きみのいない世界編
第45話 再び穏やかな日常へ
──世界は明るいらしい。
ルノはぼんやりと、自分の意識が覚醒に動いていることを知った。暗い海の底からふわりと足が離れ、自分がゆっくりと海面へ浮上していくことがわかる。
──……いやだ。
明るい世界へは覚醒の証拠。ルノは目を閉じると温かい水温に身を任せる。涙が一つ零れて、暗い海へ消えていった。明るい世界へあこがれないわけではないが……自分は真実と真っ直ぐに向き合う勇気がない。いやだいやだ、ああ、いやだいやだいやだったら……!
ルノは眼球を潰すほど思い切り目を瞑り、耳を塞いだ。いやだいやだ、呪詛のようにそう呟きながら、何がいやなのかを思い出すことすら拒絶し、再び暗い海の底へムリヤリ引き返す。
──どうして私を連れて行ってくれなかったんだ?
いやだいやだ、拒絶で頭を一杯にする。
ふと、何か温かいものを感じた気がしたが、ルノは全てを拒否してしまった。
*
「今日はいい天気なの」
日の当る窓辺のベッドの傍に腰掛けて、セイルはまどろみながら呟いた。窓を開ければ途端に冷たい風が飛び込んでくるのだが、窓越しに浴びる日差しはとても暖かい。
窓の外にはうっすらと雪が降り積もっていて、日差しを浴びてキラキラと輝いている。以前のセイルなら、トトやトルティーの手を引いてこの素晴らしい世界に飛び出していった。……けれど、今は違う。
「……今日は少しだけ、嬉しそうなのね?」
ベッドで眠っているのは──ルノ。セイルはベッドに頬杖をついて、ルノの寝顔を眺めながら欠伸をした。
勿論ルノは答えない。けれどもセイルにはそれで十分だった。
「……ルノちゃんが嬉しそうなら、俺様も嬉しいの……」
ふうわあああ。一際大きく欠伸をし、セイルは微笑んだ。
*
「中々治らねぇな」
ピンセットとガーゼを取替え、レインが呻いた。トアンは先ほどから忙しなく貧乏ゆすりをしていたのだが、耳に飛び込んできた兄の一言に愕然とする。
「兄さん……!」
「……悪い。傷が酷すぎる」
トアンだけに返された返事ではない。レインは、今しがた手当てを終えたチェリカの顔を覗きこんでいた。広いリビングのソファの上にいるチェリカは、曖昧に微笑んで返す。
「しかたないよ。千切れた耳でも残ってれば、レイン、くっつけられたでしょ?」
「たぶん。」
「でもそれがないんだもの。なにもないところからこの半分の耳を再生させるのは、レインの力をかなり吸い取っちゃうからね」
チェリカはころころと笑い声をあげ、自分の新しい包帯に包まれた傷口を鏡で確認した。
「……悪い。」
チェリカの膝の上にある、一抱えほどの救急箱をぱくんと閉じてレインが目を伏せる。二度目の謝罪はチェリカだけではなく、トアンにも宛てられたものだろう。……チェリカの手当てをする間、トアンはいつも少しは回復に向かっているのかと期待の目線を注ぐ。しかし現状はそれに答えられていない、という意味だとトアンは取る。
「……兄さんが謝ることはないんだ。オレがもっとしっかりしてれば、いて」
「その話は終わり!」ぱちん、チェリカのチョップがトアンの額に決まる。チェリカはトアンとソファの後ろに立つレインを見比べて続けた。
「治らないのはもうしょうがないよ。左耳がちょっと調子悪いけど、私ピンピンしてるんだからね。……レインも無理して血華術を使わないで。強すぎる反動が、レインを覚めない眠りに誘っちゃう。そしたら私、ウィルに殺されちゃうもん」
「……ふう。わかってる、そんなこと。ルノさえ目覚めれば少しはマシなことができると思うんだが……例え起きたとしても、こんなこと頼んでも混乱するだけだろうし。オレの力がもっとうまく扱えりゃいいんだけどな」
「十分だよ。……おいしいご飯に、丁寧な消毒してくれるんだから。なんとかなるよ」鏡と救急箱をテーブルに置き、ソファから滑り降りて立ち上がると、チェリカはううんと背伸びをした。
