第42話 埋葬


 最初の罪は


 オレはただ、


 守りたかっただけで犯した。



   ──『シアングの手紙』冒頭より



 *



「……な……。」

 スクリーンに映し出された光景を呆然と見つめていたトアンの思考は、完全に止まってしまった。一部始終は見届けていた。けどども──今何が起こったのか? 理解できない、整理できない。死の恐怖を味わったときと似ている、けれども違う波が心を震わせている。

 スクリーンは無常にも、髪飾りを握り締めるルノを映したのを最後に、現れたときと同じように消えていった。……つい、先ほどまで、シアングは生きていた。生きる希望も再び見つけ、あとは逃げ出すだけだった。それなのにどうして、今シアングは居ないのだろう……?

(そういえば……前にテュテュリスがシアングの髪飾りは特別だって言ってたっけ)

『あの金の髪留め、実は金ではない。金色に光る、特殊な金属をこれまた特殊なまじないをかけて加工したものなのじゃ。特別な炎でないと、あれを溶かすことも破壊することもできぬ』

(あの光の剣、熱の塊だったんだ……だから、灰が)


 ──灰、が?


(……え?)

 自分で思い立った思考に肌が粟立つ。その考えから逃れたくてチェリカを見ると、チェリカも大きな瞳を見開いたまま呆然と虚空を眺めていた。──その瞳から涙が一粒頬を伝う。それを見たトアンはようやく、自分の考えが真実だと悟ってしまった。


 *



『うえええええん、うえええええええん、うあああう、うえ、うええええん……』



 ──泣いている。


 そうだ。最初に聞いたのは泣き声だ。目もろくに見えなくて、立ち上がって踏みしめているはずの地面の感覚よりも先に、何よりもオレが最初に感じたのは泣き声だった。

 ずっと一緒にいたから、どうして泣いているのかもオレは分かっていたし、だからこそオレはその肩を叩いたんだ。


『……?』

 振り返ってオレを見るまん丸の瞳に、また涙が滲んで零れ落ちた。赤く血に塗れた身体を洗い流すには到底足りない水だ。それなのに、頬の涙の流れた部分だけ綺麗になっていた。

 ──辛いだろ。と、仮定ではなく肯定の意味でオレは問いかける。

 肩越しにオレを見る顔がくしゃくしゃになって、彼は大きくしゃくりあげた……無理もない。オレだって辛いんだ。彼が辛くないはずがない。今こうしているだけで、彼の心がグシャグシャに潰されて、ポイと投げ捨てられそうなほど悲鳴をあげていることも伝わってきているのだ。

 ──背負うから。と、オレは続けた。

『……。』

 耳を塞ごうとした彼の動きが止まる。両手も血で真っ赤だった。大切な妹、ルナリアの血だ。オレはその手を握って、言った。

 ──オレが全部背負うから。だから……お前は忘れて。全部忘れて、置いてけ。潰れる前にここから抜け出していくんだ。

『……誰?』

 ──新しい名前を名乗れ。そうしたら、全部置いていける。新しい名前を持つ新しい魂で生きていくんだ……誰も気づかない。本当は逆だってことに誰も気づかせない。

『お前は誰?』

 ──よく知ってるはずだよ。

『知ってる……?』

 ──さあ、名前をやる。受け入れるかは自由だ、強制じゃない。……でもこのままじゃ……。

 そうオレが言いかけると、彼の顔が縋るように口元を歪めた。

『……潰れてしまう。頼む、オレを助けて!』

 彼はもう限界だった。背負った罪に耐え切れないことは明白だった。後悔はないのかと問うことはやめて、オレは言う。

 ──わかった。名前は旅立ちの意味をこめて、そうだな……セイルとしよう。さあ、シアング? 今からお前はセイルだ。お前は『シアング王子の影抜きのセイル』として、何もかも初めからやり直すんだ。『シアング王子』の中にはオレが残る。オレが『シアング王子』をうまくやるよ。……お前は『シアング王子』を恨んで、『シアング王子』の所為で自分は日の目を見ないのだと呪い続けてでもいいから生きろ。オレはお前で、お前はオレだった。でも今この瞬間からオレたちはふたつになる。……お前が生きることがルナリアの願いだった』


