第31話 涙をこぼす君とないしょのはなし



『……私ね、もう自分の力を制御できないんだ。だから、一緒に行けないの。』

『……私の魔力は、闇の魔力。それだけで危ないのに、もう自分の意思で使役できない。必ず暴れだす』

『大丈夫だよ。だから、私の魔力のこと、気にしないで。それで……内緒にして?』



(内緒にして……か。オレが力になってあげられればいいのに……)

 トアンは憂鬱だった。窓から見える外はもう暗い。目の前では蝋燭の灯りがちらちらとゆれて、ほんの少しだけ暗い照明の下で装飾の金が反射していた。

 トアンがいるのは緩やかなカーブを描いた階段の上で、眼下のホールが見下ろせる。ホールには立食式の上品で豪華な食事と、シャンデリアの煌きが落ちていた。どこからか優雅な調べが流れてきて耳を擽る。何人もの男性と女性が優雅に上品に、音楽に合わせて踊っているのも美しく、とても心地良いが、トアンの心は晴れることはなく、どんよりと曇っていた。


 ──チェリカの先程の言葉が忘れられないのだ。


 チェリカはそれ以上なにも言ってくれなかった。二人は無言のまま城に戻り、ルノたちの帰りをまった。……パーティー会場に移動してきたが、チェリカとルノはあいさつがあると早々にどこかに言ってしまいトアンは一人きり。メヒルより似合いそうもないフォーマルな服を渡されて着替えたはいいが、ウィルもレインもまだこない。こうして一人待ち合わせ場所にぽつんとしていると、思考は上品な世界から離れて先程のチェリカの言葉でいっぱいになってしまった。

(あんな不安そうなチェリカの声、初めて聞いたかもしれない。……いや、不安そうな声は聞いたことあるや。……でも、でも……)

 はあ、とため息を落とす。渡された服の、白を基調とした色使いのうちの、所々に入る赤がやけに目に付く。

(……似合ってないよなあ、ちょっと恥ずかしいぞ……ん?)

 ごほん、と咳払いをするトアンの肩を、誰かが叩いた。振り向くと、メイメイがいた。手に持っているトレーの上にはグラスがのっている。

「あれ、君、確か……メイメイ?」

 相変わらず無表情な少女は、ぺこりと丁寧に頭を下げてくれた。

「そうです。覚えていてくださったのですね」

「うん」

「どうぞ」

「あ、オレ、お酒は……」

「ご心配いりません。これはチェリカ様の好物である、リンゴの果汁を炭酸水で割ったものですから。お酒は入っていません」

「あ、そうなんだ。じゃ、もらいます」

「はい」

 メイメイの手から、トアンは華奢な折れてしまいそうなグラスを受け取った。繊細で美しい透明の向こうに、泡がのぼっているのが見える。

「……君は、仕事なの?」

「ええ。ここにいる客人は国民です。……さすがに、中のホールへは人数の関係で各地区の代表しかはいれませんが、中庭の方では大勢いらっしゃいますからね。」

「そうなんだ……結構な人数がくるんですか?」

「どうでしょう。代表者たち以外にも、人数制限を設けて希望する国民を招くこともチェリカ様はするので……けれど、見ての通りダンスの場所はあけますからご心配なく」

 なるほど、メイメイの言うとおり、食事ののったテーブルは円を描くように壁に沿って並んでおり、中央は空いている。上から見ればよくわかった。このパーティーの主旨は食事ではなく、踊ることや交流を深めること──其々の無事を確かめあうことなのだろう。

「ダンスかあ……あれ、『チェリカ様は』って、以前はやらなかったんですか? その、国民のひとたちを招くって事を……」

「クランキス様はなさいましたよ」

 ふっと、微かだがメイメイは笑った。トアンも思わず笑い返す。

「……君たちはずっと働きっぱなし?」

「実はチェリカ様から、私たちも交代で参加していいよーといわれているのですが、私たちはもともとこの城でチェリカ様たちのために働くのがすきなのです。チェリカ様もわかっていて、『交代で』という条件をつけてくださいました。」

「そっか……」

 メイメイの言葉から伝わる、チェリカに対しての敬意と愛情。トアンはなんだかとても嬉しくなってしまって、にこりを通り越してにやりと笑った。そんなトアンにメイメイがぺこりと会釈をし、再び笑みを浮かべる。

「では、私仕事がありますので」

「あ、はい。飲み物、ありがとう」

「いえ」

 もう一度会釈をしてから、メイメイが階段を下りてきく。トアンは手に持ったグラスに口をつけて一口飲んだ。リンゴの甘味と酸味、さわやかな味がとて美味しい。摩り下ろされたリンゴの果肉の喉ごしも美味だ。

(うん、チェリカが好きそうな味だ。おいしい──いて!)

