第44話 届かない声

「……ふっ、う、うう、え……うえ」

 優しい風が空気を流し洗っていく屋上の、よどんだ空気が溜まる壁にぴったりと寄り添ってセイルは泣いていた。ひっきりなしにしゃくりあげるその様子は、まるで横隔膜が壊れてしまったような奇妙さすらあった。

 ──かれこれ三日間も泣き続けているのだ。涙は一向に枯れない。唇は可哀想なほどがさがさで、水分を欲しがる植物のようなセイルは、時折傍に転がっている水筒を飲み干してティッシュで顔を拭う。その動作をしている間すら彼の横隔膜は震え、それに触発されるように瞳からは涙が零れるのであった。

「……。」

 トトは三日間、セイルの傍に座り込み、黙って時折その背を撫でるだけの動作をしていた。その正面に座るコガネの黄金の体毛は、静かに風に揺らされている。メルニスの使いが定期的にやってきて、定期的に食料や水を置いていく。……二人に声をかけることはできずに。



 ──そもそも、セイルはトトの前では責めて兄貴分の立場にいようと、涙ながらに言葉を訴えるということは一切しなかった。自分の胸で渦巻く不安もなにもみないことにして、ただただしゃくりあげるだけ。

 それがこの変化のない現実を作り出した原因かもしれないとトトは気付きながらも、何も言わずに手を動かした。……トトは、セイルは自分には絶対に今抱えている問題を語らないと既に悟りながらも、それと同時に傍にいて欲しいと思われてることも感じていたからだ。

「……?」

 ふと、時間以外全く進まない世界に、亀裂が入ったことをトトは素早く悟る。


 ──聞こえてきた足音は、二つだった。



「セイルさん、トトさん……」

 トアンは唖然とした。あの無邪気なセイルが、今や消え去りそうなほど憔悴しきった表情を浮かべていたからだ。……逆に、トトの顔は疲れこそあるものの、その群青色の瞳は光を失っていなかった。

「……トアンさん、目が覚めたんですね」

 トトが笑う。トアンとチェリカは二人に目線を合わせるように、風通しのいいはずの屋上の死角にしゃがみ込んだ。

「うん。おかげさまで。トトさんは大丈夫?」

「はい。……すいません、お役に立てなくて。あの時、俺は意識こそはあったんですが……」

「ううん、仕方ないよ」

 トトに向けて答えながらも、トアンの瞳がセイルに向いていることにトトは気付いたようだ。トアンの目線が戻ってくるとうん、と頷いてくれた……任せる、という意味だろう。

「セイルさん、三日ぶりだね」

「……。」

「……ごめんね。約束したのに、あんな大見得きってセイルさんを行かせたのに、オレ、シアングを守れなかった」

「……それは、俺様に言っても仕方ないこと、っく、なの」

 ──それは、とてもとても小さな声だった。蟻たちの囁き、そよ風の呟き。それよりも小さく、不確かなセイルの声。

 セイルはしゃくりあげながら、傍に転がっていた水筒の群れの中の一つを引っ張り寄せて口をつけ、ふう、と息をついた。すぐに項垂れてしまったが、会話を完全に拒絶しているわけではないとトアンは感じる。……ならばと、チェリカが会話を途切れさせないように続けた。

「もう、痛みは平気?」

「……うん」

「レインもウィルも、みんな戻ってきたよ」

 二人の名前をきくと、セイルは顔を上げた。……酷い顔だ。チェリカが手を伸ばし、セイルの髪を優しく撫でた。セイルは雨に濡れた野良猫のような顔でチェリカを見返す。何も言わないが、ひく、と喉が鳴った。

 チェリカが微笑むと、セイルは息を大きく吸い込んで呼吸を整える。……会話する気分になってくれたようだ。


 ──セイルだって、このままここでじっとしていても、塔の一部になることはできないと知っているのだろう。



「俺様、ひっ、う……トアンたちの所為じゃないってわかってるの」

「でも……」

「でもも、ないの。俺様、知ってる。最期の最期……シアングとの繋がりが途切れる寸前、シアングが何か言ってるのが聞こえた。何かはわかんない。けど、シアングは、トアンたちに感謝をしてたの。知ってるもの」

 トアンは、ぽかんとして言葉を失った。……セイルが何を言っているのか理解するのに時間がかかったほどだ。

(そうだ……セイルさんはシアングの『影抜き』。繋がってたんだ。……あれ? でも、本当は……)

