第33話 始まりを告げる鐘
「いててて……」
軽い衝撃。真っ白だった目の前に徐々に色がついて、世界が彩りつくられていく。トアンは目をごしごしと擦りながら、すぐ傍に伏せていたルノを揺さ振った。
「ルノさん、ついたよ」
「う……うう、チェリカのやつ……あんな崖に道を創る事ないだろうに……」
「……チェリカが創ってたの?」
「そうだ」
むくり、と状態を起こし、ルノが首を振った。銀色の髪の毛が揺れる。──丁度そのとき、目の前に、腕を組んだシルルの姿が描き出された。
「シルル」
「空の子、再び地上へよく戻ったな。チェリカの道は随分と酷そうだ──ほら、続いてくる。そこ、どかないとぶつかるぞ」
「トアン」
「え、あ」
ルノに急かされ、慌ててトアンは道を避けた。今、自分が大樹ハルティアの懐にいるのが実感できる。手に触れる幹のごつごつとした感触、そして足元の根。振り返ると光の扉がある──ここは扉のすぐ目の前のようだ。
シルルの言葉通り、どすんと言う音と同時に、ウィルとレインの二人が扉から放り出された。続いて、トトがコガネを抱いたまま、すとんと降り立つ。
全員が出たのを確認すると、シルルが手を振り翳した。すると、音もなく扉から光が消え……元通りの石の扉がそこに鎮座していた。
「全員戻ったようだな。空も石の呪縛から放たれたようだ。礼を言おう」
「いえ、そんな……あ、そうだ。それよりルノさん、さっきのはどういう意味?」
「言葉のままだ。……扉は、開けた者の力で繋がる。だから私たちが行きに通った真っ直ぐな道はシルルが創ったものだ。……チェリカは強引な繋ぎ方をしたようだな」
紅い瞳を呆れに細めながら、ルノがしゃがみ込んでいるウィルの背に触れる。ウィルが呻いた。
「私よりはるかに優れた魔力をもつ癖に、イタズラ好きなんだから……」
「あははは、そうだね、チェリカらしいや」
笑いながら相槌をうつトアンだったが、脳裏にチェリカの言葉が反響していた。コントロールできない、そういったチェリカの悲しそうな顔が浮かぶ。
(その影響が……ああいうことなのかな……)
すっかり気分が悪くなってしまったらしいウィルを介抱するルノを見ながら、トアンは唇を噛んだ。ウィルが村に帰りたいとぼやくのを、レインが煩そうに見ている。ルノがそれをいさめる。
(みんなは、知らないんだ)
「ところで、人の子たちよ。帰りの足を呼んでおいたぞ」
ローブの袖に手を入れながらシルルが言った。その顔はどこか楽しそうな、悪巧みを考えている顔のようだ。ぐるりとトアンは視線をめぐらせ、シルルの顔の意味を知る。
「あ……!」
ハルティアの周囲を囲む島の上に、ヴァイズがいた。それも竜の姿で。その巨体を地面に横たえ、瞳を閉じている。その長い首の上でタルチルクが上機嫌で歌を歌っていた。
「ヴァ、ヴァイズさん!?」
「寝ているんだ。そんな慌てなくてもいい。……タルチルクの歌が続く限りは起きることもないだろう」
「いい気味だ」
シルルとの会話にレインが割り込んできた。レインはにっと笑みを浮かべ、ひらりとハルティアから飛び降り、ヴァイズに駆け寄っていく。ご機嫌なその様子に何か嫌な予感を感じ、トアンが首を伸ばすと、兄は丁度ヴァイズの髭を引っ張っている最中だった。
トアンも慌ててハルティアから根を伝って地面におりた。
「ああ、兄さん! だめだよ、何やってるの」
ヴァイズの髭で蝶々結びをしているレインに声をかける。返ってきた返事は、落ち着き払ったものだった。トアンは呆れる。
「別に」
「別にじゃないよ、だめだって……」
「オレはこいつが嫌いだから」
「なんでそんな子供みたいな理由で……とにかくダメ! だめったらだめ!」
トアンが叫ぶと竪琴を奏でているタルチルクがふと指を止め、トアンを軽く睨んだ。
「コラコラ、そんなに声をあげないでくれたまえ。レムがおきてしまう」
「え……?」
「ここさ」
タルチルクが指した彼の足元に、大きな黒い帽子を目深く被った人物が眠っていた。ヴァイズの首に上体をもたれるようにして眠りこけるその人物の顔はわからない。ただ、濃く長い茶に近い金髪がローブの上を滑っている。
「……レムって、……あの、レムさん?」
トアンの呟きは小さく、タルチルクには聞こえていないようだった。タルチルクはその人物──レムが起きていないことに安堵の笑みを浮かべ、再び竪琴を奏で始める。
「どうした?」
トトは思案に耽っていた。扉から出た場所から動かず、棒のように立ち尽くしていたトトの傍に、不思議そうに首をかしげたシルルがやってきた。
トトはすぐには答えず、ルノとウィルがヴァイズ遊びを見ていることを確認してから、シルルに向き直る。
「……シルルさん、予言って結局なんなんですか?」
「さあどうだろうな。──おお、可愛いやつだ」
トトの腕からコガネを奪うように抱き取り、ふかふかの毛皮に顔を埋めながらシルルが答えた。
「なにが始まるんですか?」
「私は答えられない」
「……さっきの別れ際、チェリカさんが、すごく不安そうに、悲しそうに俺に言葉を託してくれたんです」
「……ふうん?」
シルルの表情が変わる。嫌がるコガネをそっとおろすと、トトの前に指を突き出した。
「ヒントをやる」
「は、はい」」
