第36話 心の悲鳴






『…背負うから』


 ──誰かの、声がした。耳を塞ごうとしてやめた。オレの両手は真っ赤だったから。


『オレが全部背負うから』


 ……耳を塞ごうとしてやめた。よく知っている、聞き覚えのある声だったから。


『だから、お前は忘れて。全部忘れて、置いてけ。潰れる前にここから抜け出していくんだ』

 誰?

『新しい名前を名乗れ。そうしたら、全部置いていける。新しい名前を持つ新しい魂で生きていくんだ……誰も気づかない。本当は逆だってことに誰も気づかせない』

お前は誰?

『よく知ってるはずだよ』

知ってる……?

『さ、名前をやる。受け入れるかは自由だ、強制じゃない。……でもこのままじゃ』

……潰れてしまう。頼む、オレを助けて!

『わかった。名前は旅立ちの意味をこめて、そうだな……』



 掻き毟れ心の悲鳴



 トアンはゆっくりと目を開ける。目の前に広がっていたのは、見覚えのある見ずの幕に包まれた空。どうやらフロステルダへ無事にやってこれたようだ。さわさわとした耳元を撫でる草の音で、トアンはようやく自分が草原に寝転がっていることを知る。

「……あれ、みんなは……」

 まだ意識がハッキリとは目覚めていないようだ。回転が酷く悪い。

(……そうだ。トトさんの指輪で、またゲートを通ったんだ。そうしたら強い光に目が眩んで──そのまま意識を失っちゃったみたいだな。うん、そうだった。ウィルが指輪を見ても別に何も言わなくて、心配してたのがちょっと空回りで……)

 上体を起こし、自分の身体を確かめる。どこも怪我はしていないようだ。確認の途中、ルノのマントを視界の端に捉えた。そのまま視線を勧めていくと、うつ伏せで倒れているルノを見つける──その周囲に、ウィルもトトもセイルも倒れていた。

 とりあえず、ルノをそっと揺さ振ってみる。

「……ルノさん」

「……ん……」

「ルノさん、起きて」

「うう、ん……」

 ゆさゆさと大きく揺さ振ると、紅い瞳が煩そうにトアンを見た。ルノは不機嫌にもう一声呻いてから、はっと身体を起こす。あまりにも急な動きだったので、トアンは思わずルノの背中に鼻をぶつけそうになった。

「起きた? どこも痛くない?」

「トアン……わ、私は……。どれくらい寝ていたんだ?」

「わからない……みんなも起こそう。セイルさんなら、なにかわかるかも」

 トアンはそういいながらセイルの脇にしゃがみこみ、セイルの身体を揺さ振った。トトを守るように抱き込んで倒れているところを見ると、セイルはギリギリまで意識を保っていたようだ。

「ここはどこなのだろう」

 ふう、とため息をつき、ルノが不安そうに呟く。ルノはルノでウィルを起こすことにしたようだ。ううん、と低く呻いてウィルが目を覚ます。

「……あれ、ルノ、トアン」

「ウィルは起きるのが早いな」

「まあね。ルノ、無事か?」

「ああ」

「ちょっと二人とも、談笑してないでセイルさん起こすの手伝ってよ……絡まっちゃって、この、全然起きないよ」

 トアンが二人に応援を頼んだその時だ。草原を強い風が駆け抜けた。思わず手で顔を庇ったトアンだったが、風はあっという間に収まってしまった……手をどけ、そしてあ、と声を上げる。見たこともない青年がすぐ目の前に立っていたからだ。

 青年はだぼだぼのセーターとマフラー、缶バッチがついたニット帽を目深に被り、セイルとトトを挟んでトアンと対峙していた。足音は全く聞こえなかった。まるで先ほどの風にのってきたようなその存在に、トアンは目をぱちくりとさせる。……二人は暫く見詰め合っていたが、唐突に青年が口を開いた。青年のニット帽の下、影になっている部分に、金色の瞳が光る。

「ぼくはハスター。初めまして、目覚めの者トアン・ラージン、月の化身ルノ。……そしてその仲間たち。本来ならもっとも君たちに近い、焔竜が遣いにくるはずだったけれども、彼女は身重故ぼくがきた」

