第25話 王子と王子の思いと想い




「急激な回復と、それに気の緩み──長時間の強い緊張から解かれ、安堵が出たんだろう。──身体の抵抗力も下がっていたようだ。まあ、すぐに治るだろう。そんなに気にする必要はあるまい」

 シアングの額から手を離し、プルートがルノを見た。プルートのすぐ治るという言葉を聞いた瞬間、ルノの顔がほっとしたのがはっきりとトアンにわかった。プルートもルノの表情の変化を見て、そっと微笑んむと、今度はシアングのもう固定が取れた腕に軽く触れる。ふわ、柔らかな光が指先から零れ、続けた。

「腕の骨折ももう、治る。もう殆ど完治していると言ってもいい──ふむ、キレイに繋がるぞ。さっきも言ったが、一番の原因は骨折の治癒に伴うものだ。……気に病むな」

「そうか……プルート、ありがとう」

「いや」

「……安眠できるように、また笛の音を頼む」

「任せろ」

 プルートは優しく、力強くルノに微笑んでみせると腰から笛を抜き、その繊細な指先で音の波紋を生み出した。風がないのにカーテンがふんわりと揺れ、優しい音が部屋に満ちる。



 シアングが熱を出したのは、今朝早くだ。旅立ちをどう切り出そうか、部屋で一人考え事をしていたトアンの元に、泣きそうなルノが飛び込んできて事態を把握した。

 今朝は、静かな朝だった。ウィルにつれられてコガネとトルティーは学校へ行き、シオンは誘いを断ってレインにべったりと甘え、トトはトトでその様子を微笑みながら見つめ、プルートはそんなトトを見つめ──とにかく、平和すぎる一日が、また始まろうとしている矢先だった。

 シアングの骨折は、もう大分よくなったとルノは言っていた。ルノ自身気付いていないが、この回復力は異常だ。シアング自身、竜の子ということで回復力が元々高いのもあるのだが、それ以上にルノの治癒魔法の能力は飛躍的に向上している。その高い、強い魔法に定期的にかかり、父親の支配下から抜け出したこともあって、シアングの身体はメキメキと回復していたのだが──その精神の疲労は中々とれていなかったようだ。

 動揺するルノを制し、熱にうなされるシアングを鎮めたのはプルートの笛の音だった。……トアンをちょっと睨んでからのその行動は相変わらずだったが、ルノに礼を言われて微笑み、トトに感謝されて顔を赤らめるプルートは、やはり憎めない。──憎むもなにも……というのが本心なのだが。

「あとは栄養だな」

「ゆるーいリゾットでも作ってやろうか」

 腰にシオンをまきつかせたレインが言う。

「いいね! 兄様兄様、きのこでも入れてさ!」

「お前に作るわけじゃない」

「いいでしょ、おれも食べたい~」

「……チーズも」

「オーダーするならプルート、じゃあお前も手伝え」

「ぼ、僕もか!?」

「あ、レインさん、俺も手伝います」

 レインとシオンに引っ張られていく形でプルートが、そしてそれを追うようにトトが部屋を出て行くと、トアンとルノがしんとした部屋に残された。

「ルノさん」

「……トアン、すまない」

「え?」

「エアスリクに行きたいんだろう?」

 はっとするトアンを見て、ルノが赤い瞳を伏せた。

「……私も、一刻も早くチェリカを助けてやりたい。もう、手段はあるんだ。……あとは、上に行く方法さえ見つければいい──けれど、私は、」

「シアングを置いていけない、でしょ?」

「……!」

 トアンはルノを落ち着かせるように笑みを浮かべてベッドサイドの椅子に座って、もう一つをルノに勧めた。ルノがそれに座るのを見届けて、シアングの凛とした横顔に目を移す。

「オレも、シアングは大切な仲間だよ。──置いてはいけないと思う。兄さんたちに任せるのも、もし、いつかゼロリードさんがきたら危ないとおもうし……でも、エアスリクに連れて行くことは、何より、その……」

「……シアング自身が、裏切り者といったんだからな。……エアスリクの国家機密に、手を触れないとも限らない。──最も、私は別に、裏切り者だとしても、シアングを受け入れるし、手をとる。けれど、あの国が『国』である以上、そんなことは許されない」

