第41話 君と見た億千万の星を忘れない
「……元の姿に戻った……。」
床に伏したゼロリードから血が黒々と絨毯を染めていく。トアンは呆然と呟き、張り詰めていた緊張の糸が切れたその瞬間、思わず膝が崩れるがチェリカが支えてくれた。
「大丈夫?」翼をたたみ、チェリカが不安そうにトアンを覗き込んでくる。
「具合悪い?」
「う、ううん、違うよ……。はあ、なんだろう。チェリカがきてくれなかったらオレ死んでたんだなって、それからよく勝てたなって、ふと思ってさ。そうしたら膝が……」
「生まれたての子鹿の足みたいだよ」
「……素直に震えてるって言ってよ」
未だ震える膝を一瞥したチェリカの一言に、トアンはがくりと肩を落とした。脱力したついでにチェリカを巻き込んで倒れそうになるが、十六夜を刺して踏みとどまる。……深呼吸をするとようやく震えが止まった。チェリカの手から離れ、万が一にも彼女を傷つけないように注意しながら十六夜を鞘にしまい、トアンはゼロリードを見た。
「……死んではないよね」
「うん」
「良かった……あ、あれ?」
(斬りおとした指が……ある)
ゼロリードのうつ伏せの身体を注意深く見ると、掌と足と首、竜の姿のときにつけた傷は残っているものの、指は五本両手にあった。トアンは驚いて室内を見渡す──黒い鱗や血しぶきは残っているものの、指はどこにも見当たらない。
「指のこと?」トアンの疑問を見抜いたようにチェリカが言う。トアンは素直に頷いた。
「ヒトとして不便になるから、まず再生しちゃったんだと思うよ」
「そ、そういうものなの?」
「そういうものなの。」
「でも他の傷は……」
「竜の姿は、仮の姿であって真実。ゼロリードは変身前と変身後は指の数がまず違うし、今は尻尾もないもの」
「あの姿は幻なの?」
「ううん、真実でもあるんだよ。。……あんまり深く考えないほうがいいよ、そういうものだってわりきらないと」
「そ、そうだね……」
(よくわからないけど……まあ、いいや)
ゼロリードに近づき、傷口とは反対の首筋に手をあてるとかすかな脈が伝わってきた。伝わってこなくても困るのだが、トアンの心にはほとんど波は立たず、ああ、生きている……で終わってしまった。
(……仕方ないって言えば、悪い言い方だけどそうでしかない。オレもトトさんもシアングも殺されていたかもしれないんだし……。)
ティースプーンに一サジほどのほんの少しの同情をゼロリードに向ける。──と、首筋の傍、髪の毛の隙間に何か光るモノが目に入ってきた。思わず拾い上げると、赤い宝石が金の装飾の中心で輝いている。──ゼロリードのネックレスが切れていたようだ。
「なあに、それ」
「……ゼロリードさんのネックレス。オレが十六夜で切っちゃったのかな」ヒトのものを取ったらドロボウだ。トアンがゼロリードの元へ返そうとしたその手を、チェリカが掴んだ。
「な、なに?」
「それ貸して」
「え? あ、ああ、うん……?」
訝しみながらチェリカの小さな掌に宝石を乗せた。チェリカは瞳を細めて指先で装飾をなぞったりつついたりしていたが、唐突にあ、と声を上げる。どうした、と聞く前にトアンも声を上げた。
『──……──……』
チェリカの右手の中の宝石が輝く。するとその光は空中で布が揺れるようにように広がり、トアンとチェリカの前にスクリーンとして広がった。ノイズのような音に混じる不鮮明な映像は、ゆらゆらと頼りなくゆれていた。チェリカがゼロリードの手にそっと宝石を握らせてスクリーンを見つめる。トアンもそれに倣った。
「チェリカ、これは……?」
「……なんか変な感じはしてたけど……。これ、ひょっとしたら」
「ひょっとしたら?」
「この映像は……。」
チェリカの呟きに応えるように、ふわふわとおぼろげに揺れるスクリーンに何かが映り込んだ。……白い、煙のようなものだ。