 ばすん、と唐突に背中を叩かれて振り返ると、ウィルがにやにやとした笑みを浮かべて立っていた。トアンと同じ、白を基調とした服装だがどちらかといえばウィルの方がピシリとしたデザインで、襟と袖口に入る赤のラインがりりしい。ウィルの外見と相まってそこに立っているだけでも恰好がついた。

「な、なにするんだよ」

「あ、それ何? うまそー」

「メイメイからもらったんだ」

「そうなんだ。オレも欲しいな……」

「ウィル! なんでオレのことぶったの!?」

「え? ……いや、憎いなあ、と思って。」

「え?」

「見てないのか? チェリカ。挨拶してるとこレインと見てきたけど、チェリカもルノも、すごくキレイだったからさ。あー、トアンは幸せモノだなーと思って」

「え……ええ!? なにそれ! 挨拶って、オレたちも見れたの?」

「ああ。普通に。フツーに見れたぞ」

「そんな……」

 トアンは愕然とその場に立ち尽くしたまま、口をパクパクさせた。

 ──キレイ? あの双子は元々とても器量がいいのは知っている。パーティーということはそれなりにお洒落をしているわけで、ウィルがこんなにもあっさりと褒めているということは相当な……いや、双子が並んでいるから故の完成度なのか? いや単品でもそれはそれは……そんな二人が代わる代わるパートナーのような位置にいてくれている自分はなんという幸福な、ああ、しかしまだ見ていないわけであって……

「トアン」

 あっさりと混乱状態にあったトアンを、ウィルの少々冷めた目が現実に引き戻してくれた。

「興奮してるとこ悪いけど、それ、くれない?」

「え? でも……」

 ウィルが指差したのは、トアンが持っていたグラスだ。トアンは、ふとウィルが不機嫌そうなのに気付いた。

「……どうしたの? これ、オレの飲みかけだけど……」

「どうもしてない。ならいいや、あ、ちょっと」

 どうもしていない、と言いながら、ウィルは明らかに不機嫌そうだ。傍を通り過ぎたメイドを捕まえ、その手のトレーからグラスを一つ受け取る。──トアンのもらったものとは違い、琥珀色をした液体だった。……つん、とアルコールのにおいが鼻をつく。

「ウィル、それお酒……」

「飲める。」

「……どうしたのさ。なんか変だよ」

「……あれ」

「え?」

「……。」

 ウィルは顎をしゃくって一点を示してから、むっつりと口を閉ざしてしまった。トアンはその先を辿り、ようやくウィルの不機嫌の理由を知ることができた。階下のホールに──メイドと踊るレインがいたのだ。

「兄さん……」

 ダンスのことはよくわからないが、そのステップもリードも完璧なものにトアンの目には映った。何せ、動きの一つ一つが流れるようで美しい。レインの着ていた服はトアンやウィルとは違って黒が基本の、すらりとした身体に良く似合う、あまり硬くないデザインだった。燕尾服のように後ろに垂らした布がレインが踊るたびに揺れる。周りにいるほかのメイドや女性たちが羨望の眼差しを向け、執事や男性客も見入っているようだった。──ウィルがつまらなそうに鼻を鳴らした。

「ウィル……」

「……。」

 そのままぐいと酒をあおる。その拗ね方が一年前のウィルと同じだったので、トアンは思わず笑っていた。再開してからのウィルはどうも大人びていて、こんな一面がまた見れるとは思っていなかったからだ。──もう、トアンの横に来るまでに、数杯の酒を飲んでいるようだったが。

「なんだよ、なに笑ってんの」

「別に? ……兄さん、いいの?」

「良くない。けど、レインが楽しんでるから……」

 なるほど、眼下にいるレインは楽しそうだった。瞳を細め、今踊っていたメイドに優雅に会釈をする。きゃあきゃあと黄色い声があがり、次は私、私と女性客やメイドが名乗りを上げる。

