第29話 心で呟く魔法の呪文


『背も少し伸びたな。それに、声が少し低くなった』


 再会したルノがトアンに言ってくれた言葉。たしかにそれは真実だ。トアンの身長はたしかに伸びているし、自分では気付きにくいが、地声はたしかに低くなっている。


 ──しかし。


「あー、みんな今から動き出すんだね」

 月と太陽をモチーフにしたオブジェの横を通りながら、チェリカが眩しそうに目を細めた。雲を切り裂いて射しこむ光が眩しいのかもしれない。もしくは、その光に反射する梢の緑に、目がくらむのかもしれない。

「ほら、お兄ちゃん。お城の中がどんどん騒がしくなってる」

「たしかにそうだな」

 活気付いてきた城から聞こえる声に、ルノの表情が和らいだ。つられてトアンも思わず頬を緩める。しかしチェリカは逆にすこし不満そうで、人差し指を当てて口を尖らせた。

 トアンは一歩下がり、双子のやり取りを見守ることにする。

「おやつのパンケーキ、石になってるの戻ったかなぁ。おやつ抜き、になんてならないといいけどなぁ」

「……チェリカ、それは数ヶ月前のパンケーキじゃないのか?」

「え? あ、そっか。そうしたらエアスリク中の食べ物が大分痛んでるね。やだなぁ……あ、そうだ。石になってる間、食べ物も時間が止まってればいいんだよね」

「……?」

「そうだよ、だからパンケーキもきっと大丈夫」

「お前は……お前というやつは……」

 ルノがあきれ果ててため息をつくと、チェリカはまた不満そうに鼻を鳴らした。オブジェの横に落ちた影が、愛らしいむくれ顔を一瞬だけ隠す。


「私、怒ってるんだよ」


「な……なにをだ?」

「……。」

「石にした犯人のことか? すまない、それはまだ……」

「違うよ」

「え」

 ぴた、チェリカの足が止まった。目の前の段差の低い数段の階段をのぼると、平らに整備された道が真っ直ぐに城へと続いている。城を中心に、ぐるりと大きな環状の飾りが囲んでおり、それは金色の中に青白い光が明滅する不思議な物質だ。──城もこのエアスリクの大地と同じように、不思議な紋様を持つ材質でできていた。


「お兄ちゃんが、私を置いて少しでも成長したことだよ」


「……は」

「私、お兄ちゃんと双子なんだからね。ずるいよ、一人で成長するの」

「ず、ずるいって言ってもだな、チェリカ」

 仕方ないじゃないか。と続くはずだったのだろうルノの弁解を聞かず、チェリカは今度はトアンを軽く睨んだ。

「……トアンもずるいよ」

「え?」

「トアン、たしかに、背、伸びたね」

「……!」

「さっきはああいったけど、ウィルと並んでないとわからないくらいだけど、でも伸びてる」

 チェリカはたたた、と小走りでトアンとの距離をつめると、ぐいと顔を近づけてきた。息もかかりそうなその距離に、トアンは慌てて身を逸らす。

「……そ、そう?」

「そうだよ。……一年間で、君も成長してるんだね」

 むくれ顔が、どこか寂しそうに陰った。トアンはおろおろとルノに視線を送るが、ふいにその時、チェリカの金髪が以前より長いことに今更ながら気付く。──前は肩の上くらいまでだった黄金の髪は、今や鎖骨の下ほどまで伸びているのだ。

 これだ。トアンは心の中でガッツポーズをとると身をそらしたまま言った。

「そういうチェリカだって……髪の毛、伸びたよね?」

「……そう? でも、私がいいたいのは」

「うん。だけど背が伸びるのが成長じゃないよ。チェリカだって、ちゃんと一年間の成長はあるんだ」

「……。」

 トアンの目の前のチェリカの瞳が、ぱちぱちと瞬かれた。そっかあ、納得しているのかしていないのか、チェリカは姿勢を元にもどす。わかっているのか伝わっていないのか、トアンはやきもきすると今度は自分が身を乗り出す。チェリカが驚いたように身を引く──先程とは逆の体勢だ。

「伝わった、かな」

「うん……。ごめん、変なヤキモチやいちゃって」

「ヤキモチ?」

「うん、ちょっと悔しかったの。石になってた期間がどれくらいかはわからないけど──……置いていかれちゃったかなって思った。でもそんなことなかったね」

 トアンの気遣いも察してくれたのだろう、チェリカがふっと微笑むと顔を寄せ、こつんとトアンの額と自分の額を合わせた。

「ごめんね」

「チェ、チェリカ──」

 へへへ、と笑うチェリカの間近な笑顔に、トアンが顔を赤くしたその時だ。カツカツという忙しない足音が近づいてきて、凛とした声がトアンを貫いた。



「ルノ様! チェリカ様! どちらにいらしたのですか!」


「あ……っ」

 ルノの驚きの声に、トアンとチェリカは二人で顔を寄せたまま声の方を振り向く。──そこには、黒いスーツに磨きぬかれた黒いブーツ、襟元に黒のリボンという服装の男が立っていた。スーツの中に来た真っ白なワイシャツがと同じく真っ白な手袋が際立つ。──若い男だ。二十歳後半から、三十代半ばだろう。きりりとした細面の顔に、銀縁の眼鏡が光る。

(このヒト──)

