第26話 その名はスピカ
「大陸が見えました!」
曇った窓を開け放ち、トトが嬉しそうに叫んだ。さわやかな潮風が窓から入り込んでその髪を揺らしている。
トアンもトトの隣に立って、その窓から顔を突き出すと、おぼろな灰色の影が、ぐんぐん濃くなっていくのがわかった。
「長かったね、ちょっと」
「はい。……ふふ、早く地面に足を付けたいですね」
「あははは、そうそう」
「ならば、もう準備をしなくてはな」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。──と、後ろから近づいてきた落ち着きのある声に、トアンはにこにこと笑ったまま振り向いた。
「ルノさんも嬉しそうだね」
「……そ、そうか?」
「そうだよ。船酔い、酷かったから」
「言うな、もう大分慣れた」
そういうなり額を押さえるルノを見て、トアンはまた笑みがこみ上げてくる。また強がって、と言いながらタオルを差し出すと、ありがとうと素直に受け取ってくれた。
「……そういえば、トトと初めて会ったのもあそこだったな」
「そうですね。まだそんなに時間経ってないけど……変ですね、懐かしいです」
そういいながら目を細めるトトを見、トアンがニヤリとした笑みを向けた。
(そのトトさんが、あのトルティーなんだよね)
途端にトトがびくりと身を竦ませ、人差し指を立ててしーっとしてみせる。──軽い冗談のつもりだったが、その察しの速さにトアンは驚き、それからゴメンと両手を合わせた。トトは怒ったように眉間に皺を寄せて、それから先程トアンがしたようにニヤリとしてみせる。
(……察し、いいなあ……。プルートのことはあんなにも鈍いのに……。)
もうその姿をはっきりと見せつつある大陸に顔を引き締めた。トアンたちを乗せた焔城行きの船は、もう、あと数十分で港に着くであろう。
トアンはぼんやりと、この船に乗ったとき──チャルモ村を後にしたときを思い出した。
「……それじゃあ、行って来るね」
ボーッ。船の汽笛が鳴る。海鳥が一斉に飛び立ち、冷たい空気がトアンの頬を撫でた。真っ白なマストが揺れる船には船には、もうすでに船員も乗客も沢山の人が乗っている。もう一度汽笛がなって確認、安全確認後に最後に汽笛とともに出港だ。
トアンたちの行き先、竜の住処として、閉鎖的であった焔城は、最近は人々との接触を積極的に取っているらしい。トアンたち以外にも、焔城にいくといっている乗客の姿がちらほらと見られた。
「気をつけてな」
ウィルがにっこりとした笑みを向けながら、トアンの手に荷物を渡した。ウィルと、レインと、プルートは、見送りをするためこの港まで一緒に来てくれたのだ。ここはチャルモ村から馬車に乗り、長い坂を下った先にある小さな港である。
──見送りとは、他の誰でもない、トアン、ルノ、トトのための見送りである。子供たちについてシオンは学校に行っているが、朝、ちゃんと行ってらっしゃいをもらったのでもう十分だった。
「ありがとうウィル。ここまで送ってくれて」
「いや、がんばってこいよ」
ちら、とウィルがルノを見て言った。ルノに向けてなのか、トアンに向けてなのか、はたまたその両方に向けられたものなのか。トアンが頭で理解する前に、ルノが頷いてトアンの手をとったので、トアンも慌てて頷いてみせる。
「兄さんもありがとう。身体、気をつけてね」
「別に」
「レインは大丈夫だよ、オレいるし」
さらりと間に入るウィルを見て、ルノはくすくすと笑いながら言った。
「では何かわかったら、一度村に戻ろう」
ボー……汽笛がなる。まだ数人残っていた乗客が急いでタラップを進むのを見て、トアンは慌ててルノとトトの手をとった。もう一度鳴ったら、もうその時は出港だ。
「……トト!」
プルートの声にトトが足を止め、振り返る。……どうやらプルートは、思わず呼び止めてしまったようで、何を言うか迷っているようだ。人々のざわめきの中で困ったように視線を彷徨わせるプルートに、トトがにっこりと笑みを向けた。
「それじゃあ、プルート。またね」
「あ、ああ……ト、トト。気をつけてな」
「別に、危険なことするわけじゃないよ?」
「だ、だけど……」
「シオンをよろしくね……俺の、俺たちの無事を祈っててよ、プルート。笛を吹いて、まってて。君のまじないはよく効くから」
「……。」
プルートの頬に朱がさし、ぷいと顔が背けられる。トトはもう一度笑ってから、ウィルとレインに頭を下げた。
「プルートをお願いします。……それから、ありがとうございました」
「いーや、いいんだよ」
「お前も気をつけろよ」
「はい!」
さわやかに微笑むトトにトアンはつくづく尊敬を感じながら、自分もルノの手を引いてタラップをのぼり、そして手を振った。
「じゃあ、また!」
──そして、大海原を越え、テュテュリスの待つ焔城の大陸が見えたのだ。
「荷物まとめたら、もう行こうか」
「そうですね」
ブーツの紐を締めなおすトアンの横で、ルノの分の荷物までトトが手早くまとめあげる。
そのルノはというと、未だ顔色が優れないがなんとか背をシャッキリと伸ばし、トトから荷物を受け取っていた。
人々のざわめきが聞こえ、汽笛とともに鈍い衝撃。──どうやら、港へ停泊したらしい。
「……そういえば、前はルノさんと二人っきりで船に乗ったんだよなあ」
「あぁ……そうだったな。あの時はアクエリアスが送ってくれたんだった」
「そう、──あ……?」
ふと、部屋のドアノブを握った瞬間、トアンの脳裏にある光景がフラッシュバックした。
白い帆。風をまとって、ピンとはった真っ白な帆。
──そこに映える、ワイン色の──……
「……トアンさん?」
ドアノブを掴んだまま、ある種間抜け面で立ち尽くすトアンを、心配そうにトトが覗き込んだ。トアンはその問いかけにはっとし、目を瞬く。しかしその光景を記憶の片隅に押し寄せる前に、もう一つ、別の光景を思い出した。
──チャルモ村に着いたばかりのとき、トトが、正体を明かしたときのことだ。その時トアンは、そのトトの正体と目的に圧倒され、ついに聞く機会を失ってしまった『名前』を聞いたのだ。
──スピカ、と。
確か、あの、ワイン色のマントの少女は、スピカと名乗った。そしてトトの横に居た影、レムがその名を口に出したのだ。──その時、トアンの頭はあの少女とレムの言った名をイコールで繋いでいた。
