第47話 Because,I Love You


 瞼の向こうが明るい。

(眩しい……)

 トアンが目を開けると、カーテンの開けられた窓からさんさんと太陽の光が降り注いでいた。身を起こして窓の外を見ると昨晩の雪はまだ残っている。しかしこの光の温かさの前に、雪たちはあまりにも無力だろう。

 時計を見ると時刻はなんとか昼前といったところだった。

(しまった、朝ごはんに遅刻だ──っ?)

 上着を羽織ろうとしたところで、クラリと眩暈が襲ってきて上体が傾く。何とかベッドに手をついて額に手を当ててみる……なんとなくいつもより熱い気がした。

(そうか、あんなことしたから風邪でも引いたのか)

 誰も起こしにこなかったのは、トアンの疲労を考えてだろう。ぼんやりと昨晩の光景を思い出す──湖に立っているルノを思い出すと、胃の辺りがスゥッと冷えた。

「……大丈夫、ルノさんは助かったんだよ」

 声に出して呟く。……と、先ほど見た夢が再生させた。ルノが自分を嫌って嫌って、そしてシアングに手を伸ばす夢。……トアンは首を振って(頭は重いが)いやな想像をやめた。

(……シアング、また逢えるかななんて言ってたのか。……夢かな、本当なのかな)

 トアンは自分の能力を呪う──ただの夢であるときと、そうではない意味をもつ夢。トアンにはコントロールできない力だ。だから今朝の夢が自分の妄想なのか、ルノの心の叫びが流れてきたものなのか区別がつかない。

(……駄目だ。考えてても埒が明かないや──ルノさんの様子を見に行こう)

 ため息を一つついて、トアンはベッドから降りた。


 *


 ベッドで眠るルノを見て、トアンは安心する。ルノの部屋にはルノ以外誰も居なかった。セイルがこの部屋を空きにすることは珍しいが、すぐに戻ってくるだろう。きっと昼食の準備でも手伝いにいったのだということにして、トアンはベッドサイドの椅子に腰掛ける。

 昏々と眠り続けるルノの横顔は、まるで天使の像のようだ。長い睫毛に日光の粒が弾けてキラキラと光っている。

「……ルノさん。シアングはきっと、叶わない約束をしたかったわけじゃないんだよ。きっとまた逢いたいって、純粋にただそう願って言ったんだ。セイルさんじゃなくて自分をみていたルノさんのこと、シアングはきっと感謝してると思う」──これは自分の妄想の押し付けなのかもしれないとトアンは思いながら、極自然に言葉を紡いでいく。

「──誰を恨めばいいかわからなくて、それで誰も恨めないから自分を選んじゃ駄目だよ。確かにゼロリードさんは自分の意思じゃなかったのかもしれない。……ルノさんは知らないけど、シアングを殺したのはゲルド・ロウだ。オレはあいつを許さない。仇は必ずとる。でも……ルノさん、自分を嫌わないで。ルノさんがいなくなったらみんな悲しいんだよ」

 トアンはため息をついて顔を伏せる。

 ──コチ、コチ、コチ。時計の音が響く。まるで永遠に続くような静かな世界にトアンは身を浸している……と。その静寂は唐突に涼やかな声によって破られたのである。


「……トアン? 具合でも悪いのか?」


「──!?」

 がば、と顔を上げると、上体を起こしたルノが不思議そうな顔をしてトアンを見ている。

 ──それは、随分久しぶりに聞く、優しいルノの声だった。

「ル……ルノさん……?」

「なんだトアン。まるで幽霊でも見るような顔をして? 私が他の誰に見えるというんだ」

 くす、とルノが苦笑する。トアンはあまりにも信じられなくて、一度ゆっくりと瞬きをした。


 ──そう、信じなれない。こんなにいつも通りの、『何もなかったかのように微笑むルノ』は『この状況では』ありえないのだ。

 昨晩自ら命を絶とうとしたものが、こんなにも自然に笑うなんて……それも、どこにも違和感がないから余計に混乱する。


「ルノさん、どうしたの……?」

「どうした、とは?」

「いやだからさ、どうしたの?」

「……さっきから変なヤツだな。失礼だぞ」

 ルノを刺激しないようにゆっくりと言葉を選ぶトアンの態度が気に食わないようだ。ルノが口を尖らせてむくれる。

 それが、ますますトアンを混乱させる。

「いやあの、身体は大丈夫?」

「ん? 私は別に……トアン、少し顔色が悪いぞ。熱があるんじゃないか」

 少しだけふてくされていたルノが、今度はトアンを心配する。──そしてその表情に嘘はないのだ。本気で、心の底から心配をしてくれている。

(あぁ、もうわからない。オレはまだ夢でも見てるのかなぁ)