 その男の顔に、トアンはどこか見覚えがあった。


「メヒル」


 思考に耽るトアンの横で、チェリカが嬉しそうに名を呼んだ。メヒル、と呼ばれた男の目がルノからチェリカに動くと、眼鏡の奥の瞳が僅かだが和らいだ、気がした。

(そうだ、メヒル。メヒルさんだ)

 以前、チェリカの過去を元にしてつくられた世界で、トアンはメヒルにあった。──あった、といってもメヒルはトアンの姿を見ることはできず、厳しくチェリカを叱っていた。しかし、その厳しさの奥には優しさが感じされたのだ。今のように。

「チェリカ様……」

 た、長い足により一歩で距離が縮められた。男──メヒルはルノとチェリカを交互に見ると、ふうっとため息をつく。

「ルノ様も、ご無事でなによりです」

「メヒルは、大丈夫?」

「ええ。……どうやら、何者かの仕業によって時間が止まっていたようですね。精霊達のざわめきが教えてくれました。──城のものも、全員無事です」

「そう、よかった」

 てきぱきとした報告のような言葉を、チェリカはふっとした笑みで受け取った。その横で、ルノが困ったように視線を彷徨わせているのがトアンに見える。

「食料なども、我々と同じく時間が止まっていたようです」

 そんなルノの様子を視界の端に捉えてか、今度はメヒルはルノに報告をした。お兄ちゃん、とチェリカに肘でつつかれてから、ルノは背筋を伸ばす。

「わ、わかった」

「……ルノ様」

「……なんだ?」

「そうお固くならずに」

「すまない」

「叱っている訳ではありません。……しかし、その格好は──……」

 メヒルが困惑したようにルノの服を上から下まで眺めた。動きやすいローブに羽織ったマント自体はまあいいとして、汚れやほつれが気になったのだろう。メヒルに指摘され、ルノの顔が曇った。

「…………すまない」

「別に、叱っている訳ではありません」

「……叱っているだろう?」

「いいえ。……そんなにご自分を悪く思わないでください、ルノ様。あなたは王子。自信をもっていいのですよ」

「……。」

 メヒルの言葉に、ルノが顔をあげた。メヒルは再び眼鏡の奥に優しい光を灯すと、そっと頷く。

「ですので、その服装は少々」

「わ、わかった、着替えてくる」

「はい。……しかし、どうしてそのようなご格好に……?」

「あ、」

「メヒル、お兄ちゃんね」

 不思議そうに眉を寄せるメヒルを見上げ、チェリカが口を挟んだ。

「お兄ちゃんね、それとね、ここにいるひとたちね」

「チェリカ様、言葉が正しくありません」

「ごめん」

「……いえ。私も気になっていたのです。こちらの方々は一体──?」

 眼鏡の奥からメヒルの瞳がトアンを射抜く。チェリカやルノを見るときとは違う、冷たい瞳だった。思わずぞっとするトアンだったが、チェリカがそんなトアンを庇うように身を乗り出し、言った。

「私の友達」

「全員、ですか?」

「うん、そう」

「……しかし、この少年は夢幻道士──……それも、」


「チェリカ様から離れろ!」


 メヒルが困惑したようにトアンを見、何か続けようとした瞬間に、より大きな声がそれをかき消した。まるでその声に呼応するようにざわざわと木々が揺れ、強い風が吹く。メヒルがやってきたときと同じようにカツカツと足音が近づいてきたかと思うと、一人の少年がメヒルを押しのけ、トアンの前に仁王立ちをした。

「お前、誰だ」

 スラリとした身長でトアンを見下ろす翠色の髪の毛の少年は、メヒルと同じような服装をしていた。歳はトアンと対して変わらないだろう。ウィルのように背は高いが、顔にはまだ幼さが残っている。──少年のブルーグレーの瞳が、トアンを睨みつけていた。

「あ、あなたこそ」

 なんとか言葉を返したトアンだったが、その一言は打開策ではなく、少年の眉間の皺がより深くしただけだった。──と、小さい手が少年の肩を叩く。途端に少年の表情が柔らかくなり、笑った。──視線の先には、チェリカがいた。

「セリ、良かった、無事だったの」

「は、はい。おれは全然──てか、おれの心配なんかしないでください! チェリカ様こそ無事だったんですか? 心配しました」

「うん、この通り」

「良かった……」

 胸を撫で下ろす少年──セリの肩を、今度は大きな手が叩く。不機嫌そうなメヒルの手だった。

「……私がチェリカ様とお話をしていたのですが」

「あ、メヒルさん、す、すいません」

「大体セリ、あなた、チェリカ様の心配もいいですけれどルノ様のこともしっかり見守るべきですよ」

「ルノ様の心配もしてましたよ! ……でも、おれの仕事はチェリカ様の護衛ですから」 

「まったく……ああいえばこういいますね」

 ふ、とため息をついてから、メヒルが眼鏡のズレを直した。トアンはおろおろとその様子を見、ついに耐え切れなくなってチェリカの袖を引っ張る。

「ね、ね、チェリカ」

「うん?」

「このヒトたちは、誰?」

「あ、ごめんごめん。──紹介が中途半端になっちゃったね。まず、こっちはセリだよ」

 チェリカの指に指され、セリがぴっと背筋を伸ばした。──しかし、その目は再びトアンを睨んでいる。

「私の幼なじみで、お世話係。護衛って言ってるけど、そんな危険なことないし。ずーっと、私がうまれてからずーっと一緒にいるの」

「へえ……」

 チェリカの言葉に、ふん、とセリが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。そこでやっと、トアンは段々この少年の気持ちがわかってきた。──彼は、自分と同じ。

