第23話 存在証明α



 さああ……

 静かな静寂が村を包む。濡れた空気がゆっくりと通り過ぎていき、草と土のにおいもした。

 目が覚めると、チャルモ村では雨が降っていた。トアンの仕事は今日は休みだ。トトとルノは図書館の手伝いに言ってしまい、プルートはトトの居なくなったベッドでぐっすりと眠っている。

(……ゆっくりできるかな)

 ほんの少し肌寒かったのでカーディガンを羽織り、トアンはベッドから抜け出した。血塗られた未来の像が、雨音によって優しく洗い流されているような気がする。トトとプルートに話を聞いてまだそんなに時間は経過してないが、不思議と雨音を聞く自分の心が落ち着いているとトアンは気付いた。

(……とりあえず顔を洗って──)

 部屋のドアノブを捻る音にプルートが呻いたが、すぐに幸せそうな寝息が聞こえてきたので別に気に留める必要はなさそうだ。



「暇だなー」

 ソファにごろごろと寝そべったままウィルは呟く。直ぐ傍のテーブルには温かなコーヒーが置かれて、その横にはもう二つカップがある。ウィルの正面には、クッションに身体を埋めたシアングがいて、左手でカップ一つに手を伸ばした。

「コガネとトルティーは?」

「今日は牧師様んとこ。ほら、うちヒトが増えたじゃん。だから二人の健康診断。……あ、」

 別に皮肉を言うつもりはなかったのだが、シアングの目が下を向いてしまったのでウィルは慌てて付け足した。

「別に、シアングが悪いっていうワケじゃ」

「悪いね」

 キッチンからトレーにクッキーを乗せたレインが出てきて、目を細めて言い放った。咎めるようにウィルが名前を呼ぶ。

「レイン」

「うちはいつからこんな大所帯になったんだよ。宿屋でもできるんじゃねぇの」

 テーブルの上にクッキーが置かれる。香ばしい、焼きたての香りがした。

「ネコジタ君、」

「セイルはまだ起きねぇし。……ほら、シアング、ちゃんとしろ。クッションに零すだろ」

「悪い……あ、右手は掴まないでくれよ」

「そうだったな」

「……敵わないねー」

 シアングが肩を竦めてレインを見る。レインがふっと笑みを浮かべて見せたので、ウィルは寂しさを覚えてレインの名を呼んだ。

「レーインー」

 思ったよりの寂しそうな声に、レインがふうと息をつく。シアングの隣からソファの端に移動して、ウィルの顔を覗きこんだ。

「なんだよ」

「……」

 オレにも構って、なんてことをウィルが言えるわけはない。が、レインは察したように瞬きすると、少しそっけない、しかし甘い声で囁いた。

「……オレはお前の世話係じゃない」

「シアングのでもないだろ」

「……。」

「暇なんだよ。なあ」

「本でも読んでろ。トアンを起こして遊んで来い」

「外は雨だぜ? 本は読む気にならない」

 ウィルが拗ねたように言いながら、レインの髪に手を伸ばした瞬間、リビングのドアが開いた。

「おはよう」

 ごしごしとタオルで擦りながら、トアンは暖かい室内に目を細める。水が冷たかったからなおさらだ。

「おう」

 ウィルが手をひらひら振って応えてくれた。その直ぐ傍にいたレインもこちらを見て、それからシアングの目がトアンを見ていることを知った。

「シアング」

「おはよう」

「おはよう……もう起きて大丈夫なの?」

「まあな。大分、楽になったし。座る?」

「うん」

 大人しくシアングの横に腰掛ける。明るい照明の下で見るシアングは、上着で大部分は隠れているものの、褐色の肌は殆ど真っ白な包帯で覆われていた。

 つんと鼻をつく薬のにおいに目をしょぼつかせていると、目の前に湯気の立つカップが置かれる。

「ありがとう兄さん」

「ああ。……遅かったな、起きるの」

 トアンの、カップに伸ばした手が一瞬とまった。それでも何事もないように、トアンは苦笑いを浮かべてみせる。

「……。ごめん、少し、疲れてたみたいで」

「ふうん?」

 納得したのかしてないのか、レインはつと視線を逸らしてソファの端に座った。ウィルがもそりと起き上がって、お、こっちくるの? と言いながら場所を空ける──視線が逸れるほんの少し前、オッドアイに一瞬何か過ぎったのは、きっとトアンの気のせいだろう。