(なんだっていうんだ? この煙……いや、これは煙じゃあ、ない……)
「霧だ」
思わずぽつりと呟いたトアンの手を、不意にチェリカがそっと掴む。
「ど、どうしたの?」
「トアン……霧だよ、これ」
「うん、でもそれが何か……?」
チェリカの不安げな様子が理解できず、トアンが首を傾げたその時だ。
『……た……ら…………』
ノイズに侵された音声に、唐突に声が混じった。しかしトアンには言葉も声も、意味も誰のものかも判断できない。
(早くゼロリードさんを連れて行ったほうがいいような気もするけど……)
ぼんやりと眺めていたトアンだったが、チェリカの手に篭る力がほんの少しだけ大きくなったことで、少しは集中してスクリーンを見つめることができた。しかしスクリーン一面に映る白い霧がゆっくりと晴れていくにつれて、トアンは息をのむことになる。
「……これは!」
──スクリーンに映し出されていたのは、磔にされ変わり果てた姿のシアングと、その傍らにいるルノの姿だったのだ。
*
「……ルノ……。」
シアングがかすかな声で呟く。決して息を潜めているわけではなく、彼にとっての限界の声だとルノには分かった。シアングが呼吸をするたびに、痛々しい傷口から赤い血が滲んで滴り落ちる。ルノはなんとか自分を落ち着かせようと心を叱咤していると、勝手に口が言葉を紡ぎだしていた。
「シ、シアング……ああ、お前、大丈夫か?」
──大丈夫なわけないではないか。ルノは自分の質問の愚かさに唇を噛むが、シアングは目を細めた。傷だらけの顔だったが、シアングはそれでも笑ってくれた。
「……大丈夫だよ」
「う……嘘をつけ……す、すまない、私……」
「……どうしてここへ?」
掠れた声で、それでも精一杯優しく問いかけてくるシアングを見て、ルノの瞳は勝手に潤みだす。
(──泣くな。泣いてはいけない。私は痛くないし辛くもない。今一番泣きたいのは、きっとシアングのほうだ。泣くな、泣くな……。)
シアングの頬に右手を添えたまま、左手をぎゅっと握る。処刑場のしんとした空気の中、ふたりはたったふたりぼっちで向かい合っていた。
「……ルノ。ここは危ない、早く」
「私が逃げるとでも思うのか?」気遣うシアングの言葉を遮ってるのは言った。──シアングの、諦めたような言葉を聞きたくなかったのだ。
「……みんな来ているんだ。お前を助けに」
「みんな? ネコジタ君は、どうなった……?」
「ウィルとトトが助けに行っている。……心配するな、あのウィルがレインを助けそこなうと思うか?」
「そうだな、もう何回も助けてるんだし。……でもオレ、ネコジタ君を巻き込んじまった。あんな平和なところで、あんなに幸せそうにしていたのに」
「レインは覚悟していた。……私は彼が、どんな平和な環境にいてもそこにふやけきることは思わない。レインもその……いや……とにかく安心しろ。今トアンがゼロリードの元へ話をつけにいっている。こんな処刑、すぐに取りやめさせてくれるぞ」
ルノとしては明るく言ったつもりだったのだが、ルノの言葉を聞いたシアングは眉を寄せた。つた、腕から血が零れる。
「親父んとこに……? 危険だ、そんなの! 親父が話を聞くとは思えない!」
「お、落ち着け!」
「親父はオレを殺すことしか考えてねえんだ!」シアングが声を荒げると同時に傷口から鮮血が吹き出た。ルノが慌ててシアングを宥めようとするが、シアングが聞き入れない。
「セイルはどこに居る? あいつは無事か!?」
「セ、セイルはウィルとレインと合流した。頼むから落ち着いてくれシアング、傷口に障る……!」
どうしようもなくて、ルノは十字架ごとシアングをきつく抱きしめた。ルノの髪にも顔にも服にもシアングの血がかかったがが、ルノは構わずに必死に呼びかけた。……すると、シアングの身体から力が抜けていくのが伝わってきた。伝わってくる鼓動が落ち着きを取り戻していく。