「エアスリクであったこと……いや、もうお前は知っている。気付いていないだけだ。お前の仲間に、気付いているものもいるだろう。星がお前についているのだから」
「……え? それは、どういう意味ですか?」
「……人の子よ。これはきっと、お前はとっても……お前のその小さな友人にとっても、ただ、噛み締めるだけになるのかもしれない」
謎めいた言葉を残し、シルルがトトに背を向けた。そのままシルルはウィルとルノの背中を押し、さあさあもうハルティアから降りてヴァイズに乗れと指示する。
「ちょ、ちょっと待ってくださ」
「私の口からは言う必要はない。あとはお前の目、耳、心が聞く。海がお前の傍にいる。そして星がお前を導いてくれるだろう。これ以上はもう、必要なかろう」
「……何の話だ?」
「え、あ……。」
シルルに背中をぐいぐいと押されながらウィルが首を傾げた。ルノがトトとウィルを見比べている。トトはそれ以上はもうなにも言えず、視線を横たわるヴァイズに降ろした。上に乗っていたタルチルクが調度振り落とされるところだった。
(海? 星? ……一体、何のことだろう)
唇を噛むトトを、肩に駆け上がったコガネが心配そうに見つめている。
丸い瞳の奥で赤い炎が擽ったのを、トトは知らない。
振り落とされたタルチルクが、ヴァイズの怒りの篭った息吹を感じ取るや否やレムを引っ張ってシルルの小屋にすっとんで行ってしまったので、トアンは結局トトに彼が『レム』なのかどうか聞くことはできなかった。
「ちょ、ちょっと……ヴァイズさん」
引き止めようにも、トアンの襟首はヴァイズの牙にかかって動けない。ブラブラと揺れるつま先が時折地面に触れ、なんとか息がつける上体だ。
『私の髭で遊ぶなど、言語道断。トアンよ、私に一度乗ったからといって私を見くびってもらっては困る』
「だ、だからオレじゃないんですって……」
『では誰がやったというのだ?』
「それは……その……あ!?」
見渡した視界に、いつの間にか犯人であるレインの姿が見当たらない。トアンが呆然とヴァイズに宙吊りにされたまま口をパクパクしていると、遠く向こうにウィルの横に何気ない顔をして立っているレインを発見する。
「ちょ、兄さん!」
「?」
「レイン……」
あくまでシラをきるつもりらしい。ふい、と首を傾げるレインをウィルが呆れたように見て、それから気の毒そうにトアンを見た。……ウィルの苦笑から、トアンは自分に援軍がこないことを知る。それでも犯人はレインですよと正直にいえないのは、自分の優しさなのだろうとトアンは思うことにした。
「ヴァ、ヴァイズ、もうやめてくれ」
見かねたようにルノが走ってくると漸くヴァイズはトアンの襟首を解放した。若干のびてしまったかもしれない。
「トアン、大丈夫か?」
「う、うん……ありがとう、ルノさん」
「……レインも困ったやつだな。変なところだけ子供なんだから」
「それ、面と向かっていったら怒るだろうね」
「多分な」
ふふふ、と優しく笑ったルノが起きるのを手伝ってくれた。トアンは二本の足でしっかりと大地を踏みしめ、改めてヴァイズを見上げる。
『さて、私にはあまり時間がない。さっさと運んでいくぞ。……どこまで行けばいいのだ?』
「ええと……どうしようか」
「とりあえずの行き先は決めてないが……そうだ、ウィル。もうお前たちは真っ直ぐに戻ったほうが良いよな?」
「あ、うん。そろそろ冬篭りの準備もしないとだし……なにより二人が悲しむからな。帰りたいよ」
「だ、そうだ」
ルノに言われ、トアンはヴァイズに向き直った。ペコリとお辞儀をすると、律儀にヴァイズも返してくれる。
「じゃ、決まりだね。チャルモ村までお願いします」
『では乗るがいい。……シルル、もう私を簡単に呼びつけたりするな』
すぐ傍までやってきたシルルにヴァイズが言う。シルルは微笑みを浮かべて、レインがしたように首を傾げて見せた。
「どうだろうな。買い物に行きたくなったら呼ぶよ」
『やめろと行っているのに』
「さ、早く彼らを連れて行ってあげてくれ。幼い人の子を待たせているようなのでな」
『貴公がとめなければとうに出ている。トアンたちもさっさと乗れ!』
「え、あ、はい……シルルさん、ありがとうございました」
「いや。また来るといい。エアスリクへの道は、ここにしかないのだからな」
慌しくトアンたちを乗せたヴァイズが飛び立つと、シルルは細い指で自分の髪をかきあげた。ごう、と吹いた風が整えた傍から髪をグシャグシャに乱してしまう。
「……人の子の夢が、月の光とともに天空の大地に降り立つとき、世界は審判の時を迎える──……動き出すな、運命が」
シルルは小屋の傍にある、名前も思い出せない墓を横目で見やって瞳を細めた。その呟きは誰にも聞かれることはなく、風に乗って消えていった。
トアンたちを乗せたヴァイズは、以前と同じチャルモ村の森の中に着陸し、見送られながら天をまう一筋の光になった。深水城へ帰ると言っていたが、飛び立った方向が違う。──テュテュリスにでも会いに行くのだろう。
「とりあえずうちに帰ろうぜ? またすぐには旅立たないだろ?」
「家が荒れてなきゃいいけど」
ウィルとレインの提案の元、トアンたちは二人の家へと向かう。ルノが高いところはもういいと疲れたように呟くのを聞きながら、トアンはふと足を止め、空を仰いだ。