 これがオレの最初の罪。


 『シアング』の影抜きである名もない存在と、妹を殺した『シアング』の心が入れ替わったことだ。

 目覚めたとき、妹を殺し、今まで王子として育った『シアング』は、全ての罪と記憶をカラッポの身体に置き去りにし、セイルという名を持って生きていくことになった。

 目覚めたとき、今まで『シアング』の心の片隅にいた小さな存在は、カラッポの身体に全ての罪と記憶を受け継いで、シアングとして生きていくこととなった。

 



   ──『シアングの手紙』本文1ページ目より抜粋




「いい天気ではないか」

 まったく場違いな男の声が響く。男は満足そうに手を叩きながら、穴の開いた壁から空を見ていた。──空は、剣が雲ひとつない空だった。水の膜はどんよりと濁った色をしていたが、快晴といえるのかもしれない。トアンは男の言葉を聞きながら両手をただ強く握り締める。爪が食い込んだ。

(……今、なんて? 今なんて言った? いい天気だって?)

 何を言っているんだ正気の沙汰ではないと思い立ったとき、トアンは男の言動を思い出した。

(私は私のすべきことを……って言ってた。早すぎて意味が分からなくて、ついていけなかったけど……この男が、こいつが、……こいつがシアングを殺した……!)

「……う、うおおおおおお!」

「トアン、だめっ!」

 チェリカが咄嗟に叫んだのが聞こえた。けれども怒りに任せて剣を引き抜いたトアンをとめるだけの力はなかった。十六夜を大きく振りかぶり、トアンは男に向かって振り下ろす。──もう、感情はただの赤。怒りの色しか見えない。

 ──バサッ

 布を切り裂いた感覚が伝わってくる。トアンの一撃は肩から男をばっさりと切裂いた──はずが、ローブのみが餌食となって、ゆらゆらと頼りなく宙を舞っていた。

「どこに行った!」トアンは怒りに任せて吠える。

「こんな結果……ふざけるなあああ!」

「トアン、落ち着いて!」

 チェリカが背中に飛びついてきた。

「離せ! チェリカ、離せよ!!」

「だめなの、お願いやめて……」

「離せよ、」

「落ち着いてってばあ!」

 ──バチッ。

 背中のチェリカが喚いた瞬間、トアンの頬に何かが弾けるような感覚が走っていた。静電気か、そう思う前に生暖かい血が伝うのを感じ、トアンは剣を降ろした。チェリカが手を離したので振り返ると、チェリカが目を見開き、すぐに申し訳なさそうに伏せた。

「……ごめん」

「……何、したの」

「わ、わかんない、反射的に……。自分でも抑えられなくて……ごめん」

 チェリカの手がトアンの頬に寄せられる。トアンはゆっくりと心が落ち着きを取り戻すのを感じていた。……自分がチェリカに対して、いや、他人に対してあんな強い態度を取ったことにも自分自身驚いていたからだ。

「謝らなくていいよ。オレこそ、ごめん」

「ううん……誰だって動揺するよ。するに決まってる……。」


「さすがだなチェリカ。お前のその、他人を気遣う心に私でも感心するよ」


 カラカラという笑い声に、トアンは振り返る。──と、登場したときとおなじように、先ほどまで誰も居なかったはずの場所に男が一人立っていた。

 そして、驚く。男の外見は、声から予想していたものよりもずっと若く、声は中年のものなのに姿は三十台から二十代後半の姿だった。──その顔に、トアンは見覚えがある。蝋のように白い肌、ばさばさの黒髪。けれども爛々と輝く蛇のような赤い両目。

「……。」

 チェリカがトアンの袖を引いた。彼女の怯えた表情が、先ほどまでの様子と重なり──トアンは漸く思い出す。が、すぐさま否定する。

(違う……そんなわけあるはずない。だっておかしいじゃないか!)