 トアンは自らの頬を少し抓って見た。……少しだけ痛いだけだった。

「……トアン、本当に大丈夫か……?」

 ルノが何が何だかわからない、という表情をして、ベッドから静かに降りた。──長い間寝たきりだったのですっかり細くなってしまった足首がパジャマの裾から覗く。けれども昨晩湖まで歩いていけたことを思い出すと、助けはいらなそうだ。

 事実、ルノはしっかりと立ち、トアンを見ているのだ。

「……その、ごめん。オレちょっと混乱しててさ……。一つ聞いていいかな。一つだけ」

(……本当は聞きたくないけど、聞くしかない。ルノさんがシアングの死を乗り越えられたならそれでいい。乗り越えてないなら、今こうしてオレと普通に接するなんてありえないんだ)

「いいぞ」

 トアンの胸のうちにどれほどの葛藤があるかも知らずに、ルノが即答した。そして顔には安心したような笑み。

 トアンは一拍置いて、慎重に口を開いた。

「シアングのことなんだけどさ……」

「シアング……?」

 ルノの顔が曇った。

 ──落ち着いていたルノはやはり薄氷のように脆い虚勢だったのか。トアンの口が続きを言えずに戸惑っていると、ルノが困惑した微笑みを浮かべ、言った。



「……誰だ、それは?」



「……え?」

 ルノが何を言ったのか理解できず、トアンは口をポカンとあけたまま返事をした。するとルノはますます困ったような表情になり、紅い瞳を不安気に揺らす。

「わ、私、そんなに変なこと言ったか?」

「変もなにも──ルノさんどうしちゃったの? シアングだよ? シアングのことだよ?」

 ……君が自殺まで考えるほど好きだった、オレたちの仲間のことだよ、という言葉を何とか飲み込む。けれどもトアンが意気込むほどにルノはしり込み、両手を組んで曖昧な笑顔を浮かべるのだ。……まるで、トアンが何を言っているのかを理解しかねるというような。

「あの……お前が誰のことを言っているか、私にはわからないが……」と、トアンの考え通りの言葉を口にするルノ。

「トアン、熱があるだろう? 何か飲むか、落ち着いて話をしよう?」

「違うよ! 何でオレが寝ぼけてるみたいな扱いになるんだ! ……ルノさんこそどうしちゃったの! 本当にシアングのこと忘れちゃったの!?」


 ──忘れた?


 自分でそう叫んだ瞬間、トアンの頭はガツンと殴られたかのような衝撃を覚えた。

「……」

「おい、トアン? 何を急に黙りこんで……具合でも悪いのか?」と、 思考が停止するトアンに対し、ルノがおろおろと言う。その時、勢いよく部屋の扉があいた。誰かが駆け込んできて、トアンのすぐ横に立つ。──チェリカだった。

「お、お兄ちゃん。起きたの?」

「おお、おはようチェリカ」

 のほほんと穏やかに挨拶するルノを見るチェリカの瞳が、皿のように丸くなる。

「お兄ちゃん……?」

「何だ?」

「……どうしたの?」

「どうしたの、とは何だ、さっきから」

 呆れを通り越したのか、ルノがプリプリと怒って腰に手を当てる。チェリカは不審そうに眉を寄せ、感情豊かなルノをどう受け止めていいかわからないといった様子でトアンを見た。