「……トトさん、あの!」
「は、はい?」
「オレ、そうだ、聞き忘れてた。あのさ」
突然真摯な声で叫んだトアンを見るトトは目を丸くしているし、その隣のルノも驚いているようだった。けれど、結論をと口を急かすトアンの頭はそれに気付かず、そしてさらに酷いことに、トアンの口が言葉を紡ぐ前に、部屋のドアがノックされた。
「お客さん、降りないんで? この船、そう長くここに留まってられませんぜ」
船員の声に、ルノがトアンの背を軽く叩いた。いくぞ、という一言とともに。
これにより、再びトアンは少女について訊ねる機会をなくしてしまうのだった。
焔城は、以前よりも賑やかになっていた。テュテュリスが人間との交流をもっと持とうと、人間と竜はもっと歩み寄るべきだと城を開放した。その結果、焔竜を一目見ようと観光客や相談を持ちかける人が、大勢は無理なので人数を絞り、特定の船で少しずつ城に訪れる様になったらしい。
トアンはつくづく忘れそうになるのだが、この世界にいる普通の人間は、焔竜の名とその存在ぐらいしか知らないのが普通なのだ。ヴァイズのように顔を出しているわけではないので、その容姿見たさの人間が大勢いるのだろう。
今すぐにでもテュテュリスと面会がしたかったが、新しく雇ったと見られる兵士に、トアン様、焔竜様からの伝言です。夜までお待ちくださいといわれ、部屋に案内されたわけだ。
「私たちが来ることを、予想していたのか?」
兵士の残した言葉にルノがしきりに首を傾げる横で、トアンはそっと窓から見える夕暮れの空を見た。
──この城からは、星がきれいに見れるようだ。真っ赤な空の中に、もう、小さな星が瞬いているのが確認できた。
赤が濃紺に代わり、夜空には宝石箱をぶちまけたような星の海が輝くころ、トアンたち三人の待機していた部屋の扉が叩かれた。どうぞ、と声をかける前にドアは開いて、艶やかな黒髪をショートカットにした、切れ目の女性が部屋に入ってきた。
「おうおう、久しいのう、トアン、ルノ、トト。元気にしとったか」
にこにこと笑顔を浮かべながら三人を見渡すテュテュリスの後ろからリクがついてきているのが見えた。テュテュリスは相変わらず偉そうに、腰に手を当てながら挨拶すると、ふと、ルノを見て目を留める。
「テュテュリス……」
「なんじゃ、ルノ。泣きそうな顔しおって──ああ、そうか」
「な、泣きそう? 私が?」
「そうじゃよ。──すまんのう、シアングのことじゃろう?」
「!」
「ゼロリードのしたこと、もうこの耳に届いておるよ。……じゃが、あの男、昔は家族思いの優しい男じゃった。今は変わってしまったが、ベルサリオの跡継ぎはシアングじゃ。じゃから、シアングにさらに酷い危害を加えることはないじゃろう。安心せい」
とんとルノの肩に手をあて、テュテュリスが優しく告げた。ルノの瞳が一瞬潤み、それから顔を伏せて「ありがとう」と小さく呟く。テュテュリスはうんうんと頷くと、今度はトアンの前まで歩いてきた。
「トアン、エアスリクへの道を探しに来たのじゃろう」
「そ、その通り」
「……今、ハルティアのゲートは全て閉じられてしまったからのう……」
ソファに身を沈め、憂いのため息をつくテュテュリス。トアンはその正面に座り、ふと、何か違和感のようなものを感じ取った。
(なんだろう?)
黒髪も、金の瞳も、中性的な魅力も変わりがない。すらりとした体型もほとんど変わりが──……
(……少し、太った?)
太ったという表現はおかしいと、自分ですぐさま否定する。
(太ったんじゃない、いや、太ったんだけど、……丸みを帯びたっていうか。中性的っていうより、なんか『女の人』って感じが、する……)
トアンがあまりにもテュテュリスを凝視しすぎた所為だろう。テュテュリスが不思議そうに首をかしげた。
「ん? なんじゃ、ヒトのことジロジロと」
「え、あ、いや……」
「うん?」
「……そういえばこの城に来る人、増えましたね」
うろたえるトアンの代わりにトトが口を開く。トトのウィンクに、内心助かったとトアンは手を合わせた。
「そうじゃろ? ……まあ、相談ごとを聞いたり、人間との距離を歩み寄ろうという考え、というのが大前提なんじゃがの。……彼らの大半は、『祝い』の目的でこの城に来ておるのじゃ」
「『祝い』?」
「うむ。のう、リク?」
「はは、そうスね……」
テュテュリスが話を振ると、何故かリクが照れたように頭を掻いた。トアンとトトが顔を見合わせ、ルノも揃って首を傾げる。
三人の様子を楽しげに眺めながら、テュテュリスは自分の腹をそっと撫でた。リクがその横で優しい微笑みを浮かべながら、その手に自分の手を重ねる。
「ここに、子がおる。」
「俺とテュテュリスの子です」
「……。」
トアンたち三人は同時に瞬きし、そして、トアンとルノは同時に叫んだ。
「……子供ぉぉぉおお────!?」
「へえ、それはそれは……おめでとうございます」
叫んだっきり固まるトアンとルノを置いてきぼりに、トトが手を合わせて祝福の意を表した。その懐からコガネが顔を出し、一声鳴いて首を伸ばし、濡れた鼻面をテュテュリスとリクの手に押し当てる。
「ぴゅい」
「おお、ユーリ。お前も祝ってくれるのか? ふふ、トトもありがとう」
「今何ヶ月なんですか?」
「まだ三ヶ月くらいッスよ。……ちゃんとした医者に検診受けてるわけじゃないから、はっきりとは言い切れないんですけどね」
「うるさいのう」
「アンタがめんどくさがるからですよ。──そもそも妊娠がわかったのだって、ほかの竜がこの城にきたからで……」
「まあまあ、そのうち元気にうまれるじゃろうから、まだ良い。まだ腹も大きくなっておらんし」
「……これですから」
ね、とリクが肩を竦めてトトを見る。けれどもそのリクの顔は、とても幸せそうに輝いていた。テュテュリスもまたしかり。
「こ、こ、子供って……」
混乱にすっかり使い物にならなくなってしまったトアンはそう呟いて、自ら口にした言葉に何かショックを受けた。
この城にルノと二人で訪れた際、リクとテュテュリスの関係はちっとも進展してないと思われたのに、随分進むところまで進んでいたようだ。──そこまで考えて、ショックというより、期待を上回る事実についていけないのだと悟る。
(ああ、でも、良かった……素晴らしいことじゃないか)
