シアング救出編
第34話 絶望に染まる
──目の前で渦を巻く光が消えていく。身体に重力が戻ってきた。目の前の世界にペタペタと色が塗られていき、レインは瞬きをする。色を失う前から口の中の感覚は消えていない。
(血の味がする)
決して不快ではないと感じる舌が忌々しい。それも自分の体質であり性分だと括るには、まだ抵抗する心があった。……それでも、あの時の行動は、最善だったと自負している。
(多くはとってない。ウィルのことだ、二、三日あれば動けるだろう。……精神的なほうに傷が残らなけりゃいいけど……)
ため息をつくのと同時にとすん、と足が地に着いた。そして視界が鮮明になる。──どうやら、建物の内部らしい。高い天井と柱に彫られた凝った彫像、ぼんやりとしたランプの台は黄金。薄暗い視界を見渡して、かなりの広さがある大広間だと認識した。一歩踏み出すと足音がやけに響く──その時、後ろから声をかけられた。
「……ネコジタ君?」
はっとして振り返る。暗がりの中から、軍服ににた服装を着たシアングの姿がにじみ出てきた。レインはその姿を見て、思わず瞠目する。
「久しぶりだな。まさか本当にきてくれるとは……オレの声、本当に聞こえたんだ」
ふふ、とシアングは苦笑を浮かべたが、レインは笑うことはできなかった。
──シアングの顔には青あざがあり、目の上が腫れていた。口元には出血した跡があり、戦闘ではなく、暴力を受けたのだとレインは悟ったのだ。
「その傷、どうして」
「ああ、これ? 気にしないで。ちょっとしたスパルタ教育だよ」
誤魔化すように笑うシアングに、レインはそれ以上の詮索をやめた。聞いても答えないだろうし、一瞬ハッキリとした拒絶が見えた気がしたからだ。
「ここはどこだ」
「ベルサリオだよ。城の地下だけど……まさか心繋ぎでくるとはな。身体、大丈夫か?」
「別に。オレよりお前が大丈夫かって話なんだよ」レインはしゃんと背筋を伸ばして見せ、続ける。
「……なんでお前の声が、オレには聞こえたんだ?」
「ああ、それ? ……オレとネコジタ君の中のあれが繋がってるからだよ」
「あれ……?」
「そう。オレも半信半疑だったけど」
レインにはよくわからなかったが、シアングは一人で納得したようだ。おい、とレインが声をかけると拳をだし、ドン、とレインの胸を突く。
「オレとネコジタ君は繋がってるんだよ。すごく頼りなくて、切れそうだけど、でも辛うじて繋がってるんだ」
「……どういう意味だ?」
「きっとそのうちわかる。ルノやトアンには絶対聞こえない声だから」
「……?」
「いいよ、ムリにはわかろうとしないで。……それよりネコジタ君。ここにきてくれたってことは、オレとの約束を覚えてるんだな?」
「ああ、覚えてる」
「本当に? 本当にいいんだな?」
何故か念を押すようなシアングの言葉にレインは眉を顰める。
「今更だ。いいも悪いも、アンタの力になれるなら──それでアンタが素直になれるなら……封印だっけか? なんでも解いてやるよ」
「そうか」安堵の笑みではなく、シアングの表情は硬かった。レインの手を取って数歩歩き、そして不意に止まる。
「……もし、あの村にもう帰れなくなったらどうする?」
「……そんな気はしてた」
不吉な宣告に、レインは薄い笑みを浮かべて見せて答えた。強がりでもなんでもない反応にシアングがガクリと項垂れるのを見て、その背を叩く。
「それでもアンタ、オレの約束覚えてろよ。……心配するなよ、簡単にゃ死なないから」
「……そっか。じゃ、ついてきてくれ」
再びシアングの足が動き出した。安心してくれたのか、諦めたのか、覚悟を決めたのかは背中を向けられているレインにはわからない。大広間から細い廊下に出た瞬間、突如背後に鉄格子が落ちてきた。
ガシャーン!
