第46話 月の裏側

 慌てて手を伸ばしてシーツに触れてみると、とても冷たい。……つまり、このベッドの主が床を離れてから少なからずの時間が経っているということだ。

「セイルさん、セイルさんおきて!」

 トアンは毛布を放り投げると眠っていたセイルをむりやり起こす。セイルは安眠を妨げられたことに対する苛立ちか、トアンを睨んでううん、と唸ると再び眠りの海に沈んでいこうとした。

 トアンの焦りはますます募り、最早この非常事態が深夜であるということを忘れ、大声で叫ぶ。


「起きて──! ルノさんがいないんだよ、起きてったら!!」


 どたん、と二階から物音が聞こえたとき、トアンは初めてしまったと口をつぐんだ。……もう遅い。セイルが飛び起きるとほぼ同時に、ばたばたと慌しい足音が近づいてきた。

「……、ほ、ほんとう?」

 振り返ると青い顔をしたチェリカが肩で息を切らしている。淡い桃色のパジャマが闇夜に震えるその様子に、トアンは唇を噛んだ。



 ……いつの間にか、チェリカの後ろにウィルとレイン、そして目を擦るプルートとトトが集まっていた。誰もが事態が飲み込めず、誰もが口を開けない。

 ──どういうことだ、と問うのが当然だろう。けれど彼らは誰もが、トアンにもセイルにも状況が把握できていないことを知っていた。……だから、何もいえない。


 沈黙が部屋を支配しようとしたその瞬間──ランプの明かりが部屋を照らした。見れば、ウィルとレインの隙間からシオンが顔を出したところだった。シオンは右手にランプを掲げ、左手に持った上着を固まるチェリカにかけてやるとトアンを見る。

「誰も何も言わないとこ申し訳ないけど。ここに集まってどうしようって考えてても何も変わらないってことぐらいわかるよね?」

 紫の瞳がトアンを責めるように光る……のは気のせいかもしれない。それはともかく、トアンはシオンの言葉に気付かされた。ランプに照らされた室内で、セイルががたがたと震えていることにも、そして優先することも。

「と、とにかく……ベッドはもう冷たい。この冷え込みとかは関係なしに、ルノさんがここを出て、もう結構時間が経つんだと思う」

「お──俺様、捜しに行く!」

「どこへだ!」弾かれたように走り出したセイルを、部屋の入り口でウィルがとめる。

「外は雪だぞ? ルノがいきなり起きて、どこへ、何しにいくってんだよ? 少しは冷静になれ!」

「冷静になるのはお前だ。……プルート、この家の中を探してくれ。トトとウィルは家の庭。セイル、トアンはオレと外へ。……シオンはチェリカの傍にいてくれ。家から出すな」

 トアンが振るうべき采配をレインがテキパキと決め、隣のウィルを睨んだ。ウィルも睨み返す。

「なんでオレが庭なわけ? 外は森だってあるんだぞ、オレが」

「黙れ!」

 がつん、鈍い音が響いた。トトが肩を竦めると同時にシオンが口笛を吹く。

 殴られた頬を押さえ、ウィルの瞳が鋭くなるのと同時にトアンは駆け出し、その手を止める。

「に、兄さん、ありがとう。でも言葉が足りないよ……ウィルは怪我してるから無理させたくないんでしょ? ルノさんを捜そう。早く見つけないといけない」

「そそ、痴話喧嘩は後で好きなだけどうぞ」

「「シオン」」

 くすくすと笑うシオンを、トアンとトトが同時に睨む。……危機感があるのかないのか、シオンは猫のように笑って肩を竦めた。

「トアン、私も──」


 ランプの揺れる明かりの中、チェリカがトアンを見る。しかしトアンはチェリカの言葉を全て聞く前に首を振った。

「兄さんが言ったように、チェリカは残るんだ」

「どうして!?」

「……今の君は、すごく不安定だから。シオン、チェリカを頼むね」

「でもトアン、私……」

「チェリカちゃん。リビングで温かいものでものもっか。ね」

 小悪魔のような笑みを浮かべていたシオンが真剣な表情でチェリカを見上げる。その変化にトアンは若干驚くも、同意を示すためにうんうんと頷いた。チェリカは納得が行かないようだったが、これ以上駄々をこねるのも皆の足を引っ張ると理解してくれたようで、シオンに手を引かれるまま部屋を出て行った。