冷静に見つめ返してみれば、なんて素敵なことなんだろう? トアンは今さらながらに笑顔を浮かべて、テュテュリスとリクの手に触れた。戸惑っていたルノも、そっとそれに続く。
「……元気な子が、うまれるといいな。すまない、テュテュリス。これは驚くことでも恥じることでもなかった。喜ばしいことだな」
「そうだね、オレも……ごめんなさい。おめでとう」
「ふふふ、ありがとうのう、二人とも。……しかしのう、トアンもルノも、意外にむっつりスケベじゃのう……」
「な、私が!?」
「そうじゃよ。トアンはある程度予想していたがの」
「予想済み……。」
「わ、私は違う!」
真っ赤に顔を染めてルノが怒鳴るのを、テュテュリスは楽しそうに見ていた。リクがまあまあと二人を宥め、それから部屋の前にとめていたと思われる台車から紅茶のポットを乗せたトレーを持ってきた。
「そろそろ、お茶にしましょう。……トアン君たちがこの城に来たのは、アンタの予想通りなんですから」
「うむうむ」
満面の笑みでもう一度腹を撫でると、テュテュリスはリクからカップを受け取った。リクは残りのカップと厚切りのパウンドケーキをテーブルに並べる──カップは、とろけるような白いすべすべの陶器で、蝶を模した華奢な金の装飾がついていた。それがテーブルの上に置かれると、改めてここが一つの城であるとトアンに教えてくれたのだった。
「予想通り、とは」
「ああ。……実はのう、わしも焔竜として、世界に直接関わるような出来事は大体把握しておるのじゃよ。エアスリクのことは遅れて知ったが、今ではわし以外の竜全てに伝達が回っているじゃろう……予言や、ゼロリードの妙な動きも」
「予言……?」
「ああ、いや。気にしなくていい。……お主等がここに来た、ということはエアスルリクをもどす方法がわかり、その手段を手に入れたので、エアスリクまで行く方法を教えて欲しいのじゃろう」
「その通りだ。頼む、テュテュリス。ハルティアのゲートが閉じられた今、私たちはお前しか頼れない。……ヴァイズはきっと、協力してくれないだろうし」
「いや、あの人間嫌いのヴァイズだって、エアスリクには敬意をはらっておる。手を貸してくれるじゃろう。……しかし、人間を──いや、トアンを連れて行くのなら、決して首を縦にふるまい」
「……オレ?」
「そうじゃ」
「何か問題があるんですか?」
自分を指差し、目を丸くしたままきょとんとしているトアンに代わって、トトが言った。
「……今の言い方だと、ほかの人間──例えば俺なんて、大丈夫そうなんですけれど」
「……うむ。……のう、ルノ、トアン。お主等、全てを見届ける覚悟はあるのか?」
「何?」
「え?」
「リク、すまぬが席を外して欲しい。──頼む」
「え? あ、ああ、わかったッス」
テュテュリスの気配が変わったのを敏感に察知したのだろう。不思議そうな顔をしながらも、素直にリクが席を立って部屋を出て行った。パタン、という扉が閉まる音の余韻を逃さないように目を閉じたテュテュリスに、トアンは何か嫌なものを感じ取る。
「……。」
見れば、ルノもまた不安そうな目でトアンを見つめている。テュテュリスは何が言いたいのだろう──? 再び目を開けたテュテュリスは、美しい金の瞳を輝かせた。
「……この世界ができたとき、ハルティアはたった一つ、『予言』を遺した──……それが『凶星の予言』じゃ。この世界で竜とごく一部のものたちだけに語り継がれる、呪われた──いや、……。ルノ。お主、自分が何故禁忌の子として幽閉されたのか理由を知らんじゃろう」
「あ、ああ」
「全ては予言の通りなのじゃ。予言が、お主の存在を禁にした──お主の存在は世界を審判にかける。ハルティアの遺した、予言の通りに」
「……テュテュリス、すまない、意味がよく」
ルノが困惑の声を上げた。トアンもそうだ、と続ける。
「オレは? ルノさんとオレは、どんな関係があるの?」
「トアン、お主こそが、審判に必要な人なのじゃ。すべてを還すための力を持つ、人間の──ッ」
不意にテュテュリスが声を引き攣らせ、喉を抑えた。パクパクと魚のように開閉する口からは声が音となって聞こえることはなく、テュテュリスの眉間に皺がよる。慌ててリクを呼びに行くと立ち上がったトトを制し、ゆっくりと深呼吸すると彼女はようやく言葉を喋った。
「──すまないのう、これ以上は、やはり言えぬか」
「テュ、テュテュリス? 今のは一体──」
「束縛があるのじゃ。この予言について、一部のものを除き詳しくを述べることは許されていない。……予言が声となってでることがないのじゃ……」
申し訳なさそうに呟いてから、テュテュリスは続けた。
「これしか言えん。けれど、お主等のこれからの行動によって起こるであろうことは、決して優しいものではない。──それでも、エアスリクに行くのか? 我ながらずるい質問じゃと思うがの」
「私は行くぞ。……トアンは、どうする?」
「……オレは、」
──なにかとんでもないことが起きるなら、行かないほうがいい。ユメクイのあの瞳が、忘れられない──……
理不尽な悔しさにつと目を逸らすが、しかし、ルノはトアンの手をしっかりと掴んで言った。
「……一緒に来てくれるな。ここまで協力してくれたんだ。来てくれるだろう?」
「……いいの?」
「ああ。その結果なにが起ころうと、予言は予言だ。外れることがあるかもしれないだろう。……未来なんて、不確かなものなんだからな」
花が咲くように微笑むルノの横で、トトが頬を掻いたのが見えた。けれど、このときトアンはあまりにもルノの言葉が嬉しすぎて、ルノの手を握り返して言ったのだ。
「うん、オレも行くよ!」
明日使い魔を貸してやるから、今晩は焔城に泊まっていけ、というテュテュリスの好意に甘えることにしたトアンたちは、思い思いの方法で夜を迎えた。
温かい温泉に浸かって、すっかりリラックスしたルノはもうベッドにもぐってしまい、トトは城の中をコガネと探検している。トアンは一人ベランダで、零れ落ちそうな星空を見上げていた。
──あの、テュテュリスの妙な態度が気になる。けれどそれを打ち消すほど、トアンの中にある希望は膨らんでいたのだ。
(もうすぐ、チェリカに会える)
見上げても見上げても届かなかった、掌のずっと先にあるエアスリク。
「風邪を引くぞ」