(兄さんって、ちょっとよくわからないところあるし、ね)

「何か食うか?」

 暇をもてあましているらしいウィルの手が、レインの髪の毛をいじる。が、レインはさして気にした様子でもなくトアンに問いかけた。

「ええっと……うん。このクッキー食べていい?」

「それだけ?」

 ええ、とウィルが声を上げる。

「うん、ちょっと食欲なくて……いい?」

「いいよ」

 無理強いはしないレインである。指先でトレーをトアンの方に押しやって、窺うように目を細めた。──心配してくれているのだ。

(でも、こんなこといえない)

「そうだ。トトさんとルノさんは?」

「図書館。ルノはトトの手伝い」

「へえ……」


 自分の未来は化物だ。

 ショックが思ったより大きくて、何も食べたくないんだよ。


 ……なんて。


「あ、ネコジタ君」

「?」

「オレが髪いじったとき、やめろって言ったのに。ウィルにはいいんだ?」

「オレはいいんだよ。な、レイン?」

「うるさいな」

 トアンは仲間たちの会話を聞きながら、もそもそとクッキーを頬張り、ミルクティーで強引に喉の奥に流し込んだ。


 どん、どん、どん


 雨音に負けないくらい大きな音で、玄関がノックされた。一番玄関に近い位置にいるレインがめんどくさそうに立ち上がり、誰、と言いながら玄関に近寄る。

「誰だー?」

 ウィルがのんきに問いかける。扉の隙間から顔を覗かせたレインが、さあ、と首を傾げてみせ、再び玄関の方へ消える。

 どん、どんどん

 先程より忙しないノックが響く。トアンはクッキーから手を離し、シアングとウィルと同じように、レインの消えた方向を見つめた。

「誰だ」

「……。」

 レインが問いかけているが、ドアの向こうの主は応えない。

 がちゃ、と扉が開く音がして、その直後、レインの警戒した声が聞こえた。ウィルが素早く立ち上がる。

「何のよう──お前……!?」

「どうした!?」

「まて! 泥塗れのブーツで歩き回るな!」

 どた、どたん、どたん。重い足音と同時にレインの慌てた声と足音が追いかけてくる。ばたんと勢いよくリビングの扉が開けられ、──そこには、一人のずぶ濡れの少年が立っていた。

 硬そうな茶色の髪を柳色の変わった形の帽子で押さえ、その帽子に、磨きぬかれたゴーグルが雨水で光ってついていた。布を幾重にも巻きつけた独特の服装で、紺色の動きやすそうなジーパンはブーツの中に入っている。……そのブーツが汚れているから、レインが文句を言っていたのだろう。

 そしてその少年をより異様にみせていたのは、その顔についていた狐の顔を模した面だった。──アレックスと、同じ。

 流石にその雰囲気を察し、トアンとシアングも立ち上がった。ぴたん、少年の髪の毛から零れた雨の雫が、丸い跡をリビングに残す。

「そんなにうちの中汚して──うわ!」

 眉間に皺をよせ、怒った表情のレインが少年の肩に手を置いた瞬間──レインの身体は軽々と持ち上げられ、空へ放り投げられた。体勢を立て直す高さはない。ウィルが弾かれたようにレイン、と叫ぶが、先回りしたシアングが左手で器用にレインの身体を抱きとめていた。

「大丈夫か」

「……、助けろって頼んだ覚えはないけど」

「なんで今そんなこと言うかね……」

 シアングが苦笑する。レインはシアングの腕の中から、ウィルに「大丈夫だ」と合図する。

「良かった……」

 思わず安堵の表情を浮かべるウィルだが、すぐに険しい顔を少年に向ける。

「お前! いきなり何するんだよ!」

「……はっ」

 馬鹿にしたように少年が笑った。驚くべき、というより、やはり、その声はトアンが良く知るものと同じだった。少年は濡れた手で仮面を掴み、床に投げ捨てる。

「よう」

「……お前……?」

「……無理にゲート開いて、寝っぱなしのセイルを迎えにきた。セイルはどこだ?」

 ふっと口の端をあげ、嘲笑うような笑みを浮かべる少年の瞳は赤。その顔立ちは、目の前で驚愕に顔を引き攣らせるウィルと同じものだった。

「『影抜き』か」

 少年を睨みながらレインが言うと、少年は再び鼻をならした。少年の憎しみを焦がすような目に、レインの目が嫌悪に細められるのをトアンは見た。

(ウィルのあんな顔、確かに見たくない。……オレがそうなんだから、兄さんはもっとなのかな)

