第43話 名前のない君へのレクイエム



 続く罪は、

 嘘であること。


 全てに対しての嘘が、オレの罪の重さでもあった。


   ──『シアングの手紙』本文2ページ目より




 *

「……ん」

 トアンがうっすらと目を明けると、真っ白な天井が視界に広がっていた。金の装飾が施されたシャンデリアがキラキラと光っている。

(病院、にしては煌びやかだなあ……第一、オレたちは──……オレたちは侵入者だ!)

 慌ててがばりと状態を起こすと、ぴんとはったシーツが乱れた。それと同時に額に乗せてあった濡れタオルがどこかへ吹っ飛んでいくがトアンは気にせず、きょろきょろと落ち着きなく部屋を見渡す。──と、ベッドに上体を伏せ、チェリカが寝ているのが目に入った。

「え、え、あ、あの……ええ……駄目だ、落ち着け、一回落ち着こう」

 一度、深呼吸をする。それからトアンは改めて部屋を見渡した。

 ──部屋のなかにはベッドが一つ。つまり、トアンが寝ていたベッドだけだ。シャンデリアがぶら下がっている割りには片付いている部屋だ。……チャルモ村ではない。窓から見える空には、水のヴェールが架かっている。壁も天井と同じ白さだが、病院独特の薬のにおいはしない。……それにこの内装に、トアンは見覚えがあった。

「ここは……ベルサリオ城だ」

 そう。この部屋は城の部屋の一つだ。以前泊まったときの、来客用の部屋に雰囲気が似ている。部屋の中には、あとは小さな机が壁に寄り添っていた。机の上には消毒液と思われる瓶と、ガーゼと包帯が置いてある。

(なんでかはわからないけど……オレたち、牢獄じゃなくて、ちゃんと手当てをしてもらって、こんないい部屋にいさせてもらってる)

 トアンはおもむろに自分の身体を確認する。服装は、休みやすいように剣のベルトも外された軽装だった。戦いの中たいした怪我は一切負っていない。ただ後頭部が時折思い出したかのようにジンと痛むのは、あの男の一撃の所為だ。

(いつ攻撃されたのかも、オレには全く見えなかった。……チェリカ)

 突っ伏したまま眠っているチェリカの髪に手を伸ばす。さらり、となんの惜しみもなくトアンの指をすり抜けていくそれが流れ終えると、包帯に包まれた痛々しい左耳が露わになった。形のいいチェリカのそれは歪になってしまっていたのだ。トアンは机の上の消毒液を思い出し、ため息をついた。

(ごめん、こんなことに……。あの消毒液は、君のためのものだったんだね。……ゲルド・ロウが何者なのか、君の知り合いなのかはオレにはわからないけど……)

『返して!』

 泣きながら叫んでいた、チェリカを思い出す。

(……また君を守れなかった。こんな傷を残させちゃって、泣かせちゃった……。ごめんね)

 おずおずと手を伸ばし、チェリカの金髪に触れる、柔らかな髪の毛は、耳の周囲だけ短めにカットされていた。──恐らく、傷口を清潔に保つためだろう。あまり不自然ではないように、それでも耳の後ろに流してピンで留めている姿が、身だしなみに気を使う少女としてのチェリカをさらに傷つけているようで、トアンは歯がゆい思いを味わった。もちろんチェリカは対して気にしていないと言うだろう。……それでも、理不尽な怒りがトアンの内側でのた打ち回った。

(……あのピアス、気に入っててくれたんだ。あいつはピアスに魔力がどうとか言ってたけど……)

 ゲルド・ロウが何か言っていた。トアンにはよく意味が理解できなかったことだ。ところがチェリカはそこには一切触れず、ただ自分のものだ、返してくれと泣いた。

(本当にごめん)

 ──と、ピクンとチェリカの瞼が震えた。トアンが驚いて手を止めると、チェリカがのそりと顔をあげる。引き際を失ったトアンの手を頭に乗せたまま、チェリカは何度か目を瞬いた。

「お、お、お、おはよう」

「おはよう……具合、どう?」

「え。あ、オレ? 全然平気」

「喉渇いてる? お水、飲む?」

「あ……じゃあ、もらおうかな」

「うん」先手必勝とばかりに話しかけたトアンにチェリカはにこりと微笑んで、身を捩ろうとして動きを止めた。それから頭の上のトアンの手をそっととり、ベッドに降ろす。

「私の頭、そんなにさわり心地よかったの?」

「え、ええ、ああ、う、うん……」

「なに、さっきからどもっちゃって。変なトアン」

 ふふふ、と柔らかく笑いながらチェリカが身を屈める。トアンからは死角になっていたが、ベッドの脇には小さなテーブルがあり、その上に水差しが置いてあったようだ。銀の水差しからさらさらと透明な水が流れてコップに湛えられる。

「チェリカ、その……」

「はいどうぞ」

「ありがとう……ねえ、ここはどこなの?」

 水を飲み干し、トアンは尋ねる。一口のつもりだったが水がやたらと美味く感じた。随分と喉が渇いていたらしい。

「ベルサリオだよ。……それはもう分かってるよね。ここはね、お城の裏にある小さな塔。牢屋じゃないよ。なんで私たちが捕らえられなかったかっていうと……トアン、具合は本当に大丈夫なの?」

「うん、全然」

「どこか痛かったり動かなかったりしない?」

「うーん……」ためしにとトアンはベッドの上に立ち、準備運動でもするように首から指先、足首まで動かして見せた。チェリカがほっとした表情になったを確認するとベッドの上に正座になり、続きを促す。

「大丈夫だよ。どうして?」

「……あれからね。三日経ってるんだよ」

「……三日!?」

「そう。君はその間、ずーっと寝たきりで動かなくて……みんなで心配してたの」

「みんなって……そうだ、ルノさんは!? 兄さんもウィルも、トトさんもセイルさんも……」

「うん」

「う、うんって……」

 チェリカは頭がいい。トアンの問いに対し、一に対し三どころか十答えることも稀ではない。……しかし大体が謎めいていたり、予言じみていたりとトアンには理解できないことが多い。沈黙も誤魔化しも、後々で考えると重要な意味を持っていることも少なくない。そんなチェリカが言葉がうまい言い訳をしないで言葉を濁したことに、トアンはどこか拍子抜けした。