 ──二人の立場は、まったくの逆のはず。そう考えた次の瞬間、トアンの口は良く考える前に動き出していた。

「セイルさんは、本当のこと知ってたの? シアングと、あなたの立場は」

「トアン!」

 チェリカの声がトアンの言葉を遮る。……その表情は厳しい。トアンはようやく、自分が迂闊にも口にした言葉の重みを知る。

 ……しかし、それは遅すぎた。セイルはわなわなと震え、見る見るうちに涙が盛り上がる。トアンが話を切り替える隙もなく、セイルは喚いた。


「──俺様、なにもわかんない! なにも、なにも、なにも!」


「あ、ご、ごめん」

 反射的に謝ってしまったトアンだったが、トアンの顔を見てチェリカが激しく首を振った。──謝るべきではない、ということだろう。……実際、セイルはトアンに謝罪されたことにより、トトが傍にいるのにも構わず声を張り上げた。

「わかんないのに、それなのにルノちゃんは俺様を悪く言うの、酷いことをいうの……怒鳴るの、嫌うの! どうして!? 俺様なにをしたの? ……うわあああん、わああああん!」

 セイルの泣き声は悲痛はものだった。両手を握りこぶしにして、あらん限りの声で泣き叫ぶ。チェリカはその声に瞳を伏せ、トトは悲しそうな顔をした。……いつものトアンならばおろおろとうろたえるか、さらに謝罪を重ねるか、自分以外の人物が話の主導権を変わることによって悲しい顔なりなんなりをするところだが、その自分以外の人物、というのが現れないことをもう悟っていた。

 いつもは頼りになるチェリカの現在の負担を、トアンは知っている。

 トトがトアンに黙って頷いたことの意味を、トアンは知っていた。


 ──だから、この場に居るセイル以外の人物が、トアンに変わってセイルを慰めるとっておきの言葉を発することがないことを理解していたのだ。

 しかしトアンの心に芽生えていたのは励ましの感情ではなく、もっと別のものだった。トアンは今度は冷静にその感情と向き合うと、ゆっくりと言葉を告げる。


「……わからないことが悪いわけじゃないよ」


 セイルの泣き声がぴたりととまった。

「セイルさんはどうしたいの? ルノさんをこのまま放っておきたい?」

「……!」

「ルノさんに酷いことを言われたって泣いてるけど……違うでしょう? あそこまで追い込まれたルノさんがショックで、だからこそセイルさんはルノさんを助けたいと思ったんだ。……今も思ってる。でも、ここでいじけてても絶対にいい方向には行かない」

「──けど! ルノちゃんはオレを拒絶する!」顔をあげて、トアンの言葉を否定することはなくセイルが叫んだ。その表情は親に怒られた子供のような頼りない、けれども深い悲しみを湛えたものだった。



「俺様の顔を見たくないんだ! 俺様、あの後会いにいったもの! でも……」



『お前の顔も、声も、シアングとは違うはずなのに』

 薬の効果がきれ、ベッドで上体を起こしていたルノが口を開いた。──その目はセイルを見ているようで、どこか遠くを見ていた。このときのルノは、まだ身体を拘束されてはいなかった。

『……ルノちゃん、あのね、俺様……』

 ──謝罪をして欲しいわけではなかった。

 むしろ、謝らなくてはいけないのは自分だとセイルは思っていた。けれどまた酷いことを言われるのが怖くて、恐る恐る話を切り出す。しかしルノの瞳はセイルを見ていない。見てはくれない。

 ──けれど謝らなくては。

『あのね、その……』

『……忘れてしまう、ぼやけていく』

『え?』

『お前が私の傍に居るから、シアングの存在が霞んで消えて行ってしまう……』ルノはセイルの話を聞いていないようだった。両手で顔を覆って首を振るその声が段々とヒステリックなものへと変わっていく。ルノの頬に彼の爪が食い込んでいく。

『──いやだ、いやだいやだいやだ不快だ消えろ、お前こそ居なくなれば、死ね! すぐ死ね今死ね、私の目に写りこむな!』

 ルノの異変にレインとウィルが飛び込んできて、数人の看護師がすぐに薬を持ってきた。暴れるルノを押さえつける様子をどこか遠くに感じながら、セイルはふらりと覚束ない足取りで屋上へと向かった。

