあ、とトトが笑って片付けている。

「……なんだか不思議」

「なにが?」

「…………こうして見てると、まだ何も変わらない気がするの。ウィルとレインは幌の上にいて、そのうち喧嘩してウィルが降りてくる」

 ──何の話か、と聞かなくてもわかった。わかってしまった。

「それで、シアングがまあまあって言うの。私はただ笑って、トアンは巻き添えを食って、お兄ちゃんは困ったり怒ったりオロオロしたり……」

「チェリカ、それは……」

「わかってる。もう過ぎた事、過去の幻想だって」

 そういって悲しそうに笑うチェリカは、空になった器とコトリとおいて目を細めた。

「……オレも、港で船をみたときに思い出してた」

「トアンも?」

「うん、オレも──今の現実は間違ってるって気付いてるから。セイルさんの存在をとやかくいうつもりはないけど、でも思うよ」

 ──いつだったか、トトが森の中で泣いていた。ウィルとレインを見て、過去に縋りたい、もうこれ以上を見たくないといって泣き喚いていた。


 今なら、その気持ちが良くわかる気がする。あの日あの時の場所にもう一度だけ帰ることができるのなら、油断なんてしてないで、薄っぺらい勝利感になど浸っていないで、ゲルド・ロウをぶん殴ってやる。そしてシアングを死の運命から連れ出すのだ。

 ……それがいいことかはわからない。シアングが自ら死を望んだ理由を、トアンはよく理解できていない。

「トアンが今何考えてるか、私にはわかるよ」

「チェリカ……」

「でも、私たちは過去へ戻る術をもたない……だから進むしかない。どうしてこうなったとか、どうすればよかったとか、どうしようもないなら考えてても仕方がないこと。今何ができるかを考えるのが一番大事だと思うな」と、チェリカは遠くを見て呟くと器を置いて、クッションを引っ張り出した。馬車の床はカーペットが敷いてあるものの、やはり硬い。

「……そういって気持ちが整理できるなら、とっくにできてるもんね」

「いや……ありがとう」

「……ふふ。ね、トアン」

「ん?」

「シアングのことを後悔してるのは、君だけじゃないよ。私もトトもセイルも、ウィルもレインも……お兄ちゃんもきっと。だからあんまり一人で抱え込まないで」

 青い瞳が、馬車の中を明るく照らすランプの光を宿して輝く。どこまでも青い、雲ひとつない空を思い出させるそれは、トアンの鼻の奥をツンとさせた。

「……そろそろ休みますか」

 二人の空気を察したトトが小声で呟いて、残りを一息で食べると後片付けを始めた。トアンはチェリカの瞳の奥を見つめながら、いつの間にか眠りに落ちていった──……。


 *


 小さな窓から白い光が射し込んでくる。

 クッションを使おうが毛布に包まろうが、揺れる馬車の中での寝心地はあまりよくない。一年前の自分たちの馬車はもっと良かった気がするが、今は焦がれても仕方がないことだ。トアンはとりあえず、腰の痛みで目が覚めて不機嫌だった。

(あんまり寝た気がしないな……)

 ゆっくりと立ち上がり窓を全開にあけると、小さな馬車の中に光が満ちた。と、鼻に濡れた土の匂いが飛び込んでくる。顔を出せば、埃っぽい街道の先に、一面に広がる深い緑が佇んでいた。

 トアンの機嫌は一気に回復し、仲間たちを起こそうと振り返る──チェリカはクッションに埋もれて、トトとセイルは寄り添うように毛布に包まって眠っている。三人とも眠りは深そうだ……と、壁にもたれていたルノが、紅い瞳をトアンに向けていた。

「あ、ルノさん起きてたの?」

「……あぁ」

 枯れた声と煮え切らない返事だ。まあ、朝に弱いルノは大体こうだとトアンは考え、特に気にしないことにする。

(兄さんが一番朝に弱かったんだよな。その印象が強くて忘れてた……最近は寝ぼけるとこ見てないけど。ルノさんだってあんまり朝は得意じゃないんだっけ)

 そんなことを欠伸交じりに考えていると、もぞりとセイルが動いた。次の瞬間、トトの身体が毛布から転がり出てくる……蹴り飛ばされたらしい。

「あはは、トトさん大丈夫?」

「……うう、う……」

 トトはごにょごにょと呻くと丸くなってしまった。正座をしたまま上体だけを倒したような、妙なポーズで。トアンはたまらず笑いだすのだが、ルノはどこか一点を見つめたまま反応がない。