「で、こっちはメヒル。私のお父さんのうまれるちょっと前くらいからこの城にいるんだ。もう、歳とかはわかんない。人間じゃない、ヒトだよ」

 メヒルがぺこりとお辞儀をする。

(そうだ、クラインハムトの話にも、メヒルさんの名前があった)

「メヒルは、この城の執事長。なんでもしってるの。──私の、脱走経路の半分以上から、お兄ちゃんの転んで割った皿の数まで」

「!」

 ルノの顔が一瞬で赤くなり、ものすごい勢いでメヒルを見た。メヒルは、涼しい表情で軽く頷く。──途端にルノの顔が今度は青くなった。その様子を眺めていたチェリカにセリが歩み寄り、問う。

「で、チェリカ様? この薄汚い冒険者は何者ですか? ──それと、その後ろに突っ立ってるヤツラは」

(う、薄汚い!?)

 あまりの言い方にトアンはさすがにショックを受けた。

(そりゃ確かにルノさんのローブの汚れがアウトなら、オレなんてもっとアウトだけど……あれ? 『冒険者』? ……。……薄汚いって言葉を向けられたのはオレ一人ぃ!?)

 あまりのことに口をぱくぱくさせるトアンを見て、セリが口の端を吊り上げた。二人の様子を見て、メヒルが釘を刺す。

「セリ、彼らはチェリカ様の友人です」

「友人……? ホントですか、チェリカ様」

「うん」

「へえー……」

 あからさまに疑っている表情のセリが、じろじろとトアンを見る。──いや、睨んでいるといったほうが正しい。

「こいつがね。ふーん……っておい! 寝るなよ、後ろのヤツ!」

 びっと指したセリの指の先には、今指摘されたにも関わらずもう一度欠伸するレインがいた。レインはのんびりと欠伸をしてから、煩そうに耳を塞ぐ。その態度にセリが拳を握り締める前に、チェリカが言った。

「あの子は、レイン。血華術が使えるんだよ。夢幻道士の力もある。その横にいるのがウィル。守森人と人間のハーフ。ちょっと事情があって、今この時代にいるの」

 チェリカの紹介が始まった途端、セリは背筋を伸ばしてチェリカの方をみる。チェリカは、そんなセリの態度の切り替わりを見て、ほんの少しだけ困ったように眉を下げ、続けた。

「それから、後ろにいるのがトト。──レインが眠いのは仕方ないことだから、セリ、怒っちゃダメだよ」

「え、う……はい」

「それから、さっきから君がずーっと睨んでるひとだけどさ。トアンっていうの。お兄ちゃんと一緒に、エアスリクにかかった呪いを解いてくれたひとなんだよ。……もちろん、みんな協力してくれたんだと思うけど、一番がんばってくれたひとだから。」


「こいつがなんて信「そうですか、失礼しました」


 トアンを指差し、馬鹿にしたように言い放つセリを押しのけ、メヒルが深々とトアンに礼をした。続いて、ルノにも。

「ルノ様、先程は怒鳴って申し訳ありませんでした。あなたが、我々を救ってくださったのですね」

「あ、いや、そんな……」

「トアン様も、感謝いたします。──それから、後ろのお友達方にも。セリ、無礼を詫びなさい」

「……。」

「チェリカ様の面子を潰すつもりですか」

「! ……ひ、非礼を詫び、ます」

 嫌々、心底嫌々だという態度を前面に表しながらセリが頭を下げる。

 トアンはセリウの気持ちがなんとなくわからなくもないが、自分もムッとしていたのもまた事実。いいですよ、とは口にせず、自分も頭を下げるとでそれに返した。──チェリカが、ほっとしたような表情になったので、まあいいか、とは思った。セリはさらにメヒルにくどくどと叱られている。

「トアン、ごめんね」

「……え?」

 その隙に、トアンのすぐ隣に歩み寄ってきたチェリカが、そっと耳打ちする。間近で聞こえた蕩けるような声にトアンは顔を赤くしながらも、努めて冷静に返事をした。

「セリね、ちょっと過保護なんだ。それと結構、初対面の相手にも色々言っちゃうんだよ」

「はぁ……」

 どうやら、チェリカはセリの怒りの理由には気付いていないようだ。──やはりといえば、その通りだった。

「ごめんね、気を悪くさせちゃって」

「え、ええ? ううん、全然。……それに、チェリカのせいじゃないでしょ」

「……ありがと」

 トアンの言葉にふんわりと微笑むその笑顔は、恋愛のフィルターなしでも十分愛らしいものだった。トアンがドキリと心臓を浮かせていると、ちくちくと背中に刺さる視線を感じる。

(……セ、セリさんだ)

 ひいい、と泣きそうになるトアンの気持ちを知らず、チェリカはトアンの手を取って、メヒルとセリを軽く手招きした。

「チェ、チェリカ……?」

「ええとね、メヒル、セリ。それからトアンに関して、もう一つ言っとかなきゃらならないことがあって」

「はい、なんでしょう」


「トアンはね、私のパートナーなんだ。今のね」


 ──空気を読まないチェリカの発言に、セリの顔が凍りついた。しかしそれは一瞬に過ぎず、次の瞬間、セリが腰の剣の柄に手をかけるのをトアンは見た。

(殺、殺られる──!?)