鋭い音が響く。突然のことにレインは僅かに反応したが、シアングが無反応だと知ると思わず笑みを浮かべた。
(これも想定内か。とんだ歓迎だぜ、まったく)
ランプの明かりが届かない暗がりへ進みながら、レインは口の中の血の味を舌で拭った。自分は諦めているのか、それとも帰れる気でいるのか、自分自身の心なのにさっぱりわからない。それでもレインは、最後に振り返ってランプの光を見つめ、心の中で呟いていた。
(帰るつもりはある。子供たちも気にかかる……でももし帰れなかったら、その時は……さよならだ、ウィル)
どこまでも深い暗闇の中へ、レインは自ら進んでいった。
「……ルノさん、どう?」
深夜のチャルモ村は闇の帳がおりているが、リビングはランプの頼りない光が揺れていた。深い青い色の夜空からはしんしんと雪が舞い降りてくるのが窓から見える。トアンは急かすようにルノの顔を覗きこむが、ルノの顔は晴れない。
リビングでウィルが倒れている、というトアンの言葉に起こされて、ルノはベッドを飛び出した。床の上へ横たわり呼びかけに応えず、瞼を閉じたままピクリとも動かないウィルはどう見ても重症なのだが、不思議なことに傷口は見あたらない。ルノと同時に目を覚ましたトトがトアンの隣で不安そうにルノとウィルを見比べているので、ルノとしてはなんとしても原因を突き止め、トトを安心させてやりたかった。
「ルノさん、どうですか」
「……すまない、やはり原因がわからない」
「……そうですか。レインさんはどこへ行ってしまったんでしょう? テーブルの上のカップ、あれ、レインさんのですし……先生、一体なにが……」
不安気にトトが見つめるテーブルの上には、まだ中身がたっぷり残っているカップが三つある。中身はミルク。角砂糖のビンが傍に置いてあるので、恐らくはホットミルクだったのだろう。もうすっかり冷めてしまっているが。
「どこ行っちゃったんだろうね、兄さん」
「……トアンはどこへいっていたんだ?」
「へ?」
「上着がないぞ」
「……え、あ……。ああ、うん。ちょっとね、さっきまで月がきれいだったから外を散歩してたんだ。少し不安な夢を見てさ……それで帰ってきたらウィルが倒れてたんだけど。上着、どこかに忘れてきたみたい……」
──咄嗟に口から出た嘘にトアンは内心かなり驚いていた。あながち嘘ではないのだが、チェリカに逢ったということを隠す必要はない。……しかし、もうそう言い切ってしまってあとから付け足すの、ルノを不必要に不安にさせることもどうか思い、それ以上は言わないことにした。ルノはトアンを見て、寝ぼけていたのか、と目を細めて言う。
「……ぴゅい」
トトの懐から飛び出したコガネが床の上に降り、鼻面を動かないウィルに押し当てた。ランプの光によってできた小さな獣の長く伸びる影が、一瞬別のものに見えたトアンは目を見張る。……気のせいだったようだ。
「血液が減っているな」
振り向くと、パジャマの上にカーディガンを羽織ったプルートが立っていた。ミルクティ色の髪の毛を頭の上でキレイにまとめ、エメラルド色の瞳にランプの明かりを灯している。
「プルートさん」
「……プルート、どういう意味?」
トアンが声をかけた瞬間に不機嫌になった彼の顔は、トトの声によって一気に得意げになった。……小さな差別だったが、トアンはもう気にしない。それにプルートがトトに依存していることは確かなのだから、トトに話を進めてもらったほうがいい。
「言葉のままだ。血液が減少し、自己防衛本能がこのままでは危険だと判断した。だから生体活動を最小限に抑えているんだ……彼は守森人。普通の人間ではない精霊混じり。ヒトに近い存在だからな、ただの人間より自己治癒能力が高いから心配はいらないだろう」
ルノの横に座り込み、プルートの手がウィルの額に当てられた。そして確信をこめてうん、と頷く。
「ルノの能力は治癒能力だ。ここに失った血が流れ出ていればもどすことはできるだろうが、キレイサッパリなくなっているからな。感知することもできなかっただろう」
「あ、ああ……だがプルート、ウィルは目を覚ますのか?」
「……どうだか」