「まあ、女の子と踊るのは、いい」

「いいんだ」

「レインだって男だし、そういうときもあるだろう。……オレが気に入らないのは、周りにいる男共」

 メイドや女性客に便乗し、取り巻いている男性客が手を伸ばしているのを見て、ウィルはグラスを振りかぶった。──悪酔いしているのかもしれない、自制のきいていない行動にトアンは慌てる。

 ──しかし、その手はゆっくりと降りてきた。レインが男性客に手を振って断ってから、こちらを見上げていたからだ。……トアンではなく、ウィルを見て。くいくいと手招きして、イタズラをしたチェリカのような、にっとした笑みを浮かべている。

「あ、あのう」

 ウィルがぽーっとしていると、トアンの後ろから声がかかった。ミントだ。ミントがおずおずとウィルを見つめていた。

「あのう、もし、よろしければ……ウィルさん、あの」

「……ごめん」

「え?」

「呼ばれた」

 にこり、と満面の少年らしい笑みを浮かべてウィルは手すりから身を躍らせてた。ホールは小さな騒ぎが起きたが、ウィルは見事に着地してみせる。レインが呆れたような顔をして近づいていって、トアンのいる場所からでは何を言ってるかわからないが、ウィルの一発頭をどついていた。

「……ああ」

 その光景に、ぽつり、とミントが残念そうに声を上げる。トアンが「あの二人はああいうものなんだよ」とでも慰めようかどうしようか迷っていると、どこからともなくメイメイがずんずんと近寄ってきて、ミントの服を引っつかんで引き摺るように引っ張っていってしまった。去り際にトアンを見て、メイメイは言う。

「トアン様、ご迷惑をおかけしました」

「い、いえ……そんな、オレ、何もできてませんよ」

「いいえ。この子は思い込みが激しい子なので、もしかしたらまた騒ぎ出すかもしれません。その時はその時ですが、しばらくは大人しいでしょう。……それと、」

「え?」

「飛び降りは危険ですから。どんなに自分の身のこなしに自信があっても、もう二度となさらないようにとお伝えください。ウィル様に」

「あはは……うん。わかった」

「あ、それともう一つ」

「?」

「チェリカ様は封印の部屋にいらっしゃいます。ルノ様は自分のお部屋のテラスに。お二人共現在は自由な時間なので、宜しければご挨拶にいってはどうかと」

「……。ありがとう」

「いえ、お礼を言われるほどのことではありません。それでは……」


 *


 ルノはただ一人、テラスに手を置いて夜空を見上げていた。眼下に広がる庭園には色とりどりの柔らかい照明が光っていてとても幻想的な光景なのだが、ルノの視線は変わらずに夜空だった。深い青と黒で塗りつぶした空に、宝石のような星が光っている。

「……。しかし、思い出すな」

 誰宛てでもない、自らの心に対する呟きが、ルノの口から漏れる。

 ──この城も、この景色も、あの塔も、塔の小部屋の窓辺も、どこを見てもふと気付くとルノの心は揺れていた。……思い出してしまう。思い出に残るセピア色の世界では、優しい笑顔が傍にあって、何度も手を差し伸べられていたことを。例えそれが演技であろうが、例え気まぐれだったとしても、ルノは彼の心の優しさを知っている。

「大丈夫だろうか。酷い目に、あっていないだろうか……あの腕では、一人で料理をすることはできないだろうな」

 無意識のうちにため息をついて、ルノは目を伏せた。──と、風に乗ってかすかに耳に入ってくる、ホールで演奏されている音楽が変わったことに気付く。

 ──それは、ピアノの曲だった。明るい、しかし切ないメロディーは、いなくなってしまった大切なひとを捜し、想い、空を見上げる少女の心境を思わせる曲だ。ルノは思わず苦笑する。なにしろこの曲は、ルノの鼻歌から生まれた曲なのだから。

 ……そして静かに口を開いて、ルノは夜空に向かって歌を奏でた。

 オルゴールのように、雨を打つような軋んだ切ない音がルノの心に寄り添っていた。そのオルゴールは壊れているのか、何度も何度も、繰り替えし同じ部分を奏でる。ルノの瞳に映る星空も、呼応するようにチラチラと瞬いた。

(──私は……)

 たったひとりを、想う。

 オルゴールの演奏にあわせて、何度も何度も、同じ場面が頭に浮かぶ。

(信じているから……それでも、無性に逢いたい。逢いたいよ、傍に、いて欲しい──……そうか、寂しいのか、私は)