「……ウィルの怪我は大丈夫?」
「右足がワリと酷い。……治りが悪いんだ」
レインはため息をついて自分の肩を叩いた。つかれた、といわなくても顔に書いてある。トアンは後ろに回りこんで、レインを先ほどまでチェリカが座っていたソファに勧めた。レインは大人しく身を沈めた。
「兄さん、お茶淹れようか」
「ん……コーヒー。濃い目の。ミルクいらない」
「あ、私淹れるよ。私、コーヒー淹れるの上手なんだよぉ」
チェリカはにこりと笑ってトアンの役目を浚い、リビングから出て行った。トアンはその背に礼を言うと、レインの向かい側のソファに座る。
「……兄さん、疲れてる?」
「ん、いや」
「ご、ごめん。疲れてるよね」
「んん……」
レインの目はトロンと濁り、半分ほど閉じかけている。……眠いのだろう。キッチンの方からガッチャンと何か落とす音と、あーやっばーというチェリカの声が聞こえてきたが反応をしない。濃い目のコーヒーが早めに届けられないと、直に眠りに落ちてしまうだろう。
トアンたちがチャルモ村に戻ってきたのはもう一週間も前のことだ。ベルサリオの傍のゲートを区切り、寒中水泳よろしく再び湖から戻ってきた。留守を預かっていたプルートとシオンにトトは抱きつかれ(プルートはシオンに火花を散らしていた)、トルティーとコガネはウィルとレインの帰りに泣き出していた。
──それから、慌しく時は進む。
セイルはルノをベッドに寝かせ、甲斐甲斐しく世話をした。寝たきりのルノに点滴をうち、筋肉が弱らないようにマッサージをした。初めはもちろんうまく行くはずがないのだが、セイルは根気良く努力を続け、あの甘えん坊の頼りない面影は今はない。……様子を見に行くと、今日はルノちゃんが元気なのとか笑いかけてくれる笑顔は変わらない。
「今日もいい天気なの」
ウィルは足の怪我の治療を続けている。トアンも実際にその具合を見たのだが、酷いものだった。特に右足は膝のすぐ下まで『傷』があり、杖なしで歩くことは最早不可能な怪我だ。ウィルの持っている驚異的な回復力をもってしても、酷い火傷の治りは遅い。……ウィル自身は明るく振舞っているが、その表情は時折かげる。レインの手当てと薬、血華術の治療により痛みは和らいでいるようだが歯がゆい思いと不甲斐無さが拭えないのだろう。
「早く走り回りたいなあ、ちくしょう。ま、雪が溶けない限り仕事に支障はねえからいいけど」
チェリカはプルートとシオン、トルティーとコガネとすぐに打ち解け、左耳の治療を始めた。……けれども、消毒しかレインにできることはなかった。闇の力を持つレインの力を、魔力を著しく失ったチェリカの身体は貪欲に吸い尽くしてしまう恐れがある、とチェリカは自ら告げた。
「なくなっちゃった部分はもうどうしようもない。痛くはないもん。レインも、消毒液くさいの舐めるのやだよね、ね。」
そういってけらけらとチェリカは笑うのだ。
レインは既に何度か説明したとおり、怪我人の手当てに追われている。その分家事の仕事がおろそかになっているが、なんとチェリカが頑張ってくれている。わざとなのか天然なのか、時たま皿を割ったりはたきでトアンを叩いたり忙しいがなんとかなっているのが現状だ。
……そして、トアンはというと。
「兄さん、寝ちゃ駄目。もうすぐチェリカが戻ってくるよ」
「……。」
「兄さん!」
「うっさい」
むにゃむにゃと不機嫌そうにレインが呟く。トアンはため息を一つついて、レインの顔の前で手を振った。どうせこのまま寝かせて風邪を引かせては、あとで何を言われるかわからない。
「兄さん、おきてよ。おきないとウィル呼んで来るよ、あと戸棚のチョコレート食べちゃうから──うぐっ!」
テーブルの下からレインの鋭い蹴りがトアンの脛を強打した。