「トアン、どういうこと?」

「……いや、オレにもサッパリ」ようやく動いてきた頭に手を当て、トアンは首を振った。

「……シアングのことを聞いてみたけど、誰だって言うんだよ。シアングのこと忘れちゃったみたいで」

「忘れた……? お兄ちゃん、自分のパートナーのこと忘れちゃったの?」

「ん、んん? ……何を言ってるんだチェリカ」というルノの返事に、安心したチェリカが胸を撫で下ろす。だが次の言葉に、その手は止まった。

「私にパートナーなんていないぞ」

「……嘘でしょ?」

「嘘なんてつくか」

「シアングのご飯、あんなに沢山食べてたのに、ずうっと一緒にいたのに、信じ続けてたのに忘れちゃったの……?」

「だから、何を言っているんだお前らは」

 ルノはため息をつくと少しうんざりしたように答えた。その声は真っ直ぐだ。迷いはない。

 だからこそ、トアンもチェリカも理解ができない。いや、この状況が何なのかはわかっている。けれども、何故こうなったかがさっぱりわからない。

 そして──ルノ自身に自分の記憶に対する疑問がない限り、なにを言っても無駄なのだ。

「お兄ちゃん……お兄ちゃんが昔塔に閉じ込められてたときに、手を伸ばしてくれたのは、じゃあ誰?」

 悲しそうな目でチェリカが問うと、ルノの背筋が伸びた。……もうその反応は、妹を気遣うためであって、シアングを思い出したからではないということがトアンにもチェリカにもわかっていた。

「誰って……? あ、待て待てチェリカ。今考える、考えているから……」と、ルノは唸りながら答えた。これ以上妹を悲しませたくない故に、必死で記憶の網を辿るルノ。暫くルノはうんうんと考えこんでいたが、やがてほとほと困り果てたような表情でチェリカを、助けを求めるようにトアン

を見る。

「……わからない。窓辺、いや、カーテンか? ……ううん……。悪い。さっぱりだ」

 ルノは肩を竦めてみせた。……と、トアンの背中に小さな囁きがぶつかってくる。


「ルノちゃん、起きたの?」


 振り返ると、セイルがドアの隙間から片目を覗かせていた。ルノが気になるが、部屋に入ることは躊躇われるのだろう。……しかしバレバレのセイルの様子にトアンは苦笑した。

 ──それとも万が一のことを考えて部屋から離すか。……シアングのことを忘れただなんて悪い冗談であって欲しい反面、セイルを受け入れて欲しいこともある。

「セイル、はいっといでよ」

 トアンが迷っていると、チェリカがドアを見て、言った。

「ふぇ!? だだだ、駄目なの」

「大丈夫だよ。ね、トアン。……今のお兄ちゃんは、セイルを傷つけないよね」

 最後の方はトアンにだけ聞こえる声量でチェリカは囁き、セイルが戸惑っているとこちらからドアを開け、部屋の中へ引き摺りこんだ。

 トアンは固唾を呑んで状況を見守る。ルノが目を丸くして、セイルに近づいて──……。


「おはようセイル」


 優しい笑顔で話しかけた瞬間、安堵と悲しみがドッと胸の中に押し寄せてくる。

(セイルさんの中に……シアングの幻影も、もう、見えないんだ)

「あ、あう……? ル、ルノちゃん?」

「何だ、そんなにオドオドと」

「あの、え……? トアン、チェリカァ。あう……」

 ルノの変化にうろたえるセイルの背を、チェリカがトンと叩いた。

「さ、ご飯食べにいこっか。トアンもね、いこいこ!」

 そういって二人の背を押し、トアンに向けられた笑顔は、今にも泣きそうな、複雑な笑みだった。

「元気になってよかったね!」

「はは、すまない、心配をかけたな」

「……。」

 コガネやトルティーたちと戯れながら笑うルノを、ソファに身を沈め、体温計を口にくわえていたレインが気味悪そうに見つめている。その少し赤みを差した頬をウィルがつねり、首を振った。

「レイン……」

 レインは無言で抗議の視線を送るが、ウィルは肩を竦めて見せる。トトが二人の前に淹れ立てのコーヒーを置いて、まあまあと仲裁した。


 ──ルノがシアングの存在を忘れたことは、既に全員が知っていた。故意に思い出させようとするものはもういない。……昨日までのルノをもう見たくないという感情と、トアンたちが試しても無駄だったことを自らの手でやろうとは思わないからだろう。

 ……レインはルノの変化に反発しているが、その口から体温計を投げ捨てて文句を言う気はないらしい。無遠慮なきつい視線は抑えないようだが。


 プルートは暖炉の前のクッションにもたれるようにうつ伏せに寝転がり、シオンがその背に座り込んで本を読む。プルートの頭には確かに怒りの四つ角が浮いているものの、シオンは知らん顔だ。