「はっ。久しぶりだなスノー」

「……お前にスノーって呼ばれたくない」

「ははは。そうかそうか。もうあのスノーはいないのか。……で? セイルは?」

「奥で寝てる。一々会話が噛み合わなくてむかつくな。……お前は誰だ?」

「そっかそっか、むかつくかー」

 うんうん、少年は何度も頷き、レインの顔を様々な方向から眺める。居心地の悪さに顔をしかめ、レインがいい加減しろ、と言うと少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。

「本当に……もうあのスノーはいないんだな。消えちまったんだな」

「は?」

「……。俺は、『アーク』」

「アークだって?」

 ずい、とレインとアークと名乗る少年の間に割り込んで、訝しげにウィルが言った。アークは少しも怯まずに再び口の端を吊り上げ、嘲るような、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「そうだ、俺の本体。親父の名は、お前みたいな腑抜けが継ぐべきものじゃないんだ」

「誰が腑抜けだよ。何だよお前、いきなり訪ねてきてその態度。セイルに何のようなんだ?」

(あれ)

 会話を聞いてるだけのトアンだが、一年前と今のウィルの変化を感じた。一年前の彼だったら、「誰が腑抜けだ!」と怒り出しているところなのに、今のウィルは落ち着いていて、冷静に相手の態度を見ているのだ。

「迎えにきたって言っただろ。詳しくお前に言う必要はない。──偽者め」

「偽者?」

 ウィルの顔が怪訝そうに顰められる。

「そうだ。……こんなところで平和ボケして、腐ってるようなやつが俺の本体だとは! ははは、笑っちまうな!」

「……」

 ぐ、と黙り込んだウィルに代わり、レインが不機嫌そうにアークを睨みつける。

「さっきから何空回りしてるか知らねぇけど。……人のパートナーボロクソ言っといて、ただで帰れると思ってんのか」

「レイン……」

「ボロクソも何も事実なんだ、スノー。こいつはウィルじゃない。俺であるわけがないんだ!」

「……よし。」

 レインを再び後ろに引き戻すと、ウィルが声を低くして唸るように口を開いた。

「表へでろアーク! 何だかよくわからないけど、喧嘩売ってるのは確かだろ!」

「ウィル」

 こんなのもうほっとけよ、とレインが囁くが、ウィルは首を振った。それから優しい声で、レインに答える。

「心配するな、レイン。……さっき、ありがとうな」

「いや……心配、なんてしてねぇけど……」

 そういうレインの顔は、全く言葉通りの表情ではなかったが、ウィルは大丈夫だよ、と言って再びアークに向き直る。アークは、面白そうに笑っていた。

 トアンは止めるも止められず、おろおろと視線と手を彷徨わせるが、二人の『ウィル』は玄関へと向かっていく。

 二人の姿が見えなくなると、ネコジタ君、とそっとシアングがレインに声をかけたが、レインは困ったような顔をシアングに向けた。


 かららん、ころん。


 玄関の扉のベルが鳴った。──だがそれは、二人が出て行った音ではなかった。


「やれやれ……アーク。また一騒ぎ起こしていたのか」


「げ!」

 何者かの声と、アークの驚愕の声が聞こえる。それから、続いてウィルの驚きの声もあがった。

「うわ、お前は……?」

「上がっても良いか、ウィルアーク」

「はあ、まあ……」

 礼儀正しい喋り方にウィルが対応に困っているらしい声が聞こえる。──トアンはここで、シアングとレインが自分を見ていることに気がついた。

「な、何?」

「……お前の声がする」

「え?」

(オレの声? どういう意味?)