背後からかけられた声にはっとすると、ケープを羽織ったテュテュリスがニヤニヤと笑っていた。
「だ、大丈夫だよ」
「そうか? ……ふふ、眠れないのじゃろう」
「……うん、まあ」
「無理もない」
トアンの横にテュテュリスは並んだ。ぬるい夜風が、艶やかな黒髪を揺らす。
「……のう、トアン」
「なに?」
「シアングは、……元気じゃったか」
「!」
「わしは、あの子のことを知りながら、あの子のことを察してやることはできなかった──……シアングがどんな気持ちを抱いていたか、なんて。ゼロリードが訳もなくシアングを虐待するとは思わない。……思わないからこそ、こうやってこの城に留まっておる」
「……シアングは、元気だったよ。自分の意思で、国に帰るって」
チラチラと輝く夜空が美しい。トアンは砂漠で見た夜空と、テュテュリスの竜の姿の毛並みをふと思い出した。そっとテュテュリスを窺うと、彼女もまた、空を見ていた。
「……そうか。」
「ルノさんのことは知ってる?」
「……裏切った、ということか」
「うん」
「知っておる。それも噂での。……しかし、わしにそれをどうこうする権利はないんじゃ」
「大丈夫、そういう意味で言ったんじゃないよ。……それに、ルノさんは一人でもちゃんと整理してる」
「そうか……強いのう」
再びぬるい風が吹いて、テュテュリスとトアンの髪を撫で回した。──暫くの沈黙があってから、テュテュリスはようやく続きの言葉を発する。
「シアングの、金の髪留めを知っているか?」
「え? あ、うん」
突然の問いに少々驚きつつも、トアンは楽に、赤紫色の髪を一本にまとめる金の髪留めを思い出せた。──初めて出会ったときから、ずっとつけていたものだ。一年前はなんとも思わなくて、ただ飾りだとしか考えていなかったが、ベルサリオの城で見たシアングの髪に光ったそれを見たとき、金の髪留めが特別なものであるとようやく認識した。
──あれは、富の、力の象徴だと。
「……どうして、急にそんなことを」
「──うむ。あの金の髪留め、実は金ではない。金色に光る、特殊な金属をこれまた特殊なまじないをかけて加工したものなのじゃ。特別な炎でないと、あれを溶かすことも破壊することもできぬ」
「そうだったんだ……」
「それが何か? といいたいのじゃろう?」
そういうテュテュリスはニンマリと笑っていて、どこか楽しそうな様子だった。すぐにその瞳は細められ、厳しいものに変わったが。
(こういう、謎かけみたいなこと好きなのかな)
トアンがそんなこと考えていると、テュテュリスはふっとため息をつく。
「──じゃから、そんな手の込んだものを息子にやったゼロリードは、跡取りのシアングを殺すはずがない、とわしは思ったのじゃ。」
「──!」
「……ルノに、言うなよ? こんな頼りない理由など」
「言わないよ! ……オレに、教えてくれてよかったの?」
「すまんのう、誰かに言いたかった……」
「いや、オレはいいんだよ。……テュテュリス、少し抱え込みすぎなんだ。疲れてるんでしょう? おなかに赤ちゃんもいるんだし……。竜じゃなくて、女のヒトとして、疲れたって言ってもいいんだよ」
「……ふふ、トアンにそういわれるとはの」
トアンを見、テュテュリスがバチンとウインクした。あまりの茶目っ気にトアンがメを丸くすると、今度はその様子が面白いようで声をあげて笑い出す。
「……? な、なんで笑うの」
「ふ、ふふふ。いやすまんな。あまりにもお主がキョトンとした顔をするから──それに先程のカッコイイセリフ。うんうん、成長したのう。いい感じの余裕を感じたぞ」
「な、なんだよそれ」
「たった一年。されど一年。カッコ良くなったのう、トアン。」
たった一年。以前、ウィルの成長に対して自分が抱いた思いと同じ言葉だ。──トアン自身は、自分はなんの進歩も成長もしていないと思っていて、今の、テュテュリスの指摘はとても嬉しかった。
「テュテュリス……ありがとう」
「いや、なに。むしろわしが礼をいうべきじゃ」
「ううん、オレが言うよ。……成長したって言ってもらえて、嬉しかった」
トアンは素直に感謝の意を示したつもりだったのだが、今度はテュテュリスがキョトンとする番だった。金の瞳を瞬かせ、首を傾げる。
「……なんじゃお主、自分が何の変化もないと思っていたのか」
「う、うん」
「自分ではそう思わなくても、周りはちゃんと見ておるよ。変化しないモノなどおらぬ。……チェリカに会ったとき、カッコ良くなったねといわれるかもしれんな」
「ほ、ほんと?」
「社交辞令かもしれぬが」
「……。」
「おやおや? 何故ここで赤くなるのじゃ」
「べ、別に! ……オレ、そろそろ寝るよ」
死ぬほどの恥ずかしさがこみ上げてくる。もうこの場を離れたくて赤くなった頬を手で隠し、トアンが言うとテュテュリスはけろりとした笑顔で、そうか、と頷いた。
「……テュテュリスは?」
「わしはもう少しここにおる」
「そっか。おやすみ」
「うむ、おやすみ。……純情チェリーボーイよ」
「ちょ、うるさいよ!」
夜の闇の中でもわかるくらい顔をさらに赤くしたトアンは叫ぶ。このままじゃいいように遊ばれているだけだ。
(も、もう早く寝よう)
トアンはもう一度ぶっきらぼうにおやすみと言って、城の中へ入っていった。
「あれ」
城内の見回りのためランプを持って歩いていたリクは、ふと足を止めた。ベランダに、見慣れた後姿がある。──テュテュリスだ。ベランダから真っ直ぐに夜空を見上げる姿はどこか神秘的で、一枚の絵のように美しかった。
「……いけない、見とれてる場合じゃないッス。あのヒトあそこに置いといたら風邪引いちまう」
止まって、窓からその姿を見続けたいと思う足と心を軽く叱咤すると、リクは見納めとばかりにもう一度テュテュリスを見た。……本当に、何気なく見たつもりだった。風になびく黒髪も凛とした横顔も、変わらずにそこにあった。──けれど、それはふいにグラリと揺らいだ。
「……!?」
静かに、リクの視界の中で音もなくテュテュリスの身体が倒れていく。
「た、大変だ!」
ランプを壁にかけ、リクは血相を変えて走り出した。
ぐらりと揺れる視界。ベランダから地面に落ちないように、反射的に手を伸ばしたのはわかった。しかし支えきれずにテュテュリスの身体は大きく揺れた。──眼下に、真っ暗な闇が見える。
(まずい──!)