(……本当に、チェリカは一緒にこれないんだ。また一緒にいられるとか考えてた自分が、ちょっと恥ずかしいな。でも、もう離れ離れなワケじゃない。チェリカはもう石じゃないんだし、逢おうと思えば、いつだって……)
「トアン、置いていかれるぞ」
「あ、ルノさんまって!」
チャルモ村の風がもう冷たくなっている。森の木々の葉が、大分落ちていた。──もうじき、冬が来るのだろう。
「おかえりなさいいい!」
「うわぁあ~ん」
二人がドアノブをあけないうちから、中から子供の泣き声がして──トルティーとコガネが飛び出してきた。咄嗟に二人を抱きかかえ、ウィルとレインが困惑していると、続いてシオンとプルートが出てくる。
「お帰り、兄様」
「遅いぞトト!」
ぷりぷりと怒っているプルートが大股で近づいてきて、トトの肩をどついた。トアンが慌ててトトを支えると、火に油を注いでしまったようだ。プルートの機嫌が更に急降下する。
「ごめん……留守番、大変だった?」
「楽しかったさ! 僕が子供の世話係なんて、思い出すだけでも笑えるくらいな」
「子供のトトにちょっかいかけすぎなんだよおっさん」
いつの間にか傍にいたシオンが、くつりと喉を鳴らして笑う。
「シ、シオン、お前えええええ!」
「へへへーんだ」
「まあまあ……」
きゃいきゃい騒いでいるシオンをひょいと抱き上げてから、トトはもう片方の手でプルートを引き寄せて、笑った。
「ごめんねプルート。ありがとう、すごく感謝してる」
「……いや、別に、わかればいい」
トアンとルノが半分呆れながら見ていることをトトは気付いていない。どれだけ自分が大変なことをしているか、自覚がないのは困ったものだ。
(トトさん、そういうところチェリカに似てるよな)
トトの微笑みにすっかりプルートは顔を赤くし、もう別にすんだことだからなんとかかんとかとゴチャゴチャ呟いている。トトはにこにこしているだけだ。そんな二人を見てシオンがにやりと悪い笑みを浮かべてから、トアンの元へ駆け寄ってきた。
「お帰りなさい、トアン兄様」
「うん、ただいまシオン」
「エアスリクは楽しかった? チェリカちゃん、ちゃんと元に戻れた?」
「え? うん、もう大丈夫だよ」
「そっか、よかった」
ふふふ、と笑うシオンの笑顔は、今度は全く邪気がなく安らかなものだ。トアンは先ほど垣間見た笑顔を頭の中で比較し、思わず苦笑する。
(だけど、シオンがチェリカの心配なんてどうして……?)
しかし、トアンの小さな疑問は、ウィルの掛け声によって停止する。
「おーい、トアン、ルノ、トト」
見ればウィルは両手にトルティーとコガネを抱えて、レインに扉を開けてもらって家に入るところだった。
「お前等も早くはいれよ。もう日が暮れると随分冷えるみたいだぞ」
「せんせえー」
「ああ、よしよし。……じゃ、オレたち家族サービスしてくるから、トアンたち勝手に寛いでていいから」
「わかった、ありがとう」
「いーえ」
二階の広い寝室のベッドの上に子供たちを寝かせ、ウィルは一息ついた。布団も掃除も何もかも、プルートとシオンががんばっていてくれたようだ。……しかし、至る所に穴が目立つ。
「こりゃ、冬が来る前に忙しくなるな」
「……なんだ。もう冒険者辞めたんだな」
「レイン」
視線を向けると、レインは眠るコガネの頭をそっと撫でていた。
「そういうレインこそ。もう村人に逆戻りじゃん」
「まあな。やっぱりこいつらのことが心配で……起きたら土産食うかな」
「……なあ、レイン」
「ん?」
ウィルはベッドに腰掛け、レインを見下ろす。見上げてくる瞳にほっと安堵する自分がいた。
「チェリカの様子、何か変だったと思わないか?」
「さあな」
「さあなってお前……」
「あいつが自分で言わない以上、オレたちにはどうもできない」
コガネの頭から手を離し、レインはため息をつく。ベッドの脇に降ろしていたウィルの両足に背を預け、何か考え込んで瞳を細めた。
「レインは何かわかってる?」
「何が?」
「チェリカのこと」
「……分かる訳ないだろ」
「本当に?」
「何が言いたいんだよ」
怒っているのではなく、どこか呆れているレインの声。それでもウィルは納得がいかず、もう一度問いかけた。
「本当に何も知らないのか?」
「知らねぇって……何を疑ってるんだか」
「疑ってるわけじゃない」
「じゃ、なんだ?」
「……。」
「ワケわかんねぇやつだな」
ふう、と再びため息をつくと、レインは手を伸ばし、ウィルの頬にそっと添えた。
「どうしたんだよウィル。らしくない」
「……レインは、さ。」
「ん?」
「レインは、いや、レインとチェリカとシアングは、オレはトアン、ルノには絶対に視えないものを見てるだろ? オレたちには絶対に聞こえないことも、考えられないことも、わからないことも知ってる。三人は近くて、オレたちからすれば遠い……ごめん、オレも自分で何言ってるかわかんなくなった」
「ウィル」
レインの顔が困ったような表情になった。怒っているわけでも呆れているわけでも泣きそうなわけでもないが、こんなときに見せる表情としては反則だとウィルは思う。
(まるでオレが駄々こねてるみたいじゃん)