「あ、あの……どうしてオレたちの名前を……? 目覚めの者と月の化身って何ですか?」

 人違いだったら申し訳ないが、ここまで名前を言い当てられて人違いもないだろう。トアンは若干混乱しながら青年に尋ねるが、青年はゆるく首を振って制した。マフラーが揺れる。

「……本来ぼくは、喋ることが得意じゃない。なんとか説明するから、なんとか理解してほしい」

「は、はあ……」

「まずぼくは地零竜だ。……あっちがフォルテ。聖風竜」おもむろにハスターが草原の向こうを指差した。──みれば、金髪の少女がこちらに走ってくるところだった。

「ぼくたちは竜……ここにきたのは、ゼロリードをとめるために、君たちに会いにきたんだ」

「ゼロリードを?」トアンの前に進み出たのはルノだった。

「手伝ってくれるのか?」

「それは「……まだうんとは言えないネ!」

 ばたばた、足音荒くフォルテという少女がようやくこちらに駆け寄ってきた。ゼイゼイと息を整え、ハスターを押しのけてルノに指を突きつける。

「フォルテ」

「ハスター、ワタシに任せるネ。……ルノ、話は聞いているネ。けど、まだ竜たちの会議は続いてる」

「……どういうことだ?」

「いくらゼロリードに狂気が宿ってるとわかっても、ワタシたちは竜。強い強い力が宿ってるネ。迂闊には動けないネ……今も現在進行形で、どうしようかどうしようかと会議中ネ」腰に手を当ててフォルテがため息をついた。

「領域っていう、互いに不可侵な部分があるからメンドーなのネ」

「つ、つまりどういうことなんだ……?」

「竜たちは動くけれど」フォルテより先にハスターが言う。

「きっと動くけれど、今はまだ動けない。……ぼくたちが動ければ、事態はすぐに落ち着くだろう。ゼロリードの息子、シアングだって助けられる」

「もっとも、アンタたちだけよりよっぽど頼りがいのある話よネ? ワタシとハスター、テュテュとヴァイズの四人が動けば、単純に考えてゼロリードの四倍の力ヨ」

「けど、それまでは君たちががんばって。……これ、城内の見取り図」

 マフラーの襟元をごそごそといじり、どうやってしまっていたのかハスターがぱっと丸めた羊皮紙を取り出して、トアンに差し出す。

「あと、二日ある。ここから城まで、大体一日かかる」

「一日では、あまりにも時間が……」

「ルノ。話は最後まできいて」

「ワタシは聖風竜ネ。風で足を速めてあげる」

「……ということ。トアン、受け取ってくれるね?」

「はい」

 トアンは頷いて羊皮紙を受け取った。ハスターの口はマフラーでみえないが、かすかに微笑んだような気がした。

「アンタたちが動き出したら、ワタシにできる最大風速で背中を押すネ。半日ぐらいでベルサリオにいけるハズネ。だから、じっくり計画を立ててから動くといいネ」

 フォルテはそういい残すと、ハスターとともに一筋の風となってあっという間に姿を消した。

 残されたトアンたちは羊皮紙を広げ、そして再びセイルとトトを揺さ振り始めた。


 *


 ──溺れそうだ、とレインは自覚をした。

 目を開いても閉じていても、ただ黒一色に塗りつぶされた視界。

 自らの血を啜るようにして明滅する淡い青白い光に、もはや腹立たしさも感じなかった。

「……。」

 立っていることすら困難で、崩れるように床に突っ伏してもうどれくらいの時間が経ったのだろう。短くないことはすぐに予想できた。顔にこびりついた皮脂が鬱陶しいからだ。それ以上に玉になって零れ落ちる汗の雫も鬱陶しい。……しかし、それを拭うために手をあげる力すらもうなかった。

(苦しい)

 別に腕がねじ切れそうだとか、頭を潰されるようだとか、そんな痛みはない。ただ、ただ心が磨り減って磨耗していくのを感じる。人を一人殺したあとの、罪悪感と不快感、そして一種の快楽を否定する心のぶつかり合いとよく似ているとも思った。