「……みんな、生きてはいる」

「……どういうこと?」

「トアンたちがどういう状況で、このベルサリオにきたのか詳しくは私は知らない。でも、話は聞いたよ。……とにかく、順に説明するね」チェリカが佇まいを直したのでトアンも背筋を伸ばした。青い瞳の知的な光が、どこか憂いに陰っている気がする。

「──あのとき。トアンが倒れて、私も倒れた。ゲルド・ロウはそのまま消えてったけど、私は動けなかった。トトを助けなくちゃ、トアンの様子をみなくちゃ、それからゼロリードの傷をどうにかしなきゃって」

「ねえチェリカ。話の腰折ってごめんね。……君とあいつは知り合いだったよね?」

 ──あいつ、とは。ゲルド・ロウのことだ。チェリカは悲しそうに瞳を細めて、しかし目は逸らさずにトアンを見て、言った。

「わからない。私、あのひとについては何も知らないの。……もっと歳を取ってたはずなのに、若返ってた。シアングを殺したその動悸も、何も。……あのひとはエアスリクにいて、クラインハムトの相談役になってた。そしていつの間にかいなくなってた。それだけなの」

「……そう。」

 嘘はないだろう。チェリカがため息をついてこめかみに手を当てる。──嘆いているのだとトアンは知り、そっとチェリカの頭を撫でた。

「ありがとう。……シアングの死で頭がごちゃごちゃになってたけど、ゼロリードにはゲルド・ロウについて色々聞きたかったから放っては置けなかった。でも私もショックが大きくて動けなくて……」

 ──ああ、そのチェリカを想像するのは容易かった。邪神の一部として生を受け、少女でありながら少年としての教育を受け、それでも歪まずに、自分の中の闇に負けないように真っ直ぐに立ってきたチェリカ。その壮絶な人生を歩いた経験上、チェリカは強そうに見えるが、逆だ。想定以上のことが起こり、そして大勢の命がかかった状態で頭がフリーズし、そしてそんな自分に焦る。どうしようどうしよう。……トアンはそこまで考えて、意識を失った自分の不甲斐無さを呪った。

「ごめん、チェリカ」

「え?」

「君を守れなかった」

「……ううん、トアンは悪くない。最初から守られるつもりはなかったの。私、一人でも戦う自信があった。ゲルド・ロウがでてきて凄い驚いたけど、でも戦えると思った……思ってた。もうそんな子供じゃないから、エアスリクを抜け出してきたことについても、自分で全部なんとかできると思ってたみたい」

「オレに守らせてはくれないの?」

「トアンより……私の方が強いんじゃないかな」

 てへへ、と苦笑しながら呟かれた言葉にトアンは項垂れる。

(事実だけど……事実だけどさ! チェリカの実力とオレの力を比べて、全然つりあわないことだってわかってるけどさ! ……ん)

 トアンの首をチェリカが撫でていた。トアンはのろのろと顔をあげ、眉を下げて微笑んでいるチェリカを見る。

 ──どこか寂しそうな顔だった。

「……チェリカ?」

「あのねトアン。先に話とくね」

「う、うん」

「私、ピアスと一緒に魔力を持ってかれちゃったの。もう……詠唱なしでばんばん魔法を使えてたころの私じゃない」

「……え?」

「一回話を戻すよ。いい?」いい、と尋ねておきながら、チェリカはトアンの反論を許さず強引に話をもどした。


「……みんな無事だったの。ゼロリードも今はまだ寝込んでて、全く話が聞けてないけど生きてる。とにかくね、どうしようかどうしようかって私が思ってたら、メルニスって子がきてくれたの。トアンたちの知り合いなんでしょ?」

「うん、そうだよ。あの子、シアングの許嫁なんだ」

「……全部助けてくれた。私たちをこの離れに全員匿うように指示してくれたの。彼女が私のところにきたとき、もうセイルとレインとウィルはこっちに移動したって言った。……シアングが死んだ直後、セイルが倒れたんだって」

「セイルさんが?」

「そう。心臓……ううん、心が痛むって、うわ言で言って……。私はメルニスに従って、残ってた力でトトを助けてからトアンたちとここにきたの。お兄ちゃんは別の部屋で寝てる……」

 ──はあ。チェリカがため息をつく。……顔色が悪い。そんなチェリカに対し、トアンは酷だと思いながらも、ずっと問いたかったことを口にした。

「ねえ、チェリカ。シアングは本当に……死んだの?」チェリカが無言でトアンの顔を見る。少し驚いたような表情だ。希望を見つけた気がして、トアンは続ける。

「だって、だってあんな唐突に──あの光の一瞬で、本当にシアングは殺されたのかな」

 ──今にも。

 今にもシアングが、出来立ての粥をもって「お、起きたかトアン。ああ、チェリちゃんもいたんだ? 二人とも、腹減ってない?」と言いながら部屋に入ってきたって不自然ではない。記憶が混乱しているからだろうか、トアンはシアングの死に対して、時間を置いた今、実感がもてなかった。

「トアン……」

「だって……そうだよ。何かの間違いじゃないかな。オレたちはあの一瞬じゃ」

 喋れば喋るほど、自分の考えが信憑性を帯びてきた気がしてトアンは弾丸のように続ける。頬が高揚してきたのが伝わるが、それでも口は止まらなかった。

 ──その反面、何を必死になっているんだと矛盾に気付いたとき、心の一番奥底がすうっと冷えていった。……必死になればなるほど。けれどもトアンはそれを無視して口を動かす。

「……トアン」

「え?」

 静かに口を挟んだチェリカの声は、トアンの深い部分と同じに冷静だった。チェリカは両手を軽く振ってトアンの興奮を抑えるようにすると、そのままトアンの手を握り、まっすぐに瞳を覗き込んで、言った。

「セイルが倒れたって言ったよね」

「うん」

「セイルは心が痛いんだって、言ったよね」

「うん、でも」

「……どうしてかわかる? もう気付いてるよね?」

 冷静だったチェリカの顔がくしゃりとゆがみ、声が揺れた。トアンの心臓はドキリと跳ね上がったが、それはいい意味ではなく。

「──『影抜き』と本体は繋がってるの。心の奥の、ずっと奥で。それが強引にねじ切られたから、すごく苦しくて痛いんだよ。……セイルはシアングの『影抜き』。還る場所はもうないの。嘘なんかじゃない、ましてや勘違いでもないんだよ……シアングは死んだの」


 ──コンコン。

 その時、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。トアンは図星を突かれて言葉を詰まらているとチェリカが首をまわし、どうぞ、と応える。

(オレ、何をチェリカに言わせてるんだ。この三日間オレはただ寝ていただけだけど、チェリカは意識があった。……それなのに、さらに辛いことを……でも……っ!)