もう一度激しい眩暈に襲われ、テュテュリスの手が手すりからずり落ちた。ひゅんとした風が耳をなで、冷や汗が背中を伝い落ちる。思わず瞳をきつく瞑る。
完全に身体が揺らぎ、上体がベランダの外へと傾いた。そこまできたら話は早いと、外へ外へ外へと重心が傾いていく──……
──しかし、そこで唐突に逆向きの力で引き戻された。
勢いよく引っ張られた身体は今度はベランダの床目掛けて倒れていくが、なにか柔らかいものがテュテュリスの身体を支え、そしてそっと横たえてくれた。両目を瞑ったままのテュテュリスの頬を、何かが擽る。
「……?」
そっと目を開けると、見慣れない少女が一人、水色の瞳でテュテュリスを覗き込んでいた。──それもまだ幼い。テュテュリスは、ようやく、少女のツインテールの黒髪が垂れ、先程から頬を擽っていたのだと知った。
「身体は、大切にしたほうがいい」
「……お主は?」
少女は答えない。このとき、テュテュリスの目には、星空を背後に背負った少女の表情は何故かとても寂しそうに映ったのだ。──それが不思議なことに、テュテュリスの心をざわざわと揺さ振った。少女のワイン色のマントが、風になびく。
──テュテュリスは、ふとそのマントを見て思い出した。この少女は見慣れない少女、ではない。何度か見たことがあるのだと。
テュテュリスが言葉を紡ぐ前に、少女が言った。
「……あなたが、何を思い、何を悩んでいるかはわからない、けど、」
「……大丈夫じゃよ。それよりお主、何者じゃ?」
テュテュリスはゆっくりと上体を起こし、礼のつもりもこめて少女を抱きしめる。──少女の一瞬強張った身体が、すぐにほっと緩んだ。
「……」
「言えんのか」
「……。」
「まあええ。別に、責めているわけではない。礼じゃよ、礼。……ここ最近、誰かに見守られておる気がしての。お主じゃろ? 中に入りたそうに、城の周りにいたのを見たぞ」
「見てた……?」
腕を解いて距離をとると、少女の瞳が驚きに丸くなっていた。なんだか歳相応の表情だと、テュテュリスは思った。少女の様子はどこか大人びていて、幼く愛らしい外見にそぐわない。
(こんな、幼い……歳は十かそこらじゃろうに)
「私を見たことを……どうか忘れて欲しい。それがきっと、あなたのためになるのだ」
少女が立ち上がる。つられてテュテュリスも立とうとするが、それは小さな手によって阻まれた。
「風邪をひかないように──……おやすみなさい」
「ま、まて!」
テュテュリスの制止を聞かず、少女はベランダの手すりに立った。テュテュリスは床に座り込んだまま、少女の黒髪が風になびくのを見て、叫んだ。
「お主の名前は?」
「……。」
「悪いようにはせん。……お主は、命の恩人じゃから。恩人の名前くらい、知っておきたくての」
「私の名は──」
ゴウ、強い風がベランダを通り抜けた。少女の黒髪とマントがさっと広がり、水色の瞳が星の光のように煌く。
「──スピカ。」
ふっくらとした唇でその一言を残すと、少女の姿は風とともに消えてしまった。
──満天の星空の中へ。
「リス……テュテュリス!」
背後から聞こえるリクの声に、ぼうっとしていたテュテュリスははっとした。まるで、意識が唐突に現実に引き戻されたようだ。
「テュテュリス! ちょ、アンタ大丈夫ッスか? ああ、まだそんなとこに蹲って! おなか冷やしちゃいますよ!」
「う、うむ」
多少強引にひっぱりあげられ、ようやくテュテュリスは二本の足で床に立った。──まるで、夢を見ていたようだ。
「……大丈夫ですか?」
訝しげに眉を顰めるリクに寄りかかり、ああ、ともう一度返事をする。
「大丈夫、寝ぼけてはおらん」
「ならいい……って良くないッス。アンタ、さっき倒れたでしょう?」
「平気じゃ。一瞬死ぬかと思ったが」
「テュテュリス!」
真剣なリクの表情に、思わずふっと噴出してから、テュテュリスは続けた。
「笑ってる場合じゃないッスよ」
「すまんすまん──のう、リク? わしはさっき、不思議な少女に救われたよ」
「あ、遠目からぼんやり見ましたよ。赤いマントの──誰ですか」
「知らん」
「知らんって!」
「……この子と、同じ名前だった」
リクの肩に頭を預け、テュテュリスはそっと自分の腹を撫でながら夜空を見た。
「あの星が見えるじゃろう?」
「そうですね」
先程まで怒っていたリクも、もう穏やかな声でテュテュリスに答えてくれた。二人は宝石の粒をまぶしたような空の中から、大切な星を見つけ出し、笑った。
「スピカ──……」
焔城の屋根の上、斜めになったレンガの斜面に蹲って、少女が泣いていた。
「ママ、ママ……うう、う、」
泣いても泣いても、そのふっくらとした白い頬をつたう涙は涸れそうにない。星空の下、幼い嗚咽は途切れ途切れに闇を震わせた。──と、そこに足音が近づいていく。
「……やっぱりきてたんだね」
優しい声に、少女は涙に濡れた顔を上げた。ぬるい風が吹いて、近づいてきた人物のインクブルーの髪を揺らす。──そこに居たのは、トトだった。トトは少女の横にすとんと腰を降ろし、ハンカチを差し出した。──トトはこの少女を、スピカを知っている。未来でともに旅をしていた仲間なのである。彼女もまた、過去を変えたがっていた。自分をうんですぐ──十二年前にいなくなってしまった母親を、家族のものにつなぎとめるために。
「あ、ありがとう……。」
「いいよ、まだ泣き止まなくて。……辛いときには我慢しなくていい。涙は抑えると余計苦しいよ」
「……う」
気丈にも目を擦るスピカの手をやんわりと止め、トトはふっと微笑んだ。少女の水色の瞳にみるみるうちに涙が盛り上がり、ぽとん、と落ちる。
「……トトォ……」
「なに? スピカ」
「私、……私……っママに、会ったよ。やっとやっと、会えた」
「うん」
「でも、おかしいな。ずっと会いたかったのに、ずっとずっと会いたかったのに、涙が止まらないのだよ……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちるのを、トトは優しく拭ってやりながら、うん、と頷いた。
「俺は知ってる。スピカがどれだけお母さんを探してたのかを。……俺もね、育て親の二人に会えたよ。でも会えた瞬間、涙が零れて零れて止まらなかった。──ずっとこの時代にいたいっていう気持ちと、見届けて運命を変えなきゃっていう気持ちがぶつかり合って、自分でも驚くくらいの涙がでてきたんだ」
ぐず、とスピカが鼻を啜る音が響く。トトはその小さい身体を抱きしめ、優しく、ただ優しく、まるで子守唄を歌うようにトトは続けた。
「みんなで変えよう? そのためにきたんだ。……でも、泣いてもいいんだよ。我慢しないで、自分でも理解しきれない感情にただ任せて、泣いてもいいんだ」
「……うん、うん……っ」
見上げれば満天の星。
天空に煌く星たちが、少女の小さな嗚咽を慰めるように瞬いていた。
翌朝。
──といっても、まだ太陽はほとんど顔を出していない薄暗い天気の下、ふいに朝早く目を覚ましたトアンはベッドの上で長い長い欠伸をしていた。テュテュリスと約束した時間まで大分ある。
「もう寝てられないや……」
ルノのベッドを見ると、ルノはまだぐっすりと夢の中だ。
(使い魔を借りて、一回チャルモ村に戻る。……戻ってウィルと兄さんに話をして、そのままエアスリクに行く──いけるのかな? ハルティアのゲートを潜らないでもいけるものなのかな。そもそもエアスリクってどれくらいの高度にあるんだろう……)
目は冴えているものの、寝起きの頭の中をぐるぐると問いが回る。しばらくううんと考え込んで、トアンはベッドから降りた。
(やめた)
どうせ考えたって、この中途半端に精霊や人外──ヒトに詳しい頭は明確な答えを弾き出すことなんてできないだろう。
(城内の見学でもいこう。……あれ?)
上着を手に取ったところで、どうせなので全部着替えてしまおうという気分になり、丁度袖を通したときだった。トアンの目に、もぬけの殻のベッドが映る。──トトのベッドだ。
(トトさん……?)
コリコリコリ……
(?)