 ──ふと、『寂しい』という感情だけで、ここまでセンチメンタルな気分になれることを自覚する。ルノは手すりに肘を預けて頬杖をつくと、今度は少しだけ明るい気分になって、夜空を眺めた。そして、宝石箱の中身を巻き散らかしたような夜空のなかで白く輝く月を見つける。

(今日は、三日月、なんだな)

 この空は繋がっている。──あのヴェールの空と繋がっているかはわからないが、あの世界でも月は見えた。同じ月かはわからないが、確かに月はあった。

(繋がっている。あの月の下にいるんだ。……シアング、お前は今、何をしている? 何を想っている……?)


 *


 城の地下室と聞くと、おどろおどろしい暗闇を想像するだろう。ところがエアスリクの城の地下は白亜の壁と磨きぬかれた大理石の床、階段の手すりは金の装飾と、どうみても暗いイメージはつかない。トアンが一歩歩くたびに、コーン……コーン……と澄んだ音が広がって、響き渡っていく。地下といえど、広い広い空間が広がっていたのだ。

(……あれ? 水の音だ)

 暫く進むと、足音に水が流れる音が混じる。床に掘られた溝を通って美しい水が流れていき、あちこちにある水槽に植えられた植物の根によって浄化され、部屋の中央の噴水でサラサラと音を立てながら噴出していた。──部屋の中はしんと静まり、寒いくらいに涼しい。滝の傍にいるようだとトアンは感じ、噴水の横を過ぎる。──そして、噴水の水の向こうに広がっていた光景に息を呑んだ。

 ──そこには、氷のように透き通った巨大な水晶の塊が聳え立っていたのだ。そしてその透明な塊の奥、光と光が反射しあう向こうに、人影が二つある。……そして水晶の前に立っていた人物は、トアンが探していたひとだった。

「チェリカ」

「!」

 弾かれたように振り替えるひと──チェリカが、まん丸になった青い瞳でトアンを見た。……トアンは逆に目を逸らす。

 チェリカの服装に動揺を隠し切れなかったのだ。

(別に露出が激しいとか、萌え心を擽られるとか……ああ、でも、ほんとうに)

 ──可愛らしいかった。チェリカは黒をベースにしたドレスを着ていて、頭にはそれと揃いのベロアのようなテロテロと光る素材の黒いリボンをしていた。黒のドレスの下にレースのふんだんに使われたスカートを履いているようで、愛らしい顔と相まってまるで人形のようだともトアンは思う。

(ゴシック……ゴシックロリータっていうんだっけ? でもそんなに怖いって感じじゃないな。なんだろう、純粋な、黒……)

「トアン?」

 いつの間にかすぐ目の前にいたチェリカが、不思議そうにたずねてきた。

「!」

「なに、どうしたの、顔が赤いよ? 熱?」

「な、ないないないないない、ないよ! あ、ははは、ごめん」

「ううん……」

 チェリカはトアンの様子にふっと微笑むと、ゆっくりと首をめぐらせて水晶を見る。トアンもその視線を追って水晶を眺めた。──水晶の中の人影に、見覚えがある。

「トアン、その服かっこいいね」

「へ?」

 唐突に妙なところに話を引っ張られ、トアンは困惑した。ましてや、あまり自分に自身がない部分をそっと触れられては、きまりなく笑うしかない。

「似合うかな、これ……」

「似合うよ。とっても。……やっぱりトアンは、白が似合うね」

「……え?」

「いつか、みんなをこのお城に招待したときに、パーティーを開こう、そのときにみんなで着ようって、お兄ちゃんと話してたの。」

「そうだったんだ」


「……シアングの分もあったんだよ」


 チェリカの呟きは、とても小さかった。けれどもトアンの耳はその声を逃さずにしっかりと捕らえ、心の中で咀嚼し、嚥下した。

「もしかして、シアングの服って、黒?」

「え? うん、そう。よくわかったね」

「……うん」

 トアン、ルノ、ウィルには白。

 チェリカ、シアング、レインには黒。

 チェリカはただの直感でその色を選んだのだろう。

(きっとそうだ。……そうだよね)