「……レイン」

 ウィルは未だ口を尖らせていたが、トトに俺たちも早く行きましょうと言われては、もはや無駄な抵抗だと悟ったようだ。ウィルのレインを見る目は今や心配の一色であり、自分の危険は構わないがお前が心配だ、と今すぐにでも口から零れそうではあるが……。

「気を、つけろよ」

 礼は言わずにレインは薄く微笑んで、ウィルの背をトトへ押しやった。そしてセイルとトアンと顔を見合わせる。

「行こう」


 ──空は晴れていた。群青色の空に輝く月、そして降り続く雪が幻想的に飾る世界だった。

 トアンたちは慌てて飛び出してきたため防寒をほとんど考えておらず、けれども戻る時間ももどかしく、其々手に持ったランプをつける。冷たい風と大気に手が悴むが、三つのオレンジ色の光の下、大雑把に担当を決めた。……それほど雪が激しくないことが唯一の救いだ。視界は良好。

「お前ら、まずいと思ったらすぐに帰ってこい。……無理はするなよ」

 レインは白い息を吐き出してランプの燃料を確認すると、念を押すようにトアンとセイルに言った。セイルは頷くや否や暗闇に向かって駆けて行く。

「兄さんも気をつけて」

 トアンはレインの返事を待たず、自らも雪の花びらの中へと飛び込んでいった。


 *



「足跡は……やっぱり残ってないか」

 家の外を出たとき、既にサラサラの新雪が積もっていた。玄関の前で三人でルノの足跡を探したものの、見つからなかった。

 トアンの周りは黒々とした森と、一面の野原。たまに牧場の柵がちらほら立っていたが、今はもうどこにもない。

(オレの帰り道も忘れそうだ)

 もしも吹雪だったならば、自分が二度とあの家に戻れないだろうということをトアンは確信していた。ランプを掲げる手に、既に感覚はない。

(……手がかりも、何もない──家を出たとすると、そもそもルノさんはどこに、何をしにいくっていうんだ?)

 ……こんな雪の中、帰ってこれなくなったらどうするつもりなのだ。

 トアンは心の中で文句を呟き、ふと足を止める。

(帰ってこれない?──『帰ってこない』つもりとか。いや、家出って行ってもオレたちにはこの辺りでは行くところも──)

 そうだそうだと自分自身を安心させようとするトアンの脳裏に、ふいにチェリカの言葉が蘇った。



 ──月の、裏側。



 トアンは走り出す。ルノの目的を悟ってしまった。その目的を果たせる場所は無数にある。けれどもルノは外に出た。……ならば、一番近いところを選ぶはずだと、トアンは自分の直感を信じる。……信じたくない、間違いであって欲しいと願いながら、走る、走る。

(……ルノさん、駄目だよ)

 冷たい空気が肺に刺さり、雪がトアンの足を掴む! トアンは上手く走れないことに焦りともどかしさを募らせ、歯を食い縛りながら闇の中を突き進む。冷たい雪が頬を叩くが、熱で溶けるそれはまるで涙に似ていた。

(駄目だ、絶対、行っちゃ行けない)

 ──やがて森を抜け、フロステルダと繋がっているあの湖までたどり着いた。トアンはランプを放り投げる。……月光の光が守るように周囲を照らしていたので、ランプがなくても十分な視界だった。

(どうか間違いであって……!)