 屋上の手すりによじ登って眼下に広がる世界を見、ルノの望み通りに身を投げようとし……。


 ──セイルは泣かなかった。


 泣く権利すら自分にはないのだと思い、けれども死ぬわけにはいかなかった。こんなところに立っていても心配してくれるひとがいるならその誰かに心配を掛けるだけで、何の意味もないことだと分かっていた。このまま死ぬわけにはいかなかった。そして泣くこともできなかった。


 ……何のために涙を零せばいいかわからない、何が悲しいのか分からなくなっている。──本当は理解していても、わからないふりをして、そして。


『セイル兄ちゃん!』

 自分を探していたらしいトトの声がした。……そしてトトが背中にしがみ付いた瞬間に、セイルは泣いた。



「……それからルノちゃんの部屋には行ってない。きっと同じなの、また酷いこと言われるだけ。……ルノちゃんが傷つく」

 ぽつりぽつりと降り出した雨のように頼りない言葉は、静かに風に滲んでいく。トアンの視界の端にいた、トトが何故か少しだけ驚いたような顔をした。

 ──そして、トアンもまた驚いていた。

(セイルさんの怯えは……自分に飛んでくる罵声に対するものだけじゃなかったんだ。それを口にするルノさんが、そんな言葉考えさせるのも声にさせるのも、そしてその原因も──ルノさんを傷つけるって思ってるんだ……)

 どこまでセイルに自覚があるのかはわからない。トアンはたセイルの背を無責任に押している自分に気がつき、言葉を失った。

 ──辺りには再び沈黙が下り、セイルの収まってきたはずの嗚咽が小さく空気に馴染んだ、その瞬間だった。


「……でもここでこうしていても、この国もルノさんも絶対に救えないよ」



 きっぱりとした言葉と真っ直ぐな瞳でセイルを見つめていたのは、トトだ。すでに、先ほどトアンに頷いて見せた、困ったような悲しそうな表情ではない。凛とした群青色の瞳の奥で、紫の炎がチリ、と燃えのを確かにトアンは見た。

「トトォ……?」

 子供のように両手を丸めて目を擦るセイルに、トトは笑いかける。

「兄ちゃん、俺は絶対に味方だよ。例え何があったって、俺にとっての兄ちゃんはセイル兄ちゃんだけだ。……ね」トトの服の中からコガネが顔を覗かせ、小さく鳴く。

「トアンさんも、チェリカさんだって味方だ。……教えてほしい、セイル兄ちゃん、ひょっとして、自分の正体を思い出してる?」

 疑問の口調だがその言葉ははっきりとしていた。セイルの目を擦る動作が止まり、肩が跳ねる──それは、肯定を表していた。

「トトさん?」

 トアンが首を捻るとトトは一度だけ目を伏せ、言う。

「……セイル兄ちゃんは『影抜き』。だけど、本物の『シアング』王子。俺は兄ちゃんがルノさんのところに行ったなんて、今初めて聞いたよ。今、兄ちゃんは自分で言った。ルノさんを傷つけてるって……それって、シアングさんの変わりにルノさんを救いたいってことでしょう? だけど拒まれる。余計に傷つけてしまう。けれど本物の王子は兄ちゃんだ。……まったく同じ身体を持っているのに、自分でもできるはずなのに、どうしてこうも違うのかって泣いて、嘆いてたんだよね……?」

「……トト……。」きゅっと結んだ口元をわなわなと震わせながら、セイルがトトを見た。

「シアングが死んだ瞬間に、確かに俺様は元々『そういうものだった』ってこと、思い出したの。あの途切れた瞬間、俺様たちが一つだったときの記憶をみた──でも、受け入れられなかった。……だってそうなの、じゃあじゃあ、今まで俺様がシアングを憎んでた意味はどこへいくの? 俺様、何もかもあいつに守られて、助けられてたって馬鹿みたいなの! だけどルノちゃんは泣いてるの、悲しんでるの、俺様はシアングだったのに、同じなのに何にもできない、傷つけることしかできない──!」

 わあああ、と声を上げてセイルは泣いた──わけではなかった。両目に涙を一杯ためて、セイルは堪えていた。

 と、静かに聴いていたチェリカが進み出て、久しぶりに涼やかな声で大気を震わせる。

「……セイルは混乱してるんだよね」怯えていたとは思えない、しっかりした声だ。トアンがチェリカの様子を窺うと、チェリカは珍しく苦笑していた。

 「今はメルニスがこの国を支えてるから、急いで受け入れようとしなくても大丈夫だよ。ゆっくりでいいから受け入れて。拒絶することは、きっと誰も望まない。……だってセイルは、この国の唯一の王子様なんだから」