 まさか本当にレインは壊れてきているのかとトアンは心配をするが、その横でシアングも頷いているのを見て、ますます首をかしげた。どういうことなのだろう?

 ──しかし、その疑問は直ぐに解けた。


「久しいな」


 困惑するウィルとアークを後ろに連れ、新たに入ってきた少年はしっとりと濡れた長い前髪の間からトアンを見た。──少年の髪は照明の下、とろりと光る白髪で、前髪の一部が赤い。濃紺のローブを身にまとい、口元に笑みを浮かべる。

(この人……!)

「お前は──」

 レインが目を細めると、少年は優雅な会釈をしてみせた。

「元気そうで何よりだ、スノー」

 少年は再びトアンに視線を移す。前髪の隙間から見える瞳の色は、アメジストのような紫色だった。

「我を覚えているか」

「……覚えてる。」

 トアンが応えると、その場に居た全員の視線がさっと集まった。居心地の悪さを感じる間も無く、トアンは言葉を続ける。


「一年前、会ったよね。──ハルジオン」




「トアン、どういうことだ?」

 少年──ハルジオンの後ろから、ウィルが困惑した声をあげた。しかしトアンにとって、この少年の情報は殆どないに等しい。──どうとも言えずにトアンが困っていると、ハルジオンの方から話を進めてくれた。

「アークの非礼を詫びにきた。……ウィルアーク。すまなかったな」

「え、あ、ああ……」

「へ、なんでお前が謝るんだよ」

「お前に任せていては、いつまで経っても話が進まないからだ。……大体、アーク。本体に手出しはしないから、と迎えの役を受けただろうに」

「……ふん」

「アレックスが怒っていた」

「げ!」

 アレックスの名前が出た瞬間、アークの態度が一変した。──最も、この場でアレックスの名と彼女を知る人物は、トアンたった一人だけで、驚きを共感できる仲間はいないが。

「……アレックス?」

 トアンの驚きを目で見ていたウィルが恐る恐る声をかける。ハルジオンはふっと苦笑する(目は前髪で隠れてしまったので、トアンは口元だけで判断した)と、ぐるりと室内を見渡していった。


「スノー、お茶を一杯もらっても良いか」




「まず、もう一度アークの非礼を詫びよう」

 再び上品な、優雅な手つきでカップを持ちながら、ハルジオンは言う。向かい合ったソファの片方にはハルジオンとアーク、その正面にトアンたちは並んで座っていた。

 ハルジオンの言葉にアークが不満そうにしたが、すぐにハルジオンの視線にたしなめられて大人しく引き下がる。──どうやらこのハルジオンという人物は、かなりの力を持っているようだ。

