第49話 星の犬神
「チェリカ、ねえ、チェリカってばおきてよ!」
トアンが慌てて抱き起こしたチェリカはぐったりとして顔色が悪い。苦しげに寄せられた眉毛と、きつく閉じられた瞳。
「バカか! ヘタに動かしてどうするんだ──今見るから」
異変に気付き、真っ先に駆け寄ってきたプルートが、トアンをきつく睨んでから身を屈めた。一拍遅れて、ルノが蒼白な表情で隣にしゃがみ込む。
プルートはルノを制し(まだルノの心に動揺を触れさせたくないと思ったのだろう)、チェリカの額に手を当てた。空いていた左手でチェリカの手を取ると小さく唸る。
「……ど、どうだ?」
「熱はない。脈拍も正常だ──不思議だな、顔色がこんなに悪いのに」
唸りながらプルートは首を傾げた。が、ルノの瞳が不安に大きく見開かれたのを見ると、手を振ってまだ対したことを調べたわけじゃないから、という。
「ベッドの用意したほうがいいですよね」
子供たちをを騒がせないようにウィルとレインが宥めている横でトトが立ち上がり、部屋を出て行く。おろおろするセイルはその後に続き、ばたばたと騒がしく足音を立てていった。
「どうしたんだよチェリカ、目を開けて……?」
部屋の様子もどこかぼんやりとしか捕らえないトアンの耳に、ふと小さな音が聞こえた。一瞬でも目を離したらチェリカが消えてしまいそうで逸らせなかった視線が、自然に変わる。
──その先に、彼はいた。
読みかけの本を手に持ったまま、彼──シオンはトアンを見つめている。
シオンはこの騒ぎに彼だけが位置を一歩も動かず、不思議な輝きをもつ紫の瞳でトアンを見ているのだ。
……と、シオンが唐突に小さく微笑んだ。チェシャ猫のような人を小馬鹿にした、けれどもどこか憎めない笑みをトアンに向ける……するとどうだろう。
(どうして笑って──あ、あれ……)
トアンの脳裏に、今の今まで思い出さなかった記憶がぽんと浮かんだのだ。それは、一年前の出来事。
(……そうだ。前にもあった。シアングが仲間になったすぐあと──チェリカは具合が悪そうにしてた。なんでだっけ……ええと)
「あ……魔力だ」
「何!?」
無意識のうちに呟いた言葉に、プルートが顔を上げた。鋭い声にトアンはハッとする。いつの間にか頭の中が随分冷静になっていて、周りの声も聞こえていた。
「……ほ、本当だ。トアンの言う通りだ」と、ルノが言う。ルノはプルートが持ったチェリカの手に自らの掌を重ねている。
「プルート、チェリカの魔力が非情に不安定になっている。降れ幅が大きすぎるんだ!」
「……果物を食べさせたほうがいいか。いや、まず安静だ。あ、僕が運ぶからいい」と、ルノの言葉に頷いた後プルートはチェリカを抱きかかえた。
トアンより背は高いが線の細いプルートである。若干よろめくかと思いきや、意外にもしっかりと立ちあがるところを見ると、少女一人くらいは抱き上げる腕力はあるようだ……ルノが少しだけ自信をなくした顔をする。しかしすぐに引っ込め、トアンを見た。
「ありがとうトアン……しかしよく覚えていてくれたな」
「え、ううん。たまたま思い出したんだよ。本当は凄いパニクっちゃって……」
「ホントにな。夢幻道士であるお前が、何故魔力を感じられたのか不思議だ」
そういってプルートがジロリとトアンを睨んだ。明らかにトゲのある言葉に、トアンはムッとする。
「ずっと一緒にいたんだ。それくらい、オレにだってわかるよ」
「ふん、どうだか。僕やルノですらすぐには気付かなかったほど、チェリカの魔力は読みにくい。それなのにお前は原因を突き止めたんだからな」
「……何が言いたいんですか」
「別に、何も」
「プ、プルート! トアンを責めるな、悪いわけがないんだぞ」と、二人の間の険悪な空気を敏感に読み取ったのだろう、ルノが慌ててプルートの背を押した。
「早くチェリカを寝かせてやろう」
そういいながらルノはぐいぐい押し──トアンを振り返る。すまない、ありがとうと紅い目が心配そうに伏せられた。トアンは首を振ってそれに答える。
(……ルノさんが謝る理由はないもの。大体、プルートさんがオレに突っかかってくるのは、今に始まったことじゃない)