「チェリカァ……でも」

「自分が信じていた自分っていう存在が覆されるのはとっても驚くことでしょ。だけど、それは事実で真実。トトが言ったように、私もトアンもセイルの味方。……セイルは、どうしたいの。ここで泣きつかれて枯れ落ちるの? 違うよね」


 ──ズキン。

(……痛い)

 セイルに向けてのはずなのに、トアンは胸が痛むのを感じた。

(なんで……ああ、そっか。オレもそうだ。オレもみんなと居られて調子に乗って勇者気取りだったけど、オレの未来はユメクイなんだ)


 ──そして、その言葉を口にする彼女さえ。



 チェリカが苦笑する理由がわかった気がした。ルノのことを意識しているのかと思っていたが、恐らくそれだけではない。……自分自身、本物のエアスリクの王女の魂ではないからだろう。

「……。」

 セイルが大人しくチェリカの話を聞いているのも、それを感じているからだ。自分は偽りの存在として、二人は同じ。──セイルはまた少し違うか。彼も偽りだったことは真実だが、その魂は本物なのだ……。

(……よくわからなくなってきちゃう)

 トアンはセイルを見た。セイルはチェリカを見ている。チェリカもセイルを見ている。トトとコガネは二人を交互に見ている。再び訪れた沈黙は、今度はセイルが打ち破った。

「赦されるのかな……ううん」首振って、セイルはトアンたちを順々に見た。一度目を擦り、どこか幼い顔立ちに凛と勇喜を宿した目を開く。


「赦されなくてもいいの。俺様、いつまでもここにいるのはいや。ルノちゃんを救いたい。……シアングの代わりに、でも代わりじゃない! 俺様は俺様の意思で罪滅ぼしかもしれないけどルノちゃんを救ってあげたいの!」

 


 *


 ──シアングの墓の前に立っていた時間は、ほんの少しだけだった。トアンはただ美しい夕焼けを背に沈黙するシアングの姿を、落ち着いた気持ちで眺めていた。隣のチェリカも、冷たくなってきた風に髪を揺らしながら大人びた横顔で立っている。


 トトとセイルをウィルとレインのもとへ預け、トアンとチェリカの二人はこの場所へきていた。

 セイルの決意は強く、誰に言われるより早くルノのベッドの横に座り込み、誰に何を言われてもどこうとはしない。……王子としての自覚も懸命に受け入れようとしているようで、様子を見に来たメルニスもセイルの変化に驚いていた。

 それからメルニスは、ゼロリードが目覚めたことを告げた。しかし、ゼロリードはゲルド・ロウに関する記憶はなく、シアングが死んだことも覚えていないという……。


 ──それはある程度予想できた答えだった。ゲルド・ロウとゼロリードの関係が明るみに出ることはないが、あの男が重要な証拠を残して去るとは考えられない。ゼロリードが生きていただけ、いい結果だと思うしかないのだ。……彼もただ、愛に狂い堕ちた哀れな男だったのだから。