「……悪い、ルノ」
「謝るな」
「早くここから離れるんだ。そうして、後ろを振り向かずに走れ。トアンたちも、みんなみんな早く逃げるんだ」
「何を言っている?」
シアングの身体から手を離し、ルノはシアングを見つめた。シアングは前髪の間から、金色の瞳で真摯にルノを見返してくる。
「……オレは逃げない」
「何故だ!?」
「過ちは正されるべきなんだ。オレはここで、死ななくちゃいけない」
「な、何故なんだ? 何故お前は死にたがる!? なにが過ちというんだ!」
「オレの生まれたこと事態が間違っているんだ」
「なに……?」
「オレが生まれたから、全ては狂ってきた。オレさえ今ここにシアングとして存在しなければ、なにもかもがきっと……だから」
「お前が行かないのなら……私もここにいる。お前の傍にいる」
「巻き込まれるぞ! 早く行けよ!」
「いやだ」
「行けっていってんだよ! お前まで巻き添えにする必要はねえんだ!」
「──いやだあ!」シアングに怒鳴り返したとき、ルノの瞳から涙が散った。まるで子供のようだと自分でも思いながら、ルノは言葉を詰まらせるシアングに向かって続ける。
「私を生かしたいならお前も生きろ!! お前が行かなきゃ、私も動かん!」
「ルノ……!」
「私は、私はお前を見殺しにすることなんてできない。できるものか。お前はいつだって私を助けにきてくれたではないか」
「それは、オレの任務だったから」
「ではなぜエアスリクを救おうとした?」
「……。」
目を伏せて口篭るシアングに向かって、ルノは呟いた。
「どうして……あの雨の晩に、私を殺さなかった?」
「……オレは……オレは……。」
「答えは別に、今求めているわけではないんだ。なんとなくとか、そういうものでも構わないから……ここから逃げ延びて、お前の口から聞かせて欲しい。ひ、卑怯かもしれないけれど、お前が此処で死ぬというのなら、私だって……。一緒にいるのが私ではなくてもいい。私に生きる世界を教えてくれたのは、他でもないシアングなんだ……だから!」ぼろぼろと大粒の涙がルノの瞳から零れていくのを、シアングは黙って見つめている。ルノの頬についたシアングの血が涙と混じってゆっくりと伝って、地面に円を描いていく。ルノはシアングから視線を落とし、地面の増えていく円を見た。
「……生きて欲しい。生きることを、諦めないで、欲しい。」
ルノの掠れた呟きが霧の中に溶ける。暫くの沈黙のあと、シアングが答えた。
「……それは、卑怯だよルノ」
「……!」
「本当に卑怯だ。……なんでお前まで死ぬ必要があるんだ?」
すう、とシアングが呼吸する音が耳に届く。ルノがおずおずと顔を上げると、シアングは寂しそうに、……しかし笑みを浮かべては居なかった。ただただ、悲しそうな顔をしていた。
(シアングの決意がどこからくるものか私にはわからない。……私のワガママが、困らせていることくらいしか、わからない)
──卑怯な手だとは自覚している。けれどもルノはもうこの手段しか持ち合わせていなかった。……しかし、では共に死のうといわれれば、すぐに頷くだけの勇気は持っていた。
「私は、こんなことでシアングを失いたくない。ワガママなのはわかっている。……けれど、私のところにお前がきてくれて、私の世界は開けたんだ。そんなシアングを、こんな勝手な都合で殺されたくなんかない。お前に言いたいことも、まだあるんだ。……たくさん」
「……そうか」シアングが恐ろしいほど綺麗な笑みを浮かべた。そしてすぐに悲しそうな表情に戻すと続ける。
「だけどルノ、オレはここで幕を下ろさなくちゃいけないんだ。舞台から去らなくちゃいけない。もう終わらせなくてはいけないことだ。それでもお前はここに残るのか?」
「ああ」
「エアスリクは? チェリちゃんはどうなる?」
「……無責任かも知れないが、私は一人では逃げない」