「プルート!」
「ぼ、僕に怒鳴っても仕方ないだろう! 傷口だってわからない以上、彼の体力に任せるしか──」
「ぴゅい!」
ルノの剣幕に焦るプルートの言葉をコガネが遮った。見れば、鼻の先をウィルの首元に当てている。
「……コガネ?」
「ぴゅるる」
トトが抱き上げようと伸ばした手から逃げ、コガネはもう一度鼻でウィルの首元を押した。不審に思ったトトの手が、くつろげたウィルの首筋にランプをあて──息を呑む。トアンも首を伸ばして覗き込んでから、あ、と呟いた。
「血のあと……」
ランプの光の下、ウィルの首には傷こそなかったが、乾いた僅かな血液がこびりついていた。トアンは顔を近づけてまじまじと乾いた血を見、そして悟る。
(ウィルの出血はここからだ。そして傷口がないってことは、首を傷つけつつ、治した……)
──そんなことができる人物をトアンは二人程知っている。しかしそのうち一人はここには居ない。そしてもう一人は、ウィルの最も傍にいる人物。
「兄さんだ」
「なに?」
「ルノさん、兄さんだよ。兄さんが血を吸って、傷を癒した。兄さんしかできないんだそんなこと!」
「ト、トアン、落ち着け!」
想像以上に裏返った声に、ルノが立ち上がった。トアンを静めるように手を伸ばしてくれたが、トアンは首を振ってそれを拒んだ。ルノが少し悲しそうな顔をしたが、トアンは気にしていられなかった。
「どうして、どうして兄さんがそんなこと? だってだって、ウィルと幸せに暮らしていたんじゃないの? ここの村で、この家で! それなのにどうしてこんなことを……」
「黙れ!」
混乱するトアンをピシャリと怒鳴りつける者がいた。……プルートだった。
爛々と輝くエメラルドの瞳を怒りに燃やし、トアンに詰め寄ると人差し指でトアンの胸をドンと突く。
「そんなこと僕たちに分かるわけないだろう? まさかと思うが夫婦喧嘩じゃないだろうし。……お前がそんなに動揺してどうするんだ」
「だって!」トアンはすかさず反論した。立ち上がり、衝動に任せるまま喚き散らす。
「だって、だって兄さんはここで幸せになってるって思ったんだ! ウィルと一緒にいることが幸せに繋がるって、オレは確かにそう思ったんだ! それのにこんなことになって、オレ、オレ……」
「いい加減にしろ! 不安なのはお前だけじゃないんだ! この場で一番、悲しみと不安に心を圧しつぶされそうになっているのは一体誰だ!?」
「あ……」プルートの言葉に、トアンの後頭部を殴られたような気がした。視線を落とし、しゃがみ込んでいるトトを見る。トトはトアンに背中を向けていたが、その肩はかすかに震えているようだった。
「トトさん、オレ……ごめんなさい……」
「いえ、トアンさんが謝ることはありません。プルート、君も少し落ち着いて」
トトは未だ背を向けたままだ。普段ひとの目を見て言葉を述べる彼の様子に、トアンは今更ながら罪悪感が胸の中で渦巻くのを感じた。ぴゅい、コガネが顔をあげ、トトの懐に戻る。
「あ、あの、トトさん」
「トアンさん」
声をかけるが逆に返された。トトは漸く立ち上がりトアンたちを見た──その顔は、いつも通りの優しい顔だ。トアンはその事実に少なからず驚いた。
「……トアンさん。俺にはこんな記憶はないんです」
「……え?」
「先生とレインさんと過ごした時間のうち、トアンさんたちが来た頃から、二人との別れのあの瞬間まで、何故か記憶がぼんやりと霞んでしまっているんです。だからシアングさんがきたことも、俺にはわからなかった。俺は覚えていないんです、この一年のことをほとんど」
「そ、そんな……そうだったんだ」
「はい……コガネに聞こうにも、今の彼女はこの姿。ぼんやりと意思は理解できますが、記憶を尋ねるなんてことはできない……小さい俺が、この二人なしでは生活できないはずなのに、それなのにその部分の記憶がない……これは推測ですが、過去が変わりつつあるのかもしれません」
「どういうこと?」