 かといって逃げるわけにはいかない。思わず瞳をぎゅっとつぶるが──いつまでたっても痛みは訪れなかった。

(あれ)

 ゆっくり瞼を開くと、メヒルに襟首を掴まれてじたばたと暴れるセリの姿が映った。──どうやら、助かったようだ。

「チェ、チェリカ、おまえ……」

 さすがに今の発言に肝を冷やしたらしいルノが、口を引き攣らせながら妹の名をよんだ。しかしその妹は「?」と不思議そうに首を傾げて見せるだけ。その反応にルノはガクリと肩を落とした。

「……失礼しました、トアン様」

 セリの襟首を掴んだまま、メヒルが言う。

「……え」

「このセリ、少々手が早い性格でして──先程の無礼な発言に加え、申し訳ありません」

「あ、い、いえ……」

(だって、少しはオレも、セリさんの気持ちわかるからなあ……ってことは、他人から見たら、オレも結構わかりやすいのかな?)

「それでは、私はこれより街の人々の安全を確かめてきます。──チェリカ様、ルノ様。メイドや執事には私から話を通しておきますので、ご心配なく。ご友人たちに、どうぞ城内を案内して差し上げてください」

 ぼんやりと思考をめぐらせるトアンを見て僅かながら微笑んだメヒルが、ぺこり、と頭を下げた。長身が半分にきれいに折れる。一瞬困ったようにチェリカを見たルノに応えるようにチェリカは頷き、ハキハキとした声で答えた。

「うん、わかった。任せていいかな」

「ええ」

「それでは失礼します。──セリ、あなたも行くのですよ」

「え、いやです、おれはチェリカ様の護衛なんですってば──ちょ──メヒ──……」

 ずるずると引き摺られていくセリの姿がアーチの影を越え、庭を通って消えていくのを見送ると、ルノがほう、とため息をついた。チェリカが優しくその肩に手を乗せる。

「……お兄ちゃん」

「大丈夫、平気だ。すまない、チェリカ」

「ううん、いいの」

「……ルノさん?」

 そんなルノの様子が気がかりなトアンがそっと問うと、ルノはふ、と苦笑を浮かべた。──疲れたようなその顔は、それでも十分美しかった。

「いや、その。……恥ずかしながら、一年たつけれど、まだ慣れないんだ。『王子』としての振る舞いは」

 語りながら、ルノが城に向けて歩き出す。トアンたちはその影を追いかけて、ゆっくりと歩き出した。ルノの顔は見えないが、どんな表情をしているのか、トアンはなんとなく理解していた。

「……メヒルは確かに恐ろしい。怖い。城のほとんどのことを知っている。そして優しい。──けれど、彼が敬意をはらって接してくれる以上、私もその、『王子』としてちゃんと応えなければならないと気持ちばかり焦ってしまってな」

「お兄ちゃんはちゃんとできてるよ」

「……そう、か?」

「うん。ね、トアン?」

「え、あ、うん」

「……そうか」

 そういって頷いたルノの顔は、なんとなくの予想の通り、柔らかく微笑んでいた。トアンはルノの笑顔を見て、心が温まるのを感じる。

(ルノさんもがんばってたんだ。いや、がんばってる)


「さてと」


 と、とチェリカが小走りで駆け出し、先頭に立った。くるりとトアンたちをを振り返って、申し訳なさそうに頭をかく。

「ごめん、私、ちょっと抜けていいかな」

「え……どうして?」

「……。えっと……」

「?」

 何故か口篭るチェリカにトアンは首をかしげた。チェリカが煮詰まるなんて珍しい。そのチェリカはちらちらとトアンを見たり地面を見たり落ち着かない様子をしていたが、やがてふっと息を吐き出して、口を開く。──その時、トアンの後ろで、レインがあ、まさか、と小さな声を上げて手を叩いた。ウィルが何々、と聞くと、どうやら耳打ちで答えたらしい。トアンにはそれ以上聞こえなかった。

「私ね、ずーっと石になってたでしょ」

「うん……?」

「だからさ、その……ええとねぇ。」

「風呂?」

 唐突にウィルが問う。その言葉は一応疑問系だったが、ほぼ確信の声色だ。

「うん、そう」

 えへへ、と決まり悪そうにチェリカが笑う。

「だから、お兄ちゃん、ちょっとトアンたちのこと頼んでいいかな」

「え……? ああ、もちろん。とりあえず、私の部屋に案内しておくよ」

「うん、じゃ、私お風呂から出たらお兄ちゃんの部屋いくね」

 照れ笑いを浮かべながらチェリカは言うと、あ、と何か気付いたような顔になってからふいにトトに向かって手を伸ばした。トトはぽかんとして首を傾げる。と、その服の隙間からコガネがぴょこりと顔を出した。

「ね、トト。ユーリ、つれてっていい?」

「え……」

「ユーリも女の子でしょ。一緒にお風呂はいってくるよ」

 女の子、という言葉を一瞬流してから、トアンはぎょっとしてチェリカを見た。が、チェリカはもう楽しそうな笑みを浮かべていたので、トアンは心の中で胸を撫で下ろす。

(そうだよな、女の子って、メスって意味だよな。……だよね?)