 ──このまま心を閉ざし、干からびてしまえば楽だと理解する。けれどそれをしてしまえば、このやっかいな封印は決して解けないで、自分は死ぬだろう。

 ──レインはすでに十三の封印のうち、九まで解き終えていた。本当に感覚だけが頼りな作業だった。ゴリゴリゴリ、非情にゆっくりと輪になっている石のダイヤルが回転する音だけが耳に響く。五の封印まで解き終えたところで、封印は姿を変え始め、いまや鳥籠のような形になってレインを閉じ込めていた。足枷は本当に必要だった。これがなければ、レインはとうに逃げ出していただろうから。

(……シアング)

 ぼうっとした頭で、うつ伏せになったまま姿を見せなくなって久しい友人のことを考えた。やたらと豪華な食事は食べる気すら起きない。それでも飲み込まなければ、本当に干からびてしまう。テインは手を伸ばしてパンを掴むと、スープに浸して強引に飲み込んだ。


(……オレは、もうあんな思いを誰にもして欲しくないんだ。ルノにも、アンタにも……絶対、あんな、あんな……。)


 喘ぎ喘ぎ、レインは拳を握り締める──その足枷には、高熱で焼ききろうとしたらしい跡があった。


 *


 ヒュルルル、耳元を風が高らかに笑いながら通り過ぎていく。景色もビュンビュンとあっという間に走り去っていくし、多少の高低差もまったくものともせずにトアンの足は動き続けた──これも全て、フォルテという聖風竜のお陰だ。いつもは足の遅いルノですら、まったく疲れた様子を見せずにトアンの横を走っている。これは個人の体力というより、後押ししてくれている風の影響が強いためだ。

 ──もう肉眼ではベルサリオに続く釣り橋と崖の向こうに聳え立つ城と町並みが見える。トアンたちたベルサリオが見渡せる崖の上で、ようやく足を止めた。風も周囲で待機するように渦巻いて踊っている……閉ざされた城門の先に広がる国は、以前訪れたときよりもどこか沈んでいるようだった。石畳の町並みもどこも変わらないように見えて、そこを行き交うヒトビトの数はまばらだ。以前は城の前に長く続いていた行列も、今はない。

「……なんだろう、なにか変だね」

「王子の処刑だ。どこか暗くなるさ……シアングの処刑のこと、ここの国民はどう思ってるんだろうな」

 トアンの呟きに答えたのはウィルだ。赤いバンダナが風に遊ばれ、ゆるりと揺れる。ウィルの横顔からみえる優しい茶色の瞳に、静かな怒りの火が燃えているのをトアンは再び認識する。

 ──シアングの処刑まであと一日だった。焦りを押し殺し、ベルサリオに来る前に、たっぷりと作戦を練ったのだ。失敗は許されない。失敗すれば、シアングは確実として、全員がこの世からいなくなるかもしれない。

「国民はみんな、諦めてるのよ」

 襟元のファーに首を埋め、セイルが遠くを見ながら言った。トトがセイルを見る。

「諦めてるって?」

「トアンとトトと、ルノはみたことあるでしょう? いつもはお城の前に、おとうさんを慕って沢山のヒトたちが並ぶの……ベルサリオは雷鳴竜の国。雷鳴竜は一族制で、長寿……おとうさんは絶対なの。ここの国にとって、絶対の存在なのよ。でもそのおとうさんが、時期国王であるはずのシアング王子を処刑することを決めたの……」

「……なあ」

「なあにルノちゃん」

「……私はずっと気になっていたんだ。シアングに対する、いやお前も含めて、お前たち王子に対するゼロリードの虐待は、もう明白だろう? それなのに何故国民や臣下は王を信じ続けるんだ?」

「……俺様は、シアングが庇ってくれてたから、鬱陶しかったけど守ってくれてたから、ぶたれたことはなかったの。もともと俺様は『影抜き』。できそこないなの。それにシアングは、自分がおとうさんにぶたれたって一言も言わないの」

「何故……?」

 ルノの声はどこかトゲがある。さらりと零れる銀髪に見え隠れする紅い瞳は、どこかセイルを非難するような色があった。しかしセイルはほんの少し口篭っただけで、怯まずに答える。

「シアングは、おとうさんのおかしいのが、きっと戻るって信じてるのよ」ほんの少しだけ妙な口調。トトが心配するようにセイルを見る。セイルはトトを優しく見返し、必死に言葉を組み立ててルノに投げ返す。