 やりきれない思いは勿論あったが、もうベルサリオに滞在する意味がなくなった。


 ──そして。

「明日、此処を発とう」忙しい身のメルニスが部屋を出る前に、トアンは仲間たちと彼女に告げた。

「もうここにいても、辛いだけ。チャルモ村に行こう。ウィル、兄さん、またお世話になっちゃうけど……」

「いいよ、そんなの」ウィルが親指を立てる。

「チェリカも、いいだろ? ルノのことをお前一人で考えこむな。皆で助ける方法を探していけばいいんだからさ」

「……うん」

「メルニス」

 セイルが顔をあげてメルニスを見つめる。メルニスは一瞬目を見開いたが、すぐに微笑んで頭を下げた。

「了解しましたわ」

「……俺様、まだなにも言ってないのよ?」

「全ておっしゃらなくてもわかりますわ。一緒に行くということですわね?」

「いい?」

「勿論ですわ。……トアン様、セイル様をお願いします」メルニスは優雅に会釈して、部屋を出ようとして──もう一度だけ振り返る。

「……いつでもここへ帰ってきてくださいませ、セイル様。わたくし、お待ちしております。ここはあなたのお家なのですから」

 セイルは答えず、ただ笑った。


 ──時刻はもうすぐ夕方になる。トアンたちは旅立ちまでの短い時間を思い思いに過ごすことに決め、チェリカに誘われてトアンはシアングの墓へとやってきたのだった。


「シアング……ごめんね」

 トアンはほんの少し視線を落とす。──墓の前には真新しい花が添えられていた。ウィルとレインが訪れたと言っていたので、二人からの花だろう。

「どうしてトアンが謝るの?」

 しゃがみ込み、トアンの顔を覗きこむようにチェリカが問いかけてくる。トアンはチェリカの青い瞳を見つめ、即答した。

「守れなかったから」

「でも、それは」

「わかってる。チェリカはオレの所為じゃないって言ってくれるんでしょう? ゲルド・ロウの登場なんて、予想できたものじゃないんだから。……だけどあのとき、オレはもう勝利を確信して、油断をした」トアンも少し腰を落とす。

「あの時、オレがもっと注意を払っていたのなら。ほんの少しでも変わってたかもしれないって思うんだ。……これじゃあ、ゼロリードさんをただ瀕死に追いやっただけの侵入者だよ。そのゼロリードさんに、自覚はないんだ。オレは結局、誰も救えなかった」

 ……自嘲でもなんでもなくて、ただトアンの胸に降り積もる粉雪。さらさらと零れるそれは儚いくせにずっしりと積もっていく。

「……何も変わらないよ」チェリカはきっぱりと言い返してきた。

「何もね。トアンがどれくらい注意したって、あの瞬間、私だってやった、勝った、シアングを助けられるって思ってた。……ゲルド・ロウは全てお見通し。全部シナリオ通り。私たち二人なんかより、普通の状態だったらゼロリードの方がよっぽど強いんだから、少しは脅威になるはず。……もしゼロリードが正気に戻っても瀕死の状態なら動けない」

「……チェリカ。本当にそう思ってるの?」

「もちろん」

「嘘でしょう。」

「ううん……君を慰めたいけど、慰める言葉が見つからないもの」

 いつもより押しの強いトアンにチェリカは困ったように目を逸らした。……トアンにはチェリカの本心はわからないが、どうも彼女が慰めてくれているような気がするのだ。

(どうしても無理だったって思わせてくれようとしてるみたい。……実際そうだったのかもしれないけど)

 ──考え付いた答えに思わず苦笑する。トアンは物言わぬシアングを見つめるチェリカを見て、不意に自分の未来を思い出した。……そして、彼女の左耳の傷を。


「……ねえ、チェリカ。」


「うん?」

 こちらを見ずに答えるところを見ると、先ほどの話題に戻るのを避けているようだ。……トアンの喉まで出掛かっている言葉は、全く違うものだが。

「あのね、オレの話聞いてくれる?」

「シアングのことは聞かないよ」

「うん。もうその話は終わりにする。オレは後悔してるけど、もうクヨクヨしないよ。ゲルド・ロウを見つけて、目的を問いただす。……それでどうするか決めるんだ」

「ふうん」チェリカの目がトアンに戻る。

「……私も協力していい?」

「……チェリカ。でも君は、エアスリクに──」

 戻らなくちゃ、そう続けようとして、トアンは口篭った。別に口にすることで彼女が消えてしまうなどと思ったわけではない。

(……そういえば、どうしてチェリカはここにいれるんだろう)

 ハルティアを使って。──方法はどうでもいいのだ。エアスリクでチェリカは確かにトアンに言った。自分はもう同行できない。魔力が制御できないと。


「ねえ、チェリカ」

「なあに」

「うやむやになっちゃったけどさ。一つ聞いていい? オレが起きたときに、『ピアスと一緒に魔力を持ってかれちゃった』って言ってたけど、どういう意味なの?」

「ああ、それかあ」チェリカは苦笑した。想像したより随分と軽い反応だったのにトアンが驚いていると、チェリカは言った。

「……私の魔力が制御できなくなったって、前言ったよね? それで、私自分の力を操る方法を探したの。……あったんだよ。それはね、私はピアスだったけど、身につけてる大事なものに魔力を籠めるの。ほら、お兄ちゃんのピアスを考えて」