二人の姿がドアに消え、トアンはため息をついた……プルートとは、最近は温厚な関係を築けたと思っていたのに。
未来の自分が彼にしたことを思うと自分が憤るのは見当違いな気もするが、かといって怒鳴り返す勇気もない。トアンは座り込んだまま、もう一度深い深いため息をつく。
「元気出してよ」
鈴の音のような声が頭上から降ってきた──顔を上げると、腰に手を当てたシオンが顔を覗き込んでいた。
「シオン……」
「トアン兄様が悪いわけじゃない。プルートが不機嫌なのはいつものことでしょ、気にするだけ無駄だよ」
「でも、オレはプルートさんを……」
「傷つける未来があるからなんだって言うの? ……大丈夫。今は何もなくても、おれは絶対に兄様を助けて見せるから」ね、と言いながらシオンは笑う。
「心の底から兄様が憎いわけじゃないのさ。アイツだって元々優しいやつだから、ひとのことを憎みきれてないみたいだし」
「……シオン。ありがとう」
トアンはゆっくりと身体を起こすと、今度は自分が上からシオンを見つめた。無意識のうちに手を伸ばしてふわふわの髪の毛を撫でるとシオンはクスクスと笑う。
「おれの髪の毛、さわり心地いい?」
「あ、ごめん。つい……」
「謝ることないでしょ。ふふふ、いいんだよ、おれも嬉しいし」
そういいながらペロリと舌を出すシオンの表情が、ふいに誰かに似ているような気がした。イタズラがばれた瞬間の、楽しくて楽しくて仕方がないような子供らしい顔。
(あれ……? 兄さん、じゃないよね。オレでもないだろうし、父さんはこんな顔しないし……)
「トアンさん!」
ぼんやりと思考に耽っていると、トトが勢い良く部屋に飛び込んできた。
「な、なに?」
「あの、チェリカさんの具合が……とにかくきてください。ルノさんとプルートじゃ、どうしようもないんです……トアン、さん?」
トトの言葉を聞くや否や駆け出そうとして──トアンは足を止める。トトが不審そうに首を傾げた。
「……トトさん、オレがいっても何の役にもたたないと思う」
「何故ですか?」
「何故って、オレは──」
「治癒もなにもできないからって、チェリカさんを放り出すんですか」つかつかと早足でやってきたトトは、トアンの正面に立つと厳しい表情で言った。
しかしすぐにその表情は悲しそうなものへと変わる……トアンの心臓がドキリとした。
「……チェリカさんが呼んでいるんです。いや、そもそも呼ばれなくたって、トアンさんはチェリカさんのところへ行きたいんだろうなって思ったんですけど……プルートに何を言われたって」
「!」
「知ってたの?」トアンの代わりに問うたのはシオンだ。トトが頷くと、やれやれと肩を竦める。
「はぁ……それでトトまで落ち込むコトないでしょ。兄様ももう元気になったと思ってたんだけどなー」
ませた口調だが、シオンの言うことはもっともだ。トアンはトトの表情の意味がやっとわかり、申し訳なく思う。
「……トトさん、行って来る。プルートさんのことはもう気にしてないよ」
「すいません」
「謝ることないよ! ありがとう」
トアンは礼の意味をこめて笑みを浮かべると、トトの肩を叩いて部屋を飛び出していった。
*
「……シオン、トアンさんになんて言ったの?」
トアンの後ろ姿が見えなくなると、トトはシオンの耳元で小声で囁いた。それにシオンはやれやれと肩を竦めてみせる。
「トトは心配性だねぇ。それで、お人好し」
「……?」
「大丈夫」と、シオンはニヤリと笑った。
「プルートはヒステリー持ちだって教えただけだよ」
シオンはトトの肩に座っているコガネを見て、口元に人差し指を当てて笑うだけでそれ以上は何も言わなかった。
*
──チェリカの意識が戻らないまま、太陽はゆっくりと沈んでいく。
チェリカは時折苦しげに顔を歪め、シーツを握り締める。数時間に数回の感覚で呻き、けれども目は覚まさない。レインが果物を摩り下ろしたものをなんとか飲ませようとしていたが、チェリカは頑として口を開いてはくれなかった。
付き添うルノの体調も全快ではないので、大丈夫だと言い張る彼をなんとか説得し(プルートの笛が最終手段)て寝かせ、交代交代でトアンたちはチェリカを見ていたが、原因は分かったものの対処のしようがなく、途方にくれるだけ。