 セイルはルノの周りをきょろきょろと動き回っている。


 ──トアンはというと、ルノと距離をとり、チェリカと共に窓辺にクッションを敷いて座り込んでいた。窓から射しこむ日光はとても温かい。

 そしてこの場所ならルノに声が聞こえないので、トアンは今朝みた夢の話をチェリカにしたところだった。

「忘れたほうが良かったんだね」

「オレは納得できないよ」

「……トアンも見たでしょ? お兄ちゃんはもう限界だった」と、唇を噛んでチェリカが呟いた。

「──忘れるしか、生きていく方法がなかったの。シアングの存在が大き過ぎたんだ」

「でも、シアングは『また逢えるか』って最期に言ったんだ。最期の言葉だよ? 他に別のことも言えただろうに、シアングはその言葉を選んだんだ……ルノさんが忘れちゃ意味が──」

 ぶに。トアンの頬をチェリカの人差し指が刺す。

「トアンの夢は信じるよ。……けど、それが真実かっていう保障はやっぱりない」

「うっ……それを言われるとなぁ」

 ワザとらしく言葉を詰まらせるトアンの瞳を覗き込んで、チェリカはようやく柔らかい笑みを浮かべてくれた。

「……でも、真実でもなんでも、実際これしか方法がなかったんだよ。お兄ちゃんが選んだの。生きることを、そのためにシアングのことを全て忘れる決断をした。心が完全に壊れる前に、自分で自分を守ったの──だけど、いつか必ず思い出してくれると思う」

 トアンはチェリカの顔を見ずにうんと頷いた。

 それはほんの気休めにしかならない反応かもしれない……けれどもトアンは願うのだ。そうしなければ今にもルノの胸倉をつかんで、何故思い出さないのだと問い詰めてしまいそうな自分がいると知っていた。

「……無理に思い出しても、またルノさんは壊れちゃうんだけどね……あ」

 思わず呟いていた一言。隣に居るチェリカは聞き逃してはくれず、ふっと苦笑をした。自らの心のうちの葛藤をさらけ出してしまったようでトアンは気まずく目を逸らすも、すぐにチェリカの手がトアンの頬を捉える。

「トアンは今すぐ思い出してほしいと思う?」

「あ──……うん。正直に言うとね」

「……でも、そしたらお兄ちゃんがどうなるかはわかってるんだよね。だからもう、言わない」チェリカはトアンの手を離し、澄んだ瞳を少しだけ伏せた。繊細な金糸が飾る青い瞳は、どこでもない遠い場所を見つめている。


「私──お兄ちゃんがあそこまで追い詰められたのは、全部全部ゲルド・ロウの計画通りだったと思う」


「どういうこと?」

「私たちは二人の会話を聞いてたよね……シアングは最初もう諦めて、死のうとしてた。これが自分の運命ならばって受け入れて、自分の死後を前提にゼロリードの目が覚めることを願ってた……でも、お兄ちゃんはそれを変えた」

 お前が死ぬなら私も死ぬと、迷いなく言い放ったルノの声が脳裏に蘇る。

「それが……計画通り?」

「そう。ゲルド・ロウはシアングを最初から絶対に殺すつもりで、でもお兄ちゃんと話をさせた……おかしいよね? あんな力があるのなら、私たちと話したりせずに、さっさとシアングを殺せばいい話。シアングの拘束を一つ外して、お兄ちゃんだけを生き残らせた」チェリカの瞳にぽっと小さな怒りが灯る。瞬きにそれは溶けたが、トアンの目にその横顔は焼きつく。

「シアングが自分から生きる希望を見た、その直後に消し去った……それがお兄ちゃんの心に徹底的に杭を打ち込んで壊したの」

 ──それはトアンにも容易に想像できる痛みだった。

 やっと守れた、この手で救い出せた! 心が舞い上がって、とにかく嬉しくて嬉しくて……その次の瞬間、完膚なきまでに地面に叩き付けられる。

(……そうだ。オレも、チェリカが助かった、やっと戻ってきたと思った次の瞬間、チェリカを喪ったんだ)

 自分の痛みを思い出すことも容易い。光の粒となって消えたあの瞬間、トアンは自分の心にみしりと亀裂が入る音を聞いた、と思う。

「それじゃ、チェリカ。ゲルド・ロウの目的は何? ……ルノさんを壊すこと?」

「わからない」と、チェリカは言ったあと、ぽつりと呟いた。「……を守ろうとしている、のかも」

「え?」

 トアンが聞き返した瞬間、チェリカの金髪が目の前を横切った。

 何か、と思うより早く、ばたんという音がして、リビングにいた皆が振り返る。

「──チェリカ!?」


 うつ伏せに床に倒れこんだチェリカは、呼びかけには応えない。

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