「……まあ、確かにそうかもしれねぇ」
「え?」
「オレとチェリカとシアングは、お前らより近いところにいるんだ。近いってか、似てるってか、うまく言えねぇけどそれは確かだよ。……けどオレの一番近いところにいるのは、ウィルだと思ってるんだけどな」
「……レイン」
その顔も反則だ。穏やで優しい笑みは、ウィルの不安を溶かしてくれた。もうそれ以上なにも言葉が見つからなくて、ウィルは自らも微笑んでいた。
「オレも」
「そうか。……お前、随分大人になったかと思ったらまだまだ子供だな」
「レインの前だけだよ。この子たちの前だと立派にやれてるだろ?」
「まあな。……でもたまにオレの前でも大人ぶるくせに」
「それも成長の一環!」
「わ」
上半身を折り曲げて屈み、上体を抱きしめるとレインは小さな声を上げた。ウィルはそれが楽しくて、くつくつ笑いながら柔らかな髪に顔を埋める。
「おい、何甘えてるんだ?」
「……レイン」
「今度はなに」
「……できれば、これからも、オレの傍にいて」
「お前がオレの近くに居る限りな」
「なら、ずっとだ」
「……ふん、言ってろ」
「これからどうするんだ?」
ソファに座ったルノの呟きに、トアンは顔を上げた。
「うん……オレも考えてたんだよ。結局予言のことも何一つわからなかったし、ルノさんについてきてもらっちゃったけど特に手がかりもないし。エアスリクを救うっていう目標は達成されちゃったわけだしね」
「そうなるな。またこの村に居続けて暮らすのも悪くはないが」
「いや、この村はこれから忙しくなります」
コガネの毛並みを梳かしながらトトが言った。群青色の瞳は優しく細められている。プルートが少し羨ましそうに見ていた。
「……この村は、冬が厳しいんです。調度この村の先の山で雲が止まってしまうので雪雲が停滞しますし、なにより冷え込みもかなりのものですよ。だから冬篭りの準備で、色々忙しいかと」
「そうか。ならば私たちがいつまでも居座ることはやめておいたほうがいいな?」
「いえ、居る分には手伝いに回れるので大丈夫だとは思います。……その代わり、ここから旅立つのが少し難しくなるでしょう。相当寒いと思いますが、船旅しか手段がなくなってしまいます。本数も限られていますし」
なるほど。トアンはトトの意見に素直に感心した。暇そうにしているシオンが目についたのでポケットに入っていた飴玉をあげ、キャイキャイと喜ぶシオンを横目に口を開く。
「トトさんの指輪は?」
「え?」
「指輪の力でも海を渡れるよね? 船の本数とか関係なく──」
はあ、と何故かトトが苦笑をしたのでトアンは続く言葉をしまいこんだ。
「トアンさん」
「へ?」
「……前にも言った通り、俺の意識が途切れたら泡は弾けちゃいます。それに海では潮や水圧があって泡を維持するのが疲れちゃいますので……それから、前回は湖でしたが泡の中の気温は結構ひんやりしてましたよね? 凍った海の中で試したことはありませんが、外気から完全に身を守れるわけではないので」
「船旅より、もはや異常なほど寒いということか」
「ルノさんご名答。というわけです」
パチパチとトトとコガネからの拍手を受け、ルノが照れくさそうに笑った。
「トアン、なんにせよ今日はここに泊まらせてもらおう。私は冬篭りとやらの手伝いをしてもいいと思うぞ」
「そうだね。ウィルと兄さんにも色々と世話になってるし、それぐらい手伝おうよ。トトさん、いい?」
「もちろんです」
ルノの案にトアンが頷き、トトも賛成したときだった。二階からウィルとレインが降りてきた。──手には、雑巾とホウキ、モップなど。
「なあ、トアンたちまだここにいる?」
「うん、今そう決まったところ」
「じゃ調度いいや。はい」
「……え?」
困惑するトアンに、満面の笑みのウィルから手渡されたのは雑巾とバケツ。
「ルノはモップな。トトはホウキ」
「ちょ、ちょっと、ウィル?」
「オレは温室の方の点検にいく。レインは自分の仕事部屋な」
「言われなくてもわかってる」
「そか。じゃ、トアン、トト、ルノ。頼んだぞ。プルートとシオンは少しでいいから」
「はあーい」
行儀良くシオンが右手をあげ、それからソファの上にちょこんと座る。トアンは未だ状況が理解できず庭に出て行こうとするウィルを引き止めた。
「ウィル、これどうするの?」
「……掃除だけど」
ケロリとした表情でウィルは返すとブーツからサンダルに履き替え、笑みを浮かべて言った。
「手伝ってくれるんだろ? ならまずこの家の掃除からやってくれ。二階はいい、子供たちが寝てるから。頼むよ」
「頼むって「わかりました」
トアンの言葉を遮って、トトが答える。
「ピカピカにしてみせます! トアンさん、頑張りましょう!」
ね、と微笑むトトに、トアンは思わず愛想笑いをした。
(ダ、ダメだこの育て親大好きっ子……)
*
それからの数日間、トアンは大掃除と冬に備えての食料集めでへとへとになっていた。もっとも、この村はとても居心地がいい。それに一日が充実している。トルティーとコガネと遊び、仕事をし、気付けば流れる落ち葉が森の地面を埋め尽くし、気温もぐっと冷え込んでいた。さらに数週間が経過し、短い秋の間に旅立つことはできず、トアンたちはこの村で冬を過ごすことになった。食料の心配はいらないが冬の間は長い退屈が続くそうだ。のんびりできるのはありがたいが。