 祈りながら目を眇め、湖を見つめる──と、随分と岸から離れたところに、見覚えのある後姿を見つけた。……祈りも虚しく、予感は、的中してしまったのだ。──「それ」を見つけた瞬間、トアンの膝は震える。ガラガラの声を振り絞って、トアンは叫んだ。


「ルノさぁあああん!」



 凍て付くような寒さの湖に半身を沈めた「それ」は、間違いなくルノの後姿だった。肩までの銀髪が雪に濡れながらもふんわりと広がる。

「……。」

「だ、だめだよ」

 ルノが振り返った。トアンを見る紅い瞳は、まるでガラス玉のように純粋で美しく──カラッポだった。

 声は届いているようだ。……雪の花びらが舞う中月を背負っているルノはどこまでも神秘的で、早くその世界から引き摺り戻さないといけないのに、トアンの足はガクガクと震えるだけで動かない。

(怖がってる場合じゃないのに……)

 刺激をしないように、頭の中を引っ掻き回して言葉を捜す。……しかしトアンが最善手を見つける前に、ルノの唇が動いた。


「……何故?」


 ──静かな声だった。しんしんと降る雪にすら溶けていきそうな、感情のない声。

 ゾッとするものを背筋に感じながら、トアンは精一杯強気な声を出す。

「行っちゃ駄目だ」

「……私は、もう無理だ」

「何が無理なんだよ? 大丈夫、皆いるよ。だから──」

「もう、生きていたくないんだ。」ルノが瞳を伏せて、微笑みを口の端に浮かべる。……美しいが、悲しい笑顔だった。

「私は、もう起きていても寝ていても、世界が終わってしまえとしか祈れない。けれどもそんなことはないと、十二分に理解している。……だから、私が逆に消えることにした。簡単なことだな」

「簡単とか言うなよ! 残された皆はどうなるの? それに、「あっち」にはシアングはいないんだ!」

 ルノの後ろの水面には、まるで月の光が道のように伸びていた。──今、ルノを振り返らせてはいけない。あの道を見つけたら、ルノは虚ろなまま躊躇なく渡ってしまう。

「みんな……?」

 トアンの言葉に、ルノの口の端の笑みが消えた。瞳を伏せたまま、考えるように黙り込む。

「そう、みんなだ! みんな待ってるから、ね、帰ろう?」

 足の震えをなんとか叱咤しながらトアンは進む。一歩、また一歩と少しずつルノに近寄っていく。やがてブーツの端が水に浸かったころ、ルノがトアンを見た。──あの、美しいがなにもない瞳で。

「みんな……とは、誰?」

「え?」

「……いないじゃないか。そこに、私が一番会いたいヤツは入っていない! 私にあの家に帰って何をしろと? セイルに笑いかけて、すまなかったとでも謝ればいいのか?」

「ち、違う、違うよルノさん。お願い、落ち着いて……っ」

「何が違う? シアングの声が、顔が、掌の温かさと掠れた声が、全てセイルとして消えていってしまう! そんなこと私は耐えられない、もう嫌だ、嫌だ、そんな失い方……!」

 ルノの声は今や悲痛な叫びとなって冷たい風を切裂いた。その頬から涙が一つ零れ、そして次々に流れて湖に落ちていく。……銀髪を揺らし、冷たい水に体温を奪われた蒼白な顔で涙を流すルノの姿は、まるで雪の精霊のようだった。

 ──その印象が、トアンにはルノがこの世界から半分足を踏み出した証に感じられ、叫び返す。この熱い声が、少しでも彼の体温として火を灯してくれればいいと願いながら。

「違う、ルノさん! 失うんじゃない、失うわけじゃないよ!? ルノさん、自分で言ったじゃないか! シアングはシアングで、セイルさんはセイルさんだって──」

「そうさ! 違うさ! けれど同じだ、同じなんだよ! 私がシアングを一つ忘れるたびに、セイルが一つ私に近くなる……そうして全て私の中のシアングが消えてしまったら、私はもう、どうすればいい? 何を信じ、何を愛せばいい?」


 ──シアングの声が、笑顔が、腕が、体温が、全てがルノを戒める。


(けど、違う……!)