「過去が動き出した。矛盾した記憶なので、俺には思い出せない……最も、この時間に来る前から覚えていないんですけど。俺は二人と過ごした優しい記憶だけを持っていて、霞んで思い出せない部分に疑問をもったことすらなかったんです。……なんでしょう、俺にもよくわからないんですけれど、過去が変動しているから思い出せなかった……?」
「いや、それならトトが時を越えるまで思い出せなかったことには矛盾がある」
ルノが口を挟むと、トトは素直に頷いた。──その時だった。
「……雪」
酷く掠れた声にトアンたちははっとする。調度ウィルが瞳を開けた瞬間だった。ハッキリとはしない茶色の瞳が、ぼんやりとトアンたちを見上げる。
「ウィル、気がついたのか!」
「……ルノ……。外、雪、降ってるか……?」
「雪……?」ルノが怪訝そうに首を回した。──窓からチラチラと降り続ける雪が、ランプの灯りにほのかに映る。
「降っているが……それが、どうした?」
あまりにも意外なウィルの言葉にルノは拍子抜けしたようだった。トアンもしゃがみ込み、ウィルの上体を起こしてやる。トトが台所から冷たい水を汲んできて、コップを差し出した。ウィルはそれを受け取り、一口、二口飲んで、ふっと口を離す。
「大丈夫?」
「あぁ……。頭が少しくらくらするけど、そんなに大事じゃないさ」
「良かった」
トアンが声をかけると、顔色は悪いが、ウィルはしっかりとした口調で答えた。瞳にも徐々に光が戻ってきている。ルノがそっと治癒魔法をかけてやると、失った血液全てはもどせないが、幾分かは回復したようだ。
「トアン、雪、降ってるんだな?」
「え? うん、どうして?」
「そっか……夢じゃなかったんだ。レインに噛まれたんだ、オレ」
ウィルの手が自らの首筋を辿った。その表情は、──言葉では表せないものだった。悲しみと嘆きと怒りと、悔しさを混ぜて振り回したような色をしていた。しかしそれは一瞬で消え、強い覚悟の表情に変わる。
「ウィル、その……」
「……レインはシアングのところだ」
「え……?」
「トアン、ルノ。オレをベルサリオに連れて行ってくれ」
何故、とは聞かなくても分かった。ウィルの強い茶色の瞳が、真っ直ぐにトアンを射抜く。
「で、でも、危ないよ、そんな状態じゃ」
「大丈夫だ。……オレは、死なない限りレインを迎えに行く」
「……そこまでする価値があるのか?」
口を開いたのはプルートだった。トトが弾かれたように視線を向けるも、それを無視して言った。しかしウィルは即答する。
「あるさ」
「何故? ベルサリオの状態はトアン・ラージンなどから聞いているだろう。いわば氷の上に立っているようなものだ。国王であるゼロリードが心になんらかの病を抱えていることは恐らく確実で、国自体がゼロリード本人か、全く違う何者かに揺さ振られているのも確か。……そんな国に自ら行った者を追いかけていっても『ハイそうですか』と帰ってくるわけではないだろう」
「それでも行くんだ。大層な理由はないよ、オレが行きたいから行くんだ。……納得できないまま、レインと離れるなんていやだ」
「……しかし、万が一お前に何かあったら? 幼い子供たちはどうなる?」
「生きて帰ってくるさ。」再び、ウィルは断言した。これ以上ないくらいに、キレイサッパリと。
「オレがレインをつれて、二人で生きて帰れば問題ないだろー。もちろん、トアンもルノも、それから……トトもさ」
プルートがもう一度口を開こうとしたときだ。かつん、という小さな物音が扉の方からした。一同が一斉に首を回すと、扉の影からコガネとトルティーが真っ青な顔でリビングを覗いていた。
「二人とも……聞いてたのか」
ウィルが優しい声で訊ねると、二人は弾丸のようにかけだしてきてウィルに飛びついた。いつもなら耐えられるであろう衝撃に倒れそうになるウィルの上体を、トアンとルノが同時に支える。
「……帰ってくるよね?」
驚くことに、ウィルにそう問いかけたトルティーは、泣いてはいなかった。群青色の大きな瞳でウィルを見て、確信をこめた声で問いかけたのだ。その隣のコガネは対照的にぐすぐすとしゃくりあげていたため、トルティーの様子はトアンにより不思議な印象を与えた。
「……ああ。必ずだ。だから、ちゃんと待っててくれな?」
「うん」