──トアンも毎日をぼんやり過ごしているわけではなかった。プルートがルノを定期的に眠らせる笛を奏でるのを遠くで聞きながら、なんとかしてルノの心の傷を癒す方法を探していたのだ。
ウィルの本棚にあった心理学だかなんだかという本は既に全て読みつくした。昨日から雪のなかトトと一緒に図書館へ出かけ、膨大な本の海に飛び込んでいるがこれと言った成果は得られていない。
──春まではまだまだ遠い。けれども冬は永遠ではない。
ウィルとチェリカの怪我は、レインではすでにお手上げ状態だ。ルノの力を持ってしても癒せるかはわからないが、ルノの力がなくては現状よりいい方向には転ばないだろう。プルートが何度か癒しの笛を吹いてみたが、効果はさっぱり現れない。
春までが時間制限。……トアンがしなくてはいけないことは、春までにルノの心を癒し、ウィルとチェリカの傷を治すこと。特にウィルは生活に響くのだ。……ぼんやりした様子でウィルが窓の外からのぞく世界には、トルティーとコガネが走り回って遊んでいる。彼の足をなんとしてでも治してやりたい。チェリカの耳もだ。
しかし……トアンにできることは、なにもない。ルノを頼りにする自分が情けないが、それくらいしかできないのだ。
「あれー、レイン寝ちゃった?」
ぱたぱたと弾むような足音を立て、チェリカが戻ってきた。両手に一つずつカップをもっている。一つをレインの前におくと、それは深い深い、まるで眠っている老木のような色をしていた。挽きたての香ばしい匂いがふんわりと広がる。
トアンにもそれが分かるのだから、コーヒーという飲み物を愛するレインにそれが伝わらないはずがない。レインはチェリカの言葉に応えるというより香りに誘われるように背筋を伸ばし、一瞬だけ蕩けるような幸せそうな笑顔を浮かべた。
「……ありがとう」
「ううん、いいのいいの」
感嘆の息を一つこぼし、レインは瞳を細める。かなりの上機嫌なようで、香りを楽しみながらさっそく飲み始めた。
チェリカは満足気に笑うと、もう一つのカップをトアンの前に置く。……それは、ミルクがたっぷりと入っているのだろう。優しい色をしたカフェオレだった。
「……オレに?」
「もちろん。トアンもがんばってるもんね。せめてものお礼」
楽しそうに笑うチェリカにトアンも少し照れながらカップを受け取る。……と、妙な香りが鼻をついた。明らかにコーヒーの香りではない。
(なんだろう)
「なあなあ、あれやったの誰だー?」
トアンが訝しんでいると、コツコツと杖を鳴らしてウィルがリビングに入ってきた。後ろにはトトがついている。
「あれって?」
「あ、トアン。お前か?」
素直に疑問に答えただけなのに、ウィルの顔が曇る。とんでもない誤解だと、トアンは慌てて手を振った。
「な、なに、なんのこと?」
「キッチンの床だよ。誰だ、タマネギのすりおろしぶちまけたやつ! 正直に言えばそんなに怒らないぞ」
「もう怒ってんじゃねぇか」
ほくほく顔でコーヒーを楽しむレインが横槍を入れる。
「レイン、お前は黙ってろ」
「何、随分機嫌が悪いな」
「うー、いいんだよ。それよりキッチンの、なんとかしろ。トアン」
「ええ!? だからオレじゃ、」
「……勿体無かったんだよ? あんな腐りかけまでタマネギころがしとくの。」
まったく悪びれもせずにチェリカが言った。トアンはようやく、自分のカフェオレから漂っていた異臭の正体をしる。
「……チェリカ。まさか」
「ん? 元気でるかなって思って」
「お前かチェリカ! なんてことしてくれたんだ」青ざめるトアンを遮り、チェリカの前にウィルが立ちふさがる。
「あれ、結構うまくいってる実験だったんだぞ。もう少しだったのに。ああもう、やり直しじゃん。あそこまで上手にカビを育てるの、大変だったんだからな」
ウィルの言葉をきくうちに、何故彼がこうも不機嫌だったのかを理解したトアンである。つまりは、実験を妨害された怒りというものか。