 夢だったら良かった。目が覚めたとき、何もかもが夢だったらと、本気でそう願った。唇をかみ締めると、チェリカに握られたままの自分の手に、てんと雫が落ちる。……チェリカも気付いた。ドアからトアンに視線を向け、笑おうとしたのだろう、失敗した笑顔を浮かべる。

「……誰の所為でもなかった。トアンは悪くないよ。頑張ったもの」

「でも……でも、でもオレ……認めたくないよ……っ!」

「うん。……うん」

 チェリカは恐らく、これが現実だとか、でももうシアングはとか、そういうことを言おうとしたのだとトアンは思う。けれども、うん、とだけ言ってトアンの手を強く握った。……それが答えだった。


 世界中のどこにも、もう彼はいない。


 もう一度ノックの音がする。……恐らく中の様子を悟り、入るのを躊躇ったのだろう。チェリカがトアンの右目の涙を拭いてくれたので、トアンは左目をごしごしと擦り、今度は自分で、どうぞ、と言った。

「入りますわ。……トアン様、お目覚めになったのですね。お加減はいかがですか?」

 扉から顔を出したのはメルニスだ。両手で大事そうに何かを抱えている。ドレスはシンプルなものだったが、以前よりもどこか大人びたような雰囲気が漂っていた。……トアンの目覚めに驚いていないところを見ると、やはりチェリカとのやり取りが聞こえてしまっていたらしい。トアンは再び姿勢を正し、メルニスを迎え入れた。

「大丈夫です。……メルニスさんがオレたちを助けてくれたんですね? ありがとうございます」

「いいえ、わたくしは何もしていませんわ。それよりも皆様、よくぞご無事で。トアン様、本当にありがとうございました」

 上品な笑みを浮かべるメルニスの顔は、近づいてよく見るとくっきりとクマが浮かんでいた。

「……ゼロリードさんは?」

「ゼロリード様は未だ伏せっています。意識は何度か取り戻されましたが、うわ言のようにシアング様とカナリヤ様、セイル様の名を呟いております」

「メルニス、大丈夫?」チェリカが口を挟む。チェリカの心配そうな顔に、メルニスはただ笑って応えた。

「トアン。私たちを匿ってくれて、それからメルニス一人でがんばってるんだよ。この国、ゼロリード中心だったでしょう。一応役人は動いてるけど、国が混乱してるの。メルニスね、ほとんど寝てないんだ」

「それはチェリカ様も同じことですわ。はるばるエアスリクの王女様がいらしたのに、歓迎もできなくて申し訳ありません」

 そういって頭を下げるメルニスに、チェリカが困ったような顔をした。トアンはそれだけでメルニスの肩にかかる重みが伝わってきて、無言で頭を下げ返す。絶対の王だったゼロリードが倒れ、国が動揺するのは目に見えていたことだった。

(……でも、オレ、シアングも守れなかったし……ゼロリードさんを倒した意味があったのかな)

 ぼんやりと考えるトアンに、メルニスが再び視線を合わせる。

「トアン様。あなたのしたことは最善の手でしたわ。ゼロリード様は狂っていた。……再び目覚めたときにどうなるかはまだわかりませんわ。でもそれはあなたが気に病む必要はありませんの」

「メルニスさん」

「……チェリカ様、トアン様。わたくしあなたに渡すものがあって、ここにきました」


 *


「……どうしてこんなことになったんだろうな」

 しんとした空気が冷たい。ウィルは呟かれたレインの言葉を聞きながら、松葉杖越しに手にした花束を無言で握り締める。

 ──ここはベルサリオを見渡せる崖の上。その崖に、小さな石造りの墓が立っている。刻まれた名はシアング・R・コユズスタ。紛れもない友の本名だ。

「残念だな。オレたちはこんな石にさせるために命を賭けたのか」

「……石じゃないだろ」

「石だ。こんなに冷たい」

 ウィルの前でしゃがみこんだレインの指が、そっと掘られた名前をなぞった。ウィルから見えるレインの横顔は酷く色褪せて見える。まるで、暗殺者時代の寂しい表情。

「そんな顔するなよ。シアングだって悲しむ」

「……どんなだ」

「酷い顔」

 ウィルは足を痛めないように注意しながら、レインの横に器用に座り込んだ。松葉杖と花束を脇に置き、レインはウィルの方を見ないまま、答える。

「お前もだろ」

「……そうだな。……残念って皮肉でレインは言ったんだろうけどさ。オレはそうは思わない」

「なんで? オレは恨むぞ、約束したのに。あいつ一人置いてくなんて」

「別に嘘じゃない。それがシアングの答えなんだよ、最初っからさ。──そう、最初からそのつもりだったんだ。チェリカは一度は思い直したっていってたけど、オレ、シアングはずっと自分の死を決意してたと思うんだ」

 レインの目がウィルを見ている。それに気付きながら、シアングの墓を見て、レインの手に自分の手を重ねた。

「最初から?」

「最初っから」

「シアングが不憫だな。こんな墓つくられて……中身なんてねぇのに」


 ──そう。このシアングの墓の中身は空だ。シアングの灰は風に散り、遺品は何一つ見つからないということで、形だけで与えられた彼の家なのだ。


「でもそれがシアングの覚悟だったってことだよ」

「──けどオレは許せない。あんな手紙、最後の最後に残して」

「……手紙はシアングの小さな反抗心だったんだよ。自分の存在、真実が埋もれないようにするための証明。それから懺悔」

 冷たい風に髪の毛を遊ばせながらウィルはレインを見た。レインもウィルを見ていた。二人は口元だけでなんとか笑い合うと、花束を墓の前に添えた。

「……。」

「あぁ、腹立つくらいにいい天気だな。雲ひとつない」

 ウィルが空を仰ぐと、レインも同じようにした。抜けるような晴天の空に、赤い花びらが彼の代わりに空を渡っていった。




 *




「……手紙?」

 トアンはメルニスの手から手渡されたものをまじまじと眺めた。何故かすでに封は開いており、宛名にはメルニスの名があった。……その字はシアングの字だ。それに気付き、トアンはばっとメルニスを見つめた。