「あ……どうする?」

 トトがコガネと顔を合わせる。コガネは目を細めてピュイ! と高らかに鳴くと、トトの肩を蹴ってチェリカの腕までジャンプした。──行く、ということらしい。

「じゃあ、お願いしていいですか」

「うん。……私、誰かとお風呂はいるのなんて久しぶり。だから嬉しいな、よろしくねユーリ」

 ぬいぐるみを抱くようにチェリカはコガネを抱っこして、くるりと回った。そのままトアンたちにじゃあね、と元気良くいうと、城に向かって走っていってしまった。


「いっちゃった……」

「すまないな、落ち着きのない子で」

 呆然と呟くトアンにルノが苦笑する。城に近づくにつれて、城のなかの活気付いた声が大きく聞こえる。

「いつもより楽しそうだ。この一年間、あの子はどこか元気なかったからな」

「そうなの?」

「あぁ……あ、そういえばウィル。何故チェリカが風呂だとわかったんだ?」

 ルノがつと首をめぐらせてウィルを見た。ウィルはくい、とレインを指差して笑う。

「レインだよ、先に気付いたの」

「なに?」

「てかトアンさ。お前、ぜーんぜん気付いてなかったわけ?」

「え?」

 唐突に、呆れたようにウィルに言われてトアンは目を丸くした。その反応に、ウィルとレインがあからさまなため息をつく。──レインはまあいいとして、ウィルのため息に少しイラっとするトアンである。

「なんでだよ」

 少々むすっとした声色で問うと、ごめんとウィルが手を振った。

「いや、さ。ずーっとチェリカチェリカ言ってたわりには、案外お前ってにぶいんだなって。……ま、ルノはずーっと一緒にいたわけだし、盲点で気付かないかもな」

「だから、なにがだよ?」

「……チェリカがさ」

 そういったのはレインだ。ウィルと視線を合わせると、その途端ウィルが黙った。任せるよ、というようなジェスチャーにレインが頷く。


「チェリカが、けっこー女らしくなってたってこと。」


「……えっ」

 意外な言葉に、トアンの思考はフリーズした。真っ白になった頭の中に、先程のチェリカの姿を描き出す。くるっと回って、にこっと微笑むその姿は、一年前と比べて──比べて……?

「髪が少し長くなったってのもあるけど……なんだろう、雰囲気が少し変わった。……あっきれた、お前、ダメな男だな」

「え、ええ、え……」

 そういえば、チェリカは風呂の件を口にするのを躊躇っていた。ただ単に、自分が汚れていたことを言うのが恥ずかしかったのかもしれないが、もしかして、トアンを意識して中々言い出せなかったのかもしれない。


 ──ダメ男。


(まさに、オレのことだ……)


「……あ、あの、とりあえず私の部屋にいこう? な?」

 がっくりと落ち込んだトアンの背中を、ルノが優しく叩いた。




 窓から射しこむ光、柔らかな絨毯が敷き詰められた足元。金の塗装がされた手すりがぐるりとまわる、螺旋階段──エアスリク城のエントランスを抜けたその先。豪奢飾りが付けられたランプが並ぶ廊下──そこは、慌しく動き回る人(ヒト?)々で溢れていた。


 なにか長い羊皮紙に書かれたリストを手にブツブツと呟いている執事、モップをバケツを両手に持っているメイド、大きな帽子に裾を引き摺っている人──トアンが目で追っていると、あれは神官だとルノが教えてくれた──など、誰もが忙しそうだ。

 無理もない。誰もが、数ヶ月間の空白の復旧を急いでいるのだ。しかし決して走り回るようなことはせず、早足での移動なのが素晴らしいと言えるかも知れない。また、どんなに忙しい状況でも、ルノの顔を見た途端に挨拶をし、道をあけてくれた。ルノがそれに困ったように、それでも手を軽く上げて応えるのを、トアンは見ていた。


「兵士とかはいないのか」

 眠そうなレインの手をしっかりと握ったウィルが問う。あぁ、と首だけ回してルノが答えた。ルノとトアンは先頭にいるため必然的に道が開けるが、最後尾のトトの後ろはごった返す人の群れだ。

「いない。いても、意味はないだろう?」

「……あ、そっか。エアスリクと戦争しようだなんて国はないからな」

「それもある。私たちの国は、下では幻と同じなのだから──……それに自警団も必要ないんだ。何故なら、メヒルがいるからな」

「メヒル……? ああ、あのさっきの──おっと、失礼」

 どん、とぶつかったメイドにウィルが謝る。メイドは顔を上げてほんのりと頬を染めると、申し訳ありませんでした、といって早歩きで人並みに飛び込んでいった。ウィルはひょいと首を傾げてから、口を開く。

「あのおっさんか。でもあのヒトは執事だろ?」

「そう。だけれども、彼は強いんだ。とてつもなくな。……メヒル以外の執事もかなりの腕だし、メイドだってそれなりに腕の立つものばかりなんだ、ここはな。……それ以前に、争いもほとんどないところだから……とりあえず、続きは私の部屋でだ。もう少しだから、皆、もう少しだけがんばってくれ。……トアン、お前まだ落ち込んでいるのか?」

 心配そうな表情のルノにぐいっと手をひかれては、トアンはううん、と首を振ることだけしかできなかった。ルノはその反応に眉を下げ、丁度挨拶をしてきたメイドをつかまえ、小声で何か伝える。