(いや……そんなことより……チェリカ、オレをどうする気なんだろう……)
そんな怪しげなものを態々すり下ろすなんて、彼女のイタズラ心(悪気はない?)はいやな方向に成長しているようだ。クッキーにタバスコなんかがはいっていた頃が懐かしい……。
「……とにかく、早く片付けろ。いいな」
「はぁーい」
「トアン、お前もな」
「うん……ん!? オレも!?」
ウィルは当たり前だといわんばかりに頷く。トアンが理不尽だと叫ぶ前に、チェリカにその手をとられてしまった。……文句を言える筈がない。問題のカップを逆の手に持たれているところが何だか複雑だ。
「あ、俺も行きます」
リビングを出る際、トトが相変わらずのさわやかな笑みで同行を申し出てくれたので、トアンはこれから目の前に広がるであろう惨劇の現場に腹を括るのであった……。
「……チェリカの傷、どうなんだ?」
三人が部屋を出たのを耳で確認すると、ウィルはレインの隣に腰掛けた。右足を庇いながら座るのも、もう慣れた動作だ。
「それが聞きたくて三人を追い出したのか」
「いや、八つ当たりかな。……悪かったよー、お前にまで強くいうつもりはなかったんだ」
ウィルは決まり悪く頬を掻いた。おそるおそるレインに視線を送ると、レインはカップに口をつけながら呆れたような顔をしている。
「なに、その顔」
「別に。バカだなぁと思って」
「……誰がバカだこの、もいっぺん言ってみろ」
「バカバカバーカ、はい、もう一回、ウィルくんはバカです。」
レインは淡々とした声でウィルに言い返すと、ふうとため息をついた。ウィルはゆっくりと瞬きをする。
「……怒ってはないんだな?」
「そう見えるか?」
「見えるから言ったんだ。だけど、誤魔化すためでももう一回バカって言ったらオレが怒るからな」
「……ああ、そう」どんなにはぐらかしても真っ直ぐに射抜くウィルの視線に観念したのだろう、レインはカップを置いてウィルの目に応えた。
「結論から言うと……チェリカに対してはオレの力はまったく使えない。本人が拒否してるからな。ただの消毒くらいしかできないんだ」
「千切れた部分を再生することは不可能なのか?」
「ああ。チェリカも自分で言ってる通り、その破片でもあればオレの術でなんとか繋げることはできたかもしれない。でもそれがない。だから中途半端なことはできない……普通、人間が失っても自然には再生できないように、人じゃないヒトのチェリカにも無理だ。その兆しもない」
コーヒーを一口のんでレインは苦い表情を浮かべる。……それが味によるものではないことくらい、とっくに知っているウィルである。そうか、とだけ相槌を打って、そろそろと手を伸ばしてレインの頭を撫でた。
「……もしもルノが目覚めたなら、ルノになら治せるかもしれないんだ」
大人しくされるまま身体を預け、レインが呟いた。
「でもそれは無理だろ。起きたとしても、ルノの心は癒せない。……あれから一週間。ベルサリオの期間を合わせてももう十日。十日間だぞ? その十日間、ルノを眠らせ続けることくらいしかオレたちにはできなかった。……本人も起きたくないだろうし」
「言うな、そんなこと」
レインの声が低い。……ウィルははっとする。
「わ、悪い」
「……いや。お前がイライラしてるのは自分で自分を責めてるからだろう。……全員同じだ。オレたちはルノに何もしてやれない。救えない。オレたちの声は届かない……」
ふう、と深い深いため息をついてレインは言った。その顔には悲しみと嘆きが浮かんでいる。薄い肩にかかる疲労も相当なものだろう。ウィルが声をどうかけようか戸惑っていると、レインの方から微笑みをくれた。
「……でも諦めない。な、ウィル」
「あ……ああ。そうだよ」
「そうだ、トトの体調はどうなんだ? あいつもゼロリードから何かされたんだろ」