そうしてこの年初めての雪雲が村の上空に寝そべった夜。家の中は暖かく、柔らかい毛布に包まって、トアンはベッドの上で不思議な夢を見ていた。
──まず、夢は最初に母親であるアリシアをみせた。
アリシアが走っている。怯えたような表情だ。遠い地方なのだろう、チャルモ村とは違い、緑が青々と輝いていた。金色の髪のウェーブが揺れる。その後ろから魔物の大群がアリシアを追いかけていた。
と、アリシアが躓いた。──その時茂みの中から茶色の馬に乗ったキークが魔物とアリシアの間に躍り出る。アリシアを馬に乗せ、魔物の群れから二人は逃げていく。まるでドラマチックなワンシーン。
『キーク……』
『アリシア、無事かい?』
『キーク、わたしを降ろして! わたしを追いかけてきてるの! わたしの力が狙いなのよ』
『わかってる。けれど離すものか!』
『……キーク』
『黙っていなさいアリシア……うん?』
ふとキークが馬を宥め、スピードを落としてとめた。いつの間にか魔物たちは追撃をやめて、その姿はどこにも見当たらない。
『気配が消えたわ。諦めたのかしら?』
『……みたいだね。今の魔物たちはアールローアにいるものよりも魔力が強い。戦っても私が勝ち続けることは不可能だと思ったが……しかし、君の力というと』
『闇の力よ』
『妙だ』
『え?』
『勝てる戦いをやめた。それに引きの手際が良すぎる。まるで最初から諦めていたような……アリシアを諦めたというとは……まさか』
『キーク?』
『大変だ、──……』
──ゆら。唐突に涙の滲む視界のように世界が揺れた。あっという間に両親たちは掻き消えていき、今度は別の夢が始まった。
今度はなんてことのない景色だけだ。厚く重い雲に覆われた空と、暗闇の中により黒々と存在する丘。木々がざわめき、風が揺れる。……特に目立った変化はなく、ただ延々とその光景だけが続いているようにも思えた。──いや、変化はしていた。空を覆う雲が少しずつ流れ、その隙間から猫のツメのような三日月が現れる。やがて月が完全に雲をはらって現れると、月光が雲を切り裂いて丘に降り注いだ。
──黒い丘は見る見るうちに銀に変わる。そして銀の丘に何かが降って来た。それは雪ではなく、黒い羽根だった。そして見覚えのある後ろ姿が……。
「……まさか」
トアンは目を見開いた。意識ははっきりしているし夢の内容も覚えていた。一つ目の両親の夢は難解だが、二つ目の夢はなによりもトアンが想っていたものだ。まだ、いやもう別れて一ヶ月以上経つ。その間トアンはひと時も忘れなかったこと。
「チェリカ……!」
起き上がり、トアンは上着を乱雑に羽織るとルノを起こさないように部屋の扉を開け、扉が閉まる前に駆け出していた。
*
どれくらい走ったかはわからない。刺す様に冷たい空気が上気した肌と吐息に白くぼかされていく。頭の中で脈打つ心臓の音だけが、トアンの中を響いていた。
黒い木々の隙間を縫い、落ち葉を踏みしめ森を抜けると唐突に視界が開ける。──夢で視たものと同じ、銀色に光る丘があった。トアンは速度を上げ、緩やかな斜面を駆け上る。丘の上に人影が見えた。それはトアンの足音に気付いたようで振り返る。──優しい緑色の光が散った。
「チェリカァ!」
「……トアン」
トアンの声に驚いたように目を瞬く少女──トアンが間違えるはずがない。光の中にチェリカがいた。冷たい夜風に深い赤い色のマントが揺らめく。
「チェ、チェリカ……はあ、は、どうしてここに……」
「それは私のセリフだよ。どうして君がここにいるのかな」
息も絶え絶えに、膝に手をついて喋るトアンに、チェリカは肩を竦めて笑ってみせた。
「ゆ、夢を……」
「落ち着いてからでいいよ?」
「ううん、……うん。ありがとう。……夢を視たんだ。ほんのついさっき。君がこの銀色の丘に舞い降りる夢を」
「夢……? ああ、そっか。君は夢幻道士なんだよね。私の脱走も感知しちゃうくらいの力の」
「……脱走?」
「うん」
えへへ、と誤魔化すように笑って、チェリカは続けた。
「今更だけど、久しぶりだね」
「え? ああ、うん」
「……ちょっとね、前に君に逢ったら、やっぱりエアスリクが私には少し窮屈に感じたの。扉は潜ってきてないから足もつきにくいし、一応気分転換ってことになってるけど……少し怖い夢をみたんだ」
「……チェリカが、夢?」
「私も生きているからね、一応夢だってみるよ? トアンみたいに特別な力はないけど、それはとても怖い夢……。私の魔力も不安定だし、夢がちょっと怖すぎて、不安になっちゃったの。だからみんなのいるチャルモ村まで降りてきたんだけど──」
「どんな夢?」
「え?」
「話せば楽になるよ、そういうのって。……その、オレなんかでよければ、話を聞くよ」
今更ながら寝巻きで出てきたことが恥ずかしくなり、トアンは上着の前を合わせながら言った。恥ずかしいセリフなのでもごもごとした声になってしまったが、チェリカにはしっかり聞こえていたようだ。
「ありがと、でもいいんだ」
「でも……」
「……実はね、トアンの夢だったの。トアンの目が、赤くなる夢。……怖かった」
──ユメクイ?