 ……トアンはようやく、ルノが自分を見ているわけではないことに気がついた。

「ルノさん?」

「……ん? どうかしたか」

「いや、どこみてるの? 具合悪い?」

「……あ、ああ、すまない。考え事をしていたんだ」そういいながらルノがぱっと顔をあげる。

「大丈夫、馬車に酔ったわけではないからな」

「あ、うん。それならいいんだ」

 もう、そのトアンの言葉すらルノの耳には届いていないようだ。ルノは再びどこかをぼんやりと見つめるだけで、反応がない。

「ルノさ……」

「ふああああ。良く寝たぁ」トアンの言葉をかき消し、チェリカがんーっと伸びをしてとクッションの海からあがった。

「おはよ、トアン、お兄ちゃん」

「あ、おはようチェリカ」

「……? トアン、お兄ちゃんどうしたの?」

 何か考え込んでいるルノを見てチェリカが首を傾げる。トアンもさっぱりわからないので、お手上げだと肩を竦めてみせた。

「ごめん、わからないな」

「ん……まあ、お兄ちゃんも気難しいからね。特に気にしなくて良いか。ほら、トトとセイル、起きて起きて! いい匂いだよ、キレイな森のにおいがするよ」

 それで結論がでたようだ。チェリカはルノの様子を特に気にすることはなく、トトとセイルに絡みだす。トアンはもう一度だけルノを心配する目線を送ってから、丸まったまま眠っているトトをそっと揺さ振った。

 その時小窓が開いて、従者の声が入ってくる。

「お客さん、そろそろピュトの森ですよ。森の入り口には露店があるので、その前でおろしましょうか?」

「そうだな、そうしてもらおうか」

 トアンよりも先に言い放ったのは、ルノ。先ほどまでの儚げな表情ではなく、もうしっかりした目だった。

「ルノさん」

「すまない、すこし寝ぼけていたようだ」

 もう心配はいらないからといって笑うルノの横顔に、トアンは違和感を感じたもののそれ以上の追求ができず口をつぐんだ。足元では、んん、とトトが背伸びをしてセイルと一緒に起き上がる。

 もう一度トアンがルノを見たときに、違和感は跡形もなく消え去ってしまっていた。一人首をかしげてから、トアンは身支度を整える。久々に背負った剣の重みが、妙に重く感じた。

 ごとごと……ぽくぽく、ごとん。

 車輪の音が馬のヒズメの音にかき消され、馬車がとまる。一足先に準備を整えたチェリカが幌を開け、うわあと感嘆の声を上げた。

「トアン、みてみて、すごい!」

「待って……わあ、本当だ!」

 急かされるままトアンも馬車を降り、そして口を大きく広げる。

 ──ピュトの森は、どこまでも深く深く重なった深緑の海だった。風が葉を揺らすたびに波打ち、澄んだ空気が肺を満たす。小鳥の鳴き声はどこか遠く、苔むした大木たちががどっしりと構えている。トアンが今まで見たどんな森よりも人間を寄せ付けない雄大な雰囲気であり、太古のままの息吹を感じることができた。

(ハルティアの傍に立ってるときを思い出すや)

 森の中は日光が葉に遮られて暗い……はずなのだが、不気味な印象はない。むしろ、大木の白い幹は光り輝き、生命の光に溢れている。鳥肌が立つほどの静けささえも、慣れてしまえば森林浴として楽しむことができそうだと考える。

「マイナスイオンが溢れてる」

「お肌ピチピチなのよー」

「……セイルさん、まだまだ若いでしょう」

 幌から顔を突き出したセイルがひらりと飛び降りてきた。腰の双剣がガシャリと音を立てる。続いてトト、ルノが降りてきた。

 ぴゅい、とどこにいたのかコガネがトトの肩で鳴く……トアンはコガネがついてきたことに今更ながら気付いて驚いたのだが、彼女も過去を見届けたいのだろうと思い一人納得した。

 全員が降りたことを確認し、トアンは運賃を支払うべく財布を持って従者へ挨拶する。と、チェリカもついてくる。

「ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。お帰りはどうなさいますか」

「あー……いや、大丈夫です。なんとかします」

「滞在期間をおっしゃってくだされば、お迎えに参りますよ?」

「大丈夫、ありがとう」

 トアンの横からチェリカが頭を下げる。従者の目尻が優しく下がり、そうですかと深々と礼をしてくれた。

「ではお気をつけて」

 従者はポケットから飴玉を一つ取り出すとチェリカの掌に乗せてやった。もう子供じゃないのだからとトアンが苦笑して見守る中で、チェリカの顔はぱっと輝く。

「うわーい、ありがとう!」

「いえいえ」

 もう一度会釈をし、トアンたちが一歩後ろへ下がったのを確認すると従者は鞭を鳴らした。ゆっくりと動きだす馬車に向かってチェリカは手を振って、じゃあねーとのんきに叫ぶ。