「ん、トトか……」ウィルが思考にふけって手を止めた瞬間、レインの手が伸びてきてウィルの頭をわしわしと掻き回した。
「ちょ、はは、やめろよ。その犬を洗うみたいなやり方! トトは大丈夫だよ。プルートがストーカーみたいに張り付いて様子を見て、問題なしだって言ってた。つか、多分今もキッチンに駆けつけてると思う」
「そうか。良かった」
ふふ、とレインが笑った。つられてウィルも微笑み返す。
──窓の外には、ちらほらと雪が降り出したところだった。
昼間に振り出した雪は夕方になっても、日が暮れても一向にやむ気配はなく、しんしんと降り積もっていった。すっかり大人数でとるのが習慣となった夕食のあと、トアンがリビングの窓の外を何気なく見ると、美しい月が雪の世界に輝いている。
「どうしたの?」
……思わず見とれていると、チェリカがつつつ、と進み出てきた。
「あ……ほら、月。キレイだなって。珍しいね、雪が降ってるのに月がでてるなんて」
「あー、ほんとだね。白いわけじゃなくて、ちょっと青くて冷たい感じがするけど」トアンの隣に、窓に両手をつけてチェリカが感嘆の声をあげた。トアンの目は、自然と月からチェリカへと移動する。ピンク色のふっくらとした唇から零れる息が窓に白い円を描くその光景が、やけに鮮明に脳裏に焼きついていく。
「……私たちのお願いは結局叶わなかったけど……。あの月の裏側には、シアングはいるのかなあ」
「……え。」
月よりも今度はチェリカに見とれかけていたトアンだが、彼女の言葉が引っかかって現実に戻ってきた。チェリカはトアンを見ずに、続ける。独白のように。
「シアングは、アルライドのいる門の向こうにはいけない。だからこっちに戻ってくることはもうないの。……『影抜き』としてその魂は還る場所はただひとつ。セイルだった……けどセイルに還る前に消滅させられちゃった。だから、もうシアングはどこにもいない……」
「生まれ変わることができないってこと……だよね」
例え生まれ変わることができたとしても、再びめぐり合う確立はとてもとても低い。いつ生まれ変わるかもわからない。トアンが死ぬほんの一瞬前に出会えるかもしれないし、出逢ってもトアンもシアングも互いに互いがわからないだろう。
……アルライドという存在によって、トアンにとっての死の概念は変わった。以前は死は絶対の別れだったが、アリシアも還ってきた今、それはほんの少しだけ絶対ではなくなっていた。──けれどもシアングは、灰になって、その灰すらも風に流されて死んだ。
──だから、チェリカの視点で話をされる前から、もう絶対的なものとしてトアンの前に立ちふさがり、トアンはそれに絶望した。……恐らくルノもだろう。
「……もし」
「うん?」
トアンはリビングの壁に立てかけてあった十六夜を指差し、チェリカに問いかける。
「もし、オレが千の精霊を月千一夜の中に取り込んだとしたら。その願いでシアングは生き返る?」
「……。」
チェリカは一瞬目を丸くして、それから笑った。……とてもとても優しそうに。トアンは答えを聞く前から自分の愚かな質問の解を得る。
「無理か。」
「……そう。シアングは、完全に『消えてしまった。』光の剣が一瞬で、私たちの視えるこの世界から完全にシアングを奪った……月の裏側ってしってる? 私たちからは絶対に見えないんだよ」
「そこにシアングが居ても、オレたちは気付けない。……でも、居てくれたらいいなあってこと?」
「そういうこと」
その時、片付けを手伝ってくれとレインからの呼び声がトアンとチェリカの肩を叩いた。二人はすぐに返事を返し、窓から離れる。
──月の裏側がもしあるのなら。
トアンはチェリカのささやかな願いを胸の奥でかみ締めつつ、食器を洗うべく腕まくりをした。
*
──その日の深夜。
トアンはふと、寒気を感じて目を覚ました。
(……ううっ、なんだなんだ?)