「オレと死ぬってのか?」
「ああ」
「即答……ねえ」
ふふ、とシアングが苦笑を浮かべた。ぴくりと右手の指が動く。──推測だが、ルノの頭に手をやろうとしたのだろう。
「嘘はないぞ」
「わかってる。……そっか、参ったな。なあ、ルノ? 例えオレがこの十字架から離れたって、親父が考えを改めたって、オレ自身の考えは変わらねえんだぞ」
「変えるさ。シアングが一人で抱え込んでいるもの、私が背負う。……半分なんていわない、全てだ。だからお前は気楽に料理でもしていればいい」
迷いを探すように、シアングがルノの瞳を見据えてくる。ルノは涙を拭って強い瞳でシアングを見返した。阻むわけではなく、受け入れる意思を持って。──根競べに負けて目をそらしたのはシアングのほうだった。
「やれやれ、大きくでたな」
「嘘はないぞ!」
「わかってるって。……やれやれ、ホント、お前のワガママは治ったようで治ってなかったな。……オレはさ、ルノをここで死なせたくないんだ。けどお前は心中するといって譲らない。ここでお前を死なせたら、オレとしては本末転倒なんだぞ」
「本末……?」
「……いや、いい。ルノ、オレを連れ出して後悔することになってもいいのか」
「……しつこいな。そんなに信用がないのか? 私は、ここでお前を見捨てる以外に後悔する必要のある選択はないんだ。……この先に何があろうと、私は悔いない。お前に生きていて欲しい。それは決して揺るがない」
「……はは、ありがとう」ルノの心が届いたかどうなのか、シアングの礼は小さく、震えたものだった。礼に続くのは再び問いかけか、ならば受け入れてやるとルノがシアングの目を捕らえたとき、シアングは黄金の瞳でルノを見た。──今度は、逸らすことなく。
「……ルノ」
「なんだ」
「……オレは、もし赦されるなら……生きていたい。覚悟はしてたけど、本当は消えたくない……」
「……え」
「また、みんなで旅がしたい。みんなで飯が食いたい。……いい、かな」
シアングはそう言って笑った。重傷の傷を負っているとは思えない、変わらないルノのよく知る笑顔で。
「シアング、それじゃあ」
「……うん」
「……私が、お前を赦すよ。世界中の何からだって、シアングを守る、から」
思わずルノの瞳から再び涙が零れると、シアングは決まり悪そうに笑う。
「ありがとうな。……右手、外してくれ」
「あ、ああ」
ルノは言われるままに背を伸ばし、シアングの右手を固定しているベルトを外そうとする──が、焦りに指が震え、うまくいあかない。するとシアングが囁いてきた。
「右手は楽だけど、左手は痛えんだろうなあ」
「な、なにを悠長に言っているんだ」
「……オレもさ、後で話したいことが沢山あるんだ。言わなくちゃいけないことも沢山ある」
「全部聞く」
後で、という言葉が無性に嬉しくて、ルノが微笑んだとき、指の震えが収まった。何十にも施されたベルトの金具を外し、ばたばたと地面に落としたとき、ふと、頭にシアングの掌が振ってきた。
「左手も足も、あと色んなところの怪我、治してくれるか」
「……勿論だ」
掌がすべり、涙を拭ってくれる。その懐かしい感覚に、ルノはこれから自分が背負うものと、守るべきものを心に誓った。
「ありがとう……」
ぽつりと一言もらし、ルノは生々しい傷跡であるシアングの左手に手を伸ばす。
──二人の姿はまるで、一枚の絵のようだった。
「お兄ちゃん……」
スクリーンを見上げたままのチェリカの瞳から、涙がそっと零れて落ちる。トアンはぎこちない仕草でそれを優しく拭いながら、空いている手で自分の瞳を乱暴に擦った。そして、呟く。
「……ルノさん、シアングを変えられたんだ」
「え……?」
「シアングをこのまま助けてどうなるって、オレ、ルノさんに言ったんだ。……でも、ルノさんはシアングの心を救えてた」