「……ルノさん」

「私は、王子なんだ」

 トアンは驚いて、次に差し出そうと思っていた言葉を見失ってしまった。──ルノが、王子としての発言をするなんて初めてだったからだ。

(……ルノさんは、シアングのこと、信じてるし、守りたいんだ。でも、ルノさんはエアスリクの、──シアングが裏切った国の、王子……)

 しかしルノの次の言葉は、さらにトアンの予想に反するものだった。

「私は……。トアン、私は、どうすればいい?」

 ──ルノの、迷い。

 トアンは少し考えて、シアングの額の汗を拭うルノの手を見つめた。

(……今は、)

 手の先から、つらそうな、何かを堪えるような表情のルノの顔を見る。

「ルノさん」

「……ん」

「ここは、アールローアだ。フロステルダでも、エアスリクでもない。……ルノさんは王子だけど、シアングも王子だけど、ここじゃ、関係ないよ」

「トアン……ありがとう、けれど、けれど、ここにいては、エアスリクが──……」

「先延ばしになっちゃうけど、……シアングの熱が下がるまで、……今は、考えないでいいんじゃないかな」

 問いかけるような口調で、けれどもトアンが真っ直ぐにルノを見つめると、ルノは戸惑った笑みを浮かべてみせた。

「オレ、待つよ。チェリカだって、きっとだけど待ってくれる」

「……トアン、しかし」

「ルノさんは王子だ。……けど、今は、ただのルノさんの気持ちで考えて良いと思うよ。……オレ、リビングに行ってるね」

「…………。ありがとう」

 ルノの笑みが、ぎこちないものから柔らかくなっていて、そしてまだ迷いは消えないようだが──いつもの笑みを見せてくれた。


 シアングの両目は、閉ざされたまま。


 それから数十分後、突然コガネが一人で家に帰ってきた。料理の手を止め、玄関へ迎えに出たレインが理由を尋ねると、ウィルからの手紙を出してくれた。

 トアンが後ろから覗き込むと、そこには『一人で帰れる』『おうちに帰りたい』と言い、仮病ではなく少し熱があるようなので保健医と相談して家に帰すことにした。よろしく頼むと書いてあった。

「……熱か」

 レインの手がコガネの額に当てられる。レインの腰にまだついたままのシオンが、羨ましそうな声をあげてプルートに小突かれた。すぐさまシオンが「なにするのさハゲ!」と叫び、喧嘩になりそうな二人をトトが引き離す。レインはその喧騒をトトに任せ、コガネをとりあえずソファに座らせてからプルートを呼んだ。

「喧嘩してないで、ちょっとコガネの様子を見てくれ……コガネ、リゾット食うか」

「うん、食べる」

「よし。トト、悪いけどもうちょっと手伝ってくれ。トアンはシオンと遊んでろ。静かにな」

「だって。静かにしようね、兄様」

「……うん……」




 眠る横顔だって、見惚れててしまうほどシアングは整っている。スラリした瞳は黄金で、恐ろしくもあり、そして惹かれる。シアングはいつも優しい表情を浮かべている。

 ──私はこんな感情、知らない。こんなに強く、醜いものは知らない。彼が、また遠くに行って、そしてあの子と一緒にいるなんて、……。だからこうやって引き伸ばしているのかもしれない。心配だから。腕の原因は、怪我の原因は自分にあるから。助けになりたいから。……あの塔であの手を握ったときは、ただそこに自分とシアングがいれば、いいとすら思えたのに──。


 ──どんなに遠くても、どんなに離れていても、辿り着く場所が一つなら、いいと思えていたのに。



 いつの間にか眠ってしまったようだ。静かな落ち着いた時間は睡魔をひきつけてしまう。……なんていいわけをする前に、ルノの頬を、ぴたぴたと叩くものがあった。

「……ルノ?」

「──、!」

 ぼんやりと目で追い、それがヒトの指であることを確認すると同時にシアングが自分を覗きこんでいることを知ると、ルノの頭は一気に覚醒し、真っ白になってとまってしまった。

 しかしシアングは気にした様子はなく微笑むと、少し掠れた声で言う。

「何寝てるんだよ、風邪引くぞ」

「……、ち、違う、その……いいや!」

「なんだよ、忙しいな」

「あ、あのな、風邪を──熱があるのはお前の方だ。その声、酷いぞ」

「そうか?」

「そうだ!」

「……なに怒ってるんだよ」

「別に!」

(そうだ、私は何を怒っているんだ?)