「それはシアング様からの手紙ですわ。机の中にありましたの。……磔になる前にお書きになったもののようです」

「これ、オレが見てもいいんですか? だってメルニスさん宛てなのに」

「……だからこそ、誰かの手に渡ることなく発見者はそのままわたくしに届けました。わたくしに宛てられた内容は、手紙の封の裏です。『感謝してもしきれない。さようならメルニス。最後まで悪いが、どうかこれをオレの友達に渡して欲しい』」

 ……言われるまま目を通すと、確かに小さな文字が並んでいた。

「じゃあ……読ませていただきます」

「はい。……そこに書かれているのはシアング様の真実ですわ。どうか受け入れてくださいませ。まず一枚目をご覧になってください」

「真実……?」

 トアンが呟くが、メルニスはもうトアンが読み終わるのを待つつもりのようだ。ちらりとチェリカを見ると、チェリカも目で合図している。……彼女が興味を示さない辺り、自分が意識を失っている間に既に読んでいるのかもしれない。

 トアンは中から数枚の紙を取り出すと、目を通した。紙にはインクで整った字が書かれており、それはやはりシアングの筆跡だった。



 ……手紙では、シアングが自らの罪について語っていた。トアンには最初何が罪なのかさっぱりわからなかったのだが、読み進めるうちに彼のいう『罪』を悟る。

 ──『シアング』の影抜きである名もない存在と、妹を殺した『シアング』の心が入れ替わったこと。

 一度読んだだけでは意味が汲み取れず、トアンは何度も何度も読み直し、そしてふと思い出した。セイルと初めて出会ったときの、シアングの反応。仲間としての居場所を奪われると危機感に焦るシアングは、『影抜き』の特徴そのものではなかっただろうか? 居場所、存在証明を脅かされることを恐れる『影抜き』という存在。……シアングは罪も全て背負うと決意しながらも、仲間としての自分を守ろうと必死だった。

(……シアング……ごめん、オレ、全然気付けなかった。君のこと、仲間でずっと一緒にいたのに……!)

 手紙を握る手に力が篭る。……シアングはきっと、自分の存在がゼロリードを狂わせたのだと考えた。

(父親の暴力から本来の『シアング』であるセイルを守るために生きて、そして父親の気が済むのならばと自ら進んで処刑台にかかり──死んだんだ)

 トアンは頬を熱いものが零れるのを構わず、二枚目を捲る。そこにはルノに対する謝罪が書き綴られていた。

 今まで仲間だと偽っていたこと。『シアング』だと偽っていたこと。自分は本来は名前もなにもない、ただのカケラでしかなかった。ごめん、ごめんな──……。ぼたりと小さな音がして、手紙の文字が滲んだ。

「……チェリカ、これ」

「……うん」

「こんなの酷すぎる、シアングは何のために生まれてきたの……?」

「セイルを守るためだよ。……そう覚悟してたから、シアングは中々逃げようとしなかったんだと思う。……トアン、君もお兄ちゃんと同じこというんだね」

 チェリカの声がいつもより小さかった。トアンの耳はそれでもキチンと捉え、彼女に尋ねる。

「ルノさん──そうだ、ルノさんは?」


「うん、その……お兄ちゃんは……。」

 何故かチェリカは言葉を区切った。その表情は曇っている。トアンはいやな胸騒ぎがして、思わずチェリカの肩を揺さ振った。

「ねえ、ルノさんは!?」

「……。」

「答えてよチェリカ。ルノさんはどうしたの、無事なんでしょう? どうして黙ってるんだよ!」

「……お、お兄ちゃんは……」

「手紙についてなんて言ってるの、こんなの認めないって──」

 パシン。

 なお揺さ振り続けるトアンの手をチェリカが振り払う。乾いた音が部屋に響いた。

「トアン──認めないもなにも、シアングはもういないんだよ!」

 …そんなこと、言われなくたって知っている。それなのに再びチェリカの口からその言葉を聞いて、トアンは後頭部をガツンと殴られたような錯覚を覚えた。

 またチェリカを傷つけてしまった自分の幼稚さと、目を背けたい言葉。

(……なにやってんだよオレ。シアングの死は認めたけど、でも手紙について納得してないとか駄々こねて……。今更どうこういっても、これは真実なんだ。否定も考察も余計なこと。受け止めないといけなかった)

 その感情がそのまま表情に出ていたのだろう、チェリカは少し眉を下げて悲しそうな顔をすると、今度は両手でトアンの手を握った。……とても優しく。

「……やっぱりお兄ちゃんと同じこと言ってる」

「……え?」

「…………。きて、トアン。お兄ちゃんの部屋に案内するね。続きは、そっちで話そう」

 チェリカは立ち上がって確認を取るようにメルニスを見た。メルニスは口元に手を当て、心配そうにトアンとチェリカを見比べていたが、トアンが手紙を握り締めたままベッドから降りるのを見ると承諾してくれた。



 *



 ルノの部屋は、トアンの部屋から真っ直ぐ進んだ突き当りにあった。メルニスが先導し、チェリカとトアンを手招きする。……と、チェリカがトアンの手をそっと掴んだ。そのままトアンを引いて、部屋の扉を開けた。

 部屋は、間取りもベッドの配置もトアンの部屋とほぼ同じで、広さも同じくらいだったのだが、トアンの部屋と決定的に違うところがある。

 ──部屋の内部は荒れ果てていた。カーテンは引き裂かれ、花瓶は倒され、壁には殴ったのか蹴ったのかはわからないが穴があき、壁紙もはがれている。

「……!」

 言葉を失うトアンの手をなおも引いて、チェリカはルノの眠るベッドのシーツを捲って見せた。……再びトアンは絶句する。


 ──こんな部屋でも安らかな寝顔で眠るルノの身体は──ベルトでがっちりとベッド固定されていたのだ。けれども手首や腕にはまだ癒えていない、痛々しい無数の掻き傷があった。