「そうだねえ……ねえ、トアン。ゼロリードのことなんだけどさ」
すん、と鼻をすすってからきり変えるようにチェリカが言う。彼女は目線を落とし、横たわる王を見つめていた。
「ん?」
「霧でよく見えなかったけど、死刑を執行するひとも観客もいないみたいだった。誰か居たら、お兄ちゃんをとめるはずだもの。……でもそれがなかったってことは、ゼロリードを処刑場まで連れて行ってもどうにもならないんじゃないかなって」
「ううん、違うよ。連れて行く必要がある」
「どうして?」
「シアングに謝らせなきゃ。……ゼロリードさんが封印から助けようとしていたカナリヤさんっていう奥さんは死んでた。シアングは諦めるのをやめて、もう生きようとしている。なら、一言ぐらい謝ったって言いと思うんだ……え? 何か変なこと言ってる?」
トアンは冷静に言い放ったつもりだが、チェリカがポカンとした顔で自分を見つめているのに気がつくと眉を下げた。
(間違ったことは言っていないつもりなんだけど……)
しかしチェリカは首を振り、トアンの頬に手を当てる。小さい手は、柔らかい温もりがあった。
「……トアンがキッパリ言うのって、やっぱり珍しいなって思ったの」
「そ……そう?」
「うん。前だったら、すぐどうしようとか言ってたのに。ゼロリードにも一人で立ち向かったんでしょ? 君、本当に強くなったんだね」
「そうかな」
何だか照れくさくてトアンはチェリカから目をそらした。そのまましゃがみ込み、ゼロリードを担ごうとする。と、視界の端にあるチェリカの足が反対方向を向いた。
「あ、そうだ。トトの魔法も解かなくちゃ。首絞まってたら可哀想だし]
「できるの?」
思わずぱっと顔を上げてチェリカを見ると、チェリカがピースを作って笑った。
「うん。内側からドカンと破壊するか、拡散させちゃうから」
(なんだかすごいなあ……さすがチェリカ。邪神の力に勝るだけあるや。魔法が使えないって言ってたときが凄く懐かしいような……オレは魔法のことなんてほとんどわからないけど、チェリカの実力ってテュテュリスたちと同じか……それよりも高いんじゃないかなあ)
トアンは再び俯いてゼロリードをどうにかして動かそうとする。ゼロリードは重く、掌にべったりと血がついた。耳に届く、ぱたた、とチェリカの足音が遠ざかっていき──それは何故か不意にとまった。トトの元にたどり着いたからではない。トトの場所まではまだ距離があるはずで、チェリカは数歩も走っていないからだ。
「どうしたの──え」トアンはチェリカの方を見──目を見開く。
「……だれ?」
……チェリカの目の前に、黒いローブにフードをすっぷりと被った何者かが立っていたからだ。一体いつやってきたのか、トトとチェリカの間に影のように立っている。穴の開いた横風から風が吹き入れてくるはずなのに、ローブはゆらりとも揺れなかった。
「……あ」
チェリカが呟く。何故かそれが震えていて、トアンはすぐさま立ち上がり十六夜を抜いて構えをとる。その何者かが音もなく一歩踏み出すと、チェリカが恐れたように一歩下がった。
「チェリカ!」
「……それをおろしてはくれないか」
男の声だ。フードの男がぬるりと手を伸ばすとチェリカが弾かれたように飛びのいた。トアンは剣を向けたまま、走りよってチェリカを後ろに庇う。男との間に十六夜を翳してフードの中を睨むと、どこまでも黒い漆黒が広がっていた。何のつもりか、何かの花の香りが男からふんわりと漂っている。
「チェリカ、大丈夫?」
「う、うん……」
チェリカの声がまだ震えている。トアンは闇を恐れなく睨みつけ、低い声で問いかけた。
「あなたは誰ですか」
「……それを、おろしてくれないか」
──先ほどと同じ言葉。十六夜から火の粉のように散る赤い光を恐れるように、男は伸ばした手を自分の顔の前で動かした。トアンは何だか拍子抜けし、警戒は続けながら十六夜を鞘に収める。