 ──照れ隠しだよ。頭の中が即座にたたき出した答えに思わずむっとして、ルノはベッドサイドに置かれた水差しを少々乱暴に手にとってシアングに差し出した。

「……水、とりあえず飲め。熱があるんだから」

「ありがとう」

 シアングの左手がそっと受け取り、一瞬だけルノの手に触れた。しかしそれはほんの一瞬だけで、瞬きをした次の瞬間にはシアングの手は離れ、水差しに直接口をつけて、こぷこぷと水を飲む音が部屋に響いていた。

「……腕、もう、痛まないか」

「は……ん、ああ。もう殆ど──たまに突っ張るみたいな感じするけど、それ、骨が再生していく感じだと思うし」

「そうか」

「……なあ」

 シアングの手が、すっかり空になった水差しをルノに向けた。ルノは素直に受け取り、ベッドサイドに置きなおしてから、なんだ、と言った。

「オレさ、もうすぐ、ここ出て行くよ。」

「……! トアンとの会話を、聞いていたのか……?」

「いや? あ、やっぱりそろそろ旅立つのか」

 ふんふんとシアングは一人で頷き、それからルノを見て続ける。

「ウィルやネコジタ君──レインにもさ、これ以上迷惑かけらんねー。コガネとトルティーっていう小さい子もいるんだ。……いつ、親父が手を打って来るかもわからねえ。だから、この熱が下がったら、ホント急なんだけど帰ろうと思う」

「か、帰るといっても、シアング、ベルサリオは──」

「……親父がいるからだろ? 大丈夫、親父はまだ、オレの命までとるようなことはしないさ」

「しかし……」

 そういってから、ルノははっとした。

(ここでシアングを引き止めて、どうするつもりなんだ?)

「しかし、何だ?」

 シアングが優しく囁く。けれど、今はその言葉は、これ以上の踏み切りを許さないものだとルノは悟った。

「オレは戻らなきゃ。……メルニスだって、いるし。まだやらなきゃならないことがあるから」

「……。」

「泣くなよ」

「泣いてない」

「……ごめんな、ルノ」

「……?」

「言えばよかった。もっと前に。本当の言葉を──あやふやにしなけりゃよかった」

「シアング……?」

 突然のシアングの言葉が理解できず、ルノは首をかしげた。シアングの手がそっとルノの頭の上に置かれる。──そのシアングの表情は、憂鬱と切なさが入り混じったものだった。

「答えなんて、いらないけど──……いや、……」

 やがてシアングはゆっくりと頭を振り、ルノの頭から手を離して言った。

「なんでもないや」

「なんでもって──お前、何か言いかけて、」

「悪い、少し眠い。──寝かせて欲しい」

「え? わ、わかった」

 急かされるようにルノは立ち上がり、部屋を後にする。それを見送ってすぐに、シアングの意識は闇に沈んだ。


 まるで逃げ出すように。──世界と、ルノと、全てから。




 それから、どれくらい時間が経ったかわからない。再び意識が浮上したとき、部屋に、すぐ隣の椅子に誰かが腰掛けているのが分かった。──ルノではない。気配が全く違う。何だかよくわからない、色んなものが混ざって、そして綺麗に溶け合っているような不思議な気配だ。

「……誰だ?」

 回らない頭を動かし、薄目をあける。ぼんやりとした視界に、ふんわりと揺れる金髪が見えた。

(レインか?)

「ネコジタ君……?」

 ──いや、違う。もっと濃い金髪だ。


「熱は、大丈夫?」


 幼い少女の声が、耳を擽った。一気に覚醒し、像を結んだ視界には、金髪を揺らす少女が映る。

「……コガネ、ちゃん?」

 少女──コガネはにっこりと笑った。

「どうして……学校は?」

「……。」

「トルティーは? ウィルは……」

「……。」

「……コガネちゃん?」

「言わなくちゃいけないことがあって、帰ってきたの」

「え──」

 呆然とするシアングの前で、突然コガネの金髪が風もないのに浮き上がって光を帯びた。さっと広がった光は、その金髪を薄い桃色へと一瞬で変色させる。

「──な、なんだ!?」

 ベッドの上で上体を起こした姿勢のまま、思わずシアングは目を庇おうと左手を上げた。──コガネの変化は髪だけではなかった。髪の毛が完全に桜色になってしまうと、今度は大きく丸い瞳が、一瞬で輝く真紅に染まったのだ。


 ──カッ!