奇妙な音にトアンは目を丸くした。
カリカリカリカリ……
その音は、ドアの方から聞こえてくる。先程よりもどんどん忙しなくなった音に、トアンはついにドアを開けた。──途端、金色の毛玉がトアンの腹にズンと直撃する。
「うっ!?」
思わず呻き声をあげる。早朝の静かな城内に、トアンの情けない声が響いた。
(ええい!)
腹に当った物体を抱き上げる。──と、申し訳なさそうな声と、濡れた鼻面がトアンの頬に押し当てられた。
「ぴゅいい……」
「う、げほ、げほ……あ、あれ? コガネ……?」
「ぴゅるるる」
「コガネ、何してるんだ? トトさんは一緒じゃないの?」
「ぴゅい……」
トアンの手の中で、コガネの耳がぴこりと動きそのまま伏せられた。犬ならば、くうんと鼻をならしているところだろう。
「……トトさんに、何かあったの?」
どうもおかしなコガネの様子に、何か嫌な予感がする。トアンがいぶかしんで訊ねると(返事はないとわかっていながらも)、コガネは目を細め、ついと首をかしげた。
(この動作は──人間っぽいな。なんだろう、人間の──そうだ、ちょっととぼけてるとき? それか状況が飲み込めないとき……? ……わかんないよ)
「ぴゅ」
と、突然コガネがトアンの腕からヒラリと跳躍し、トトの眠るはずだったベッドまでてこてこと歩み寄ると、その毛布を口にくわえ、ぐいぐいと引っ張り出しはじめた。しかし毛布はコガネの大きさに比べると、かなり巨大だ。当然毛布がずり落ちることはないのだが、コガネは目をつぶり、人間が力を籠めるように毛布を引っ張り続ける。
「びゅー……」
「コ、コガネ?」
「びゅううう」
口に毛布をくわえているため、くぐもった鳴き声をあげながら、それでもコガネは頑張る、頑張る。トアンはその傍でしゃがみ込み、コガネの奮闘を見守っていた。──正直、彼女が何をしたいのかわからないのだ。
──しかし、コガネはトアンを見て助けを求めるように鳴くことも、トアンの足に身体を摺り寄せ甘えることもしなかった。……段々、トアンにも、『コガネはこれくらい運べるの、一人で頑張っているの』という彼女の言葉が聞こえた気がした。……気がしただけだが。
「びゅうう……うう?」
コガネが可愛くない鳴き声をあげながら、くるりと目を動かしてトアンを見た。──唐突に毛布が動いたので、驚いたのだろう。
「毛布、運ぶの手伝うよ。オレの方が大きいから、楽だよ」
「……。」
コガネは、まだ毛布をくわえたままだ。トアンはつい、コガネが人間の言葉を理解できているのかという不安を覚えたが、元は人間なのだし、まあ伝わっているだろうと思い直して念を押す。
「ね? ……コガネはトトさんのところまで案内してよ」
「……ぴゅい!」
ようやく口を離し、コガネが元気よく鳴いた。まるでその顔は、人間の満面の笑みのように可愛らしかった。ふと、ルノが目を覚まさないか心配になったトアンだったが、ルノは寝返り一つうつ様子がない。熟睡してるのだろう。
「じゃ、いこうか」
「ぴゅるるるる」
てん、と弾むように駆け出したコガネを追って、トアンも慌てて毛布を抱えて走り出す。
──早朝の焔城は、しんと静まり返っていた。城自体が安らかな眠りを楽しむように。
「──う」
突然の眩い光に、トアンは目を細めた。丁度、長い長い螺旋状の階段をのぼりきり、小さな出窓から伸びた梯子に乗って焔城の屋根の上に顔を出したとき、昇り始めた朝日が目に染みたのだ。
「ぴゅい?」
決して緩やかとはいえない斜面を、足の爪を使って器用に駆け上がっていったコガネがひょいと首を傾げる。コガネの金色の毛に、朝日がキラキラと反射した。
「ごめん、ちょっと眩しくて──今行くよ」
よっこらせと残り数段の梯子をのぼり、レンガ造りの屋根の上にすたんと足をつける。何気なく振り返ってみると、見渡す限りの青々とした草原が眼下に広がっていた。
「うわ、すごい──……で、でもちょっと高いな」
うん、高い。トアンは自分に言い聞かせ、深呼吸を一つしてから左脇に抱えていた毛布を右手に持ち替えて屋根の上を歩き出した。──梯子をのぼっていたときより屋根の斜面は緩やかだが、まだまだ気が抜けない。ちょっとでも気を抜いたら──……とにかく大変なことになってしまう。
「コガネー、どこまでいくのー?」
「ぴゅるるるるー」
少し離れたところから返事が返ってきた。足の下の斜面は、今度は下りだ。一気に降りてしまうと、また上りになっている。──コガネは、その上った先に立ち、長くふくふくした尻尾を振っている。
「まるで呼んでるみたいだ」
足元に気をつけながら、トアンは独り心地だ。コガネの様子をよくよく見ると、彼女が人間であったその証拠が見て取れる気がした。先程の動作も、人間が手を振るのと同じ物に感じられる。──もちろん、トアンはコガネの気持ちが読み取れる訳でもないし、言葉が分かるわけでもないから、尻尾を振ったコガネが何を考えているかは明確にはわからないのだが。
考えごとをしながらも、足はレンガの斜面をのぼりきっていた。ふうと一息つくトアンの足元に、コガネが身を摺り寄せてくる。お疲れさまといっている。……そんな気がした。
「ぴゅいー」
「コガネ、トトさんはどこ?」
「ぴゅ」
短く鳴き、コガネがてん、てんと駆け出した。トアンはあ、と声を上げるよりも先に、コガネの行き先に──トトを見つけた。
昇って行く太陽に髪も頬も赤く染めたトトは、屋根の上に座り込んでいた。足元に来たコガネをひょういと抱き上げてから、トアンに気付いてにこりと笑う。
「おはようございます、トアンさん」
「おはよう──何してるの、トトさん。ずっとここにいたの?」
「ええ、まあ。……トアンさんこそ、何してるんです? そんな毛布なんて持ち歩いて──」
「え? あ、これ? これは、コガネが──コガネが運びたがってたんだ」
「コガネが?」
トトは群青色の目をまん丸にして、肩に乗ったコガネを見た。しばらく見詰め合ってから、トトはふっと笑う。
「ああ、なるほど」
「え?」
「俺が、ちょっと寒いなって言ったから──取りに行ってくれたんだろう、コガネ」
「ぴゅ」
「ありがとう。……そういうことです、トアンさん。さすがに一晩中ここにいると冷えましてね。寒いなーって言ってたらコガネがいなくなってて……ありがとう、コガネ。トアンさんも、態々ありがとうございます」
「ううん、オレは全然構わないよ。……隣り、座っていい?」
「どうぞ」
トアンは毛布をトトに渡すと、その横に腰を降ろし、同じように朝日を見た。──トトの行動はよくわからないが、あまり深入りはしないことにした。しかし、どうしても気になってしまうので、とりあえずそれとなく聞いてみる。
「……トトさん」
「はい?」
トトは毛布を横において、何かごそごそと作業してから、トアンを見て答えた。