(まさか)
咄嗟に考え付いた結論にトアンは瞠目する。
(チェリカは未来について知らないから、ユメクイのことなワケないんだよな。……なに焦ってるんだろう、オレ)
「トアン」
考え込もうとするトアンの意識を、チェリカの甘い声が引き上げた。青い瞳はとても真摯で、風に逆巻く金髪がどこかチェリカを神々しく彩る。チェリカは薄着でかすかに震えていたが、トアンには寒さよりももっと別のものに対する震えに感じられた。
「トアン、私はみんなと一緒に居たいよ。みんなが一緒の未来がいい。それがいいのに」
そう呟いたチェリカの両目には悲しみと哀しみが湛えられていた。トアンは思わず手を伸ばしてチェリカの頬に自らの掌を添える。チェリカはトアンの指の感覚を頼るように、縋るように頬を寄せながら続ける。
「嫌な予感がするの。ずっとずっと、その予感がとまらない。むしろ加速していく。私怖いよ」
「怖いって……どういう意味? 君が感じる予感ってなに?」
「……それはあるいはもう動き出してる。私がここでどうこうしても意味がないことかも知れないけど、嫌だよ。嫌なの、私はみんなが一緒の結末がいい」
「答えてよチェリカ!」
かみ合うようでかみ合わない会話。謎めいたチェリカの言葉に焦燥にかられ、思わず声を荒げるトアンだったが、チェリカが瞳を伏せると慌てて謝罪を告げた。トアンは。チェリカを追い込みたいわけではないからだ。
「……ごめんチェリカ。オレには言えないこと?」
「君が自分で気付くまで」
「気付いたら、気付くころにはもう手遅れじゃないかな」
「まだ抗えるよ、トアンなら。……ごめんねトアン。忘れて? 全ては夢だから。私、君を不安にさせることばっかり……不吉な天使だよね、こんな黒い翼だし」
自嘲気味な笑みを浮かべてチェリカが深呼吸する──と、その背に片翼の黒い翼が現れた。すぐにそれは光となって拡散するが、チェリカの表情は暗いままだ。
「……チェリカ、オレさ」
「うん?」
「チェリカが元気になれるかどうかはわからないけど……オレ、トアン・ラージンは約束する。どんなことでもオレは抗う。諦めない。オレもみんなでずっと一緒にいたいよ。だから、みんなの心が共にある限り一緒にいることを、シアングも、またみんなで一緒にいられる未来を約束する」
「……トアン」
その一言と頬から離し、差し出した右手の小指に、チェリカの瞳がまん丸になった。
「あ、あれ、やっぱり不安かな?」
「ううん。……ありがとうトアン。そうだよね、未来は不確定……変わっていくものだからね」
チェリカの細い指がトアンの小指に絡められ、二人はそっと微笑んだ。
──こんなにもチェリカの指は細かっただろうか。改めてチェリカの顔を見ると、愛らしい顔は少し痩せてしまったようだ。
小指が離れてからトアンは告げる。
「怖い夢は不安になるから。……もう大丈夫だよチェリカ。オレと約束したでしょ? チェリカが恐れるようなことは、その、オレが起こさないよ」
「……くす、そうだよね」
そういってチェリカが笑った。その笑顔は変わらないもので、トアンの心の中は温かくなる。
「あ、そうだチェリカ」
「え?」
「寒くないの? オレの上着きてなよ。ちょっと遅かったけど」
「でも……そうしたらトアン……」
チェリカの視線が上から下へ、そしてまた上へ戻ってくる。
「パジャマになるよ。風邪引いちゃうよ」
「大丈夫だよ」
厚い上着を脱ぐと途端に寒さをより感じることになったが、トアンはそれでも構わずにチェリカに上着をかけた。チェリカは一度返そうとしたが、暫く考え込んでからありがとう、とだけ言って笑った。
そしてぐるりと視線を巡らせると丘の上の一点を指差す。
「……ね、トアン。あっちでさ、いいことしよっか」
「え、ええええ! いいこと!? ダメだよチェリカ、オレたちは」
「あのね、約束っていうのは二人でするものでしょ。一人でも約束に似たようなものをすることができるんだけど、何だと思う?」
慌てるトアンをスルリとかわし、謎かけをして人差し指を立てるチェリカに対し、トアンも頭を切り替えて首を捻った。
(約束に似たようなものってなんだろう? ……というかチェリカ、切り替え早いな)
「わかる?」
「……ううん、答えは?」
「答えはね、……祈りだよ。掌って不思議だよね、こう一人で両手を合わせるとお祈りになるでしょ? でも二人で合わせて小指を絡めれば約束になるの」
「祈りかあ、あ、そうか、なるほど」
トアンは妙に感心して自らの掌を合わせてみた。たす、という小さな音がする。
「だけどお祈りは別に一人じゃなくてもできるんだよ。こっちきて」
両手を合わせた姿のままトアンはチェリカに引っ張られ、丘の上の先ほどチェリカが指した場所に向かった。──そこには、遠目からは気付かない小さな泉があった。泉の水はとても澄んでいて、大きさは小さいけれど深さは随分とあるようだ。……底に、何かがある。身を屈めて見てみると、犬の石像が泉に沈んでいた。