 一際眩い光が部屋を包む。すると、宙を舞っていたコガネの髪が肩に落ち、光は収束するように消える。窓から入ってくる風がシアングの汗を撫で、かすかだが遠くで聞こえるトアンたちの声が、ここがチャルモ村だとシアングに教えてくれた。

「コ……ガネちゃん?」

 掠れた声で問いかけたシアングの左手に、コガネの両手がそっと添えられた。

「コガ──」

「ゼロリードがしようとしていることは、止めなくちゃいけない。なにがあっても、なにを犠牲にしても──」

 そう呟くコガネの瞳は、どう見ても少女のそれではない。シアングは冷たい汗が頬を伝うのを感じるが、ふと、そのコガネがどこか寂しそうな表情を浮かべて自分を見ていることに気がついた。

「シアング、お願い。どうか、どうか忘れないで。忘れてはいけない。ゼロリードをとめて。あのヒトを、どうか正気にもどして──……」


『シアング、お願い。お母さんのいうことを聞いて』


 目の前の少女に、ふと、遠い日の幻影が被った。

「……嘘だろう?」

 カラカラに乾いたシアングの言葉を聞いて、コガネの瞳が憂いに滲んだ。けれどもすぐに真っ直ぐに見返してしてきて、真摯な表情で訴える。シアングの手を、きゅっと掴んで。

「この身体を通じて話すのも、もう限界──……お願い、覚えていて。とめて、あのヒトをとめて。封印なんて、解いても無駄だって教えて」

 ルウウウン、コガネの髪が再び淡い光を纏った。コガネが、『コガネ』に戻っていくのだとシアングは察する。

「待てよ! この身体って……この子の身体は──」

「この子は──精霊の……」

 光が徐々に強まっていく。コガネの瞳が、真紅を失っていく。シアングは焦り、手を振り払うと少女の肩を掴んだ。もう、髪の毛は桃色ではなく、金色に戻っている。

「待て、待ってくれ! まだオレは──……お袋だろ? そこにいるの、お袋だろ!?」

「……とめて、あのヒトを…………。」

 シアングの問いには答えず、ぽつりと吸い込まれそうな声でコガネは呟くと、瞼を下ろしてグッタリとした。──シアングは反射的にその身体を支えるものの、頭の中は今みた光景がぐるぐると回っている。

「……止めろって言っても……」

 搾り出すようなシアングの声に、『コガネ』が目を開けた。大きな目をパチパチさせ、シアングの頬に小さな手を当てる。

「シアングお兄ちゃん、どうしたの……?」

「親父にはもう、それしかないんだ。もう、正気には戻れないんだ──……」

「お兄ちゃん」

「──オレだって、とめたいよ。けど、もう、」

「泣かないで……。」

 窓から入ってくるもう冷たい風が、シアングとコガネの髪を揺らした。コガネはシアングの涙を拭って、不思議そうに首を傾げていた。



「シアング、入るぞ」


 リゾットを乗せたトレーを片手に、レインは部屋のドアを開ける。

「いい加減何か食うだろう……あ、コガネ、ここにいたのか」

「……ああ」

 何か考え込んだ様子のシアングが答え、そのベッドにもたれかかって眠っているコガネの頭を撫でた。

「悪いな、病人なのに」

「いや。……なあ、ネコジタ君」

「ん」

 コガネの頭からそっと手を離してリゾットを受け取ってから、シアングがどこか探るような目を向けてきた。レインは一瞬きょとんとしてから、すぐに何気ない様子を装いつつもその視線を見返す。

「……この子、コガネちゃんのことなんだけど」

「……コガネ?」

「何者なんだ」

「何者って……?」

 シアングの言いたい言葉の意味が分からず、レインは再びきょとんとした。──レインにとって、コガネはコガネだ。どんなに不思議な力をもっていようが関係ない。自分だって結構特殊な分類に入るのだろうし、ウィルだって普通の人間じゃない。──だから、コガネの精霊を操る能力をはじめてみたときも、今この瞬間も、『そういうもの』だと納得していて、深く追求して考えたことはなかった。