「……そう、信じてる。だからおとうさんがもとの優しいおとうさんに戻ったとき、周りから文句を言われないように、自分のミスで怪我したって言ってたのよ。周りから少し怪しまれても、元々シアングはエアスリクにいた時間が長かったから、そんなに追求されないの。城の皆は、あんまりシアングのことを知らないの」

「……そう、か」

「俺様、シアングが嫌いよ」

「……?」

「……でも、やっぱり全部全部アイツに背負わせるのは駄目だって思うの。俺様の小さい友達たちが、色々教えてくれたし。ウィルも、スノーも、俺様を馬鹿にしないでいろんなことを教えてくれた。……だから、助けたいのよ──それで今度こそ、半分こしたいの」

「セイル……。」

「ごめんね、ルノちゃん。ルノちゃんからすれば、大好きなシアングに酷いことする俺様が嫌いでしょう?」

「わ、私は別に、お前を嫌ってなどいない」

「……俺様とシアングの姿が一緒だから?」

 ほんの少し哀しそうに呟いたセイルに、今度はルノは即答した。迷いの無い声と瞳に、風が感心したように口笛を吹く。

「違う! ……セイルとシアングは、別だ。別々の命だよ。声も違う、顔だってお前のほうが幼い……いくら同じヒトが元でも、心はまったく違うだろう。お前もそれを信じていただろう」

 一度瞬きすると、ルノの紅い瞳は優しい色で満ち溢れていた。先ほどの視線がセイルをどれだけ傷つけたか、ルノはもう理解しているのだろう。……それに、ルノにとって、セイルがシアングに抱く感情がとても柔らかなものに変わっていることを知れたのは、とても嬉しいことなのだろう。

(ルノさんもセイルさんも優しいからな。……でもオレも、セイルさんの優しい心がシアングにそのまま向いたの、すごい嬉しい)

 ──それが、彼の成長の証なのだろう。一年前に初めて対峙したセイルは、もういない。いや、当時の優しさをより大きく育てていた。トアンが視線をめぐらせると、ウィルとトトが静かに微笑んでいるのが見えた。

 ゴーン……ゴーン……

「ベルサリオの鐘なのよ」

 そう呟いたセイルの顔には、強い決意が宿っていた。

「……じゃあ、みんな準備はいい?」

「トアンが仕切るのなんて珍しいな」

「え、だったらウィルやる?」

「いんや? 作戦立てたのトアンだし。オレの準備はいつでもいいぜ」

「俺もです」

「……私もだ」

「俺様も」

 ウィル、トト、ルノ、そしてセイルが声を上げる。その間にも鐘は重々しく鳴り響いている。

(……大丈夫。ルノさんだって、みんなだって、オレ自身だってものすごく焦ってたのに、時間をかけて練った作戦だもの。大丈夫、絶対にうまくいく)

 トアンは最終チェックとばかりにハスターから手渡された羊皮紙を取り出した。

「じゃあ、作戦通りに地下の迷宮から入って、すぐに二手に別れよう。図面だと、地下からの出入り口が城の至る所にあるみたいだから……図面じゃわからないゼロリードさんとシアングの詳しい位置は、セイルさん、案内してね。ウィルとトトさんはそのまま地下のどこかにいる兄さんをお願い。……それから、封印のことも。ルノさんはオレと一緒に。処刑を中止させよう」

「わかっている。……トアン、よろしくな?」

「……うん。こちらこそ。ウィルとトトさん、兄さんの場所はわかる?」

「大丈夫、コケでも生えてればオレが聞くし」

「もしくはユーリに見つけてもらいます。……ね、ユーリ」

「ぴゅい!」

 ゴーン……哀しそうに鐘の音が震える。──開門だ。城門が開かれる合図の鐘なのだ。

「あと一つよ」

「……よし、いこう!」

 ──ゴーン。

 最後の鐘が鳴ると同時に、トアンたちは風を味方につけて走り出した。



 *


 メルニスはベッドに伏したまま静かに嗚咽を噛み締めていた。メルニスが伏せているベッドは、もう何日も使われた後がない。それどころか机やソファ、本棚も埃を被っている。

 ──この部屋の主は、随分前からこの部屋でくつろぐことも休むこともできてはいなかった。この部屋の存在意味は、時期に消え去りそうだった。この部屋の主こそシアングである。