 ぐるぐると思考の渦がトアンを取り囲む。唐突に、コツン、と響いた足音によってようやくループから逃げ出すと、チェリカが一歩進み出て水晶に手を触れていた。

「チェリ……」

 どうしたの、という前に、チェリカはトアンに背を向けたまま呟いた。──また、とても消え去りそうな小さな声で。

「トアン、これが、何だかわかる?」

「……うん、わかるよ」

「誰だか、わかる?」

「うん、覚えてる」

 チェリカの隣にたって、トアンは水晶を見上げた。


「クランキスさんと、セフィラスさんだよね。チェリカの、お父さんとお母さん」


「……当り」

 元気な声だった。トアンがチェリカの顔を見ると、チェリカはトアンに笑いかけていた。

「若いでしょ、うちのお父さんとお母さん」

 そういって笑うチェリカに、先ほどの影のようなものはもう見当たらない。

「うん。若い頃に、その──ここに、封印されたから?」

「それもあるけど……人とヒトの一番の違いは、寿命なんだよ」

「え?」

 えっとね、と言いながらチェリカはリボンをいじった。少しだけ寂しそうな顔で、チェリカは続ける。

「若い、身体能力が高い時期で、外見の成長はとまるんだって。あとは精神の老成だけ。──でも、何十年何百年生きたら、好きな姿でいるヒトもいるらしいけどね」

「何百年って……じゃあ、寿命はどれくらいなの?」

「わかんないな。とにかく、ながい、ながい時間……」

 チェリカの言葉が胸を打つ。トアンは思わず俯いて、自分の靴を見た。


「……チェリカも、そうなんだよね。オレとは違う」


「うん、そうなるね」

 迷いも否定も、気遣いもない一言だった。──チェリカの、慈悲なのかもしれない。

「……。」

「……私には、まだわからないや。私はまだ成長するし、まだわからない……でも、トアンは人でいてね」

「……え?」

「ずっと、ずっと人でいてね。闇に魅入られないでね。人が永遠の時間を得るには、足を踏み外すしかない。それは、絶対に、ダメ」

「……チェリカ、何を言ってるの?」

「……ごめん」

 ぺた、と白い両手で水晶に触れ、チェリカは言う。さらりと金髪が零れて、トアンは遠くの光を見るように目を細めた。

「……お父さんとお母さんの前に立つと、私、ちょっと、ダメなんだ」

 チェリカの横顔が見えない。──トアンは手を伸ばして、チェリカの肩を掴んで自分の方を向かせた。驚いたような青い瞳が金糸の隙間からトアンを見ている。

「ダメじゃないよ」

「え……」

「チェリカが、その、何を言おうとしてるかはオレにはわからない。……けど、それが、あの……弱音だっていうのはわかるよ」

「……トアン」

 そうトアンの名前を呼ぶチェリカの声は、とてもとても心細そうな声だった。瞳を伏せ、口を噤んで、何か見えない叱責に耐えるようなチェリカの様子は、トアンが今まで目にしたことがないものだった。

(……見落としてただけかもしれない)

 ふがいないな、と自分の心の中で呟いてトアンはチェリカを真っ直ぐに見つめる。──好きとか愛してるとか、今は考えなかった。ただ、チェリカが大事で大事で仕方がなくて、トアンは言う。

「泣き言だって言ってもいいんだ。辛かったら泣いてもいいんだよ」

「……。」

「お父さんとお母さんから引き離されて、寂しかったでしょう? クラインハムトから受けた傷も、辛かったでしょう? 我慢しなくていいんだよ。もう、エアスリクにも、チェリカとルノさんを責める声はほとんどない。……それに、オレだって、いるし……」

「……ありがとう」

 トアンの必死な声に応えるように、チェリカの青い瞳もトアンを見た。肩に乗っていたままのトアンの手に自らの手を重ねて、チェリカは微笑む。

「ありがとう、トアン」

「え……」

「嬉しい、そういってくれるの……」

 叔父から受けた虐待の身体の傷も、心の傷も完全に癒えてはいないのだろう。チェリカはその上に必死に崩れそうな土台を積み上げて、悲鳴も悲しみも全て埋めてしまったのだろう。

「何もできないって言ってたけど、そんなことないよ。トアンは私を救ってくれる。いつも、いつも……」

「え、え!? オレ、そんな……」

「ううん……私は、君に会えて本当に良かったと思ってるよ」

 儚くない、しっかりとした笑みでチェリカは告げた。トアンはそれだけで心臓が飛び上がった。

(い、今はそういうのなしで考えてたのに……あ、あれ?)