「……ルノさん、怯えないで。……大丈夫だよ、そんなことにはならない。確かに少しずつ忘れてしまうかもしれない。けど、全てを忘れることは絶対にないんだ! ……シアングがルノさんを突き飛ばした理由は何だかわかるでしょう? あの場にオレは居れなかったけど、シアングがそうした理由がわかるよ」──ピチャン。ブーツから膝までで水に浸かる。冷たい水がゆっくりと溶かすようにしみこんできたがトアンは恐れず、ゆっくりとルノに近づいていく。

「生きていて欲しかったからに決まってるでしょう! 誰だって死ぬのは怖いよ、シアングだって心の底ではきっとそうだった。だから、もしシアングが自分のワガママを貫いたとしたら、あの一瞬のとき、ルノさんを引き寄せてたはずだ。一緒なら怖くないからって! ──でもしなかった!」

 ルノの目が一瞬だけ揺れる。

(そうだよ、あのときオレにだって理解できたことが──)

「ルノさんにわからないはずがない! 気付いてたでしょう? シアングがルノさんを連れていかなかった理由を! だから──」

 ……そっち側に逝ったとしても、それはただの自己満足。シアングはそれを望まず、またシアングという存在はもうどこにも居ない。こっちの世界にも、扉の向こうにも。

 雫を零し続けるルノの瞳が、そっと頭上の月を仰ぐ。

「……それくらい、理解している。私がどうしようと、シアングは私を遺した。私を置いて、無になった。だから私がここで勝手に自殺しようと、ただの自己満足になるということだろう? ……そんなこと、知っている」

 月からトアンへと視線が戻ってくる。トアンはルノへと徐々に歩み寄っていき、もうあと数メートルで手が届く距離だ。この湖に浸かった時間はそう長くないが、足の感覚はもうない。

「ね、帰ろう。シアングの願いは、ルノさんに生きていてもらうことだよ」

「……確かに」

 ルノが泣きながら美しい微笑みを浮かべた。その瞳の中にはいつしか命が灯り、感情のある笑みだった。トアンはほっと一息つきて、ルノに手を伸ばす。


「トアン」


 ──けれどその手がルノの細い肩に触れる前に、ルノはトアンの名を呼んだ。手を止め、トアンは首を傾げる。

「なに?」

「確かに、それはシアングの願いだ。あいつは最期に言ったんだ。……けれど、私の願いはそうではない。もうシアングにあうことはできない」

「ルノさんそれは」

「わかっている。……これはワガママだ。……そしてトアン、私はそんなに強いヒトじゃない。耐えられないんだ」

 ルノは涙を拭うとトアンを見る。トアンの伸ばしかけた手をそっと冷たい手で取ると、トアンの胸元へ押し返す。

 そしてもう一度笑みを浮かべて──……。



「──こんな世界、もういらない」



 ──バシャン、大きな水音が湖に響く。トアンは一瞬でルノが消えた視界を疑うが、次の瞬間躊躇なくルノの居た場所目掛けて頭から飛び込んだ。

(……ごめん、ルノさん)

 ルノが立っていた場所から先、湖はかなり深くなっていて、崖のように抉れた水中をキラキラ光る銀髪が沈んでいく。冷たい水に体温を既に奪われているトアンの手足は思うように動かないが、それでもただ水をかいて、かいて……。

(ルノさん、ごめんなさい。あなたの願いを叶えることはできない。……これはオレのエゴで、自己満足だ。だけどあなたまで喪うことはできないんだ……!)