「う……うう……」

 メルニスの瞳から涙が零れ、シーツに滲んで消えていく。

 処刑の詳しい理由は、教えてもらえなかった。……当たり前かもしれない。『封印を解くために必要なエネルギーを得る』と言う答えは、本当にそれだけだ。詳しく言おうにも言い様がないだろう。だからゼロリードの言葉はある意味正しい。

「シアング様……シアング様……」

 ──メルニスは無力だった。彼女のシアングを救おうとする言葉は、ゼロリードの耳に全く届いていないからだ。臣下や兵士も、シアングの処刑を決断したゼロリードに若干の不満と不信感を抱きつつも、結局は王は絶対で正しいという結論に至り、誰もシアングを庇わない。この部屋の窓から、中庭に近い広場が見える。しかしメルニスに窓を覗く勇気はもはやなかった。それでもシアングの傍にいたいという消え去りそうな感情だけで、この部屋に閉じこもっていたのだ。

 メルニスは本当に幼い頃にシアングの許嫁にされ、その時から『シアング』を偽り無く愛してきた。シアングはメルニスにとても優しかったし、ゼロリードもメルニスに優しかった。シアングからセイルという『影抜き』が生まれた時に、メルニスは揺れた。それでも『シアング』を愛してきた。

「……わたくしは、本当に、本当に……」

 祈る手ももう疲れ果てた。メルニスがそっと瞼を閉ざそうとした……その時だった。


「侵入者だ! 数人のグループで、現在二手に別れた模様!」


 メルニスは瞳を見開く。焦りと怒声を上げながら、数人の兵士たちが廊下を走り回っているのがわかった。


「侵入経路は地下か。誰だか知んねぇけどこの城の地下の迷宮を態々通り抜けようとするなんて、バカじゃねぇのか」

「まーな。一応迷宮からの出入り口がある部屋、場所に即座に配置につけ。ゼロリード様のお怒りには触れたくないからな……」

 どやどやと騒がしい廊下を眠そうな声が横切っていく。何人かいるうちの、兵士長の二人だろう。メルニスは身体を起こし、すん、と鼻を鳴らした。

「なんでしょう? ……まさか……」

 気付いたのならば、もうじっとしてはいられなかった。メルニスはベッドから飛び降りると、廊下の足音が遠ざかっていくのを確認し、自らも廊下に飛び出した。


 *


「ぴゅい……ぴゅるるる」

「こっちです!」

 地下の狭い通路の分かれ道で、コガネの囀りが反射した。ててて、と軽く駆けていくコガネが足を止めて振り返り、尾をゆする。ウィルより先にトトが走り、コガネの頭に手を当てた。

「……なにかあるみたいですね、この先に」

「よくわかるな、ユーリの考えてること」

 感心したようにウィルが呟く。トトは苦笑のような照れ笑いのような笑みを浮かべた。二人はコガネと共に無数の別れ道の中の一つを選ぶ。

 ──ウィルとトトがトアンとルノとセイルと別れ、もうどれくらいの時間が経ったのだろうか。地下には日の光は愚か鐘の音も届かない。掃除の取りこぼしのように時折点在するコケにウィルが訊ね、曖昧な時間をなんとか知ることしかできなかった。

 地下の地図はトアンが持っている。なんとか写しと地形を頭に叩き込んではいるものの、ウィルは似たような通路が延々と続く光景に嫌気がさしていた。弱音こそはかないが、トトの顔にも疲れが出ている。地図には詳しい封印の場所は書かれていなかったので、コガネ(ウィルはユーリと認識している)の鳴き声と頭の中の地図を照らし合わせてなんとか足を進めている状況だった。

「……ぴゅい!」

 唐突に、コガネが鋭く鳴いた。そして一目散にトトの肩の上に駆け戻る。トトが剣を抜いたのを見て、ウィルも槍を構えた。「ぐるるる……」

 低い獣の唸り声が静かに滲み寄ってくる。通路の暗がりから、半分腐った四足の獣が三頭這い出してきた。

「トト、少し休んでていいぞ」

「大丈夫です」

「いいから。……オレ、ちょっとイライラしてるからさ。時間わかんねえからちょっと焦るし」

 返事は聞かない。ウィルはそのまま走り出し、硬いブーツで先頭の一頭を蹴り上げ、続いて飛びかかってきた二頭目を槍で突き刺した。そのまま三頭目に振り下ろし、叩き潰す。魔物たちは一矢も報いることができないまま、どさりと腐肉を零して倒れた。