 それは痒いから掻いた、では済まされないレベルだった。明らかに皮膚を、肉を抉るような意図だ。……しかしトアンは、傷と同時に飛び込んできたルノのボロボロになった爪を見てふと思った。

(……これは、ルノさんがルノさんを傷つけるためにしたことなんだ。自分まで痛めつけないともう耐えられなかった……)

「……トアンが何考えてるか、当てようか」

「チェリカ……」

「お兄ちゃんが自分自身をただボロボロにするためにしたと思ったでしょ? その通りなの。この部屋全部、お兄ちゃんがやったの。カーテンを引き裂いてもまだ足りなくて……それで自分の腕を裂いた」チェリカは自分を抱くようにすると、寂しそうにルノの寝顔を見つめる。

「今は薬で眠らされてる。寝てるときの寝顔はこんなに穏やかなのに、もうお兄ちゃんは……今までのお兄ちゃんじゃないの」

「……な、何があったの?」

 面食らったままトアンは呟く。あの温和で少しだけワガママで、けれどもとても優しかったルノが、部屋を荒らす姿は、どうしても想像できなかった。……自らを傷つける様子も。

「それ」

 チェリカがついと手を伸ばし、トアンの握っている手紙を刺した。すると今まで扉の傍に控えていたメルニスが進み出て、トアンに頭を下げる。自分から説明するということなのだろう。トアンは潰れそうなチェリカの肩にそっと手を置いて心の中で自分の幼稚さをもう一度謝罪すると、メルニスに向き直った。


「……あの空から光の剣が落ちてきた時。わたくしはシアング様のお部屋でその手紙を見つけ、皆様をお守りする使命を頂きました。不安と動揺する兵士に指示をだし、わたくしはセイル様、レイン様、ウィル様を見つけ、ここにお連れしました。それとほぼ同時に兵士がルノ様を見つけ……。」メルニスは一度言葉を区切り、申し訳なさそうに手を組んだ。

「……ルノ様は意識を失ったわけではありませんでした。シアング様の磔にされていた十字架の下で、自我を失い呆然としていたそうです。こちらに来てからも、感情を一切出さず、ただただ壁を眺めていたのです。その後、チェリカ様と意識を失ったトアン様がこられ……そしてわたくしは、ルノ様にその手紙を渡してしまった」




 ──それは、三日前のこと。



「……これは、メルニス宛てだろう。私には読めない」

 受け取りかけた手紙を押し返すルノに、メルニスは首を振った。ルノの顔には表情が浮かんでいない。……ほんの少しだけ寂しそうなだけだ。

「この手紙はシアング様の、ずっと言いたかった言葉です。そしてシアング様はあなたたちに──他でもない、ルノ様に一番伝えたがっている。お願いです、読んでくださいませ」

 必死なメルニスに、ルノが眉を下げた。今にも泣きそうなその顔にメルニスの心は痛むが、シアングはルノがとても強いと言っていた。メルニスはこの手紙がルノの心を救ってくれるのだと信じていたのだ──そのためにシアングは書き残したのだと。

 部屋の壁に松葉杖ごと凭れ掛かっていたウィルが背中を離し、横にいたレインと頷きあっている。丁度扉が開いて、意識の戻らないトアンについていたチェリカが入ってきた。三人は沈んだ表情をしていたが、自然と手紙に耳を傾けようとルノのベッドの周りに集まってくる。

 このとき、トトとセイルは別室にいた。混乱し、胸が痛いと喚き続けるセイルにトトはついていたのだ。メルニスは二人の様子も、意識の戻らないトアンも見た。シアングの大切な仲間たちが擦り切れていくのに耐え切れず、少しでも励まそうとそっとルノの手に手紙を託す。ルノは自分の周りの三人の顔をぼんやりとした目で見てから、わかったといった。

「……。」

 ルノの顔をじっと見つめていたチェリカが、時折焦れたように首を揺らす。彼女も手紙の文が気になっているのだろう。メルニス自身、本文は読んでいない。大体の見当はつくが、この手紙はあくまでも仲間たち、その中でもルノ宛てに書かれていると考えていた。

「落ち着け」

 レインがそっと手を伸ばしてチェリカの頭に掌を乗せた。

「うん、でも……」

「し。」

 繊細な人差し指が口元に当てられる。チェリカはうう、と小さく唸ると大人しくなった。兄の目の動きを見守ることにしたらしい。横でウィルまでも首を伸ばしたりしていたので、その足をレインが軽く踏む。

「っ!」

 しかしウィルは声を上げることを堪え、レインを軽く睨むだけにしていた。だが睨み返されると途端に勢いをなくし、叱られた犬のように首をすくめる。彼もまた手紙の文章が気になって仕方がないようだ。

「……?」

 ──と、ルノが首を傾げた。

 目が動いて少し戻り、また同じ箇所を辿る。一度、二度三度四度。繰り返す速度がどんどん速くなり、その顔色がどんどん白くなっていく。

「ル、ルノ、大丈夫か」

「お兄ちゃん……?」

「…………ッ」

 ぐ、と唇をかみ締めたルノが俯く。さらさらと流れる銀髪にその表情は隠されるが、震える手からはらりと手紙が落ちた。動揺するウィルと心配そうなチェリカの横で、レインが一人しゃがみ込んで手紙を拾う。ウィルが弾かれたようにレインを見た。

「レイン、何が書いてあるんだ!?」

「まて、…………何……?」

「何ってなんだよ、なあ」

「うるさい、ちょっと静かに──……」

「レイン、見せて!」

 レインの肩を引いたウィルと不安げな表情で駆け寄ってきたチェリカの目が手紙の文面に集まる。


(──ああ。)


 三人の顔が理解できない、というものか愕然としたものになっていくのを見て、メルニスは目を伏せた。

(シアング様とセイル様は、本来全く逆の立場……混乱するのは当然ですわ)

「メルニスさんとやら、この手紙本物だよな?」

 ウィルが驚きを隠さない表情でメルニスを見た。メルニスがそっと頷いてみせると、ああ、と項垂れる。その横に居たレインが一番平常心を保っているようだ。……それは演技なのかもしれなかったが、彼は冷静にポツリと呟く。