 水中で涙が流れていったことをトアンは知った。──一瞬、温かいものが頬を撫でたからだ。

 ──ごぽん。鈍い水音が鼓膜を震わせる。水底にルノがゆっくりと身体を横たえる前に、トアンがその手を掴んで方向転換をしたからだ。勢い良く底を蹴った瞬間に、何もかもが止まっている水中が動き出した、気がした。

(……一人でここまで追い詰めて、ごめん)

 息が少しだけ苦しくなってきた。ルノの薄い唇からは泡が生まれることはない──意識をすでに失っているのだろう。

 ぼんやりと明るい水面はまだ遠い。水を吸った服、冷たい水に侵された身体は鉛のように重い。思い切り水を掻いているのに、あの世界はまだまだ遠い──……。


 ──……。


 再び、水が動いた。……今度は気がする、ではない。水面から何かがぐんぐんとこちらに近づいてくる。

(ああ、手に力が……)

 もう少しなのに、もう手には麻痺したように感覚がない。まさかこんなところで、こんなことならば上着を脱ぎ捨ててくればよかったと一瞬考え、それではすぐに凍死してしまう、と結論に至る。

 少しだけ苦しかった息は、もうあっという間に限界の一歩前の位置まできていた。頭の奥がチカチカする。明るい水面に手を伸ばし、そしてそれを掻く力は既になく。

(……くそ)

 小さく悪態をつくのと同時に、目の前が暗くなる。──が、すぐに身を切るような寒さがトアンを襲い、驚いて咳き込んだとき、呼吸をできると知った。

「ごほ、げほ、あ、あれ……? なんで……」

「……ばかやろ」

 ゼイゼイとした荒い息が耳元で聞こえた。トアンの目は雪と満月だけをうつし、身体は動かしていないのに勝手に進んでいく。

(あれ、なにこれ、すごい便利……あ、寒っ)

 ぼうっとそんなことを考えていると、唐突に水底に腰がついた。いつのまにか浅いところに来ていたようだ。身体の心まで冷え切っていて、濡れた部分に冷たい風が容赦なく襲いかかってくる。

 まるで文字通り凍りついたように、思うように動かない。──と思っていると、暖かいマフラーがぐるりとまきついてきた。空のみを写すトアンの視界に、ずぶ濡れのセイルの顔が覗きこんでくる。

「生きてるの」

「セイル、さ……」

「こんな湖に飛び込むなんて、ムチャなことしたの……俺様、遅くなってごめんねえ」怒っているのか泣きそうなのかわからないくしゃくしゃの表情をしてセイルが言う。

「ごめんなの、でも生きてて良かったの」

 セイルも冷たい風にぶるぶると震えているが、乾いた上着をトアンに着せてくれる。

「ど、うして、ここが?」

 トアンの歯は寒さに震え、上手く言葉を紡げない。それでもセイルはちゃんと聞き取って、安堵の息をつきながらこたえた。

「俺様、スノーと家の前に戻ってきたけどトアンが遅いから、様子を見に来たの。そしたら湖から声が聞こえてきて。それで走ってきたら、トアンのランプが転がってて……」

(そうか……間一髪だったんだ。ルノさんがもう少し早く思い切ってたら、オレもルノさんも助からなかった……)

 口は動かないが頭は何とか回る。トアンも一息つくと、セイルに尋ねた。

「ル、ルノさんは……?」

「今スノーが観てるの。……トアンもルノちゃんも、スノーが引き上げたのよ」

 セイルが首を回した先を追いかける。──湖の浅瀬に身体を横たえるルノの上に、同じ様に全身濡れたレインが覆いかぶさって人工呼吸をしているところだった。はっ、とレインが口を離す。

「セイル、トアンを岸にあげてやれ。水に浸かってると余計に体力が落ちる」

「ルノちゃんは?」

「今水を吐いた。……早くあがろう。オレたちもキツイ」

 言いながらレインはルノの肩を担ぎ上げ、脛ほどの高さの水を割きながら岸に向かっていく。トアンもセイルにひょいと担がれ、セイルは小走りにレインを追った。

 セイルに運ばれながら、トアンは岸を見る。……セイルとレインの上着、そしてランプが三つ放置してある。そしてレインとセイルの姿をマジマジと見て……目を見開いた。

(二人とも、すごい薄着だ)