「ここで何をしてたんですか?」
「……ああ。……トアンさん、俺のこと、ちょっと変なヤツだって思ったんでしょう」
「え!?」
図星とも言えるトトの言葉に思わず声を上げるが、これでは肯定といっているようなものだ。トトはトアンの様子を見て、ふっと笑った。
「……いくら俺でも、ワケもなく一晩中ぼーっとはしませんよ。ちょっと話し込んでたら夜が明けちゃったんです」
「話し込む……?」
トアンが首をかしげた、その時。
「ふああ……寝心地は最悪だな」
幼い子供の声が聞こえたかとおもうと、トトの隣──トアンとは反対側だ──から、むくりと誰がが起き上がった。
「おはよう、トト……」
黒髪がしゃらんと揺れた。少女独特の柔らかい声だ。トアンがトトに渡した毛布を小さな両手で掴んでいるところをみると、トトが先程していた作業は彼女に毛布をかぶせていたらしい。
──水色の目が、トアンを捕らえた。
「──! 君は……スピカ……?」
「ああ。……久しいな、トアン・ラージン」
少女が佇まいを正し、ぺこりと頭を下げた。トアンもつられて背筋を伸ばす。トアンとスピカは、トトを挟んで向かい合う形になった。トトが若干困ったようにコガネを抱いて二人を見ていたが、トアンはそれどころではなかった。
「……そうだ。そうだよ! オレ、トトさんに聞こうと聞こうと……チャルモ村でレムがきて、言ってたのはスピカのことなんでしょう?」
「……ええと……?」
整理できていないめちゃくちゃな言葉に、トトが苦笑を浮かべた。トアンは歯がゆいようなじれったい気持ちで、もう一度問う。──恐らく、今自分の顔を鏡で見たら、一目で大混乱だとわかる顔だと自負しながら。
「だから、あの時言っていたスピカって、この子のことだったんでしょ? オレ、前にもこのスピカに会ってて、でも船の船員はみんなスピカなんて子はいないって」
「……混乱しているな」
スピカがポツリと呟いて、トトを見た。
「私から説明する。トト、なにかあったら補足を頼む。──トアンの言うチャルモ村のことなんて、私は知らないし」
「……ああ、うん……」
「トアン・ラージン。質問は後だ。とりあえず落ち着いて、私の話を聞いて欲しい」
「は、はい」
幼いながらも反論を許さないピンとした言葉に、トアンは思わず敬語で頷いていた。
「ええと、まず、何から話そうか。──そうだな、トト。私は以前、この焔城に来る前──お前と合流する前か? ここに来る船の上で、トアン・ラージンとあったことがある」
マストの白と、彼女のワイン色のローブ。あのコントラストは、トアンは今でもしっかりと思い出せた。
「もちろん、ちょっと違法な手で乗船した。ただ単に、トアン・ラージンにあってたかったんだ。──『アレ』になるまえの」
『アレ』。そういうスピカの顔は影が落ちていた。──それが何か聞かなくても、トアンはわかっている。……もう、わかってしまっている。
「……『アレ』って、ユメクイのことだよね」
「!」
驚きに目を見開き、弾かれたようにスピカがトトを見る。トトはこくんと頷いてから、言った。
「トアンさんは自分の未来を知ってる」
「……何故? それは制限に」
「引っかからない。トアンさんが、自分で気付いたんだ。──ユメクイがこの時代にきたんだよ」
「…………そうか。」
スピカはアーモンドのようなパッチリとした瞳を瞬き、少し考えてから言った。
「制限、か。……まだまだよくわからないな。未来からきた私たちからいう事は許されないが、本人が気付くのは大丈夫、という……まあ、それは今考えていても仕方ないか。続きを話そう」
(賢い子だ)
彼女の聡明さを、トアンは何となく感じ取る。恐らく全ての事情を把握しきれてはいないだろう。けれども、トトのあの説明だけで、ほぼ正確な事情を掴んでいるのだろう。
「とにかく一度はトアン・ラージンに会いたかった。その目的を果たし、私は船の上から姿を消した。──また、これもこの時代からして、少し反則な手段でな。船の乗組員たちは、一切私を見ていない。──だから、白昼夢かと思ったのだろう」
「……白昼夢、にしてはリアルだったけど……幽霊かとは……。」
「失礼だな!」
ぷーっと頬を膨らませ、スピカが怒った。トアンはたじろいだが、トトが笑いながらそれをやんわりととめる。
「スピカ。」
「……怒るな、といいたいのだろう」
「うん、そう」
「本気で怒っているわけではないぞ。トアン・ラージン、お前もそんなにオドオドするな」
「は、はい」
「もうわかっただろうが、私はトトの時代の人間で、トトの仲間だ。……お前より年下だ。そんなに緊張するな」
「わ……わかった」
「……それと。」
怒っていたスピカの表情が、ふと悲しそうなものに変わった。
「あの時、お前は私に、何のようで焔城にいくのかと聞いただろう」
「あ、うん。聞いたよ。……そうだ、スピカ。どうして君が今ここにいるの?」
「……お前と別れたあと、この十二年前の世界を少し見てきた。……でも、私は私の、願いがあって時をこえたんだ。焔竜、テュテュリスに会うという」
「テュテュリスに?」
「見守っているだけで精一杯だった。ここまでくるのも、勇気がいったけれど……でも、もう顔を見られてしまったし……」
悲しそうな表情のまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ彼女の頭を、トトがそっと撫でてやる。スピカは上目遣いでトトの優しい瞳を見て、ため息をついた。トアンはワケが分からずに問う。
「どうしてテュテュリスに会いに……?」
「──焔竜テュテュリスは、私の母親なんだ」
「え、……え、じゃあ、あの、テュテュリスのおなかにいる子供が──」
「そう、私。」
スピカの小さな指が、スピカ自身を指差した。トアンはその様子を暫く見つめ、ああ、と手を叩いた。
「……あ、そうか。」
「ん?」
「初めてスピカを見たとき、誰か、なんか知ってる気がしたんだよ。──スピカ、テュテュリスの子供のころの姿に結構似てるんだ」
「子供の……ころ?」
「うん。一度だけ見たことがあるんだ。焔竜の力を失って、子供の姿になってた」
「……そう。私、ママに似てるのか」
小さな唇がほころび、花が咲くようにスピカが笑った。黙って話を聞いていたトトも一緒に笑ってから、トアンを不思議そうに見る。
「驚かないんですか? スピカのこと」
「うん、もうね。……トトさんのこととかあったし。さっきは混乱してたけど、チャルモ村でトトさんがトルティーだって知ったとき、スピカの名前言ったよね?」
「……あ。」
「ずっと聞こうと思ってたんだ。──けど、結局は直接会っちゃった」
そういいながら、トアンの頭はスッキリと冴えてきた。先程までの狼狽がちょっと恥ずかしいくらいだ。