 言われるままトアンはルノの涙のカタチをしたピアスを思い返した。癒しの力があるものだ。

「傷を癒せるんだよね」

「そう。あれはお母さんとお父さんの力が籠められてるの。あれは守るために残されたものだけど、そんな感じ。私は自分の強すぎる力を、トアンからもらったピアスに閉じ込めた。──大分、楽になったよ。ちょっとトアンには難しいかもしれないけど、持ってる重みは変わらないけど、それが分散された感じかな。肩掛け鞄とリュックサックみたいな」

「……なるほど。ちょっと難しいけど、持ってる量は変わらないけど、リュックの方が楽だよね」

「そう。使いたいときに使いたいだけ取り出して、普段は閉まっておく。……今の私は、そのリュックがまるまる持って行かれちゃったってこと」

 ──それは、笑っている場合ではないはずだ。トアンの顔色が変わったのを素早く悟り、チェリカがひらひらと手を振った。しかしトアンは首をふる。

「チェリカ、それって……!」

「うん。トアンが起きたときに言ったみたいに、今の私の魔力はとーっても少ないの。一年前、トアンに出会ったときの半分くらいかもしれない……」

「それって笑い事じゃないよ! 体調は大丈夫なの、具合は? いつものノリで行動しちゃだめだよ、いつもいつも飛び出して……」

「あぁ……」自分の態度が火に油を注ぐと知ったのだろう。チェリカが困ったような顔をする。

「君、心配してくれてるんだね。王女として国を支えられるか、じゃなくて、私の体調か。ありがとう」

「うっ……」

 指摘されてトアンは顔を赤くする。チェリカはケラケラと笑った後、真摯な眼差しでトアンを見つめてきた。

「体調は大丈夫。ピンピンしてる。……協力するって言ったでしょ? 私、もう一回トアンと旅がしたいの。その旅の途中で、魔力は育ててく」

 ──それに、とチェリカは続ける。

「トアン。私に何か言いたいこととかない?」

「……え?」

「私、エアスリクで初めてトトに会った時ね。なーんか不思議な感じがしたの。それから、あの『ユーリ』にもね」

「……チェリカ……気付いてたの?」

 二人の正体に、とまで言わなくても、チェリカは頷いた。

「なんとなくだけど。何か変だなって。ユーリとお風呂に入ったときに、名前も教えてもらった。コガネっていうんだね」

「言葉がわかるの?」

「それもなんとなく」へへへ、と苦笑したチェリカが空を仰いだ。

「私も、ちょっと特殊な分類だからさ。なんとなくわかるの。……それで、トアンとお兄ちゃんは、何か目的があったんだよね。エアスリクを救うことだけじゃなくなった。……お兄ちゃんの代わりに私がトアンを助けるよ。」

 赤と青の混ざり合う空からトアンの瞳へと視線をうつしてチェリカが微笑む。トアンは言葉を一瞬詰まらせ、そしてゆっくりと口を動かした。



 ──トトのこと。トトの仲間たちのこと。……そして、自分の未来のこと。




 チェリカは終始優しい顔で話を聞いてくれた。全てを聞き終えると、ほんの少しだけ悲しい瞳をする。

「私、トアンについていくよ。」

 ──何があっても。

 トアンはチェリカの瞳の憂いの意味を汲み取ることはできなかったが、それでも心から安心した。

「ありがとう」

「ううん。……トアン。一つだけ、もう一度約束して欲しい」

「ん?」

「……何があっても。何があっても、闇が呼ぶほうへ手を伸ばさないで。君はもう呼ばれてる。聞こえてないかもしれないけど、気付こうとしてないだけなの」

「闇?」

「あの月夜の晩、覚えてる?」

 チェリカが言うのは、レインが消えたあの夜のことだ。チャルモ村の丘で誓い合ったことをもう破ってしまった。トアンは複雑な顔をして頷き──チェリカの言いたいことを理解する。……チェリカは夢に見ている。あの時言っていたじゃないか。自分の堕ちた姿を。

「……あの時は言えなかった。けど、チェリカ。君の見た夢はきっと正しい。約束する。オレ、絶対に闇になんか魅入られない」

 ──既に魅入られているような気がした。……チェリカは、闇の化身だ。そのチェリカに自分は恋焦がれているが、それは、今は関係ないだろう。

(そうだ。チェリカは闇だけど、違う)

「ねえ、トアン」

「え?」

「……私は、ついていくよ」



 冷たい風がトアンとチェリカの頬を撫でていった。この言葉の真実を、トアンはまだ知らない。

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