「一度時間を置こう」と、言い出したのはプルートだった。
「僕たちが倒れてしまう……昨日あんなことがあったばかりなのだからな」
誰もそれ以上の得策が見つからず、部屋を引き上げていく。一人掛けのソファに寝かされていたルノをトトが抱き上げ、トアンを振り返った。
「トアンさん、まだ残りますか」
「うん」
「……わかりました。俺たち、リビングにいますから」
「ありがとう、トトさん」
「いえ……っと」
にこりと微笑んで、扉から出て行こうとしたトトが小さな声を上げた──何事か、と振り返ると入れ違いにシオンが部屋に入ってきたところだった。
「シオン、俺たちリビングにいこう?」
「ん、あとでね。おれ、ちょっとトアン兄様と話がしたい」
「そう? わかった」
ぱたん、と扉が閉まる──シオンはしばらくその場で耳を済ませていた。トトの足音が遠ざかるのを確認しているようだ。
「シオン? どうしたの」
トアンが声を掛けると、シオンは両耳から手を話してトコトコと近寄ってきた。そのままトアンの横に立ち、眠るチェリカを覗き込む。
「……魔力の揺れがすごいことになってるね。これは苦しいだろうなぁ」
「オレにはどうすることもできないけど──ん?」
言いかけて、トアンは気付く。
(シオンは夢幻道士、だよね。どうして魔力が感知できるんだ? そういえば本を使って戦ってたし……兄さんみたいに、ちょっと特殊なのかな)
「……兄様、何か疑ってるでしょう。おれのこと。顔に書いてあるよ」
「え……っ」
「ほらね。嘘がへたくそなんだから」
トアンの反応を楽しむように、シオンはクスクスと笑った。トアンが言葉を詰まらせていると、その笑いが不意に挑発的なものへと変わる。
(シオンは……よくわからないな。嫌いじゃないけど、いまいち謎が多いって言うか……トトさんはトルティーだって納得できたけど、未だにオレの弟って実感ないんだよなあ)
トアンがそんなことをぼんやりと考えていると、シオンの笑みが不機嫌なものへと変わった。
「……まだ疑ってるでしょ」
「う……」
「無理無理。兄様にいっくら考えたってわからないよ!」
「……どういう意味?」
「言葉のまんま。でも余計な詮索だけはしないで欲しいな、おれは兄様の味方だもん」
小生意気に顎をしゃくってみせるシオンに、トアンはそっとため息をついた──結局のところ、シオンは子供だ。だから子供っぽいところがあっても罪ではない。けれども今はその相手をする余裕がないのだ。
「……シオン、悪いけど少し部屋を外してくれない?」
「なんで?」
「なんでって──」意外な切り替えしにトアンは戸惑った。するとシオンは腕を組んで、また猫のような笑みを浮かべて言う。
「おれ、チェリカちゃんを助けられるよ」
「ほ、本当?」
「うん。どうして、とか、え? とかは言わないんだね。予想外」
「だってそんなの、疑ってても仕方ないでしょう。余計な詮索をするなって、自分で今言ったじゃないか」
「……素直だなあ、兄様」
「だって……」
おろおろと答えるトアンに対し、シオンは小気味良さそうに笑った。それから袖の余った腕を振って、ドアを差す。
「それじゃ、少し部屋でてってよ」
「オレが此処にいちゃだめ?」
「うん。それで、何があっても部屋のドアを開けないで。おれがいいって言うまで、絶対に……見られたら失敗しちゃうかもしれないからさ」
「? うん、わかった……じゃあ、よろしく」
「あい」
──正直不安がないわけではないが、自分に何の手立てもない以上、できるというシオンに任せるしかないとトアンは思った。第一彼は未来の弟だ。実感こそないにしろ、疑い続けるのは可哀想だ。
トアンはそう結論を出すと、そっと部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まると部屋の中の物音は聞こえない。自己満足かもしれないが、どうしてもチェリカから離れることができず、トアンは暫し迷い──結局ドアを背にして廊下に座り込んだ。
*
あれからどれくらいの時間が経っただろうか?