「……これはシアングの字だ。間違いない」

「どうしてお前はそんなに落ち着いてるんだよ……っ」

「慌てたからって事実が変わるもんか」

「お前……!」

 噛み付くように唸ったウィルに対し、レインははっきりと言い放った。

「ウィル! 一人で熱くなって終わりにするな。納得いってないのは、皆同じだ」

「……く、でもよ」

「でももない。……頼むから落ち着け。お前にそんな声出されると、オレまで冷静さを失っちまう」

「あ、う」

 レインの視線の先にいるルノと、その言葉の重みに気付いたのだろう。ウィルの声は小さくなっていき、ごめん、と呟いてそれきりだった。チェリカは何も言わず、二人すら見ずに手紙を見つめている。その聡そうな横顔には、ただ嘆きの色だけが浮かんでいた。

 メルニスは四人にかけるべき言葉が見つからず、ただただ祈るように手を組んで彼らを見守っていた──その時だった。


「……メルニス」


 扉が開いて、セイルが顔を出した。泣きそうな顔をしているセイルに、メルニスはどうしたのかと声をかけようとする。立っているのもつらそうな、だるそうな様子に手を差し伸べようとした、瞬間。


 ──言葉の矢が、メルニスの頬を掠った。



 振り返ると、ルノがベッドの上に立っていた。その顔は恐ろしいほどに落ち着いていて、紅い美しい瞳のなかには憎しみが黒々と渦巻いている。メルニスはルノが何を言ったのか理解できないでいると、ルノは眉間に皺を寄せ、セイルを睨みつけて再び口を開いた。

「よくもノコノコと顔が出せたものだな」

「……!?」

「……全て知った。手紙に全て書いてあったよ。それなのにお前はシアングを憎み続け、挙句の果てに殺してしまった」

「え……え?」

 怯えたセイルの動きが止まる。ルノは剣を構えるように指を真っ直ぐにセイルの喉元に向ける。メルニスはもちろん、ウィルもレインもチェリカでさえも、ルノの変化に驚き、戸惑っていた。

「……あいつがどんな思いをしていたかも知らないで! お前はシアングの影に隠れて自分だけ助かった……なんで生き残ったのがお前なんだ、なんでシアングなんだ? シアングはなんのために生きていたと思っているんだ、全部お前のためじゃないか! お前を守るために生まれて、お前のために死んだんだッ!」

「ル、ルノちゃん、俺様……」

「あんなに傷だらけになって、最後には一瞬で……ッ」

「ルノ、違う、セイルが悪いわけじゃない。分かってるだろ、セイルを責める理由はない!」

 普段のルノからは考えられない言葉に、我に返ったウィルがセイルを庇うように飛び出した。しかしルノはセイルだけを睨んで叫ぶ。




「お前が死ねばよかったのに──ッ!!」




「ち、違う、俺様の所為じゃないの、うう、うわあああああん!」

 ガタガタと震え蒼白な顔でなんとか泣き叫ぶと、セイルは踵を返して部屋から飛び出していった。なおも殺してやる、死んでしまえと声を枯らしながら──涙を零しながら叫ぶルノをウィルとレインがなんとか抑え、ルノ首の後ろを素早く叩く。

「……っ」

 ルノは一度目を見開いて涙をぽろりと零すと、すっと目を閉じて崩れ落ちた。すかさずウィルが押さえてベッドに寝かせる。レインは手刀として使った自分の手を軽く握りこむと、メルニスを見た。──睨んではいなかったが、メルニスは一歩下がる。……レインが恐ろしかったわけではなかった。

(……わたくしは……なんてことを)


 優しく礼儀正しかったルノの豹変。自分の招いてしまった現実。


「……。チェリカ、大丈夫か」

 視線を外し、レインが立ち尽くしているチェリカに声をかける。──こんなとき、いつもならば真っ先に容赦なく手刀を振るうであろう妹のチェリカは、両手で自分を抱いて真っ青な顔で震えていた。

「レ、レイン、私」

「怖かったのか?」

「……お兄ちゃんがあんな、あんなこというなんて初めてで……び、びっくりして」

 レインが怯えるチェリカの頭にそっと手を置く。ルノのシーツを整えたウィルが振り返り、ポケットから飴を一粒探り当てた。それをチェリカの手に乗せてやる。

「レイン、チェリカを頼むよ。あとメルニスさんのことも」

「お前は?」

「トトと一緒にセイルを捜しにいく」

「……わかった。頼む」

 レインとチェリカに微笑んで、ウィルがメルニスを見た。──レインと同じ、憎しみはない色。感謝と悲しみを混ぜた色。

(……何故、わたくしを責めないの? ……いいえ、違うわ)

 ウィルはぺこりとメルニスに頭を下げて松葉杖を頼りに出て行った。それは先ほどの動揺する少年の姿ではなく、現実を受け止め、背筋を伸ばした後ろ姿だった。

(彼らは不毛なことだと気付いていらっしゃるのですわ。そしてわたくしに感謝すらしてくださっている……)





「ルノ様は目覚めてから再び嘆き、取り乱しました。わたくしたちは薬を使って強制的に眠らせましたが、それでもまたルノ様は部屋を荒らし、ついには自分自身まで傷つけるようになり……。結局ルノ様を拘束し、目覚めるたびに薬を使う。今日まで、その繰り返し。……問題を先延ばしにすることぐらいしか、わたくしにはできませんでした」

「……そ、そんな……」

「今はセイル様の傍にトト様がついていらっしゃいます。セイル様も酷く動揺しておられます……」メルニスの顔は毅然としていたが、謝罪と悲しみがその肩に圧し掛かっているのが見て取れた。

 ──誰を責めても、誰かが謝罪しても、シアングの死という事実は変わらない。救えなかった罪は消えない。

 その罪をもう背負うしかないのだ。メルニスの強い表情には決意が見えていた。……ルノに手紙を見せなければ良かったのだと強く後悔していても、それはもう起きてしまったこと。そして逆に見せないでいることはシアングの遺志に反すること。メルニスは二つの重みに板ばさみにされながら、背筋を伸ばして続けた。