「行っちゃったね。いいひとだったねえ」

「うん……チェリカ、君、今いくつ?」

「14……じゃない。15だね」

 くすくすと子供らしく笑い、チェリカは飴玉の包みを開けて口の中へ放り込む。からころ、といい音がした。

「んん、おいし! 子供っぽいって思う?」

「いや? もともとチェリカは子供っぽいでしょ」

「えー、そうかな」

「そうそう」少しだけ不満気な反応が楽しくて、トアンは笑いながら続けた。

「セイルさんとかシオンが傍にいたから、少しだけ大人に見えてただけだよ」

「んー……良く分からないけど、いいもん」

 ──予言めいたことを口走ったり、全てを見透かすような態度をとったり……それはヴェルダニアとしての本能が告げるだけで、チェリカ自身はまだまだ等身大の15歳。

 甘えを許されなかった育ちにより大人びてみえても、飴玉一つに大喜びするところは本当に懐かしいほど、純粋なチェリカの姿だ。

「あー、何食べてるの、いいなあ、俺様もアメほしいの」

 馬車が見えなくなると、見送っていたセイルがばたばたと近寄ってきた。そして唇に手を当てて悲しそうな顔をする……改めてみると、顔が良いだけにシュールな光景だ。

「森へ入る前に買ってもらいなよ、トアンに」

「ええ、オレ!?」

「うん、そうそう! 森に入っちゃったら飴なんてないからねー、疲労回復のために何個か買っていくといいよ」

 もっともらしい顔で言うところがチェリカらしい。一年前のトアンならば、チェリカの言葉をそのまま飲み込んでしまっただろう。

「チェリカが欲しいだけだろ」

「あ、そういうこという? お兄ちゃんだって欲しいよね」

「え、あ? あ、ああ……」と、不意に話を振られたルノがうろたえる。

「なあにお兄ちゃん、ぼんやりしちゃって」

「いや……なんでもない。飴玉だったか? 買っていこうか。いくつ欲しいんだ」

「……トアン、お兄ちゃんちょっと変」

「なんだその哀れみの目は! こら、やめなさい!」

 ルノの切り替えしをお気に召さなかったチェリカが眉を顰めてトアンを見る。トアンは共感するかどうするか少し迷い、けれどもルノが真っ赤になって慌てるのを見ると可哀想に思えてきて、そっと視線をそらした。

「お、お前もその反応はやめろー!」

 うわーんとルノが大声を上げると、遠くで鳥たちがバタバタと飛び立っていく。トアンはまあまあと宥めながら、背中越しにふと聞こえてきた声に気がつく。

「……ルノちゃんが何だか変なの」

「兄ちゃん、アメいくつ欲しい?」

「あ、イチゴとグレープ、三つずつ。あとクッキーとチョコレートも外せないのよね」

「うん、わかった」

 トトの笑顔に、セイルの顔もにんまりと綻ぶ。トアンは慌ててルノを右手で引っ張ったまま二人の会話に割り込んだ。

「ちょ、ちょっとちょっと! 遠足に行くんじゃないんだからね」

「ちぇー。ね、ルノちゃんお菓子いる? お菓子食べたら元気になるのよ」

「私を子供扱いするな!」

「それで怒るのが子供なのよ。俺様、おっとなー!」

「お前が大人なら私は神だ、神」

「むぅー、ずるいの、じゃあね、じゃあ俺様はね……」

 ──チェリカが歳相応の反応をみせてくれるならば、ルノも同じだった。いつもは大人びている癖に、たった一つだけだが妙に歳下に見える。

 二人が子供のようないい合いをする横で、チェリカが指を指して笑い、トトはトトで律儀にセイルの注文の品を購入していた。虫刺されや軽い毒消しの薬も一緒に頼んでいるところを見れば彼はマシな人物なのだが……

「トアンさんもお菓子いります?」

 大真面目に聞いてくるトトは、やはりどこかずれている。トアンはパンパンと手を叩いてから、いくよーと号令をかける。

 肩の上に飛び乗ってきたコガネが、楽しそうに一声鳴いた。


 *


 落ち葉を踏んで木の根を跨ぎ、小川を越えて獣道を掻きわけた先にあった、ぽっかりとした小さな野原で、チェリカとトトと別れた。

 もう太陽は真上から西へと傾き始めているのだが、森はまだまだ深い。

「あうー、疲れたのー」

「ぴゅい」

 トトの代わりにと言うようについてきたコガネが、トアンの肩の上で答える。

「ううーコガネー、ユニコーンなんてどこにいるのー」

「ぴゅい……」

「コガネだってわからないみたいだよ、セイルさん」

「んう……」

 巨大な木の根を潜りながらトアンが苦笑して返すと、セイルはしょんぼりと肩を落とした。トトが買ってくれたアメはもうない……一番早く口調が少なくなったルノに、セイルが押し付けるように渡していたからだ。クッキーとチョコレートはみんなの保存食として決めたようで、手をつけていない。

 ……そして今も、セイルはしっかりとルノの手を握っている。

「森の深さがどれくらいだかわからないが……こうやってまとまっているのはあまり得策ではないかもしれないな」

 木に片手で寄りかかりながらルノが呟く。セイルはぴたりと足を止め、トアンの意見を伺うように首を傾げた。

 トアンは周囲を見渡し、まるで力強く抱き寄せてくれるような木の根に腰掛けた。トアンが座ったことでセイルとルノもそれぞれ腰を降ろす。

「うーん……でも広いよ? バラバラになるのは危ない気がするな」

「しかし、何日もこの森にはいられないだろう」

「そうなんだよねー……」

 トアンが腕を組む。三人とも黙り込んでしまうと、遠くから聞こえる川のせせらぎと鳥の鳴き声だけがあたりを埋め尽くした。濡れた空気はどこまでも澄み、緑の息吹が肺を抜けていく。人間がこの場にいることを森全体が不思議がっているようだった。