 溺れる危険を配慮してか、二人はまるで夏の水辺のような格好をしていた。水から上っても風は濡れた肌に残酷に冷たく突き刺さる。

「セイルさん……ありがとう……」

「どうしてお礼をいうの?」

「どうしても……。兄さんもありがとう」

「……あぁ。」

 岸に上がり、レインはルノを降ろすと自分の上着を着せてやっていた。トアンにも問答無用でセイルが着せてくるので、素直に受け取ることにする。

「スノー」

「……ん?」

 レインの声は気だるげだ。……寒中水泳がかなりきつかったのだろう。

「俺様がトアンとルノちゃんを担ぐ。スノーは、ランプもって。いっこでいい、二個は置いてくの」

「でもお前にだけ──」

「俺様は湖に入ったけど、潜ってはないのよ。……スノーは顔真っ青なの。無理しちゃ駄目。俺様は無理してないの」

 セイルの言葉は以前と変わらず幼稚なものだが、その声は驚くほど落ち着いていて、はっきりとした意思を示したものだった──まるでシアングのような。

(同じだから、当たり前か……でも違う。言葉遣いとかそういう問題じゃなくて、セイルさんの声は少し違うな)

 今までトアンの中のセイルとシアングは、大本を同じとする、現在は完全に分かれた枝のような認識だった。……けれどもこうしてセイルがシアングのような声を出したことで、その些細だが明確な違いが浮き彫りになる。

「スノーも担ぎたいけど、三人はちょっと無理なの。ごめんなの」

「い、いや……わかった。頼む」

 珍しくレインが驚きを露わにし、セイルに頷く。セイルはトアンを右手に担ぐと、左手でルノを抱えた。

「トアン、もうちょっと頑張って。すぐ家につくのよ、安心して?」

 セイルの言葉に、トアンは頷く。レインがランプを一つだけ掲げるのを合図に、少し強くなり始めた雪の中、セイルは歩き出した。


 *


「だ、大丈夫か!?」プルートが走って近づいてくる。

「何で仲良くずぶ濡れなんだ! トト、タオル持ってきてくれ!」


 トトとウィルとプルートの三人は、家の外でトアンたちの帰り待っていてくれた。驚くべきことに、前ほどではないがトアンに対する嫌悪感を全く隠さないプルートが、トトの手からもぎ取ったタオルをかぶせてくれた。彼のエメラルドの瞳は不安そうに揺れている。

(冷酷そうに見えるけど、そうなりきれないところがあるんだよなあ……)

 ぼんやりとそんなことを考えているトアンの身体を、セイルの手からトトが預かる。セイルはトトに礼を言うと、ルノを両手で抱えて家の中へと飛び込んでいく。

「トアンさん、しっかりしてください」

「だ、大丈夫……。」

「今暖炉の前に連れて行きますから」

「ったく、何でお前等そんなビショビショなの?」

 ウィルが怒ったような声で言った。横を見ると、タオルを肩にかけくしゃみをするレインとトアンを交互に睨んでいる。

「えと、その」

「先生、話は中でしましょう? ……ね」

 トトが有無を言わせぬ表情で言うと、ウィルはああ、とぶっきらぼうに答えた。




「……オレが湖についたとき、ルノさんには意識があった。もう全部投げ出したいみたいな、ぼんやりしてるて感じ」


 リビングの暖炉の前で、トアンは自分の目で見たことを一つずつ口にしていく。

 シオンが淹れてくれた熱いコーヒーから、音もなく湯気が上っていった。暖炉を囲んでいるのは、タオルに包まっているトアン、レイン、セイルと、ウィル、プルート、シオン、トト。そして目を覚まさないルノと、その横で膝を抱えるチェリカ。