「ほら、コガネも……そんなに泣かないで。トルティ-はコガネのお兄ちゃんだもんな。……コガネを頼んでいいか」
「うん」
静かにウィルに答え、トルティーは小さな手でコガネを自分の胸に引き寄せた。小さな小さな二人。二人を残していくことに罪悪感を感じながらも、ウィルの決意は変わらないようだった。二人の頭を優しくなで、トアンの助けを借りて立ち上がる。──異変が怖いのだろう、コガネがわっと声をあげて泣き出した。
「大丈夫だよ」
トルティーが慰める前に、少し高い声が重なった。──シオンだった。ぶかぶかのパジャマを羽織ったまま近づいてコガネとトルティーの頭をなでる。シオンの服装から見て、見送りということだろう。シオンは自らとほとんど背丈の変わらない二人をそっと宥めた。
「大丈夫。あんたたちの大事なお兄さんたちを信じなよ。……それから、おれとプルートも残るから安心して」
「僕は……」
「あんたも留守番。みんなが居ないときに、この二人に何かあったらどうすんの」
シオンの言葉に、ぐっとプルートが言葉を詰まらせた。トトをチラリと見てから、ああわかったと乱暴に呟く。プルートは過去のトトを守ることを優先したようだ。
「ありがとう、プルート」
「いや、その、気にするな。お前こそ気をつけていけよ。べ、別にお前の心配をしているわけじゃないからな、ただ……」
「ただ、俺が心配だったんでしょう?」
「……まあ、そ、そうとも、言う……」
顔を赤くしてごにょごにょと呟くプルートにトトがにこやかにもう一度礼を言う。それを確認すると、シオンがトアンを見て、にぃと笑って言った。
「じゃあ、兄様たち気をつけて。レイン兄様をちゃんと連れ帰ってきてね」
「うん。シオン、みんなをよろしくね」
「まっかせといて」
どんと胸を叩く仕草をしてから、シオンはトアンの服を引っ張った。トアンが身をかがめると、シオンがトアンの耳元に口を寄せる。
「ん、何?」
「……この世界が、視ているものなのか、必死に軌道修正されている世界かは、おれにはわからない。判断はできない。……でもきっと、視ているだけなんだ」
「え? どういうこと?」
「だけど心配しないで」
トアンの問いはまるで無視し、シオンはポソポソと続けた。
「なにかあったらママがきっと助けに来るよ。だから、信じてて」
「ママって……母さんのこと?」
「ママはママだよ」
くすくす、と意味ありげな笑みを浮かべ、シオンがトアンから離れた。トアンはしばらくきょとんとしていたが、ルノがどうしたのかと声をかけてくれたので、なんでもないよと言って笑みを返した。
──その時だ。
「──ルノちゃん!」
聞き覚えのある声が聞こえた。不安に揺れる、震えた声だ。ガチャ、バタンと誰かが乱暴に玄関のドアを開け、ドタバタと走ってくる。──薄暗いリビングに飛び込んできたのは、セイルだった。
「ルノちゃん、ルノちゃん無事?」
「へ!? わ、私は無事だぞ」
「そ、そう、よ、よかったの……。」
「セイル、お前どうしたんだ?」
ウィルが目をぱちくりさせながら問う。セイルのコートのファーには雪が積もっていた。セイルは室内にも関わらず犬のように首を振って雪を巻き散らかして、ウィルゥ、と泣きそうな声を上げる。
「セイル兄ちゃん、どうしたの?」
「ト、トト……トト、トト、うわあああああん、うわああああああ……」
トトが慌てて駆け寄ると、セイルはトトをがっしりと抱きしめ、ついに泣き出してしまった。プルートが憤慨しているのをシオンが抑える。トルティーとコガネが顔を見合わせて、慰めるようにセイルの革のズボンの足に左右其々にしがみ付く。
「どうしたの? な、泣いてちゃわからないよ」
「ふえええ、え、っぐ、ト、トォ~……ゲル、……ウ、が、ああぅ、ろすって……うええ……」
しゃくりながら何かを訴えるセイルに、トトが困ったようにセイルの背中を撫でる。トトの首筋から肩にかけてセイルの唾液と鼻水がついていたが、彼はちっとも気にしていないようだった。
「セイル、落ち着け、どうしたんだ」