(腰痛──い)
いい加減冷えてきた下半身が辛い。どれくらいかの時間はわからないが、セイルが何度か前を通りすぎ、遊んでるの? と首を傾げていった。そのたびに違うよ、とトアンは笑って答える。
また、プルートがチェリカの様子を心配するように廊下を歩き回り、トアンと目が合うたびに顔を逸らすことが何度もあった。いち早く気付いたトトが、すいませんと飛んできて温かい飲み物を差し入れに持ってくるが、トトがトアンに優しくするとますますプルートの機嫌は悪くなる。
それだけプルートはトトを想っているということだろう……トトがまったく気付いていないようなのが可哀想なほど。そして、トアンもプルートの素直になれない部分を再確認する。
「……ほら、何か食べろ」
そういってプルートは、目を合わせないままトアンにクッキーを差し出してきた。
「え?」
「お前まで倒れると面倒だ。僕は、お前の世話だけはしたくないからな」
「はあ……ありがとう」
表面上は最もトアンを忌み嫌うように振舞っても、やはり内面は先ほどのことを申し訳なく思っているようだ。トアンが素直に礼を言うと、プンと顔を逸らして走り去ってしまった。
(オレが、プルートさんの村を滅ぼした。家族を殺す……)
再び静かになった廊下で、トアンはコーヒーを啜った。続いて厚焼きのクッキーを少し齧ると、程よい甘味が口の中に広がる。砕いたナッツがたっぷり入っているそれは、とても香ばしかった。
(この村にずっといても、いずれタイムリミットがきちゃう……どうすればいいんだろう、どうしたら……いや、一人じゃだめだ)
考えていても埒があかない。ルノとトトとしっかり話し合って、それから決めよう。
トアンはとりあえず問題解決の目処をつけると、残ったクッキーを口の中に一気に放り込んだ。姿勢を正し、思う。
(……随分時間が経ったな)
──扉に耳を押し当てても、物音一つ聞こえない。不安になって、トアンはシオンを呼んだ──返事はない。
「シオン、大丈夫?」
……少しだけ声を大きくした二度目の呼びかけにも、返事はなかった。
(──まさか、中で何かあった?)
唐突に、ゲルド・ロウの暗いフードの中身が、脳裏に強烈にフラッシュバックする。
「……チェリカ、シオン!」
トアンはもう待つことができず、跳ね起きると勢い良く扉を開けた──……
──ふっと、温かい風が頬を撫でる。部屋の中は柔らかな光に満ちていて、今触れたのはこの光だったのだろう。
しかしトアンは目を見開いたまま、その場から動けなかった。部屋の中央に立っていた人物が弾かれたように振り向いて、トアンを見た。目と、目が合う。
「君は……一体……?」
なんとか声を絞りだすトアンに対し、その人物はふっとため息をついた。そしてトアンを咎めるように睨む。
「入っちゃ駄目って、言ったのに」
「ご、ごめん……でも、シオン、その姿は──」
──そう。部屋にいたのはシオンだった。
猫のように笑い、ほんの少しだけ生意気。でも人懐こくて、優しい男の子……けれど今の彼の姿は、トアンを驚愕させるには十分なものだ。
柔らかなライトパープルの髪の隙間から見える、白い獣の耳。白い頬とその耳に浮かび上がるのは、奇妙な赤の模様。そして極めつけが、半ズボンの片方から垂れるふさふさ尾──……。
「……シ、シオン、魔族だったの?」
「ん? 違うよ、失礼しちゃうな。……それより兄様。下」
「え……あっ!!」
呆れたようなシオンに言われるまま目線を落とすと、トアンの足元にはコーヒーの池ができていた。あまりの出来事に、手に持ったカップの存在を忘れていたようだ。
「レイン兄様に怒られちゃうね」
くくく、と喉を鳴らしてシオンは笑い、慌てるトアンに向かってひらりと手を振った──するとどうだろう。ゆっくりとコーヒーが小さな水滴となって宙に浮き上がったではないか! さらにもう一度シオンが手を振ると、水滴はぱちんと弾けて四散した。
「あ……ありがとう」
すっかり動揺したトアンは、何故か一番に礼を口にしていた。シオンはそれを聞いてニマニマと笑う。
「この時代のこの場所くらいでしかできないけどねぇ」
「あのさ、シオン」
「なあに?」
トアンは持っていたカップをベッドサイドのテーブルに置くと一度深呼吸をし、シオンの目を見つめて三度目の質問を口にする。
「君は一体、何者?」
「……あんたと初めて会ったとき、おれに言った言葉は半分以上当ってたんだ……おれは嘘をついてたの。トトにもね。おれはラージン家の三男なんかじゃあないんだよ」
「初めて会ったとき……?」
シオンの瞳は、不思議な魔石のように煌いていた。不敵な笑みを浮かべたまま一拍置いて、答える。
「──おれは、犬神チャモロ。夢幻道士トアンと空の子チェリカが祈りをこめたあの瞬間に目覚めた、星の守護をもつもの……あんたら二人の約束によってこの世に存在するから、この姿は二人からもらったもの」