(オレ……なんで気付いてあげられなかったんだろう)

 しかしトアンにはルノの心配を察する余裕はなく、先程までの無神経な自分をただ呪っていた。





 ──ふわ。純白の泡の影が、金色に煌くのを漆黒の目が追っていた。濡れた黒い瞳は、オニキスのように輝いている。

「気になる?」

 チェリカはちゃぽん、と手を動かして、濡れた毛並みを撫でてやる。泡の影よりも繊細な金色の毛並みは、ビロードのような手触りだった。思わずチェリカは微笑んで、風呂桶に泡を足してやった。


 ここは、エアスリク城にいくつかある浴室の中で、クリームのような白い大理石の猫足バスタブとシャワーがポツンとあるだけの、一番小さく、しかし一番チェリカが落ち着く場所だった。床には白いタイルが敷き詰められ、シャンプーなどのポンプの口は金でできている。──静かで、こじんまりとした空間だった。

 チェリカがふくふくとした泡を集めた猫足バスタブに入り、小さな風呂桶に別に湯を汲んで泡をいれて、コガネを入れて備え付けの小さな棚の上においてやっていた。──そうすれば、丁度目線があうのだ。


「ねえ、“コガネ”」

「ぴゅる?」

 さきほど知った名前を呼ぶ。再び漂う泡を追っていた目が、チェリカの方を向く。コガネがくい、と首を傾げるのを見て、チェリカは泡をそっと両手ですくうと、ふっと息を吹きかけた。金色の光が虹色になり、そしてまた物言わぬ白に戻る。

「私ね、嬉しいんだ」

「ぴゅい……?」

「ほら、お母さんがいた、小さいころは一緒にお風呂に入ってくれるヒトがいたんだけどさ、今はもう、いないの。」

 チェリカの呟きが、浴室の中に小さく響いた。ピチャン、とどこかで雫が垂れる音がする。

「お兄ちゃんは絶対いやだっていうし──頼み続けたら多分、いいよ、って言ってくれるかもしれないけど、そんなの嬉しくないんだ」

「……。」

「だからずーっとひとりぼっちだったんだ。──トアンたちと旅をしてるときも、女の子は私ひとりだったから。私は別にいいんだけど、トアンは絶対だめだよって言うし、トアンたちはいいんだよ? だってみんなでお風呂にはいれるんだから」

 ──ふう。チェリカのため息が泡を浮かせた。ため息をついてからチェリカは笑う。金髪から湯が滴るから、ほんの少し目を細めて。

「……だからね、友達とお風呂に入るの、すごい嬉しいんだ」

「ぴゅい……」

 コガネも応えるように目を細めた。尻尾を振ったときに、ポタン、と泡が跳ねて、空中を漂う。チェリカはバスタブの縁に頬杖をついて目で追いながら、コガネに問いかけた。


「──コガネはさ、本当は、何歳なの?」

 チェリカを見返すオニキスの瞳が、まん丸に見開かれた。チェリカはそっと苦笑をして、頬杖についていた手を組みかえる。

「ほら、そういうトコ。私、わかっちゃったんだよ。君、人間……でしょ? そうだよね」

「ぴゅいい……」

 コガネの耳がぱたん、と伏せられた。コガネはどこか心もとないようで、瞳に入れた光をくるりと回す。チェリカはそんなコガネの様子をみて、余計なことを言っちゃったかな、と眉をさげた。

「ごめんね」

「ぴゅい?」

「言わないほうがよかったね」

「ぴゅるるる!」

 ふるふると勢い良くコガネが首を振ったので、泡がとんだ。泡は、チェリカの青い瞳に飛び込んだ。小さな痛みに、チェリカは目を押さえて小さな悲鳴を上げる。

「ぴゅい!」

「わ! いたたた……」

「ぴゅ、ぴゅい、ぴゅー」

「だ、大丈夫、そんな慌てなくても──シャワー、シャワーっと」

 痛くないわけではなかった。けれども、そこまで酷くない。今まで負ったことのある痛みと比べると、ほとんど気にならないに等しい。可哀想なくらい慌てるコガネを安心させようと片目を閉じたまま微笑んで、バスタブから身を乗り出してシャワーを掴むと思い切りコックを捻った。すぐに温かい湯が流れ出てきて、チェリカはシャワーのなかで瞬きをする。──しばらくするうちに、痛みはなくなった。かすかな違和感が残ったが、すぐに消えるだろう。

「ぴゅう……」

 しゅんとしょげた様子のコガネがバスタブの縁に乗って、チェリカを見上げる。どこまでも深いオニキスに、チェリカは手を伸ばした。濡れた鼻面が、チェリカの指に揺れる。


『ごめんなさい』


「……えっ?」

 それは、テレパシーとでもいうのだろうか。唐突に頭の中に響いた、少女の声。チェリカよりももう少しだけ大人びた、優しい声だった。

「……君は、それとも──……」



 *



 ルノの部屋は、塔の最上階にあった小部屋と比べると随分キレイに片付けてあった。床にはチリひとつなく、ピカピカのフローリングの上の柔らかな絨毯、毛の長いソファ、小さなガラスでできたテーブル、古めかしい本が詰め込まれた本棚と整理整頓された机。──無駄なものが一切ないような部屋にトアンたちは感心し、ルノは少しだけ得意そうに胸を張った。