「……あてもなく歩くの、疲れるの」セイルがぼやき、足を伸ばす。

「ユニコーン、どこにいるのよー」

「まだ森の入り口付近だろう? 我慢しろ」

「うー、うん……」

 ルノに諭され、セイルはふああと大あくびをするとトアンをねだる様に見た。トアンは苦笑しか浮かべてやることができず、彼の願いが叶わないことをしめす。

「さ、もういこう」セイルの背中を押してルノが立ち上がった。

「いつまでもここにいてもユニコーンには会えないだろう。太陽さえ見失わなければ森からでることはできるんだ、進もう」

「うう…わかったの」

「トアン、先ほどのことなのだが……」

「別行動はもう少し後にしよう」トアンはルノに微笑んで、自らも立つ。足の裏がジンと傷んだが、まだまだ歩ける。

「もう少し歩いてみて、なにもなかったら考えよう。シオンがね、えっと……」

「シオン?」

「うん」トアンはポケットの中からシオンがくれたメモを引っ張り出した。紙には『ヒント、ただしコレを見るのはおばかさん』と書かれている……が、見ないわけにはいかないだろう。トアンはメモを広げ、ルノに突きつける。自らはもう確認済みだった。

「シオンのヒントによると、水に関係するところを捜せばいいんだってさ」

「なるほど」

「トアンは闇雲に歩いてたわけじゃなかったのね」

「まあ、一応。じゃもう少しがんばろうか」

 トアンが足を動かすと、ふわ、と緑の光が降りてきた。けれどもトアンは恐れない。この光はこの森で何度も見ているし、ルノが悪意の魔力は感じないと言い切っていた。木の生命力が落葉するようなものだとルノが呟くのを聞いていたからこそ、トアンは微笑んで光を手に包む。

 それは掌には残らない雪の結晶のようなものだが、何故だか心がほっとするのだ。

「トアン、ねーったら」

「……ん、あ、ごめん。何? セイルさん」

「水の音がするのよ」

 セイルの無遠慮な声により、トアンの心を包んでいた緑の気配はふっと拡散した。まだ眠い自分を引きずり出す目覚まし時計のような声に、ほんの少しだけ煩わしい感情を覚えながらも振り返る……セイルが神妙な顔をして両耳に手を添えて立ち尽くしていた。

「どこだ?」

「あっち」

 ルノの問いかけに迷わずに指を指す。トアンはルノと顔を見合わせ、うんと頷きあった。そしてセイルが指す方向へと足を向ける──根を潜り、茂みを掻きわけて大木を跨いだ先に、セイルの言うとおり小川があった。それは先ほどまで見てきた小さなものとは違い、石を抱いて流れをつくり、より大きな流れへと変わるものだった。

「この先にユニコーンがいるかも」

「しかし……先が別れているぞ」微笑むトアンに、考え込むようにルノが答える。ルノの言うとおり、川の先は四方向にわかれており、それぞれ水面までせり出した茂みの向こうへと消えている。

「別行動をとるか?」

「うーん……案外早かったけど……そうだね」トアンもうんと首を傾げて見せた。視界の端では、セイルが退屈そうに口を尖らせている。どうやら水遊びでもしたいのか、つま先の先で水面を蹴っていた。

「セイルさん、別々でも大丈夫?」

「う? 俺様は平気よ。太陽が見えれば帰れるんでしょー。それにこんな静かな森、どこかで大きい音でも出せば響き渡るのよ」

「大きい音、とは」

「ルノちゃんわからない? そうねー、木を一本倒してみせるとか……」

「……愚か者め。セイル、無闇にこの自然を傷つけてはいけない。ユニコーン以前に、なにかしら制裁を受けることになるぞ」

「ええ……っそれは怖いの……」

「ま、まあまあ」涙目になるセイルと腰に手を当てたルノの間に割り込んで、トアンは両手を振る。

「セイルさんの言うとおり、何かあったら大声だすとかはいいね。セイルさんは耳が良いみたいだし、方向がわからなくなったら無闇に歩き回らないで助けを待つことにしよう」

「うむ……そうだな」ルノがすっと首を巡らせると、雪が降る様に光が彼の上に零れた。ルノは小さく微笑むと一番右の流れを指差す。

「私はここにしよう。話してる時間も少し惜しいな。早くチェリカを助けてやりたいのは、トアン。お前だけではないんだぞ」

「そういうことなの……じゃ俺様はこっちね。ルノちゃん、ほんと一人で大丈夫なのー?」

「大丈夫だ。セイルこそ変なもの食べて腹を壊すなよ」

「壊さないの!」

「……じゃあ、日没まで別行動ね。日が落ちてきたら其々チェリカたちのところへ戻ろうか」

 トアンが言うと、セイルがわかったと手を上げる。若干不安なところもあるのだが、川に沿って歩いていくだけだ。川を辿ればこの場所に戻れることは確実で、ここからチェリカとトトの待つ広場はそう遠くない。幸いにも、今のところ魔物には出くわしていない。何かあったら大声を上げるということで、トアンたちは別々に森を探索することとなった。