「チャルモ村の守り神? ──あっ、まさか……」
トアンは唐突に、シオンと初めて会ったときのことをありありと思い出した……トトの正体が分かったときも言って否定されたことを自分は彼に言った。そして今、シオンは自ら肯定をした。
『──でもその目、その髪……まさか、オレの息子っていうオチは』
『ない』
一度はきっぱりと否定された、自分の淡く甘い夢。トアンはゆっくりと目を瞬いて、彼の言葉を反芻する。
──あんたら二人の約束によってこの世に存在するから、この姿は二人からもらったもの。
(ってことは……シオンは……)
あの時と同じ、真摯な瞳がトアンを見ている。トアンはシオンのつま先から頭のてっぺんまで眺め、そして折り返してブーツの先を見る。
「……オレの、子供」
「──っ!」
口に出した言葉は、想像以上に呆気なく馴染んだ。と、シオンの顔がくしゃりと歪む。トアンはシオンに近寄ると、その頭にそっと手を置く。
伏せた睫毛が頬に影を落とすシオンの顔は、ああ、こうしてみればチェリカに良く似ているのだ。
──先ほどのあのイタズラを企むような顔だって、チェリカがしょっちゅう浮かべる表情だったのに。
「シオン……そっか、そうだったんだね。君のふわふわの髪は、母さん譲りだと思ってた。オレは君が弟だって漠然と納得してたけど──チェリカの髪質だったんでしょう。チェリカと同じ魔力を持ってるから、チェリカの暴走した力を静めることができたんだね?」
「……パパ」
シオンの瞳から、ツ、と涙が零れ落ちた。
(パパ、かぁ……へへ)
トアンは思わず背筋を伸ばす。なんだかこそばゆいような気持ちだ……どんどん目の前のシオンが愛しい存在に思えてくるから不思議である。
「シオン」
涙を拭ってやりながら、そっと包み込もうとトアンは手を伸ばし──……。
「ふっざけるなよぉ!」
「うっ……!?」
どん、と腹に鈍い衝撃。──シオンのブーツの踵がわき腹に見事に決まったようだ。トアンは思わず膝をつき、混乱したままシオンを見上げる。
──シオンは、魔石の瞳に涙を滲ませながらトアンを見下ろしていた。
「おれがどれだけ捜したと思ってるの! おれ、起こしてくれたあんたたち二人に感謝してるんだ! なのに、あんたたちは未来にはどこにもいない! おれのパパとママなのに、おれはずっと捜してたのに、なのになのにあんたはユメクイになってて……っ」
シオンが鼻に皺を寄せて怒鳴る。口の端に見える長い歯は、まさに獣のものだとトアンは思った。
(……だけど、犬神だけど、シオンはオレたちが起こした存在)
ゆっくりと立ち上がる。シオンがキッと睨んできたが、トアンは気にしなかった。
……ほんの少し前までは謎めいた少年だったシオン。小生意気で大人びていて、どこまでもミステリアスだった……けれども今はまさに子供の表情をして泣いている彼を、どうして放っておけようか?
──そう。
トアンの心の中に、正体不明の強い感情が芽生えていたのだ。それは切なく妙に懐かしく、また幸福と感じるのに何故か泣きたくもあり──確かに心の奥をぐっと押上げてくるのをトアンは感じていた。
「もう長い長い間──って、どうしてあんたが泣いてるの?」
「……え?」
シオンに指摘されて、トアンは初めて気がついた。チェリカを想う気持ちとはまた違う、とても温かい気持ち……その感情に若干戸惑いながらも身を任せ、そしていっぱいいっぱいになった気持ちが瞳から零れ落ちていたのだ。
「……や、やっぱり、いきなりこんなこと言われても困るよね」と、目を白衣の袖でごしごしと擦ってシオンは言った。そうして無理に笑みを浮かべてみせる。あの小生意気な笑みを。
「だから最初は弟って名乗ったの……でも、結局バレちゃったから、もういいやって思って……でも本当はおれ、パパにちゃんと言いたかったんだ……でもごめんね。困らせちゃったよね」
「違うよシオン!」
トアンはもう駆け寄って、シオンの小柄な身体を抱きしめた。シオンは驚いたように身を硬くしたが、トアンは気にしなかった。目から零れる涙はそのままに、トアンはようやく自分の感情の正体を知る。
──シオンを愛しいと思う気持ち。……これは、きっと自覚だ。トアンは少しの戸惑いをとうに超えて、シオンを自分の子供だと本能が認めたのだ。
……それが、直接親子関係ではないとしても。
「……シオンは、オレたちの祈り。オレとチェリカの約束から生まれた、子供なんだね。ごめんね、ずっと一人にして」
「……うっ」
シオンの身体が震える。
(例え血の繋がりがなくたって、この子はオレのことを親として認めてくれてる──この子の時代ではオレはとうに堕ちているのに、それでもシオンはオレを捜してくれた……!)