「……うう、ウィル、ううう、どうしよ、どうしようなの……おっ、おとうさんが、ね? おとうさ、っんがね、ふう、封印をね、解くっていってるの、ね。スノーが、鍵を、……でも、れも……」トトが差し出したハンカチで鼻をかんで、セイルは続ける。トトの肩越しにウィルを見て、トアンとルノを見て、何かを懸命に伝えようとしているのがわかった。
「あ、あんなの、解けない。闇の魔力を持ってても、スノーには、きっと辛い。チェリカだとしても、辛い。スノーとトアンのおかあさんだとしても、辛い。すっごくすっごく難しいの。それで、封印の最後の、一番最後の鍵をこじ開けるために……シアングを使うって」
「ま、待ってよセイルさん。オレたち、封印とか言われてもさっぱり……」
しかしあまりにも話が突拍子すぎて、トアンには全然見えてこない。隣を見ればルノも困ったような顔をしていて、何故ここで妹の名前がでるのか考えあぐねているようだ。
「あ、あうー……」
首を傾げるトアンたちをみて、セイルが焦ったようにさらにしゃくりあげたその時だ。トトが優しい声で言った。
「兄ちゃん、一度落ち着いて……ゆっくり呼吸をするんだ」
「こ、こう?」
「そう。はい、もう一度……大丈夫だよ、ここは先生の家だ。安心していいんだよ? だから、焦る必要はないよ」
「……、ふえ……う……」
トトの指示通り、荒かったセイルの呼吸が、深呼吸を繰り返すことによって落ち着いていく。見事なものだった。もちろん、ここが『安全な場所』という改めての認識も鍵になっているのだろう。
トトは仕上げとばかりにポケットからもう一枚ハンカチを出してセイルの鼻をかんでやると、それをぞんざいにポケットに押し込んで、言った。
「もう大丈夫」
「あ……ありがとうなの……」
「良かった……」
決して先を促すようなことはしないトトを一度しっかりと抱きしめてから、セイルはトアンとルノ、そしてウィルに向き直った。先ほどまでのぐしゃぐしゃな泣き顔はもうない。──トアンはなんとなく、凛としたセイルの顔がシアングのそれと瓜二つということを改めて実感した。同じで当たり前なのだが、今まではセイルの身体年齢と相応の表情を見たことがなかったからだ。
──そこまで考えてはっとする。二人を同一視することは、二人に対する侮辱だ。彼らの存在証明を穢すことになると。
「……トアン、ウィル、ルノちゃん。ごめんなの、泣き喚いちゃって」
「いや、気にすんなよ」優しく手を振ったのはウィルだ。こんなときでも優しさを置き去りにしないウィルは、本当に大人になったとトアンは思う。
「それよりどうしたんだ? ……レインの名前が出てたけど、封印ってなんなんだ」
「……雷鳴竜が逃れられない宿命の渇き──とっても大切な人の血肉を欲するの」
「……え?」
「封印は、十三の封印っていうの。すごおく難しい、闇の魔力でしか解けないものすごおく大変な封印なの。……そこに、俺様とシアングのおかあさんが封印されてる。おとうさんがおかあさんを喰わないように、閉じ込めたのよ」
「自ら妻を……?」
ルノが目をパチパチさせながら問う。ルノの記憶では、残忍な面こそあれど、ゼロリードは国民に支持された名君だった。そしてかなりの好色家だったはずだ。トアンもルノの様子に納得がいった。記憶ではルノのことも何か言っていたので、つい、ひとりの女性をそんなに想うことがあるのかと疑問に想う。
「そうなの。……おとうさん、女のヒトたくさん侍らせてるけど、皆同じに愛してるんだって。でも、おかあさんは同じじゃなくて、それより大好きだから、おかあさんを見て歯が疼くから、だから閉じ込めちゃったって言ってたの。おかあさんのこと考えないようにしてるけど考えちゃうから、自分じゃ解けない封印を、ゲルド・ロウに頼んでしてもらった……」
「そういう女のヒトを愛人って言うんだよ」
「あいじん」
「そうそう」
「……ウィル、余計なことを教えないほうがいいんじゃないか」
「あ、そっか。なあセイル。ゲルド・ロウって誰だ?」
「ゲルド・ロウのことは俺様もよくわからないの。蛇みたいな目をしてる。俺様はあいつが怖くてすごい嫌い。いつの間にかおとうさんの傍にいて、大臣みたいな役割をしてるの」