 ……冷え切った身体が思うように動かないので、プルートとトトがルノを着替えさせている間、トアンとセイルとレインは風呂に入った。──終始、無言で。

 トアンの場合、冷え切った血液が熱を帯び、やがて体中を駆け巡るようになるまで暫くの時間を要した。ジンとした痺れしか感じなかった手が、再び自分のものとして戻ってくるような感覚。

 セイルとレインは居ても立っても居られずという様子で、一頻り浸かってからすぐに出て行ったが、トアンは湯船から出れないでいた。

「……ルノさんのこと、チェリカ、悲しむだろうな……」ぽつりと呟いた声は湯煙に消えていく。

「……これから、どう支えればいいのかな」

 ──眠り続けるルノは、まるでシアングが心まで半分一緒に連れて行ってしまったようだった。

 けれどもそれは大きな間違いだ。シアングはルノを突き飛ばした。それをトアンはその目で見ていたのだから……そんなシアングがルノを連れて「いく」なんて、あるはずもないこと。


 ──例えそれをルノが望んでいても。


 考えていても答えはでない。首まで湯に沈めよううとしたとき、浴室のドアを誰かが遠慮がちに叩いた。

「はい?」

「トアンさん、あの、俺です」トトの声だ。

「すいません……そろそろ話を聞きたいので、上ってもらえませんか?」

「あ、うん。ごめんね、すぐ行くよ」

「ありがとうございます。着替え置いておきますね」

 ぱたん、と脱衣所の扉を開け閉めする音が聞こえた。トアンは立ち上がり、温かい湯を未練の目でみた。まるで母の胎内のように安心する空間に再び身を沈めたい欲求が押し寄せてきたが、トアンは逃げることはしなかった。


 *


 シオンのコーヒーはレインの淹れるものよりもかなり甘いが、疲れた身体にはありがたい。もう一口喉に流して、トアンは続けた。

「でも話をするうちに、はっきりした口調になってた。……シアングはね、自分が死ぬっていう瞬間に、自分の傍にいたルノさんを突き飛ばしたんだ。チェリカも見てたでしょ? だからルノさんが死ぬなんてシアングは望んでないんだってこと、オレは言ったよ」

 チェリカがトアンを見ている。

「……ルノさん、そんなこと気付いてた。だけどこれは自分のワガママだって。耐えられない、こんな世界もういらないって言って──」

「……ルノちゃん、俺様のこと憎んで生きることもしなかったのね」

 泣きそうな顔でセイルが項垂れる。

「兄ちゃん……」

 すぐにトトがセイルの頭を優しく撫でてやった。けれどトトの視線はセイルの頭ではなく、トアンを見ている。……何か期待されていることはすぐにわかった。そして、それに答えるだけの事実をトアンは知っている。

「それは違うよセイルさん。ルノさんは憎むのも嫌だったわけじゃない」

「ふえ……?」

「ルノさんは、とてもとても優しいヒトだ。セイルさんを傷つけて、そのたびに自分も傷ついてた……セイルさんを責めることは間違いだって気付いてたと思う。けどそうせずにはいられなかった。……耐えられないって言ったのは、セイルさんの存在じゃないよ。セイルさんを傷つけることに耐えられなくなったんだ。だから自分が消えればいいって考えてしまった」