「……ふふっ」
微かな笑い声を、トアンは聞いた。シオンも同じなようで、そっとトアンから離れる。二人は視線をめぐらせ、チェリカの眠るベッドを見た。
──チェリカの顔色はすっかり元通りになっていた。相変わらず夢の中にいるようだが呼吸はもう落ち着いている……そして、その表情は幸福そうに微笑んでいた。
(……チェリカは、なんていうだろう)
トアンはそろそろとシオンを見る……と、シオンは鼻をグズグズとやっているとろこだった。トアンと目が合うと、にやりと笑ってみせる……目はまだ赤いが、本当に楽しそうな笑みだ。
「パパ、その顔ひどいよ」
「……チェリカにもしょっちゅう言われてるよ」
「ママにも? あは、やっぱりいいこと言うね」
「笑い事じゃないんだけどな……」
「えへ」
シオンはにっこりと歳相応の無邪気な笑みを浮かべ、トアンにそっとしがみついてきた。
トアンは目を丸くして、すぐに微笑むとその頭を優しく撫でてやる。犬の耳が、ピクピクと嬉しそうに震えた。
「……チェリカが起きたら、チェリカにも話そう。もう君はここにいるんだし、未来が変わって消えちゃうみたいなことはないよね」
「……ん」と、シオンは何故か煮え切らない返事をした。呻き声だけで済ましたような返答にトアンが首を傾げると、シオンは一歩下がってトアンを見上げる。その瞳に、微かだが迷いが渦巻いているのをトアンは感じた。
(……チェリカに言うの、やっぱり怖いのかな)
「……話してくれる?」
「え……いいの? ……怖くない?」
「うん、話してくれるなら、すごく嬉しい」
そういってシオンはチェリカを眺めた。口元を恥ずかしそうにもごもごさせているのを見ると、先ほどの迷いは気のせいに思える。トアンはそんなシオンをしばらく見つめ、ふと感じた疑問を口にした。
「……シオンはオレのこと、パパっていうね。チェリカはママだし」
「んー?」
「前に言ってた母様っていうのは誰のこと?」
なんだか言いにくい質問だ。しかしシオンはけらけらと笑い声をあげると、横目でトアンに視線を戻した。
「母様は、パパにとっても母様」
「え……?」
「……もー、鈍いんだから。ヒントばっかりだしてちゃ、頭動かないよ? トトもそうだけど……いや、トトはボケボケな表面の裏で鋭いからなぁ」
ぶつぶつと独り言を呟いてから、シオンは呆れたようにため息をついて見せた。それからトアンを見て、口の端を釣り上げる。それは無邪気笑みとは程遠い、黒さが見え隠れするものだ。
「そ、そんな顔されても……」
「じゃ、教えてあげる。おれ、あんたの弟ってのもあながち嘘じゃあないんだよ。育て親はアリシア・ローズなんだもの」
──あ、今はアリシア・ラージンかとシオンは付け足した。
「母さんが……シオンを? どういうこと?」
「……。」恐らく、続きを口にしようと半開きにしていたシオンは、突然耳を立てた。素早く周囲に視線を走らせ、そしてすぐにその緊張状態を解く。
「……だめだ。これ以上は言えない。……それでもいい?」
──トアンを窺う視線はおずおずとしたものだった。耳もぺったりと伏せられ、困ったような表情だ。トアンはシオンの変化に戸惑いを覚えつつも、まあいろいろ制限はあるみたいだしなあと納得する──それからシオンの頭を撫でた。
「良いも何も、シオンはオレたちの祈りでしょう」
「……うん!」
「う……んん……」
二人が笑い合ったとき、チェリカがむにゃむにゃと平和な寝言を言った。
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