 ……ふと、チェリカが神妙な顔で首を傾げていることに気づく。どうしたの、とトアンがいう前に、地下室の空気を通り抜ける、切ないピアノのメロディーに気付いた。

「キレイな曲だね」

 噴水の水音を越え、澄んだ音がトアンの鼓膜を震わせる。チェリカがトアンの言葉にうんと頷いて、言った。

「お兄ちゃんが作ったんだよ、この曲」

「ルノさんが……?」

「うん。……シアングに向けて、手紙を書いてたときにふんふんって鼻歌で歌ってたの」

「ルノさんが?」

「うん……それをメヒルがピアノの楽譜に書き直したんだよ。メヒル、ああ見えてすごく優しいから」

 トアンの脳裏に、銀縁メガネの無愛想な執事の顔が浮かぶ。──けれど、チェリカの過去の世界で見た、チェリカを守ろうとしたメヒルの瞳と、双子を見るメヒルの瞳は紛れもなく同じなのだと気付いていた。

(親代わりなんだろうな、きっと)

 真実は問わない。しかし、あの雰囲気を感じ取れたなら、もう何も詮索はいらないだろう。

「そうなんだ……それにしても、手紙か」

「うん?」

 純真な瞳で見返してくるチェリカが眩しい。トアンは苦笑しながら、ぽつりぽつりと言葉を返した。

「……オレも、実は、書いたよ」

「え?」

「チェリカにだけど、手紙を……その」

「……あらら」

 青い瞳がまん丸になったかと思うと、チェリカが妙に納得した声をあげる。──そのまま、口元に手を当てて黙りこくってしまった。トアンはちらりと反応を窺うと、チェリカがクスクスと笑い声をあげていた。

「わ、笑うなんて酷いよ、ああ、でもさすがにヒクよね……?」

「はは、ふふふ……うん」

「なっ」

「あはははは、ははは、嘘だよ嘘。……私も書いたもん。オアイコ、オアイコ」

 人差し指を立てて、くるりと円を描くようにしながらチェリカが言った。トアンは一瞬その言葉が信じられずに放心し、ぽかんとした顔で立ち尽くす。

「……あれ、信じられないかな?」

「え……ええ!? う、ううん、信じる信じる! ……チェリカ、それ、本当?」

 トアンの言葉に、チェリカはコクリと頷いた。楽しそうに笑っているが、嬉しそうでもある笑顔だと、トアンは感じる。

「本当だよ。……私ね、もう一度だけ君に逢いたいって、ただそれだけを考えてた。紙ヒコーキじゃ無理だってわかってたけど、届くわけないってわかってたけど、でもね、また逢いたくて」

「……え」

「うん、まあそういうことだよ」

 フイと横を向いてしまったチェリカの頬がほんのりと赤い気がするのは、気のせいだろうか。──手紙を書いたという行為に対してなのか、差出人を意識しての赤なのかはわからないが。

「チェ、チェリ」

「ああ、もう終わり終わり。上いこ? まだやってるだろうし。お兄ちゃんの歌の曲、ちゃんと聞きたいしさ」

 ──それ以上は言ってはいけない。

 チェリカの優しい青い瞳が、一瞬暗くなった気がした。けれどもそれを疑問として考える前に、トアンの手は引っ張られて二人は走り出す。

 ──それ以上考えてはいけない。

 しかし手を繋いで一緒に走るという行為がやけに楽しくて嬉しくて、輝いて、一瞬一瞬が眩しく光っていた。トアンは足をもつれそうにしながらも、本当に楽しいと感じて笑う。チェリカも応えるように、ふんわりと蕩けるような笑みを向けてくれた。


 ──彼女なりの、慈悲だったのかもしれない。




 *



 ダンスパーティの会場に戻ると、ルノが作ったという曲のアレンジが流れいた。上品な音楽が奏でられている場の中心で、引き続きメヒルがピアノを弾いている。男性にしては細い指が奏でるメロディは、儚く繊細で、しかし周りの楽器たちのアレンジによって生き生きとした美しさを取り込んでいた。

「すごいひとだね……」

「うーん……あれ、ウィルとレインとトトは?」

「え?」

「あのふわふわの子にさ、ベロアのリボン結んであげたんだよ。きっとすごく似合ってる。だからあいたかったんだけど……」

「そっか」

 しゅんと顔を曇らせるチェリカの横で、トアンは精一杯背伸びをして会場を見渡した。──しかし、三人と一匹の姿を見つけることはできない。──と、演奏が山場に入ったときだ。