トアンは話を聞きながらぼんやりとゲルド・ロウを思い浮かべた。安易かと思いきや──失敗した。
(……あれ? 何で簡単だと……ああ、オレ、『蛇のような目』ってどこかで聞いたことが、いや、見たことがある……? ……そうだ、いつだっけ? オレは、その目が生理的にいやだって思っ)
「……なんだって!?」
ぼんやりとした緩慢な思考が、唐突にルノの声で破らせた。慌ててウィルに事情を聞こうとするが制される。
「……俺様だって信じられなかったけど……。でも、メルニスが言ってたの、確かなのよ。十三の封印の最後の最後に使うエネルギーをつくる為に……」
*
「……これが」
レインの声が震えている気がした。寒いのかもしれない。どこか呆然と、レインは床を眺めていた。──いや、床という表現は正しくはない。正確には床の上に広がる十三重の円を見ていたのだ。円には中心から放射状に十二本の線がのび、まるで巨大な時計のよう。本来時計の数字が入るところには変わりに奇妙な文字が並んでいた。
レインが見ていたのは、その奇妙な魔方陣だったのだ。
「ネコジタ君、解けそう?」
「解けそうもなにも……解く。だから、何度も言うようだけどアンタも約束守れよ」
「……わかってる」
「で、あれ、なに」
「……なにって、なに?」
「あれ」
レインが指差した先は魔方陣の中央。十三重の円の一番小さな円の中央に、頑丈そうな足枷と太い鎖が床から生えていた。
「足枷だよ。見たとおり」
シアングが口を開く前に、暗闇から低い声が先に答えた。……シアングが振り返ると、ゼロリードが満足そうな顔で、腕組をしながら暗闇からにじみ出るところだった。
「親父」
「おう。そちらの彼は?」
「……レイン」
シアングの父親ということを意識しているのか、レインの声が若干冷たくなる。ゼロリードは変化に気付いたようだが、ひょいと肩を竦めただけだった。
「レインね。うん、まあた美人な子を連れてきたなシアング。前の子もカワイイ子だったけど。結婚を前提とした付き合いなら、父親である俺にもそのか……」
「親父、冗談でもそういうのはやめろ」
「冗談じゃないぞ」
「たちが悪い。……ネコジタ君、気にしないで」
「あ、ああ……」
無粋な父親の乱入によって仕切りなおしになってしまった。シアングがレインの表情を窺うと、『これが本当に噂のシアングの親父か?』という疑いの色一色だった。……その気持ちがわからなくもない。今の父親は機嫌がいいのだ。それに、レインはゼロリードにとってまさしく客なわけで、追い返すことも殺すことも、その必要がないからしない。
「ネコジタ君、あの中央の足枷は……多分、ネコジタ君が考えてる通りだ」
「オレは逃げない。約束した。あんなの必要ないだろ」
「逃げたくなるんだ。絶対に。……それに、あれがないと余計キツイと思う」
「……?」
「やればわかる。でもオレは……」
「やり方は?」レインはシアングの言葉を遮って口を開いた。何度も自分の決意を疑われるのが嫌だったのだろう。──例えそれが、自分の身を案ずるものでも。
「あの封印の動かし方くらいのヒントはくれるだろ」
「ネコジタ君、けどな」
「シアング」
「……中央に行って、手をつくんだ。手から闇の魔力を放出すると魔方陣の縁が光る。──後は、自分の意思で十三の輪を回すんだ。ダイヤル式の金庫と同じだよ。何千通りとある組み合わせの中の一つだけある正解を見つけたとき、封印は鍵をあける」
「……気の遠くなるような話だな」
「それに……多分、めちゃくちゃ辛いと思う。他者より潜在的なものもあって闇の魔力を使えるとはいえ、ネコジタ君は夢幻道士だ。今まではセーブして両方に影響がでないようにうまく調節してたと思うけど、この封印は優しくない。最悪、勝手に魔力を吸い取られるだけ吸い取られることもある」
「ふうん。……試したのか?」
「まあな。闇の魔力以外でも動くかどうか、高い魔力を持つ者を何人か連れてきて実験した」
「その結果は?」
「見ての通り。全然破られてない。……実験に付き合ってくれた奴等はみんなこの奥にいる。──この奥にある地下牢の隅に積み上げられてな」