「……セイル様とシアング様の真実は、城の者や国民には伏せております。わたくしとトアン様のお仲間以外、知る者はおりませんわ」

「……そう、なんですか」

 トアンが返せた言葉はそれだけだった。

 何か気のきいたことを探す以前に、自分の心も動揺しきり、すでに麻痺し始めるほどだ。メルニスも察してくれたようで、特に何も言わなかった。もう一度頭を下げてからトアンはチェリカの傍にそっと寄ると、彼女は小さく震えていた。──薄い肩が抱える重みに胸が締め付けられるように感じる。

「あの、さ」

「……ごめんね」

「……え?」

「私……三日前のあのときからお兄ちゃんが怖い」

「ルノさんが誰かに激しく憎悪をぶつけるのって見たことがなかったから……だよね」

 トアンが小さく呟くと、チェリカは顔を上げてゆるゆると首を振った。そしてトアンを真っ直ぐに見つめる。

「それはもう違うの」

「違う?」

「……お兄ちゃんの手、酷いでしょう? うまく言えないけど、お兄ちゃんをここまで追い込むんだシアングの存在感と、私の不甲斐無さと……ううん、それよりこのままじゃお兄ちゃんが消えてしまいそうで、怖い」そこまで言ってから、チェリカは笑おうとしたのだろう。不自然な笑みを浮かべ、声だけは元気に跳ねた。──トアンの心で何かがはじける。

「……こんなんじゃあ駄目だよね」

「駄目じゃないよ! 驚くのは仕方ないよ……オレも驚いてるし」思わず飛び出したトアンの大声に、チェリカの目がまん丸になった。

「……でも、だからって駄目だなんて決め付けないで。チェリカだけが背負う問題じゃないんだ。オレの責任で、オレたち全員が向かい合うことなんだ。ルノさんを支えるのが不安なのはチェリカだけじゃない。……一人で無理しないで。チェリカだって、悲しむ時間は必要なんだよ?」

「……。」

 チェリカの目が伏せられた。静かに眠るルノを見つめ、そのままポツリと返事を言う。

「……まさか君に、そこまで言われるとは思わなかった」

「ど、どういう意味? 確かにオレは頼りないし、オレも動揺してたけど……メルニスさんはもう前を向いてるんだ。オレの悲しむ時間は、もう終わり。十分だ。これからのこと、考えなきゃね」

「うん……っ」

 チェリカの頬を涙が伝う。──自分が目覚めてからここにくるまで、チェリカは随分冷静に見えた。……見えただけだ。彼女の本心は、自分の虚勢で抑え付けていただけなのだ。チェリカにハンカチを渡すと、彼女はそれで顔を隠した。泣き顔を見られたくないのだろうとトアンは考え、メルニスを見る。

 ──たった今自分自身で口にしたように、もうこれからのことを考える覚悟が心に生まれていた。

「メルニスさん、兄さんとウィルはどこに行ったんですか?」

「……え、ええ」メルニスもトアンの切り替えに驚いているようだったが、すぐに微笑んで答えてくれた。

「お二人方はシアング様のお墓参りへ。……崖の上にある小さなお墓です。灰は風に流されたうえ形見となるものは一切見つからなかったので、ただのカタチとしてのものですが」

「なにも、ないんですか」

「ええ。あの光で、シアング様の存在は全て消え去りました。……いえ、全てではありませんわ。トアン様、ルノ様の右手をご覧ください」

「?」

 言われるままトアンは固定されたルノの右手を見る。きつく握り絞められた手に──何か持っている。無理に指をこじ開けることはできないが、掌の隙間から僅かに見えるそれが何か気付いてトアンは息を呑んだ。


 ──シアングの髪飾りだ。


「そうだ……これだけは、残った……え、でもいいんですか。これをお墓に入れないで」

「何もなかった。そういうことになっております。……見つかったら没収されてしまいますもの。それは、ルノ様が持つに相応しいと思いますわ。ルノ様は意識を失った今も、髪飾りをずうっと離さない。──たった一つだけでも残った形見、それがルノ様の心を苛むことも確かですが、少なからず支えてくれるはずです。」

 そういうとメルニスは寂しそうに笑った。トアンは彼女もシアングの許嫁なのだと思い返し、口を開く。

「……メルニスさんはそれでいいんですか」

「わたくしは、この胸に宿る思い出だけで十分ですわ」メルニスは胸の上に手を置き、瞳を伏せた。

「……わたくしがシアング様の許嫁としてこの城に来たのは、わたくしが生まれてすぐのことです。……シアング様が『一つ』だった頃からシアング様を見てきました」

「二人になった時も傍に?」

「ええ……遠い昔、わたくしは一つだったころの純粋で真っ直ぐな『シアング』様と初めてお会いしたときに、決定された運命なら全身全霊で愛そうと考えておりました。けれど、あの事件が起きた。……そうして、シアング様から聞いておりましたの。お二人の真実を」


『君の許嫁は、本当はセイルの方なんだ。オレじゃあない。ごめんな』


「……わたくしは本当の『シアング』様である無垢なセイル様を支え、守ることに協力を申し出ました」そう語るメルニスの目は、どこか遠い過去の記憶を見ているようだった。それを苦笑という現実に変え、彼女は言った。

「セイル様にどんなに罵られようと、セイル様を守るために必死だったシアング様。わたくしはごく自然に──あの方を愛しておりました」

 トアンが何か言うより早く、メルニスはドレスの裾をつまんで会釈をし、部屋を出て行った。扉が閉まるまでトアンは目を逸らさなかったが、メルニスは一度も振り返ることはなかった。

(混乱するこの国のために、メルニスさんはきっと自分の悲しみと向き合う時間がないんだ)

 そんな彼女のために自分にできることは──何もない。トアンは閉じられた扉に頭を下げてから、ふうと息をついた。

(それなのにオレたちを気遣ってくれてありがとう……)