「これでいいですか」
「ああ、ありがとう。その光は眩しすぎる……目を焼かれるようだ」
「はあ……それで、あなたは誰ですか? オレたちの邪魔をしにきたんですか」
「邪魔などはしない。する必要もないからだ」
──フフ。闇の中で、笑い声があがった気がした。
(何なんだこの人……敵意はないみたいだけど、微妙に会話もかみ合わない。ただの変な人かな)
ならばこれ以上構う必要もない。不審者は放っておいて、ゼロリードを急いで運ばなければならない。彼の傷は浅いものではなく、出血も夥しい。このまま放置すれば、数時間ほどで息絶えてしまうだろう。
トアンはそういう結論を導き出し、チェリカを庇うように手を出したまま一歩下がった。すると今度は、男のほうから声をかけてきた。
「何処へいく?」
「え? あー……」
「私に関係ないと言うか」
「ああ、はい、まあ……」
「そうか。──ならば私も私のすべき事をしよう」
「……トアン!」
男が手を伸ばして穴の開いた壁から空を指すのと同時に、トアンの服をチェリカが強く引いた。トアンはゆっくりと振り返り──そして……。
シアングの左手の杭は想像以上に深く、ルノの力では抜くことができなかった。それでも少しずつ動いていることは確かだ。……その少しずつ、少しずつの動きがシアングにかなりの苦痛を味あわせていることに、ルノは手を離したくなる。……しかし、やめるわけにはいかない。
「シアング、大丈夫か」
「……う、……ああ、平気」
「……すまない。まだ少ししか動いていない」
「大丈夫、気にすんな」自由になったシアングの右手がルノの頭を撫でる。
「オレこそごめんな。気持ち悪いだろ」
「そ、そんなことはない」
「そうかあ?」
「そうだ! もう少しだぞ、く……っ」
「──っ!」
力任せに引っ張った瞬間、シアングが思い切り顔を顰めた。反射的にルノは手を離して謝る。
「す、すまない」
「……や。平気。……まだ足とか、感覚ほとんどねえけど……そっちのが深いだろ。手なんて平気だ」
「……すまない」
「そんな顔するなよ。あと謝るな」
苦痛を抑え込んでシアングが微笑む。その右手は優しく頭を撫でたままで、ルノは自分がどんな顔をして、どれほどシアングに心配を掛けているかを知る。
(……こんなことでは駄目だ)
一度ではなく、何度も何度も自分の心に言い聞かせ、ルノはなんとか笑みを浮かべた。ぎこちない、というのは分かっていたが、シアングは微笑み返してくれた。ルノはついと手を伸ばし、シアングの顔の汗を拭う。
「右手が疲れないか」
「いや? 全然。……時間がないんだろ、ルノ。オレは死ぬ気がなくなったし、そんなオレと心中はしないだろう? さ、続けて」
「……ああ」
謝ることも気遣うことももう十分だ。シアングがそう思っているのが伝わってきて、ルノはただ頷くことしかしなかった。再び左手の杭に手を伸ばし、指先に力をこめたとき、不意にシアングが声を上げる。
「……あれ?」
「どうした?」
顔を上げる余裕がなく、杭を引きながらルノは応えた。
「いや……なんだあれ?」
「なにって、なんだ。鳥か何かだろう」
「違うって、ルノ、見てみ──」
シアングの声が妙に伸びた。なんなんだ、とルノが杭から手を離し、シアングの顔を見ようとした、その瞬間だった。
「やばい……ルノ!!」
──次の瞬間、ルノの身体は宙に浮いた。時間がゆっくりと流れていく中で、ルノはシアングの伸ばした右手により突き飛ばされたのだと知る。手を伸ばしたままのシアングの、切羽詰った真摯な表情がふいに和らいだ。優しい微笑みを浮かべ、唇が動く。
(シアング、何を)
ぐるり、非常にゆっくりと身体が舞う。シアングから視線がはずれ、ルノは空を仰ぐ。
そこには、雲を切り裂き、光の剣が一直線に振り下ろされてくる光景が広がっていた。
(あれはなんだ……?)