 ──足の痛みを感じ、ルノは立ち止まる。太陽はもう夕焼けで、もう沈み行くだけだった。けれどもルノは戻ることはせずに、ただ前へ前へと歩いていた。

「こんな勝手なことをして、あとで何を言われるかわからないな」

 そう呟いて苦笑する。セイルはともかく、トアンが自分のことをかなり心配していたことにルノは気づいていた。

 ……でも、だからこそ。ルノは甘えたくはなかったのだ。

 ルノは傍にあった木に凭れ掛かるとブーツを脱いだ。右足の小指に靴ズレができ、伸びた爪が薬指に刺さって血が滲んでいた。手を翳して魔法を唱える……とみるみる傷は癒えていった。そうしながら、ルノはぼんやりと考える。


 ──それは、馬車の中で見た夢だ。


 夢の中で、ルノは走っていた。理由はわからないまま、ただひたすらに。

 いつのまにかルノの横に線路が築かれ、汽車の姿が現れる。夜の闇ように深い青の大きな汽車だ……と、突然足がもつれ、ルノは勢いがついていたこともあり盛大に転んでしまう。


 ──すると一瞬で過ぎて行った汽車の窓に、見覚えのある赤紫の髪の……。


『──!』


 手を伸ばして咄嗟に何かを叫ぶが、それは声にならず、ルノはそこで目を覚ました。


 夢による疲労感と何故か強い焦燥の余韻を感じながら、ルノは考える。あの時叫びたかったのは、きっと名前だ──あの、彼の。


「あれは誰だったのだろうか。セイルに……似ていた?」

 いつのまにか傷はもう癒えていた。ルノはため息をついてブーツを履きなおすと、再び歩き出す。オレンジ色の光に包まれた森の中で一人、ふと自分が悲しんでいることに気付きながら。

 ──何故悲しいかもわからないのに、何を悲しむと言うのだろう?

「知っている、ひとなのだろうか。私は……何か、忘れているのか?」

 何となく呟いてみた一言が、思いのほか心を揺さ振った。ルノは首を傾げ、もう一歩踏み出す。

 ──すると、突然。

「……な!?」

 ひらひらと目の前を舞い降りていた緑の光が、唐突に嵐に変わりルノを包み込む。ルノは咄嗟に頭を庇うようにするが、一瞬で強い風と土の匂いが過ぎ去ると、あたりの様子が一変していた。


 ……それは木々に守られた湖だった。透明感のある水に木々の根と降り積もった葉が透け、けれど鮮明ではない。どこか白い霧に包まれた、幻想的な世界だ……先ほどまでの命に溢れた森ではない。どちらかというと、全てが眠りについたような光景だった。鳥の声も虫の鳴き声もなく、水面がゆらりと光るだけ。

 いつくかの木が水の中に取り残され、島のようにぽつんと点在している中の一つに──白い腹を向けて倒れているユニコーンがいた。半身を水に浸し、閉じられた瞳と濡れた銀色の鬣と金の角。

「まさか、死んでいるのか!?」

 急いでユニコーンに駆け寄る。膝の下まで水に濡れたが気にする余裕はなかった。傍らにしゃがみこみ恐る恐るユニコーンに触れるが、反応はない。

 これでは、チェリカの耳は治らない?

 ──痛みを取り除いてやることはできない……。

「そんな……」

 愕然と呟いたとき、ルノはふとひとの気配を感じる。ぴちゃ、という水音に振り返ると、そこには青年が一人立っていた。


 その青年はじつに奇妙な外見をしていた。まず、ボサボサの赤紫色の髪の毛が鼻先まで伸びているため瞳をみることはできない。さらにボロボロのズボンと前を開けた青い上着、そして何のつもりか黒い首輪をしている。首輪からは千切られた鎖が伸び、チャリ、と独特の音をあげた。両手に捧げるように持った大きな葉の皿に、澄んだ水が湛えられている。

 ……青年の少し尖った耳と褐色の肌、それに背格好がセイルに良く似ているとルノは思った──それに何故か、とても懐かしい気がする。不思議なことに、初めて会った気がしなかったのだ。

 ……しばらく青年を見つめたまま固まっていたが、不意に我に返るとルノは青年を睨んだ。

「お前が殺したのか?」

「……」

「答えろ!」

「…………」

 ルノが感情に任せて怒鳴りつけるものの、青年は何も答えない。と、無言のまま右手の人差し指を立てて口元に当てた。

「……し、静かにしろ、ということか?」

 こくん、青年が頷く。彼はそのままユニコーンの傍らに腰を降ろすと、葉の皿をユニコーンの口元に当てた。

「なにをするつもりだ?」

 青年は答えない。黙ってみていろということだろうか。

 ルノが見守る中で、ユニコーンの白い喉が動き、水を飲む。すると銀色の睫毛に縁取られた黒く濡れた瞳がすっと開き、ユニコーンは上体を起こすとルノを見た。


『こんにちは、美しき少年よ。私に願いがあるのだろう』

 頭の中に直接響く声だ──これがユニコーンのコミュニケーションの方法らしい。

「あぁ。妹を助けて欲しい」

『ふむ……君は驚かないのかね?』

「まあな。知識の高い生き物だ、言葉を交わせても不思議ではないだろう」

 ルノは何となくガナッシュを思い出した。あれは中に入っていたのはひとの魂だが、動くぬいぐるみという存在を知っている以上、ユニコーンがしゃべったくらいでは驚かない。むしろ、こちらの言葉も通じ、意思の通達ができるのは喜ぶことだ……トアンが居たならば驚いてはいるだろうが。