「キレイな部屋……それに広いんだね」

「ああ」

「なー、ルノ。このテーブルの足の石さ、これ、宝石?」

「ああ、まあな」

「すごいです。ルノさん、この本って古代に書かれたものもありますよね。──うわ、幻の水の都、ガーネルシアについての本だ」

「ああ、そうだ」

 トアンとウィル、トトが其々驚きにおおーと声を上げるので、ルノは上機嫌だ。

「上着は、そっちのクロゼットの中にハンガーがあるからそこにかけてくれ」

「うん、わかった……うわ、このハンガーすごいや」

 シアングのいた、ベルサリオの城の中に入ったときもそうだったが、トアンはこんな高級な家具に触れることはほとんどない。今もまた、すべらかな手触りのクロゼット、その中の手にとったハンガーに埋め込まれた宝石に感嘆の声をあげた。

「オレの上着なんてかけていいのかな……」

 トアンがハンガーを手にしたままううんと考え込んだ、その時だ。コンコン、と扉が遠慮がちにノックされた。

「誰だ?」

 首を傾げてルノが問う。

 チェリカじゃん? とウィルが呟くと、ルノは呆れたような表情であの子が私の部屋にノックなんてすると思うか、と返す。


「あ、あのう……」


 扉の向こうから聞こえてきた声は、少女のものだった。

「入っていいぞ」

「はい、あ、あの、お茶とお菓子をお持ちしました。メヒル様に言われて、その……」

 ルノの承諾に扉がゆっくりと開き、赤毛のそばかすの目立つ、しかし茶色の瞳が愛らしいメイドの少女が入ってきた。一緒に豪奢な装飾のされた銀のカートをひいている。カートの上には、繊細な模様を施されたポットにカップ、そして様々な焼きたてのクッキーがならんでいた。

「なんだ、ミントか。どうした、そんな改まって」

「ルノ、知り合いか?」

 ルノの正面のソファにレインと共に腰を降ろしていたウィルが訊ねる。トトがルノの隣に座り、トアンに手招きした。──いつまでもぼうっと突っ立っているわけにはいかないと、トアンも急いでトトの隣に座る。

「あぁ……ウィル? 先程お前にぶつかったメイドだよ、彼女は」

「え、そうだっけ」

「そ、そうです。先程は申し訳ありませんでした」 

 ウィルの言葉に答えたのは、ルノではなくほんのりと頬を桜色に染めたミントだった。と、ミントの後ろからスルリと入ってきたもう一人のメイドが、一礼してからカートの上のお茶とクッキーをてきぱきとルノたちが並ぶガラスのテーブルに並べてしまう。

「あ! メイメイ、あたしがやるって……」

「遅いのよ。お茶が冷めちゃうわ」

 メイメイ、という少女はウェーブがかった薄茶色の髪の毛に、はっか色の瞳だった。愛らしい表情は仮面のような無表情で、背はミントよりも少し小さいが、仕事はとても手際がいい。お茶のセットを終えると、きびきびとした動作でルノに一礼した。メイメイにつられて、ミントも礼をする。

「ルノさま、他になにかいるのならば、ベルを鳴らしていただくか、廊下で右往左往している者共に遠慮なくおっしゃってくださいね」

「メイメイ! そういうのもあたしの仕事~!」

「ぼうっとしているからよ。……では、失礼しますね」

「あ、あぁ。ありがとう」

「い、いいえ……。」

 ルノの礼に、はじめてメイメイの鉄火面にひびが入った。はっか色の瞳をパチパチと瞬き、ふんわりと甘い砂糖菓子のように微笑んで、左手にカート、右手にミントの襟首を引っつかむと部屋を出て行ってしまった。


 ……自己主張の強いメイドたちに唖然とするトアンたちをみて、ルノが慌ててフォローをいれる。

「メイメイは……ミントもだがな、この城のメイドや執事は、皆少し変わってるんだ。──仕事は皆キチンとできるし、言葉遣いは丁寧なんだが、丁寧じゃなかったりもする。……大人以外に、あの二人やセリのような子供たちが何人かいるから、まあ、すれ違ったら仲良くしてやってくれ」

 結論を呟いてから、私も何を言ってるんだかと苦笑するルノの笑顔が本当に愛らしくて、トアンが笑みを返そうとした瞬間。

 二人のメイドが消えていったドアの向こうから、ミントの叫び声が聞こえた。続いて、冷めたようなメイメイの声も。


「駄目~~~~~!! あの茶髪の子はあたしが狙ってるんだから!」

「別に狙ってないわ。……ミント、あなた趣味変わったわね? 昔のあなただったら隣に居た金髪オッドアイでしょう」

「いやよあんな白くて病弱そうなの! とにかく、あの子に手だしたら、メイメイといえどド突き回すぞコラァ!」

「好きになさいな……でも、ルノ様の前でそんな口聞いたら許さないわよ」

「な、なによう、ルノ様ルノ様って」

「さっさと仕事に戻りましょう。メヒル様がそろそろ帰ってくるわ」

「ちょっと、待ちなさいよメイメイ!」

「城中のメイドにあなたが釘をさして回るのを見ているほど、私、ヒマじゃないの」

「メイメイ~~~!」

 