「……コガネは、コガネだ」

 暫し考え込んだレインが出した結論は、それだった。答えは考え込む前からでていたようなものだが、シアングがこんなにも真剣なので、それに応えるために時間をかけた。

「──そっか」

「そうだ」

 シアングはふっと笑って、それで納得した──ようではなかったが、うんうんと一人で頷くとリゾットを食べ始めた。

「……シアング、逆にオレが聞きたいんだけど」

「何?」

「…………お前、帰るんだって?」

「……、まあな」

「別に引き止める気はないけどさ。……ここに、いつでも来ていいぞ。セイルもつれて」

「ありがとう」

「……ルノが悲しむし、アンタも、ルノと離れるの辛いだろう」

「……そう、見える?」

「見えるから言ってるんだ。アンタは、恐れてる。」

「え?」

 レインの言葉があまりにも意外だったのだろう、今度はシアングが目を丸くした。レインは目を細め、眠っているコガネの頭をそっと撫でた。うふふ、と、コガネが笑いながら身動ぎする。──いい夢を見ているのだろう。

「ルノから離れて、自分が一人で何かをしようとすることに、恐れている。──危険な、許されないことなんだろう」

「……。」

「シアングにとって、ルノは何なんだ?」

「……オレにとって?」

「そうだ」

「オレにとって、あいつは、──ルノは……」





「ありがとう、今まで、世話になったな」

「いいや、対したことできなくて悪かったよ」

 シアングが差し出した右手に左手を重ね、硬く握手しながらウィルは笑った。ウィルの足にしがみ付いていたコガネも、ばいばいとその小さい手を振る。ウィルの横に立つレインと、コガネと同じく足にしがみ付いていたトルティーも、ゆるゆると手を振った。

「ありがとうな、ネコジタ君」

「……ああ。また、いつでも来いよ」

「そうする。」

 今度はレインと握手して、次にトアンが出した手に、シアングは軽く掌をぶつけてぱちんと景気よい音を立てさせた。

「トアン、ありがとう」

「ううん、シアング、……その、やっぱり、帰るの?」

「ああ」

「……。」

「ルノのこと、頼むな。」

「う、うん」

 ぎゅっと握られた手が離れ、次に、トアンの横の、ルノの前にシアングの手が出された。ルノがそっと顔をあげ、シアングを見る。



 シアングの熱が下がったのは、夕方を少し過ぎてからだった。ウィルとトルティーが帰ってきて、さあ夕食の準備手伝うぞーとウィルが言った時、部屋のドアがあいた。──一同が見つめると、ドアの向こうには、もう身支度を整えたシアングが立っていたのだ。そして、キッパリといった。

 ──今から、帰ると。



 帰り道は? とトアンが聞くと、湖にいってみる、とだけ言った。ゲートは閉じているのでは、と言ってみたが、きっとセイルがくる、とだけシアングは返し、頭を下げたので会話はここで途絶えたのだ。

 見送りは断られたので、家のすぐ外で送ることにした。──急すぎることに、トアンは混乱していたが、それ以上にルノが困惑しているのがわかった。……きっと、シアングなりの気遣いと決意なのだろう。ルノとの会話を、殆ど消して。


「じゃ、ルノ。右腕、ありがとう。」

「……ああ」

 そっと二人の手が重なる。二、三度上下に揺れた手が、すぐに離れてしまった。

「みんなも、ホントありがとうな」

 最後にシアングが全員に向けて一礼した。そのまま踵を返し、歩き出していく。

「ルノさん……」

 ルノは答えない。シアングの後姿は、見る見る打ちに小さくなっていく。

「……ルノさん?」

 トアンがちらりとルノを見た瞬間、ルノは走り出していた。


「シアング!」


 ぴたり、シアングの足が止まる。シアングが振り返る前に、ルノはシアングに追いついていた。

「ル、ルノ?」

 心底驚いた表情のシアングが呟く。ルノは顔をあげ、まっすぐにシアングを見た。

「色々、考えた。色々考えてしまった──けれど、私は、私は!」

「……?」

「やっぱり、お前を信じる」

「!」

「……何があっても、お前にはお前の考えがあって、お前の信念があることを信じる。……あのとき、私を庇ってくれたことを、昔、私の手をとってくれたことを、絶対に忘れないから」

「……。」

 シアングがそっとルノの身体を離した。それから迷うことなく、ルノを見て、言った。

「ありがとう、ルノ」

 そういって微笑んだシアングの顔は、昔見た笑顔と、全く変わっていなかった。


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