『ふふ、少年よ。賢いものは嫌いではないよ。いいだろう、君の願いを聞き入れよう』

「ありがとう……あの」

 ルノは微笑みを浮かべながらちらりと青に視線を向けた。青年はグローブを嵌めた手でゆっくりとユニコーンの背を撫でている。

『あぁ……彼のことは気にしなくて良い。リングという、無口だが親切な男だよ。どうやら帰り道がわからないらしい……リングのお陰で私は生き長らえているんだ』

「先ほどのあの水か?」

 ユニコーンが慈愛に満ちた目で青年──リングを見るのを、ルノは若干驚きながら見守った。

『そう。あれはこの森の古木の朝露だ。私はもう、あれがないと動くことも意志を交わすこともできない。本来ならば終わった生だ。君の妹を救ったら、私は眠りにつくだろう』ルノの目が見開かれるのを見て、ユニコーンは続ける。

『いや、気にする必要はない。この身体は森へ還り、その土に森の息吹と澄んだ水が注がれてまたユニコーンが生まれる。そうしてまたこの森を守っていくのだ……たださすがに、非力な子馬では大きな力は使えないからね。なんとなく君がくることはわかっていたから、まだ還れなかっただけさ』

「なるほど……しかし何故? どうして私がここにくることを知っていたんだ?」

『我々ユニコーンは、ほんの少し先を視る事ができるのさ』ユニコーンの黒い瞳はどこまでも純粋で、この世で最も尊く美しいものにルノは思えた。

『少年よ、君の名を教えて欲しい』

 ルノの手に鼻先を摺り寄せ、そして黄金の角をそっと押し当ててユニコーンは言う。ルノは安堵感にため息をつきながら、誇らしい気持ちで答えた。

「私はルノ。エアスリクの王子、ルノだ」

『よろしくルノ。君のような美しい主人に最期に仕えることができて、私は幸せだ。君の妹は私が責任を持って救おう……けれど』

「?」

『……私には、君の心の傷を癒すことはできない』

「私の、心? ……何を言っているんだ?」

 何か自分が不審な発言をしたのかとルノは戸惑う。何故そんなことを言うのか。ユニコーンの意図がさっぱりわからず、そっと視線をずらす。

 それでもユニコーンの黒い瞳が、ルノを真っ直ぐに見つめている。ルノは仕方なく視線を合わせた。

『君は自分でも気がついていないのかい。自分の心が罅割れて欠けていくことを全く感じていないのか?』

「感じるもなにも……悪い、私にはさっぱりだ。お前が何を言っているのかがわからない」

『……なるほど』ブルル、とユニコーンが鼻を鳴らし、ひょいと首を傾げてルノを見上げる。

『君は失った代償も感じることができなくなっているんだね』

「さっきから何なんだ、私はどこか悪いのか?」居心地の悪さを感じながらルノは反論した。リングが視界の端で欠伸するのが見え、妙に親しみを持った自分がいることに気付きながら。

「確かに記憶は混乱している。だが別に不便なことはないんだ。ともかく、ベルサリオでチェリカが耳を……!」

『何故、君はベルサリオへ行ったんだい』

「それは! それは──」一瞬、何故だか言葉が詰まった。だがルノはさして気に留めず、答える。

「レインが行ってしまったからだ。レインを連れ戻すために、私たちは──……いや」

『いや?』

「いや……ならば何故、私はレインを助けに行かなかったんだ……?」

 口にしてようやく、ルノは自分が忘れている事実の重大さを知った気がした。

 ──そう、ベルサリオでチェリカは左耳を奪い取られた。そのベルサリオへ行ったのは、レインが行ってしまったから、連れ戻すため。……ルノにとっての事実はこれだけでもう十分だったはずだ。だから特に思い返すこともしなかったし、妹の傷を負った時のことを思い出したくなかった。


 そして、これ以上あの時のことを考えるのをやめてしまった。


「──けれど、思い出せない思い出せない! なにか、何か忘れているのに……!」

 ぐっとローブの裾を握り締めるルノのことを、ユニコーンは優しい瞳で見守る。

『答えはもう、君の中にある。誇っていい、君は全てを失ったわけではないんだ』

「わ……私、何を忘れているんだ……? あ」

 ぽろり、と何故か零れた涙。

 驚いた拍子に手の力が抜け──ポケットの中に何かあることに、いまさらながら気がついた。ルノは恐る恐る手を突っ込んで、中身を取り出す。

 ──それは、金色の髪飾りだった。

 ルノのものではない。プレゼントされたわけでも、盗んだものでもない、誰かのもの。けれども何故か持ち主のところへは帰れずに、ルノのポケットで眠っていた。


 誰のもので、何故自分が持っているのだろう。


 ──どうして、何も思い出せないのだろうか?