 ──と、服の裾が引かれる。チェリカだった。目がまだ少しだけ赤いが、彼女は泣き止んでいた。

「……チェリカ。」

「これからどうしようか、トアン。いつまでもここにお世話になるわけには行かないよね」

「あ、うん。……オレたちがここにいることは、メルニスさんの負担になる。でもまずチャルモ村に帰らなくちゃ。兄さんとウィルを帰さないと」

 チェリカが折りたたみ式の椅子をルノの寝ているベッドの下から引っ張り出したのを見て、トアンはすすんで組み立てた。向かい合うように椅子を並べ、二人は座る。チェリカはトアンの言葉に頷きかけるが、ふと顔を曇らせて呟いた。

「……でも」

「ん?」

「でもお兄ちゃんはどうしよう」

 時間が解決してくれるよ、なんて保障のない言葉はトアンには言えなかった。

「えと……う……」

 トアンが口篭ると、チェリカが申し訳なさそうに呟く。

「エアスリクに連れて帰るのが一番かな」

「……そう、だね」

 ──連れて帰れるものなら。

 といいかけて口をつぐんだトアンの目を見て、チェリカが笑った。……伝わってしまったようだ。というより、彼女もまた同じことを考えていたようだった。

「……。でもこのままここに居るわけにはいかない。やっぱり、無理にでも連れ出さなきゃ」

「薬で眠らせて……?」

「それしか手がないよ。オレはルノさんが起きてるところを見てないから、その、錯乱がどれくらいかわからないけど……チャルモ村までいければプルートっていう人がいる。プルートなら、薬なんかに頼らなくても眠らせてくれる──きっともっと心地良く」

「……。お兄ちゃん、昔のお兄ちゃんに戻れるかな」

「戻れるよ。……きっと、すごい時間がかかるだろうけど」

 トアンがあてにならない提案をした時、不意に声がした。


「それならエアスリクに連れてかなくても、チャルモ村に居ればいいじゃんか」


 ──振り返ると、松葉杖をついたウィルとその後ろにレインが立っていた。ウィルを先に歩かせ、レインが扉をしめる。

「ウィル……それに兄さんも」

「よお、トアン。三日越しだな。具合は大丈夫か?」

「ウィルこそ。その杖、どうしたの」

 驚きながらも立ち上がり、トアンは自分の座っていた椅子をウィルに勧めた。ウィルが特に遠慮もなく椅子に座る様子から、立っているのは疲れるようだ。ウィルは松葉杖を椅子の脇に置くと、照れたような笑いを浮かべながら答える。

「んー。勲章二個目ってやつ」

「な、なにそれ」

「バカなことを言うな」ぽかんとするトアンに、呆れたようにレインが言った。そしてレインはチェリカの頭に手を置きながら、トアンに向かって薄く笑う。

「顔、洗ったら?」

「……う、うるさいよ兄さん。……二人とも、お墓参りに行ってたの?」

「あ、メルニスさんから聞いたの? そうだよ」ウィルが答えてくれた。

「でさ、さっきの話の続きなんだけど。ルノをエアスリクに連れてくっての、別に良いだろ? チャルモ村で。プルートもいるんだしさ」

「え……でも」

 戸惑うトアンから視線を外し、ウィルが呟く。

「プルートはトトが帰ってくる限りあの家にいるだろうからな」

「……え?」

「いや? なんでも。チェリカ、いいだろ」

「……私は」今まで黙ってレインに頭を撫でられていたチェリカが、そのまま口を開いた。

「……できれば、そのプルートってひとの力を借りたい。……ずうっと薬を使うの、お兄ちゃんの身体が壊れちゃうよ。心も、もう限界なのに。……なにか手立てが見つかるまでで、お願いしてもいい?」

「もちろん。な、レイン? プルートだってさあ、トトがお願いすればきっと二つ返事でやってくれると思うぜ」

 ニヤニヤ笑いながら言うウィルに、レインがやはり笑いながら答えた。

「絶対な。……そうと決まったなら、これ以上ここに居ても意味はない。ルノに使う薬の量が増えるだけ。どうやって帰る?」

「セイルさんに頼む。ハルティアまでの長旅は……無理だ」

「私、セイルを探してくる」

 レインの視線にトアンが答えると、チェリカが立ち上がった。──話をつけにいくというのだろう。その表情はまだ本調子ではないだろうが、幾分か元気になっていた。

「オレも行くよ。兄さん、セイルさんはどこにいるの?」

 トアンが問うと、笑っていたレインの表情が陰る。

「……。正直言うと、セイルも落ち込んでる。三日間、トトが傍について励ましてきたけれど」

「そうなんだ……」

「ていうか、オレたちも会ってない。多分この塔の屋上にいるってメルニスさんからは聞いてるけど……メルニスさんから話は聞いたか?」

 そういったのはウィルだ。ウィルは何の話、とは言わなかったが、何を指しているのかトアンはすぐに理解できた。


 ──三日前の、ルノとの出来事。


 ……どうとったにしろ、好意的には取れないだろう。セイルがシアングのことを憎んでいたことはトアンも知っている。それがどのくらいの度合いかはわからないが、それでもセイルはトアンたちと共に戦ってくれた。……けれども、セイルはシアングの死の原因の一つ。拒絶の理由が悲しい八つ当たりだとしても、今のルノとって理解できないだろう。


「……それでもオレ探しに行く。チェリカもいく?」

「もちろん。セイルのゲートを通らなきゃ帰れないんでしょ。……それに、少しは慰められると思う」

「てか、お前どうやってきたの?」

 ウィルがぽつりと呟くと、チェリカはドアノブに手をかけながら答える。

「ハルティアからちゃあんと来たよ。どこかのウィルみたく、裏ルートできたわけじゃないもん」

「オレ限定かよ! つかオレも裏ルートとかじゃ、あ、聞け!」

 ウィルが何か騒いでいるのを背中で聞き流し、チェリカはくすくすと笑ってトアンの手を引いた。──そして二人は、屋上に向かって駆け出していく。



「……ハルティアハルティアって、なんだ? 女神じゃなくて移動手段?」

 空いた椅子に座ったレインが首を傾げて問うと、ウィルは腕を組んだ。と、同時に騒ぐのをやめて笑う。……ウィルなりに、チェリカのことを気遣って盛り上げようとしたのだろう。

 ルノが起きる心配はない。……それだけ、強い薬が服用されているのだ。

「レインは知らなくていいことだよ」

「なんだそれ」

 二人は小声で笑い合うと、何の表情もなく眠るルノの顔を見つめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る