 メイメイの声に続いてミントの泣きそうな声、小走りなの足音が遠ざかっていくと、しんとした静寂があたりに訪れる。

「……な、な? 少し、変わっているだろう……」

「……女って、怖いな」

 ルノとウィルがぼそりと呟く。その通りだった。トアンたちは妙に気まずくなって、メイメイが置いていってくれたお茶セットの銀のスプーンに其々の顔が映りこむのを、ズーンと落ち込んだまま暫く長めていた。


 *


「もしもーし、お兄ちゃーん? お風呂あがったよー……あれ?」

「ぴゅい」

 チェリカが扉を開けた瞬間、何の予告もなかったことにトアンたちはまた『あのメイド』たちの来襲かとある者は身構え、ある者は遠くを見……とたっぷりと警戒した反応をしていた。しかし扉の向こうにいたのは怪訝そうな顔をしたチェリカで、どこか遠くを見ていたルノが慌てて咳払いをする。

「……何、どうしたの」

「い、いいや?」

「あ、お茶とお菓子……誰が届けてくれたのー?」

 丁寧とは程遠い動作でチェリカが扉を閉め、その肩に乗っていたコガネがヒラリと跳躍し、ガラスのテーブルを軽く蹴って、トトの膝に着地して丸くなる。ルノに手招かれるままレインの隣に腰掛けたチェリカが手を伸ばして、早速クッキーを一口齧った。チェリカは青い瞳を不思議そうに瞬きながらぐるりと面々を見渡し、ウィルをぼーっと見ていたレインの袖を引っ張って、問う。

「レイン、眠そう」

「……別に」

「なに? なにがあったの?」

「……いや。なんか騒がしいメイドが来て、赤毛と薄茶色の──」

「メイメイとミントでしょ?」

「それ」

「ああ、なるほどね」

 言葉の少ない会話だったがチェリカは全て理解したようだ。うんうんと頷いてから、どんよりとした空気を入れ替えるようにスプーンでカップを一度鳴らす。──チン、と澄んだ鈴のような音がした。

「メイメイとミントのいう事は深く気に考えないでいいよ。すぐ変わるから──それより、お茶しよ! ね、折角もってきてくれたんだし。色々みんなの話も聞きたいから──トアン、カップとって。私注ぐから」

「う、うん──あ」

 不意に名前を呼ばれ、顔をあげたトアンはここでようやくチェリカの服装に気がついた。ぽかん、と口をあけたまま、金髪を飾る大きな赤いリボンに見とれてしまう。

 ──リボンだけではない。

 深い紅色の肩を切り落としたシャツに、真っ白な雪のようなマント。プリーツがざくりと入ったスカートの中には、ふわふわの花びらのようなレース。黒のアームウォーマーをピタリと腕にはめ、それと対を成すようなニーソックスとブーツ……上から下までじっくりと見て、もう一度上から下まで見ても、そこにいるのは少女らしい服装をした、少女ではない性格の少女だったのだ。

「……トアン?」

「は、はい!」

「どしたの、ぼーっとして」

「う、ううん、はいカップ」

 情けなくもカタカタと震える指が危なげに運んだカップを受け取ってから、チェリカがカクリと首をかしげた。

「トアン、変だよ。どうしたの」

「こいつはいつも変だよ」

「レイン」

 チェリカの疑問に答えたのはレインだ。チェリカが咎めるように視線を向けるが、レインは面白そうに目を細めてトアンを見る。

(兄さん、やめて、言わなくていいこと言わないで)

 トアンの必死な目配せと願望に気付いているのか気付いていないのか、


「あれだろ、お前の服装に驚いてるんだろう」


「兄さん!」

 まさに事実を言い当てて、レインはチェリカを指差した。トアンは顔から火が出る思いで叫ぶが、チェリカは反対側に首をかしげ、きょとんとした表情になる。

「なんで? 私のカッコ? ……お兄ちゃん、これ、変?」

「え、ええ!? そこで私にふるのか? ……別に変じゃないとは思うが」

「変じゃないよねえ、うん、メヒルが選んでくれたやつだし……あ、トアンはこういうの嫌いなのかな」

「……ちょ、ちょっとチェリカ。裾をヒラヒラさせるのをやめなさい」

「え? うーん、なんでかなあ。ウィルはどう思う?」

 ルノに窘められ、大人しく紅茶を注ぎ始めたチェリカが、湯気の向こうからウィルに問いかけた。ウィルはトアンの方を気の毒そうに見てから、口を開く。

「……女らしい服だからだろ。チェリカ、ローブとかそんなのしか着なかったから」

「あ、そうか……。私がスカートって変か」

「いや、違くて」

「お兄ちゃんなら良かったのにねー」

「私にふるな! 良くもない!」

 呆れたようにルノが妹を制し、大きなため息をついてトアンを軽く睨んだ。チェリカは紅茶を注ぎながら、ウィルやトト、レインに対してお兄ちゃんならいいよねーと語るのに夢中で、ルノの視線には気付いていない。トアンは思わず背筋を伸ばして、ルノに応えた。

「チェリカがああいう服装を着ていたって、中身は変わっていない。ただ少しだけ、ああいう服を着てみたいと思える余裕が出てきただけだ。あんまりジロジロ見るなよ」


 ──兄として釘を刺したのか、それとも被害を食い止めるための助言なのか。トアンはただ神妙な顔をして、頷くことしかできなかったのである。



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