「ふふ」トアンの焦りを見抜いたように、男が笑った。──男というよりは青年だ。青年は肩を竦め、トアンを見る。

「お前には一度会ったことがあったな」

「……!?」

「まさか私が気がつかないとでも思っていたのか? 私を思い切り睨みつけていただろう。……なあ、トアン・ラージン」

 ──くつくつと喉を鳴らして笑う青年に、トアンは僅かな、けれども確かな恐怖を感じる。青年自ら認められては否定の術がなかった。

(この人は……チェリカの過去で見た人なんだ。)トアンは一年前の記憶を辿り、青年を何とか睨み付けた。

(アレックスとして名乗った、チェリカの過去を元にして作られた世界であった。……でも、あの時もういい歳だったのに、今の姿は若すぎる。……それに、おかしいじゃないか。メヒルさんはオレに気付けなかった。あの世界でオレは存在しているけどしていない、空気みたいなものだったはずだ。チェリカだけがオレに気付けた。……いいや、違う! 今はそんなこと考えてる場合じゃない! こいつは小さいチェリカに暴力を振るってた。それに、シアングを殺したんだ)

 ぎゅ、とトアンの服を引くチェリカの力が僅かに強まる。トアンの暴走を制しているのか、怯えを伝えているのかはトアンにはもうわからなくなっていた。チェリカの表情を見ると、不安そうに、けれども真っ直ぐにトアンを見つめている。

「……チェリカ、大丈夫」

 その大丈夫はトアン自身に向けてか、それともチェリカに向けられたものか、即座に判断したチェリカが囁いた。

「だめ」

「どうして?」

「だめ。手をだしちゃだめ。」

「……だってあいつはシアングを殺したんだ! それに、チェリカに対しても──」

「……覚えてたんだ、トアン」

 チェリカがどこか諦めたような表情を浮かべた。トアンには意味が分からず、それはそのまま苛立ちとなって心に積もる。

「そうだよ。覚えてたよ。オレは許せない、絶対にあんな……」

「ははははは、許せないか」

 トアンの言葉を遮って青年が高笑いした。トアンは恐れを超えた怒りを青年に向けるが、青年はガリガリと頭を掻いてそれを流す。

「私のしたことが許せないか。そうかそうか。……それもそうだろう。教えてやろうか、そもそもゼロリードの妻、カナリヤを殺したのも私。ゼロリードをここまで追い詰めたのも私だ。ふふ、中々の見ものだっただろう? ああ、ついでに言うと、王子を今殺したのも私の勝手だ」

(……ついで?)

 繰り返して認識したとき、トアンは自分の顔から血の気が引いていく音を聞いた。青年はそんなトアンをせせら笑うように瞳を細め、続ける。

「自己紹介でもしようか? 私の名前はゲルド・ロウ。……ほほう、私がシアング王子を殺したことがそんなに許せなかったのか、トアン・ラージンよ。しかし私も鬼ではないのだよ。私は王子に生き残る道を示した。けれども王子はそれを放棄し、自ら死を選んだ。……まあ、結局は生きようとしたがな」

 ──トアンの心にふつふつと怒りが湧き上る。先ほどのチェリカの言葉で爆発を無理矢理抑えつけた怒りは、再びゆっくりとトアンの全身に巡っていく。青年──ゲルド・ロウという男の態度、声、目……全てがいやらしく憎悪の対象としか見えない。目の前が真っ赤に染まっていくのを感じながら、トアンは口を開いた。こ

「……生きようとした。……それを知りながら、どうしてあんたはシアングが殺せた!?」

「私は私のすべきことがあるからだ」

「ヒトの命を何だと思ってるんだよ! さっきから聞いてれば、カナリヤさんを殺しただって!? なんでだ、なんでこのベルサリオを狂わすようなことを──」

「……何度もいわせるな。私は私の使命があるのだ。そう。簡単なこと。ここで言い争っても決してお前には理解はできまいがな。お前にわかるようにもう少し説明をすると、」ふふふ、と不気味な笑みを浮かべたゲルド・ロウの、蛇のような瞳がゆっくりと瞬きに隠れる。

「ルノを殺せばいい。……それでよかった。それだけでシアングは生きることが許された。……けれどもしなかった。なので私が殺した。生かしておいても、邪魔になるだけ。褒美も教えた。ルノさえ殺せば、父親は正気に戻るのだと。……ただしルノを生かしておくのならばお前は死ぬと、私は彼に何度も伝えたのだからな」