ぶるりと身震いし、状況を把握していく。……毛布が全て床に落ちていて、トアンは一人ベッドの上で丸くなっていた。どうやら寝相で跳ね除けてしまったらしい。
「あぁ……びっくりした。」
思わず独り言が零れるが、時計は確認していないがどうせ深夜だ。誰も気に留めやしないとしてトアンは続けた。身体を動かすのは非情に厳しいが、動かさなければ冷えた毛布は拾えない。ならば、少しでも気を紛らわしたかった。
「オレ、寝相はいいほうだと思ってたんだけどな。……チェリカとあんな話したから、ちょっと驚いちゃったけど。今は深夜だろうし、幽霊が出るって言ったらこういう時間……」
言いかけて、やめる。本当に出てこられたら洒落にならないからだ。トアンは青ざめた顔でないないと苦笑するが、ふと動きを止めた。
(──もし、シアングが幽霊として枕元に立ってたら。オレは絶対に驚いて怖がって、……でも、すごく嬉しいっていえる。きっと、涙だって流せる。ルノさんだってすごく喜ぶだろうし……なんて。バカな考えだ)
はぁ。と一つため息をつく。手に取った毛布は氷のように冷たかった。例えこれに包まってみても、暖を感じるまでにかかる時間と、その間の厳しさは容易に予想ができる。
(……少し歩こう。なにか温かいものでも飲もうかな)
トアンは毛布をベッドにおいて、これまたひんやりとした上着を羽織ると部屋を後にした。
薄暗い廊下にでると、しんとした冷たい空気に鳥肌が立った。それでも雪の対策がしてある家の中は、外よりはよほどましだ。上着を着ているが、トアンはまだまだ薄着の格好をしている。
寝ている皆を起こさないよう、ゆっくりゆっくり廊下を歩く。丁度ルノの部屋に差し掛かったとき、部屋の扉が半端に開いていることに気がついて立ち止まった。
──かなり大雑把な性格のセイルだが、このルノの寝ている部屋の扉だけはきちんと閉める。起こさないように注意しながらそろそろと扉を閉め、冷たい風が入らないようにぴったりと閉ざす。誰に言われたというわけではないが、セイルは必ず実行した。……リビングの扉などはいい加減で、ウィルがそのたびに文句を言い、セイルもその場だけの反省をすることは変わらないが。
ともすれば、様子を見に来たプルートか他の人の不注意だろう。
(セイルさん、ここで寝てるから風邪引いちゃう。自分には毛布かけないで寝ちゃうこともあるし……)
ちらりと部屋をのぞいてみる。……月明かりのした、背中を丸め、ベッドに上体を伏せて眠るセイルの後ろ姿がはっきりと照らされていた。案の定、セイルは薄着一枚だ。トアンは苦笑する。
身体が丈夫なことを本人も自負しているのは良いが、青白い光の中ではあまりにも寒そうだ。
「……自分のことも大切にしないとだめだよ、セイルさん」
半ば呆れながらトアンはセイルに近づき、部屋の中の無造作に椅子の上で丸まっていた彼専用の毛布を手に取ると、そっとその背にかける。そして何気なく眠っているルノを見て──トアンは凍りついた。
「ルノさん……!」
──ルノのベッドは、もぬけの空だった。
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