「……この死に損ないめ」

「先生?」

 何かに対して口汚く罵るウィルは珍しい。それが死んだものに対してならなおさらだ。トトの不安そうな問いかけに、ウィルはようやく一息ついた。

「……。なんだろう、オレらしくもないな」

 既に何度か先ほどのような魔物の群れに出くわしていた。トトが薙ぎ払った数よりも圧倒的に、ウィルが苛立ち紛れともいえる槍さばきで退けた数が多い。

(この地下……どっかアリスの箱庭を思い出させる。こんな魔物も、まるであそこでつくられてた合成獣にみえてくる)

 ぐずぐずに腐っている鉛色の身体。──ああ、いやだいやだ。あんな怖くて哀しくて焦る思いはしたくない。……もうそんなものとは縁がないとすら思っていたのに。

「……先生、少し休みますか」

「いや、時間がない」

「でも先生」

「……ッうるさいな!」

「!」

 思いがけず零れた言葉に、トトの瞳が見開かれる。その様子にウィルはハッとし、自分が何を言ったのかようやく認識した。

「わ、悪いトト」

「……いいえ」

 気にしないでください、と言ったトトの瞳に、隠し切れない痛みがあったのをウィルは黙認した。

(くそ、くそ、らしくない、こんなのオレらしくない。一年前と変わってないじゃん、いやそれより酷い)

 ぎ、と唇を噛んだウィルの耳に、コガネの鳴き声が入ってきた。見ればコガネが通路の奥で飛び跳ねている。何かを見つけた、というのはトトでなくとも分かった。

「先生、あれ……」

 駆け出したトトが困惑気味に呟く。その原因を知ったとき、ウィルも眉を顰めた。足を進め、そのすぐ傍まで近づいてますます混乱する。

 それは、行き止まりの地面にぽっかりと空いた四角い穴だった。

 穴のすぐ傍まで水面が揺れているのを見ると、この地下のすぐ下に走る水脈に通じているようだ。

「なんでしょうこれ。通路ですかね」

「他にいくところもないしな」

「ユーリ、どう?」

「ぴゅい……」

 くんくんと鼻を鳴らし、コガネが水面に鼻面を近づけた。そしてぱたんと力なく尻尾を振る。

「……どういう反応だ?」

 コガネの心がさっぱりわからないウィルがトトに問うと、トトは真剣な顔をしてコガネの背中を優しく撫でながら答える。

「この先みたいです」

「じゃ、ユーリはなんでこんなに元気が無いんだ?」

「……この水路を潜る方法がわからなくて困ってるんだと思います。俺の指輪が使えればいいけど、ちょっと水路の幅が狭いかも知れません。それに指輪を使えば最悪ゼロリードに勘付かれれるかも……」

「危険な賭けだな。てか、その指輪そんなに大きな魔力が働くのか?」

「いえ……ただ、水に働きかけるというより、水を『従える』ものなので……もう既に侵入者がいるということは伝わっているはずです。だから、この状況で水になにか変化があれば……」

「……なるほどな。それにレインに今逃げられたら封印がギリギリまで解けないもんな……なあトト? オレ腑に落ちないとこがあるんだけど」

「なんですか?」

「シアングの処刑さ。……なんでだろ、封印を解いても解ききらなくても最終的には殺す必要があるって、ムリヤリな気がするんだよなって。なんか納得できなくてさ」

「そうですね。俺も考えていたんですが……」水面を指でなぞりながらトトが答える。

「……俺には、何か別の、ゼロリードさんとは『別の意思』があるようにしか思えないんです」

「別の……意思?」

「はい。多分、それは……」

「なんだよ」

「俺が知らなくてはいけない真実に、とても近い気がして」

「……?」

「ああ、いえ……すいません忘れてください」

 にっこりと笑ってトトは話を流そうとしたが、ウィルはどこか引っかかりを感じた。小骨のようにチクリと気になるその存在に、ウィルは眉をしかめるだけでやはりそっと流すことにする。──トトが口をつぐんだ。それ以上、詮索する理由はない。

(『別の意思』、か)

 ウィルは首を覆うアーマーを外し、背筋を伸ばしながら考えた。

(……今考えても答えは出ないか)