 ぎゅっと髪飾りを握り締めると、涙の勢いは増してどくどくとあふれ出した。泣いても泣いても、悲しさは拭えない。そしてルノが何より恐れるのは、また、今の自分に対する疑問を忘れてしまうことだ。

 今の自分は、砂漠の中から小さな宝石のカケラを見つけたことと同じなのだと自覚していた。それを掌の隙間から零してしまったら、今度は二度と見つけられないかもしれない……それが怖い、怖くて仕方がない。理由もわからないがただただ恐ろしいのだ。

「うっ……う、うう……っ」

『ルノ……』

「思い出せない、ううう、思い出せないんだ……何故、どうして」

 ルノの頭にふと蘇った光景は、自分が何だかとても永い眠りから覚めた日のこと。チェリカやトアンが何か言っていた。それが自分には全く理解できなかった──確か、チェリカはパートナーがどうとか言っていた気がする。

「……私に、私は……っ!」

 ひく、と喉の奥が引っかかった瞬間、ぽんと頭に懐かしい大きな手が載せられる。

 ──懐かしい? 顔を上げてみると、リングがすぐ前に立っていた。

「……泣くな」それは低く澄んだ、不思議と安心する声だった。

「ルノが泣くと、俺は悲しい」

「……っく、お、お前には関係ないだろう」

「……そうだな」

 リングの口元がそっと笑みを浮かべる。前髪の隙間から、優しく細められた金の瞳が見えた瞬間、ルノはぎゅうっと胸を握られたような感覚を覚えた。

 ──私は、知っている!

 

 今朝の夢が、一瞬で繰り返された。



「──!」


 思わず口が開くが……何も音にならなかった。焦ったルノは口をパクパクさせ、なんとかして声を絞り出そうとする。──今、一瞬だが確実に、何かが思い出せそうだった。

 ……けれど、それははっきりとカタチを結ぶ前に、儚く消えてすり抜けてしまう。

『……焦らなくていい、自分を責めることもない』

 ユニコーンが金の角を押し付けてくる──ひんやりとした感覚に、不思議と心が安らいでいく。ぽちゃん、とどこかで水滴の跳ねる音がした。森の静けさと潤いが、ささくれ立ったルノの心を癒してくれる……。

「……あ」

『落ち着いたかい?』

「あぁ……すまない、取り乱したりなんかして」

『いや、君の苦しみと葛藤が、空気を通して伝わってきた。君の傷は私の想像以上に深いようだ……それからルノ、君はリングのことを知っているのか?』

「知らない……と、思う」いまだリングの手はルノの頭の上に置かれたままだ。長い前髪にリングの口元以外はすっかり隠されてしまったが、リングは微笑んでいる。

 ──今はもう見えない金の瞳が、無性に恋しくなった。しかしルノは笑っている口元に視線を持っていく。

「……リングは私を知っているのか?」

「……。」

 にこ、とさらに口が綻んだ。……答えはわからない。

『けれど、リングも君が泣き止んだら安心しているようだよ』

「そうなのか? わ」

 つ、と大きな手が下りてきて目前に迫ってきた。咄嗟に目を伏せると、優しく目尻に触れる感覚。

「な、なにを?」

『涙を拭いているんだ。ルノ、君はリングに気に入られているようだね』

「そうか……ああ、ありがとうリング」

 手が離れるとそっと瞳を開けてみる。リングは満足気に微笑んでいて、その整った鼻立ちと無邪気な表情のギャップに、ルノはセイルをリングに重ねた。


『さて、そろそろ君の妹に会いに行こうか』

 ユニコーンが前足をたて、ゆっくりと身を起こす。ざばりと水が波立って流れ、静かな森に動きが生まれた。

「つれてきたほうが良くはないか? そんな近くには居ないぞ」

『いや、近くにいくよ……ルノは気づかなかったかい、君がここにくるときの緑の光──あれは私の使いだ。ここは森の最奥であり入り口だ。特別な閉じられた空間なのさ』

「ピュトの森の中ではないのか?」

『ピュトの森だよ。そうだな、異次元といった方が分かりやすいか? ひとの子にはどう説明すればいいか……』

「ああ、いやもう十分だ」ルノはユニコーンの身体を支えながら答える。ユニコーンの白い身体は細く、彼の言う通りもう長くはないことを感じさせた。

『すまないね。ところで君の妹はどんな娘なんだい? そもそも妹と言うのに、何故本人が来ないんだ?』

「そ……それは色々事情があるんだ」

『ふむ。兄は純粋そうなのに妹は大人なのだね』

「ち、違う! チェリカがそれを望んだわけじゃないんだ、クラインハムトが……! ああ、違う違う、それ以前の話なんだ。私の妹はヴェルダニアの魂の一部から生まれたんだ。邪神のカケラだから、純粋なユニコーンは逃げてしまうと」