「ぴゅるるーるるる……」


 突如混じった小鳥のような歌声に、会場がざわついた。メヒルも不思議そうに横目で周囲を窺っているのがわかる。トアンは声の下方向、ホールの上のテラスの手すりをみて、あ、と声をあげた。……コガネだ。コガネが歌っていたのだ。

「トアン、あれ……キレイな声だね」

「え!?」

「? キレイだよねえ」

「え、いや、うん、キレイだけど……でも演奏の……」

 チェリカは能天気に、トアンがハラハラと見守る前で、慌てた様子の両手がにゅっと伸びてきてコガネの姿を手すりの向こうに連れ去った。……それからインクブルーの髪の少年が、下にいる客たちに向かって頭をさげる。──トトだ。


「謝らないで」


 トアンの横にいたチェリカが、大きな声を上げた。客たちが驚いたようにチェリカに視線を向け、膝を折る。自然と、彼女の声を守るように演奏も中断された。

「あ、みんな折角の服が汚れちゃうよ。だめだめ、立って立って。……トト、私はその子の声、すごくキレイだと思うよ。歌わせてあげてよ」

「え……いいんですか?」

「うん。……だめかな?」

 チェリカが言葉を向けたのはメヒルだ。メヒルはふうっと息をつくと、いいでしょうと言う様に頷いた。そして会場にいた客に向けて一礼すると、再びピアノに指を乗せる。周りの演奏者たちも、慌てて其々の楽器を構えた。

(すごいや……チェリカの声、すごく通ってた)

 重みのある言葉。王族だからこその威厳。トアンはすぐ隣にいるチェリカをしげしげと眺めてしまった。

「……なにかな?」

「え? あ、ううん、なんでも……」

「?」

「あ、そのえっと……あ! チェリカも、コガネの声きれいだと思うんだ」

 なんとかうまく話題を変えたつもりのトアンは心の中でガッツポーズをする。……が、うん、と答えたチェリカの顔が曇っていることに気付くと、すぐに高揚した気持ちは萎れていった。

「あ、なんでトアンがそんな顔するの」

「う、うん、いや……」

「……私ね、あの子の声すごく好きなんだ」

「好き?」

 チェリカの目が手すりの上のコガネを見つめる。コガネは上機嫌らしく、尻尾をゆらゆら揺らしながら澄んだ歌声で鳴いていた。

「うん。……この遠くから聞こえる感じ、ずーっと遠くから響いてくる透明な感じ……なんか懐かしいんだ。なんだろうね、私は聞いたことないけど、例えるなら海の底からの、鯨の歌声」

「鯨の……」

「ごめん、変なこと言ったね。気にしないで」

「全然変なことじゃないよ……鯨か」

 トアンは本で見た巨大な生き物を頭の中にポンと浮かべた。ところがその生き物はあまりにも大きすぎて、トアンの頭の中では胴体の部分しか見れないのだ。──なるほど、大きさにしては鳴き声が可愛すぎるかもしれないがコガネの歌声を当てはめることはできた。深い深い青の中を歌いながら泳ぐその姿。その色は、真珠のように光る純白の色──……

「……白い鯨だ」

「え?」

 チェリカが不思議そうに聞き返してきた。──するとどうだろう。トアンの頭の中で泳いでいた鯨は蜃気楼のように消え去って、トアンはきょとんとしたままチェリカを見返した。

「ん?」

「鯨は白くないよ」

「え、あ、うん、そうだよね」

(オレ、今何考えてたんだろう……なんで鯨が白いとか思ったんだ? 鯨は灰色っていうか青っていうか……少なくとも白じゃない)

 思わずボーっと立ち尽くしていたトアンの手を、チェリカが取って笑った。

「それより踊ろう! ね!」


 *


「……冷えますよ」

「!」

 突如背後からかけられた声に、ルノは思わず身を竦ませた。すると慌てたような声と一緒に、上着がルノの肩にふわりとかけられる。振り返ると、セリがいた。翠色の髪が夜風に揺れている。

「セリ……」

「ルノ様捜しました。風邪を引いてしまいます、もう中へ」

「ありがとう……でも、私はもう少しここであの月を見ていたいんだ。セリこそ、チェリカの傍にいなくていいのか」

「……ええ。おれは昼間、ちょっとメヒルさんに怒られまして、傍いてはいけないんです。つか、あの人間がいる以上、おれが傍にいて睨みをきかせるのをチェリカ様は望まないでしょう。大事なお友達のようで」