 がつん、アーマーが床に落ちる。トトが目を丸くした。何を、その顔が訴えている。

「ちょっと潜ってくるわ」

「もぐっ……え?」

「多分、この先かどっかに水の切り替えのスイッチがあると思うんだわ。とりあえずトトは待ってろよ」

「俺が行きます!」

「いいから。じゃ」

 ひらひらと手を振って心配そうな顔をしているトトを制すると、ウィルはゴーグルをつけてから大きく息を吸い込んだ。──水路の中は狭く、水がたっぷりと満ちているため、途中で息が途切れたら出口が無い限り呼吸はできないだろう。逆戻りをするスペースはないのだ。そんな危険なこと、トトにはさせられない。ウィルはポケットの中から取り出した数枚の葉っぱをトトに見せ、親指を立てた。

(ま、オレなら少しは長く息が続くかな。葉っぱから酸素がもらえるだろうし)

「先生……」

 いまだ眉をハの字にしているトトに、にか、と笑みを向けるとウィルは水路に飛び込んだ。



 *


 水路の中は思ったより冷たい水が流れていた。飛び込んだ地点からは後にも先にも水路が続いていたのだが、幸いなことにウィルの足の方から水の流れがあったため、それほど力を使わずに身体は進んでいく。

(飛び込んだとき、方向があってて良かったな。逆だったらちっと怖かったぞ)

 水路の中は暗い。──が、壁が青白く発光しているためそれほど視界には困らなかった。



 ──それから随分の間、ウィルは水の流れに身を任せていた。何度か呼吸が辛くなったが、持っていた葉で事足りた。そろそろ冷たい水に手足のしびれを感じなくなってきたころ、唐突に強い光が差し込んでいる場所が目に入ってくる。

(あそこか)

 ごぼ、口から銀の泡が零れて流れた。気だるい腕を伸ばして光に突き出す。──と、手が何か引っかかるものを掴んだ。それを頼りに自らの身体を一気に引き上げる。

「……げほ、げほ、……は。はあ……あ?」

 今更ながら自覚した寒さにぶるりと身震いする。目の前にブーツがあった。敵だろうか、するすると視線をあげていきそして──ウィルは息を呑んだ。

 

 ──目の前で仁王立ちしていたのは、仏頂面のアークだったのだ。


「な……なんでお前がここに?」

「……ここにスイッチがある。水路に関係するものじゃねえ。これで壁が動く。連れと再会できるぞ」

 ウィルの問いには答えずにアークが壁を指差した。──なにかの植物の太い根が壁を編みこむように縫っている。アークはそこを指差していた。

「え、と。なんでお前……」

「お前の力じゃムリだから」

「……は?」

「お前みたいに平和ボケしてるヤツにはどうにもできないから態々来てやったんだよ。この根、相当古くて機嫌も悪い。お前が頼んだところで動きやしねえ」

「なんかよくわかんねえけど、やってみなきゃわかんないだろ!」

「じゃ、やれよ。どーぞどーぞ」

 相変わらず人を小馬鹿にしたような態度だ。ウィルは自分もこんな憎らしい顔ができるのかと嫌味をこめて感心すると、水から這い出して一息ついた。腹の虫が収まらないので、わざと水に濡れた手でアークを押しのけ、根の前にしゃがみ込む。おい、なにすんだよ、と憤慨する声がすぐに聞こえたが無視をしてやった。

(どっからきたのかも、何んで嫌味を言いにきたのかよくわかんねえけど……なんだっつーんだよ)

 ち、と舌打ちをして目を閉じる。……トトがこの場にいなくて本当によかった。あの誠実な瞳に、自分の歪んだ部分をあまり見せたくなかったのだ。根に手を振れ、そっと心の中で呟いた。

(この奥にスイッチがあるから……頼む、どいてくれ)

 ──ポウ、柔らかな光が指先から零れ出る。後は自分の望みどおり、この中に包まれたスイッチが姿を現すのを待つだけだ。

 ──しかしいくら待っても植物の返答も、動き出す気配もなかったのである。

「……あれ?」

 瞳を開けたとき、閉じる前となんら変わりのない様子に、ウィルは若干の焦りを感じた。今まで当然のように植物と心を通わせることができたし、その自信を傷つけられることなんて一度も無かったからだ。




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