「……ルノさんを……?」

 男の言葉が毒のようにトアンの身体を蝕んでいく。それは血液に乗って、ぐるぐると体内を這い回る──……。

(……あの、雨の晩。シアングはオレたちを殺そうとして結局は助けた。エルバスの塔でも、シアングはルノさんを助けた。……こいつの言っていることは、本当なら──……)


 ──けれどもシアングは、ルノを生かす道を選んだ。


(──それなら、あの処刑台からシアングを連れ出したとしても、シアングは──……)

 ゼロリードが、ではなかった。シアングの心に刺さった楔は、ゼロリードのものだけではなかった。

 ……自分は一体、駆けずり回って何をするつもりだったのか? トアンの足元が揺れた瞬間、ゲルド・ロウの顔に酷薄な笑みが浮かぶ。そして一瞬の瞬きの間に、その姿が消えた。どこへ、そう考えるより早く、チェリカの悲鳴が鼓膜に突き刺さった。


「──あああああああ!」


 振り返るトアンの視界に、赤い飛沫が飛んだ。

(血──!?)

 チェリカが身を屈めている。顔を庇うように両手を交差させて。

(何だ、何が起こってるんだ!?)

 トアンの頭が状況を理解して飲み込むより早く、チェリカが膝をついた。……そしてトアンは見る。


 ──チェリカの左耳が半分なくなっていた。


 ゲルド・ロウの左手が血に汚れている──その手に光っているのはチェリカのピアス。……ふっと、頭の中が真っ白になった。

「あんた、なにを──!」

 したんだ、とトアンが叫ぶよりも早く。トアンは後頭部に鈍い衝撃を感じて絨毯の上に倒れこんだ。視界に一瞬だけゲルド・ロウの足が写る。恐らく殴られたのだろう。

(……くっそ)

 次から次へと目まぐるしくかわる世界に足元が霞みそうになるが、ゲルド・ロウへの憎しみだけは確かだった。トアンは沈んでいく意識をなんとか持ち上げ、チェリカに手を伸ばす。

(ああ、い、痛そう……チェリカ……。)

 チェリカは耳を押さえながら顔を伏せて、ううう、と小さく唸っていたが、トアンの手に気付くとゲルド・ロウに目を向けた。一瞬だけトアンと目が合ったが、その瞳はまた泣いていた。

「返して──」チェリカがゲルド・ロウに手を伸ばす。

「それ、大事なものなの……返してえっ!」

「……お前は愚かだな。空の住人なのに童話にでてくる人魚姫、そのものではないか。ピアスに魔力をこめなければもう自制できない。……そして。そのピアスは闇の力を多く孕んだ危険なシロモノ」

「それは私がトアンにもらったものなの! 返してよぉ!」

 霞んでいくトアンの視界に、チェリカの痛々しい左耳が写る。──ゲルド・ロウがただピアスを奪いたいなら、もっとマシな傷がついていたはずだ。

(あいつ、最初からチェリカの耳ごと……。)

 傷口には躊躇も慈悲も見当たらない。ぎり、奥歯を力強くかみ締めたつもりが、歯を鳴らしただけに終わった。殴られた場所が悪かったようだ。……ゲルド・ロウが、全て計算済みに動いていたと思えば不本意ながら納得もできたが。

(このままじゃ……オレたちも、殺され、る)

 チェリカと対峙するゲルド・ロウの瞳がぬらりと動き、風前の灯のような意識のトアンを見た。そして嘲るような色がその目に過ぎる。

(敵わない、なにもかも。シアングの仇、この国を狂わせた張本人が今ここに居る。それからあいつは再びチェリカを傷つけた。許せない、許せない許せない……)

「……。」

(……!?)

 ゲルド・ロウの呟きがトアンの耳に染みこんできたかと思うと目の前が暗くなっていき、フェードアウトするのはあっという間だった。




 ──今はまだ、生かしておいてやろう。だが覚えておくといい。お前の存在は危険すぎると……。

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