 お友達、という部分を強調して呟くセリに、ルノはふっと笑った。

「笑い事じゃないです。さ、ルノ様、もう中へ」

「私は月がみたい」

 ルノは頑なに言い張った。──もう少しだけ、もう少しでいいから繋がっていたかったのだ。ところがセリの顔が見る見るうちに曇っていって、声が低くなった。眉間に皺も寄っている。

「……ルノ様、おれは知ってます、聞きました」

「何?」

「雷鳴竜の子供が帰ってこないこと。そして、あなたがそれをとても焦がれていること」

 ──図星だった。ルノは咄嗟に言い返すことも言い訳もできず、目をそらした。

「……お前には、関係ない」

「もう忘れたほうがいいですよ」

「関係ないといっただろう! 私が信じたいから信じてるんだ。それの何が悪いんだ?」

「……あなたのその『意思』が心配なんです。あなたの意思は、本当は脆いのに……これ以上あの男と関わっても、あなたは傷つくだけです」

「……お前に、何がわかるんだ」

「おれはあなたを守る役目がある。……嫌な予感がするんです。あの人間、トアンが地を踏んだ瞬間、おれはまだ石のままでしたけど……なにか感じました。あいつの目をみて、妙な胸騒ぎと一致しました。嫉妬とかそんなの関係なしで、です。そしてあなたの傍であなたを守り続けていた竜が離れた。……おれは、あなたの周りの」

「もういいだろう!」

 これ以上聞いてはいけない、ルノは反射的に叫んだ。その声は怒りでも憎しみでもなく、潤んで震えていた。……セリが

悲しそうな顔をして、首を振る。

「……ルノ様、あなたの優しさは、いつか絶対にあなた自身を傷つける。それはもう、癒えないほどにズタズタに」




 *


「トアン、どうしたの?」

「え?」

「ほら、あ、痛い」

「あ、ごめん!」

 きょとんとした顔でチェリカが問いかけてきて、トアンは動揺したついでにチェリカの足を軽く踏んでしまった。──もともとダンスなんてしたことがないのだ。チェリカがリードしてくれるので、なんとか……とりあえずなんとかなっているというようなスタイルだが、トアンはそれすら集中できていなかった。

 ──原因は、上のテラスにある。

「……。」

 恨みがましく見上げてみても、上にいる二人は楽しそうに笑っている。……ウィルとレインだ。レインはコガネの横で手すりに頬杖をついてトアンを見て、ウィルはどこからか持ってきたスケッチブックを手に持ち、大きく『しっかりしろ』と書いてあるページを見せてくる。

(わかってるよ……もう)

 ──レインがペンを取り出し、別のページに何か書いている。何を書いてあるかはすぐに分かった。

(『足を踏むなんて最低』……だって!? 誰のせいだと思ってるんだよ)

 ──二人が完全に遊んでいることはもう分かっている。頼みの綱のトトですら、二人の様子を微笑ましく見守っているのだ。

「あはは、最低、だって」

「!」

 ──チェリカがクスクスと笑っている。トアンの視線を追って気付いたらしい。

(今でよかった)

 『回せ』『リード』『ステップ』から始まり、先ほどまでは『キスしとけ』『押し倒せ』『モテない』と、チェリカには到底見せられないような内容が掲げられていた。

「気にしないでいいよ、チェリカ」

「えーでも、面白いよー? ウィルもレインも、随分楽しそうなこと考えるね。今度やろう」

「やらなくていいと思うよ!?」

 トアンの必死な声に、チェリカはますます笑い声をあげた。くるり、優雅に一回転を見せてから、トアンに言う。

「楽しいね」

「う、うん、楽しいけど……」

「今度はシアングも一緒にいればいいな。セイルも一緒に、みんなで一緒に……そうなればいいんだけど」

「……そうだね」

 トアンはチェリカの言葉を、優しい願いだと思って微笑んだ。チェリカも笑っているから、安心した。

 

 ──このとき、オレはまだ知らなかったのです。

 自分の存在が、自分の意思が、どれだけのことを起こしているのかとか、チェリカの願いが本当はなにを意味していたのかも、知らなかったのです。


 ──運命はもう捩れ始めていることに、気付くこともできなかったのです。

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