(『トトさんの仲間』ってだけで何でもアリなんだなあ……プルートも、シオンにも会ってるんだし。驚かない自分にちょっとびっくり)
「そうだ、トアンさん。もう一人紹介したい仲間がいるんですよ」
コガネを撫でながらトトが言った。トトの顔の輪郭を朝日がゆっくりと舐めていく。トトの言葉にスピカが立ち上がり、屋根の横、城の塔の影に向かって手招きした。
「え? 誰?」
「俺たちの時代の──……あれ」
いつまでたっても誰も現れない。トトが目を丸くする横で、スピカがもう一度手招きした。──それでも、何も起きない。
「……ちょっとまってろ」
そう言いのこし、スピカが塔の影に駆け寄る。何か引っ張る動作をしているところで、トアンはやっと、影に誰かが蹲っていることを知った。
「何やってる、早く来い」
「い、いやですよう……」
困ったようなスピカの声に続いて、弱弱しい声が聞こえる。──酷く情けないが、声の低さからして青年だろう。影が動いた。
「トトが呼んでるぞ。今でてこなかったら、お前、ずーっとそこにいるのだよ」
「い、痛い痛い、痛いです、スピカちゃ、ちょ、いててててて」
スピカが助けを求めるようにトトを見た。トアンもトトを見ると、その顔は少し困ったような笑顔だった。
「ほら、トトが困ってるのだ」
「トト君が……。で、ででででもまだ怖いですよお」
「トアンはお前をいじめないぞ」
「でも……」
(……なんだろう)
青年の言葉、情けない声、態度。……チェリカと一緒にいるときの自分によく似ている気がすると、トアンはぼんやりと考え、頭を振った。そんなトアンを見て、トトが苦笑する。
「ごめんなさい、レグルスは少し、人間嫌いなんです」
「……人間嫌い?」
「そうです」
と、トトが言った瞬間、スピカが影の中の一部を掴んで思い切り引っ張った。あ、という頼りない声とともに、影の中にいた青年が引っ張り出される。──赤い髪が、朝日に光った。
「ほら、たてレグルス」
スピカが手を伸ばすと、おずおずと青年がその手を取る。青年──レグルスの歳は二十歳前後だろう。ひょろりと高い身長、銀縁のめがねにセーターとネクタイ。まるで学生のような服装をしていて、耳をすっぽりと覆う耳あて。腰には一振りの剣が差してあった。──しかし、猫背な上に眉は八の字に下がっており、明らかに年下のスピカが格好良く見える。
「トト、つれてきたぞ」
「ありがとう。……ごめんね、レグルス。大丈夫だよ」
その手を遠慮なしにぐいぐいと引っ張ってきたスピカに笑いかけ、トトがその後ろのレグルスに言った。レグルスの赤い瞳がおどおどと揺れ、トアンと目があう。
「ひっ」
短い悲鳴をあげ、途端にレグルスはスピカの後ろに縮こまってしまった。スピカが決まり悪そうに笑い、トトも再び苦笑する。状況が飲み込めないトアンは、両手を振って敵意がないことをアピールしながらレグルスに問う。
「……あのう。なんでそんなに警戒してるんですか」
「……。」
「あの、」
「……。」
「……ええと、トアンさん、ちょっと」
トトの手が伸びてきてトアンの顔を挟んで動かす。レグルスと視線が離れた瞬間、ほ、という安堵の息が聞こえた。
「さっきも言った通り、レグルスは人間嫌いなんですよ。トアンさんが、ではなく、人間全体が怖いんです」
「え?」
「レグルスは半分魔族の血が入ってる、ハーフです。それと、星の道……勇者なんです」
「こんなに情けないがな」
「スピカ。」
「……続けろ、トト」
「うん。……その二つが原因で、レグルスは小さい頃から人間に疎まれ、虐げられてきました。……それで、彼は知らない人間が怖いんです」
「……よくわからないけど、魔族のハーフ?」
トアンの脳裏に、シンカの満面の笑みがぱっと浮かんだ。続いてシロのつんとした目──彼らは魔族だ。ツムギとトウホは元気だろうか。
「オレ、魔族を見たことあるよ。犬の。耳が犬の耳だった」
なのだ! 黒髪のシンカがトアンの脳裏でにぱっと笑う。
「犬か。レグルスもそんなのだったはずだな」
スピカが呟き、レグルスの耳あてにそっと触れた。──レグルスがパッと離れ、慄く。
「や、やめてくださいよう」
「トアンはお前をいじめないといっただろう」
「……わかりませんよ。もし例えそうだとしても、ボクの耳、きっと気持ち悪いって思いますもん」
「ええ!? 思わないよ!」
何だかとんでもない誤解を受けているとようやく理解したトアンが慌てると、トトがやんわりと首を振った。
「すいません、レグルスに悪気はありません。トアンさんを悪くいってるわけでもないんです。──知らない人間全てに、そう感じてしまうんです……」
「そ、そうなの……?」
それはそれで、なんて悲しいことなのだろう。トアンはかける言葉が見つからず目を伏せると、さらに慌てた声が頭上からふってきた。
「ご、ごごごごごごごごめんなさい、ボクの所為ですよね、そんな顔しないでください、本当にごめんなさい、ボクってなんて失礼なことを……あ、あああでも、でも」
顔をあげると、おろおろとするレグルスがそこにはいた。──距離は、二メートルほどあったが。
「レグルスさん……いいんですよ謝らなくて」
「い、いえ……。と、トアン君は、シオン君のお兄さんですから、失礼なことを言ってすいませんでした」
「……シオンの、そっか。レグルスさんもシオンの仲間なんだよなあ」
律儀に頭を下げるレグルスにトアンも同じように返し、それから笑った。
「もう気にしないでください」
「スピカとレグルスは、ここに残るの?」
もう太陽はすっかり顔を出している。白い光を浴びながら、コガネを肩に乗せたトトが二人に問うと、ちぐはぐな二人は同時に頷いた。
「トトの育て親のいる、チャルモ村にもいってみたいがな。まだ、私はママとパパを見ていたい」
「ボクはスピカちゃんと一緒にいます」
「そっか。……分かった。じゃ、俺とトアンさんはそろそろ中に戻るね」
では行きましょう、とトトに促されてトアンも立ち上がる。
「いいの? トトさん、仲間と一緒にいなくて」
「全員、目的は同じなんです。……『未来を変えること。』目的が同じなら、また会えるでしょうから。最悪音信不通になったら、レムにでも頼むので、心配ないですよ」
「そうなんだ……」
「じゃ、スピカ、レグルス、またね」
手を振る二人にトトも挨拶し、それから同じように手を振っていたトアンの肩を軽く叩いた。
「いきましょう?」
「あ、うん」
二人が気になり、煮え切らない返答を返すトアンに、トトがにっと笑った。──魔法の一言を添えて。
「……エアスリクに、いくんですよね?」
「……うん!」
──空には、気持ちのいい青空が広がっている。
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