 トアンの言葉に顔を上げたセイルの目が潤み、ぼろりと大粒の涙が零れた。

「……そんなの、ヒドイ。ルノちゃんばかだよっ、俺様にまで気を使うなんて」


「……私たちに相談する気もなくて、一人で結論だして湖に行って、一人で消えようとしたんだね」


 今まで黙って話を聞いていたチェリカがポツリと零す。

「シアングに会えないことも、シアングはそれを望んでもないことも知ってるのに、それでもお兄ちゃんは──」

 わなわなと唇を震わせるチェリカをトアンが慰めようと動く前に、プルートが手を伸ばしていた。

 プルートの掌が頭に触れた瞬間、チェリカは堰を切ったように泣き出す。

「──どうして? どうして一人で決めちゃうの、なにも話してくれないの……!? 私、お兄ちゃんまでいなくなったら、もう……、うう、ううう!」

「チェリカ……」

 トアンはゆっくりとチェリカに近づき、傍に座り込んだ。両手を顔に当て、世界中の悲しみと嘆きを背負ったような悲痛な声でなく彼女を抱き寄せることはできないが、顔を覆う右手をそっと取る。涙で濡れたその手はルノと良く似ていた。




──


 私は何のために生きていたのだろう。

 何のためにこの世に生を受け、何のために歩いてきたのだろう……?

 忌み嫌われたこの容姿と冷遇に、幼い私は双子の不平等さを嘆いた。しかし、私が闇を受け継ぐことで妹を守ることができたと考えだしたとき、私は自分を誇りに思っていた。


 ──けれど、私はただのカムフラージュだった。


 妹を守るどころか、彼女こそ闇であり、私は兄としての威厳もなにもかも見失ってしまった。もともと頼りないほどの虚勢だったものが、粉々に砕けてしまう。

 チェリカはエアスリク王家の力と闇の力を併せ持ち、例え邪神の一部という過去を持っていてもチェリカはエアスリクの王女。認められた継承者。


 ──では、私は?


 闇の力を持って、エアスリクの双子の王子で──……


 ……違う。私は、何も持っていなかった。力も、覚悟も、勇気もなにも。



 ─luna-tic rhapsody─



 自分を悲劇の主人公に仕立て上げて、けれども悲観にはひたらないふりをして同情を掻き集めて、そして最後にはハッピーエンドが待っていると夢を見る。

 まるで鳥カゴの中の哀れな小鳥。一度も羽ばたいたことのない空を夢見て、カゴから出る勇気もないのに出たい出たい、あの空を飛びたいと囀るだけ。


 ……けれどもシアングは、ヴェルダニアとの戦いが終わったあとも私の傍に居てくれた。

 チェリカを監視すればいいものの、今まで通り私の隣に居てくれた。私が氷の中に閉じ込められたときも、クラインハムトとの戦いのときも。私が手を伸ばせば応えてくれた。いつも私のすぐ傍にいてくれたんだ……シアングが選んだのは私ではなかったが、私はそれでも良かった。

 ……いや。

 私はどうしようもなく弱いから、自分の汚い部分と向き合うのが怖くて耳を塞いでいたが、心の奥底では私の分まで力を与えられた妹に嫉妬し、そしてシアングの恋した相手を呪っていた。

 ……私は、そんな自分の醜さにももう愛想が尽きた。


 ──あぁ、シアング。あいたいよ。お前を喪ったこの世界を、私は愛せそうにないんだ。


 だけどお前はこんな醜い私をどう思う?

 お前の笑顔を思い出そうとすると、あのときのことが鮮明に蘇ってくる。忘れたい、けれど忘れてはいけないあのときが。……ええと、彼は何と言っていたんだっけ?



『やばい……ルノ!!』

(……え?)

 ルノの身体は、宙に浮いた。時間がゆっくりと流れていく中で、ルノはシアングの伸ばした右手により突き飛ばされたのだと知る。手を伸ばしたままのシアングの、切羽詰った真摯な表情がふいに和らいだ。優しい微笑みを浮かべ、唇が動く。

(シアング、何を)



 ……そうだ。あの時、彼は確かに言った。私はこの耳で聞いて、この目で見て、この心で受け止めたのだ。彼はこんな私にも、約束を一つ残してくれた。


 『また……逢えるといいな』


 そう言って、自分が死ぬその瞬間までシアングは微笑んでいたのだった。


 ──シアング、私はお前が……お前のことが本当に、

 まだ傍にいたい、私の中から奪わないで、消えないでくれ……!

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