「あれは……犬の像?」
「うん、犬神だよ。チャルモ村は犬神が守ってるんだよ」
「そういえばヴァイズさんも犬神の村だって言ってたけど……この犬がそうなの?」
「そう。犬神『チャモロ』。どんな精霊か守り神かはさっぱりわからないけど、犬神の名前がこの村の名前の由来になってるんだって」
泉の底にある像は、神秘的よりも不思議さよりもシュールな感じがする。笑う雰囲気でもないのでトアンは一度頬をつねってからまじまじと犬の像を観察した。お座り、のポーズをして行儀良く台座に座っている犬神の像は、曇った瞳でどこかを見つめているようだ。……犬の顔なのに、どこか寂しそうに見えた気がした。
「……昔、乱暴モノの村の男の人が業によって犬になって、村を襲いに来た魔物の群れと戦って死んで、そのときの戦いの衝撃でできた穴に後悔の涙が溜まって泉になって、村の人たちはそれに気付いて、勇敢に戦った犬の石像をここに祀ったっていう伝説と、あと何個かまた別の伝説があるんだけど、どれが真実かはわからないの。でもどの伝説にもあるこの泉と石像は確かにここにある。……エアスリクにも正確な資料はなかったけど、この石像、ずっと泉の中にあるのに少しも磨耗してないんだって。それはホントみたいだね」
トアンの横にしゃがみ込んだチェリカが感心したように言う。
「……へえ……。犬神チャモロか」
「だからこの村の守り神様にお祈りをしようと思って。折角この丘にいるんだしね」
「そっか。うんわかった、やろうチェリカ」
トアンが頷くとチェリカの顔がパッと明るくなった。花が咲いたような笑顔にトアンまで嬉しくなり、二人は両手を合わせての水底の犬神の像に祈りを捧げた。
──また、みんなで一緒にいられますように。
*
「上着ありがとう」
「ううん、風邪を引かないようにね」
返そうとするチェリカの手を遮って、トアンは自らの意見を押し通した。ある意味とても珍しいことだと自覚する。それでもトアンは、チェリカをほんの少しでも自分の力で守れたことが嬉しかった。
「そういうトアンもね、ふふふ」
「オレは大丈夫だって」
「そっか。……ごめんね、もう帰らないと」
「ううん、いいんだよ。オレ、まさかチェリカに会えるなんて思ってなかったからすごく嬉しかった」
「ホント?」
チェリカの青い瞳がまん丸になってから、柔らかく細められた。本当だよ、とトアンも微笑んで返す。
「ありがとう、私もすごい嬉しいよ。……でもごめんね。これからトアンたちがもしなにか大変なことになっても、私は国から降りて助けに来ることは……きっとできない」
「わかってる。チェリカは王女様なんだし、仕方ないよ。……オレも、君に心配かけないようにがんばるから。だから安心して」
「うん……」
「オレ、逢いに行くよ。何度でも何度でも、エアスリクにいくから。チェリカに逢いに。……そもそも、チェリカに心配かけないくらい強くなるからさ」
強がってみても寂しさは拭えない。それでも安心させてあげたい……チェリカが自分のことをどう思っているかはわからない。少なくとも嫌われてるわけではないし、パートナーに選んでくれたということは、友達以上なのは確かだ。だからトアンは少しでもチェリカの不安を和らげようと声を明るくした。
チェリカは何か言いかけてるがトアンの笑みに口を噤み、自らも微笑んで翼を広げた。
「こういうのは変かもしれないけど、がんばってね」
「うん!」
「お兄ちゃんをよろしくね」
「うん、任せて」
「私祈ってるよ。……信じてる。離れてても君をおもうから」
「チェリカ……」
「またね、トアン」
バサ、力強い羽音を響かせ、チェリカの姿はあっという間に闇の中へ見えなくなってしまった。チェリカを追って首を上げていたトアンは、彼女が消えていった先からふと白い花が降ってくることに気がついた。──雪だ。
「オレも想うよ。……でも、どうして君はあんなに哀しそうなの?」
天に向かって呟いて見せても、答えは当然返ってこない。一片だった雪も、徐々に視界を埋めていく。トアンはほう、と白い息をついてから家に向かって歩き出した。
──水底の犬神の像が、ほのかに光ったことには当然気付かなかった。
*
資料整理の息抜きとして一階に下りてきたウィルは、キッチンでレインの後ろ姿を見つけた。何をしているのかとその手元を覗き込むと、ホットミルクを淹れているところだった。──カップは三つ。
「もういいのか?」
振り返りもせずにレインが言う。何が、と考えてから、自分の仕事を指していることにウィルは気付いて笑った。
「大丈夫だよ。もうそろそろ寝る。……それ、一つオレのだろ?」
「ああ。……コーヒーにしようかと思ってたけど……ま、寝るなら調度いいな」