これだけシアングが説明しても脅しても、レインの顔色はちっとも変わらなかった。視界の隅でゼロリードが満足そうに頷いているのが見える。
シアングが言葉を探していると、レインはカツカツと恐れなく進んで魔法人の中央に座った。足首に足枷を巻きつけ、言う。
「今更何言ってもオレはやめない。アンタもそう望んでるんだろう?」
「……あぁ」
「じゃあつべこべいうなよ。……謝るための言葉の一つくらい、今の内に考えておいたらどうだ」
迷いのない声と目だった。シアングは言葉につまる。なんとか吐き出すまで、暫く時間がかかった答えになってしまった。
「……わかった。考えとくよ」
「それでいい」
目を細めてレインが笑った。そして両の手を伸ばし、魔方陣に触れた。──その瞬間、禍々しく歪んだ青白い光が部屋一杯に広がった。
「最後のお仕事、ごくろーさん。まあ、俺がムリヤリ連れてきても、あぁはいう事聞いてくれなかっただろう」
「……。」
分厚い扉を閉め、施錠をする。茶化すような言葉の上機嫌なゼロリードに、シアングは返事を返せなかった。しかしゼロリードはとくに気にしていないようで、自分で勝手に話を進める。
「アリシアの行方もわかって、一応向かえ遣したんだがな。旦那っていう王子がかっさらって行きやがった。チェリカのとこにゃ行けないから、あの猫目がきてくれて良かったな」
「……。」
「しっかしよく来たなァ? お前の声なんざ、どうやって聞いたんだか……」
シアングはこの言葉にも答えなかった。そろそろ独り言に飽きたゼロリードに殴られるかとは思ったが、それでも口は動かなかった。
──扉が閉まるその瞬間。本当に閉まる直前まで聞こえていた、レインの苦痛の悲鳴。今も耳に残っていたのだ……。
今はもう扉が音を閉じ込めているが、この時間もレインはあの光に身を焼かれているのだろう。初めから果たせないとわかっている、ありもしない『約束』を信じて。そう考えるとシアングの頭の奥がヂリヂリと痛んだ。
(だめだ。まだだめだ……まだ頑張らねーといけない。あと少しでいいんだ。あと少し……)
シアングは表面上は冷静を装いながらも、捻じ切れそうな痛みを宥めすかす。決して隣に居る父親に悟られないように。
「……おい、シアング」
「え、な、何?」
「話を聞いてないな?」
「……悪い。ちょっとぼーっとしてて」
「ははは、まあいい。今の俺は最高に機嫌がいいんだ。……そうだ。セイルはどこへいったんだ?」
「さぁ……」
咄嗟に嘘をつく。本当は知っている。セイルは『彼の仲間』の元へ行ったのだ。レインを救うために。
(……トアンの、ルノの仲間の『シアング』っていう居場所を奪われたくないと、本気で思っちまってたんだな。……悔しいけど、これでいい)
「やれやれ……まあいい」
ゼロリードはシアングの嘘の言葉を疑うこともしなかった。ふんふんとつまらなそうに首を揺らしている。
「何でだ? セイルに用事でもあったのか」
「あぁ。三日後に決めたんだ。お前さんの最後の仕事」
「……!」
努めて、冷静に。しかし一瞬の動揺は悟られていた。
「はは、さっき言った最後の仕事ってのは間違いだよな。……正真証明、お前にとって最後の仕事だよ。もう準備ができているんだ。城門入って直線に歩いたら、丁度いい広場があるだろう? あそこにした」
ゼロリードの目はまるで夢を語る少年のような瞳だった。シアングは何も言い返せない。
「だから一緒に飯でも喰おうと思ってたんだ。俺とシアングとセイルと……三人で飯を喰う機会なんざ、もうないからな。残念だ。とりあえず親子水入らず、二人で喰おうや。──その後、お前を磔にする」
「──わかった」
乾いた声で返事を返し、シアングは頷いて見せた。ヂリヂリ、またあの痛み。痛みは心から伝わってくるのだと今更ながら知った。
(……ごめんなレイン。元々、オレは約束を守る気なんてない。親父の目を覚まさせないといけない。そして、修正しないといけないんだ。全てを、あるべき形に。──オレが捻じ曲げてしまった全てを)
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