ぼんやりと考えたとき、凄まじい轟音とともにルノの身体は地面に叩き付けられていた。
(…………何が起こったんだ)
──どうやら短い間だが気を失ってしまったらしい。ルノはゆっくりと瞳を開けるが、もうもうと土煙が立ち上っていて視界は明確ではなく、耳も酷い耳鳴りがする。ルノはむくりと上半身を起こすと、鈍痛が走った。どうやら叩き付けられた衝撃はかなり大きかったようだ。慎重に手足を動かし、確認する。
(いたた……よかった、骨折などはしていない……そうだ、シアングは……シアングは!?)
曖昧だった思考が一気に覚醒した。ルノは勢い良く飛び起きる。痛みに構う余裕はなかった。周囲を見渡し、何とか今いる場所が十字架のすぐ下の、石の台座の傍だと確認した。土埃が目に染みたが気にせず台座を駆け登った。
「シアング! シアング、無事か!?」
台座の上も視界も悪く、十字架の影も見つけられない。ルノがもう一度声を張り上げようと息を吸い込んだとき、ふいに風が吹いて台座の上を露わにした。ルノは思わず顔を輝かせるが、その笑顔は一瞬で凍りつく。
「……え?」
……台座の上には何もなかった。いや、何もなかったわけではなく、あんなに存在感をだしていた十字架が根元の部分を残して消え去っていた。根元は黒く焼き焦げたようになっていて、ルノはその傍に何か光る物を見つけた。
理解できない状況に思考がとまったまましゃがみ込み、それを拾う。サラサラと灰のようなものが零れ落ち、それでも輝きを失わずにいるそれには見覚えのある。これは確かに──
「……う、うそだろう、こんな……?」
ずるずると力なくしゃがみ込み、ルノは思わず引き攣った笑みを浮かべた。しかしその声に応えるものも、頭を撫でるものも、いない。ルノはそれを両手で握りしめ、空に向かって絶叫した。
「シアング────ッ!!」
────それは、シアングの髪飾りだった。
*
「──ひっ!?」
不意にセイルが足を止めた。
「びっくりした……な、なんだ、どうした?」
胸を押さえ、苦しそうに呻くセイルの背からすぐさまレインを降ろし、ウィルは今後は逆にセイルを支える。しかしセイルはウィルには応えず、テラスの床に膝を着いてしゃがみ込む。
「おい、セイル!?」
「セイル、どうした? 苦しいのか」
ウィルとレインもその傍にしゃがみ込んで声を掛けるが、セイルは背中を丸めてゼエゼエと荒い呼吸を繰り返すばかり。二人はただ事ではない事態に顔を見合わせる。
「ど、どうしようレイン」
「……わからない」セイルの背を擦りながら言うレインの声は、珍しく動揺していた。
「ヒトを呼んできたほうがいいのかもしれない。こいつは雷鳴竜。オレたちにはわからないことなのかもしれない」
「でもそんなことしたら、オレたち殺されるぞ」
「けどセイルをこのままにはできない。……オレたちは、捕まってもまだ逃げ延びられる可能性だってあるんだ。けど」
「……わかったよ。レイン、いいんだな?」
「いつだって覚悟はできてる」
「まだ死ぬって決まったわけじゃないだろ。とにかくオレ、行って来る。レインはここで──」
しかし、立ち上がろうとしたウィルの服が強い力で引っ張られた。……セイルだ。セイルが苦痛に歪ませた顔をあげ、それでも勢い良く首を振っている。
「だ、大丈夫、なの……す、すぐ、おさま、るの」
「大丈夫ってお前……」
「この、痛みは……途切れた痛み。切断された、痛み……」首をふるセイルの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れおちた。気遣うようにレインが伸ばした手を掴み、セイルはしゃくりあげる。
「う……ごめん、スノー。ごめん、うう、ウィル。ごめん、ごめん……」
「何謝ってるんだよ」
「そうだよセイル。一体どうしたっていうんだ?」
困惑するレインとウィルに、セイルは涙とともに言葉を落とした。
「今……シアングが、死んだの……。」
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