陶器のポットにコゼーをかぶせ、レインは温めたカップに湯気の立つミルクを注いだ。手馴れた手つきで蜂蜜のビンを取り出し、ティースプーンに一杯分、とろりとした黄金の蜜を混ぜる。
「二階で飲むか?」
「いや、リビングで飲むよ。レインもだろ?」
トレーにカップを乗せるレインを見て、ウィルはリビングに続く扉を開けて照明をつけた。リビングは少し寒い。ウィルがソファに座ると、レインがその横に座ってテーブルにトレーを置いた。
「そのもう一つは、誰の?」
「ああ、これ……トアンのだ。さっきあいつ、どっかいったから。冷たくなって戻ってくるだろう」
「はは、なんかその言い方だと不吉だな」
「ああ」
短い返事だったがレインの唇は笑みの形で、瞳は優しい。ウィルは寒いなと呟いて、もう少しレインに体重をかけた。なんだよとレインが笑いながら呟き、レインもウィルに寄りかかってくれる。部屋の中は暖房がしてあるので寒くはないのだが、二人で寄り添えたなら例え野外でも寒くはないとウィルは本気で思った。
(この先も、ずっとその先も、オレたちは一緒にいられる)
願望なはずが、ウィルにはそれが約束された未来にみえる。何を考えてるのかよくわからないと言われるレインの傍にいるのは自分だし、レインもまた自分の傍にいると確信しているからだ。
(へへ)
なんとなく幸せな気分になって、ウィルは瞳を閉じ──あけた。レインが突然立ち上がったからだ。乾いた声で、小さく呟く。
「……なに?」
「え? なにって、なにが?」
立ち上がるばかりか、レインは答えずにソファから離れて外へと続くガラス戸に向かって歩いていく。何をするのかとウィルが首を伸ばして見守る中で、レインはガラス戸に手をかけて、足を止めた。
「……呼んでる?」
戸惑いの声だった。いよいよ持って様子が変だ。ウィルは自らもソファから立ち上がるとレインに声をかける。
「どうしたんだよ」
「…………。」
「レイン? レイン、お前──」
振り返ったレインのオッドアイがどこか不安定だった。突然のレインの行動にウィルが戸惑っていると、レインの一度瞳を閉じた。──その瞬間、ガラス戸が揺れた。目の錯覚ではない。波打つように揺れた後、ガラス戸は真っ白な光の壁となる。
「……ウィル、オレ、行かないと」
「行くって……どこへ?」
「……。」
「待てよ!」
話の趣旨はいまいち汲み取れなかったが、ウィルは咄嗟に声を荒げていた。弾かれたように駆け出してレインの肩を掴む──指の先が白くなるほどの力で。レインは瞳を開けたが、オッドアイは強い意志を湛えていた。決して、ぼんやりとした夢見心地ではない。それがさらにウィルの不安を駆り立てる。
「どこに行くって言うんだ? さっきから何いってるんだよ」
「……呼んでるんだ」
「答えになってない」
「ウィル……」
困ったようにレインの眉が寄せられ、肩にかけた手の上に冷たいそれがそっと寄せられた。
(そんなに変なこと言ってるのか、オレ? そんなに困らせてるのか?)
まるで駄々をこねる子供に対する扱いだ、とウィルは唇を噛む。
「離せ」
「いやだ」
「ウィル」
「だからいやだって! 何言ってるんだよレイン? いきなり呼ばれてるとかどうとか、オレ、さっぱりわからないよ!」
「……それでも、オレは行く。約束したし」
「誰と? なんの?」
「……ウィル」
焦れたような声をレインがあげる。彼にしては珍しい、懇願するような視線をちらりと向けてから、レインは手を伸ばしてウィルの首を抱きしめた。突然のことに、肩を握っていたウィルの手が滑り落ちる。レインは苦痛を表さなかったが、あざになってしまったかもしれない。
「レ、レイン?」
「お前が心配をするのはわかってる。けど……オレは誓ったんだ。もう誰にもあんな思いはさせたくない。ルノには、笑っていてほしい」
「え……?」
「だから、悪い」
レインの息が首筋にかかった。何を、考える前に、突然ブツンという嫌な音が聞こえた。何をされたかはすぐにわかった。
──首筋を噛まれたのだ。
痛みはなかった。それどころか、一種の快感に似た甘い疼きが全身を走る。レインが離れると、ウィルは立っていられなくて床に崩れ落ちた。
「な……んで……?」
「……シアングが呼んでる」
ぼんやりとした視界に、レインが映る。口元を拭っているようだ。その瞳の強い光だけが、ハッキリとナイフのように光った。
「ま……て……」
レインは背を向け、ガラス戸に歩み寄る。ゆるゆるとウィルは手を伸ばすが、レインは肩越しに振り返っただけだった。
「……悪い」
たった一言呟きを残し、レインの姿は光の中に消えた──……
雪が降って来た。季節が廻った。
そしてナイフのように研ぎ澄まされ、逆転した運命が捩れて歪み、ついに巡りだす。
──Reverse Dagger、開幕。
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