 そういったときのチェリカの顔を思い出す。ただの15歳そこらの少女が背負うには重すぎた宿命と、そして悲劇。

 兄を守るためならばと涙を零すことすら押し殺し続けたチェリカは、やはり無理に大人びてしまった。そのくせ心の根源はまだまだ純粋で、飴玉一つに喜ぶような娘なのだ。

「……私は、チェリカを守れなかった。兄として生まれたくせに、自分の不幸を嘆くばかりで妹を守れず、頼ってばかりで……」

『自分を責めることはないよ。そうか、ヴェルダニアの子か……ふむ、風の噂で聞いていたが。神の子の正体が邪神だとね。だがしかし、その子は今を幸せに生きているのだろう?』

「……わからない。チェリカはいつの間にか、ヴェルダニアの力を抑えるために愛情を持たなくなった。友達はいる、何かにあこがれることもある。けれど、それが愛情だと気づかない。そしてそれ以上を考えない……」

『愛とはもっとも憎しみに近いものだからね。裏表、と言っても良いだろう。……憎しみを知らねば愛を悟れず、愛さなければ憎しみで心を焦がすこともない。しかし愛情というものは非情に危うい、薄い刃のようなもの。愛は生まれても、育て続けていくことが難しい。今は愛していても、明日には相手の存在を苦痛に思うかもしれない。今はどんなに愛していても、相手からの思いが捩れていくかもしれない……そしてその積み重ねで人間は成長し、時に壊れる』

「……? 成長するものなのか?」


 ──愛情。ルノにはいまいちわからない。まるで、途中でプッツリと道が途切れて先が見えないように。

 簡単にできるはずなのに、何故かできない数学の公式に焦るような……もやもやとした感情だ。

 

『そうさ。君はまだ子供だから、まったく理解はできないかも知れない。けれど心の内側は既に悟っているのさ。……何度も言うが、誇っていいのだよ。君はそれほどまでに愛する相手を見つけ、思っていたのだから』

 ユニコーンは前足を伸ばすと、まるで猫が伸びをするような仕草をした。そしてぶるぶると首を振って嘶く。

「……。」

 リングが迷惑そうに耳に両手を当てた──ルノの耳を、だ。ルノは驚いて息を呑むが、リングの優しさにふっと笑う。会ったばかりなのに随分好かれているようだが、不思議と不快だとは思わなかった。

『ああ、すまないすまない。歳を取るとどうしても様々なことを語りたくて仕方がなくなってしまう。特にひとの子は総じて愛おしくてね』

 ユニコーンが目を細めた、その時だった。


「……危ない!」




 リングが叫んぶのとユニコーンが悲鳴を上げるのはほぼ同時の出来事だった。ルノは強い力で宙を飛んでから木陰の地面に押さえつけられ、思わず息をのむ。状況を把握しないうちに耳元を鋭い風が通り過ぎ、直撃を受けた遠くの木がゆっくりと倒れる。攻撃されたのだ、とようやく悟った。

『くっ……』

「ユニコーン!」

 耳元のリングの悲しそうな声にはっとすると、前足を折ったユニコーンのわき腹に太い槍が突き刺さっていた。純白の腹からどくどくと鮮血が噴出して湖の澄んだ水を染めていく。

 同時に、リングに身を挺して庇われたことを知り、ルノは起き上がろうとするが──リングの腕に引き止められる。

「離せ!」

「……いけない、今出て行っては」

「助けてくれたことは礼を言う! だがユニコーンを救わないと!」

『いいやルノ……動いてはいけない』ユニコーンが苦しげに喘ぎながら呟いた。

『そこに居れば、今は敵から君たちの姿は見えないだろう。出てきてはいけない……狙いは私だろう』

「しかし!」

『……誰だ、ここに強引に入ってきたな』

 ユニコーンが首を回し、深緑の光の先を見る。ローブを目深に被った姿は、不気味な陽炎のようだった。


「やあ、クズ人形もそこにいたのか」


 中年の男の声だ。ローブの影から、蝋のように白い肌と蛇のように赤い目が覗いている──……。


 

 *


 ズズン……という鈍い地鳴りのような音に、トアンは足を止めた。隣のセイルがおろおろと周囲を見渡す。

 トアンとセイルの選んだ道は、思いのほか短く途切れていた。仕方なしに二人は来た道を戻り、別れ道で再会する。どうせならばとルノを追うことにした。

 ──けれどもおかしなことに、いけどもいけども似たような景色。何度も何度も同じところを歩いているような錯覚に戸惑いながらも、ルノの名を呼んで歩き続けていたところだった。

「今の……なんなの?」

「ルノさんに何かあったのかもしれない。急ごうセイルさん」

「う、うん……あれ?」再び歩き出そうとした矢先、セイルが首をかしげた。

「なんだろ、この変な感じ……」

「どうしたの?」

「うん、まさか……まさか、でも、ちょっと違う、絶対に違う」

 セイルはブツブツ呟きながら、いつになく真剣な表情をトアンに向けた。

「急ごうトアン。すごく嫌な感じがするの……なんだか、ベルサリオのあの時みたい」

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