「いいよ、もう」

 ウィルが腕を組んで答える。

「……なんか、オレのことを恨んでるみたいだし。何者なんだ、このアークってやるは」

「気がついただろう。アークは──我らは『影抜き』だ。アークはウィルアークの、我は、そこにいる、トアンの。」

 ウィルからトアンに視線を向けた際、レインから借りたタオルが、ハルジオンの肩からずり落ちる。もう乾いてきた白い髪の隙間から見る紫の瞳は、トアンと同じ。

 もう一度ハルジオンはウィルに視線をもどした。

「……アークの暴言を許して欲しい」

「だから、もういいってば」

「──かつて守森人として村を焼かれた際、村を焼いたエルフを恨まなかったか?」

「へ?」

 意外すぎた質問だったのだろう。ウィルは目を丸くして、直ぐ隣に座って紅茶を飲んでいたレインを見た。レインはちらりと視線だけで応える。

「……恨んでたことは、恨んでたな。あの時、自分が仕えてきた相手がオレの村を焼いてたんだ。──一瞬、怒りで我を失いかけたけど……レインが背中蹴っ飛ばしたんだよな」

「さあ」

「とぼけんなよ、痛かったぞ? ……まあ、そのお陰で、自我は保てたけど──それから記憶を取り戻したんだったよな」

「そうだ。その際、その前のお前と、憎しみを持った守森人のお前との間にズレが生じた。──『強い憎しみ』は『抜け出し』て、『影抜き』となった──……」

「憎しみ……? それじゃ、こいつはオレの、憎しみ?」

「そうなる」

「……なんか、それじゃ、アークが可哀想だな。……憎しみだけなんて」

 思わず呟いたトアンの一言に、ウィルとハルジオンがさっとトアンを見た。──思いがけず集まってしまった集中に、トアンは心底慌てて苦笑いを浮かべる。

「な、なんて……ね」

「別に、お前に同情なんてして欲しくないね」

 ずず、と音を立てて茶を啜りながらアークは言った。

「アーク」

「ふん。あ、スノー、お代わり。」

「お前にスノーって呼ばれたくない」

「二回目かよ。いいだろ、俺にはスノーにしか視えないんだから」

「ていうか、オレもお前にスノーって呼ばせたくないんだけど」

「ほっとけ、バーカ」

 再びアークとウィルの間に黒雲が立ち込めるが、ハルジオンの手がそれを一掃した。

「アーク、静かにしていろ」

「……う」

「何なら。アレックスを呼び寄せるぞ」

「や、やめろ。こんなとこ見せられるか!」

「ならば、大人しく従え。いいな?」

「……へーい」




「なあハルジオン」

 アークのカップに紅茶を注いでやりながら、レインが訊ねた。

「ズレ……って言ってたけど、どうして、『影抜き』が生まれるんだ?」

「……何故それを聞く?」

「オレの『影抜き』はもういない。そいつは、オレの小さい頃の記憶を持っていた。そいつはもう消えちまったけど──……消えちまうなら、どうして『影抜き』って生まれるんだ。何のために生まれる? 何の存在理由があるんだ」

「存在理由は、自分が自分のために見出すものだ。我が答えても仕方がない」

「質問を変える。……『影抜き』が生まれる理由はなんなんだ?」

「……。感情のズレだ」

 ハルジオンは言葉を切り、カップに口をつけた。しかしレインの瞳は真っ直ぐにハルジオンを見、やがて、居心地悪そうに口元を顰めて、ハルジオンは続けた。

「スノー、好奇心は、時に災厄を招くが」

「教えてくれ。……それに、どうしてオレたちの『影抜き』が、こんなに目の前に出て来るんだよ」

「……『影抜き』は、この世の『人間』一人につき、必ず一人発生する。いつの過程で生まれるかはわからないが、死ぬ前には必ず一度は、人間は自己嫌悪にしろ憎悪にしろ、自分の良心にしろ強い強い感情を抱くのだ。存在理由は『影抜き』其々だが──……誕生の理由を言えるとすれば、ハルティアが人間を知るために、強い感情から『影抜き』を呼び覚ますのだ」

「……。」

「以上」

「……さっぱりわからねぇな」

「……自分から聞いた割りにはスノー、お前、少し、」

「うるさいな。……あとでルノにでも聞くよ。……トアン、お前わかったか?」

「ええ? う、ううん」

 トアンはぶんぶんと首を振る。ハルジオンが呆れたようにため息をついたので、少なからず落ち込んだ。


 だって、ハルティアとか、遠すぎる話題は手に負えないんだから。




 サァアアア、雨の降る音が空間を独り占めしている。しんと静まり返った室内はとてもとても透明で、まるで、世界から切り離された、閉ざされた世界のようだとルノは思う。

 ルノはトトの頼みを受け、図書館の仕事の手伝いをするためにきているのだが、簡単な受付の仕方だけ教えて、トトは書庫の整理に行ってしまった。まだ仕事になれないルノは今、たった一人──といっても、利用する人はまだ一人も訪れていない。

(暇だな)

 こんなことなら、トトについていけばよかったか。あとほんの少しだけ待って、誰も来なかったら書庫へ行こう。

 そう考えていながら、ルノはこっくりこっくりと船をこぎ始める。受付の机はとろりとしたクリーム色で、椅子もクッションのお陰でふかふか。子守唄の雨音と先程取った遅い昼食が手伝って、どんどん、どんどん眠くなる。

 ここは静か過ぎる。埃を被った眠ったままの本たちは止まった時間を現していて、さらに雨音がそれを包んでしまっている。出口のない、いや、出口を探す必要もない空間だ。

(瞼が、重い。眠い……ダメだダメだ、誰かきたら)

 でも、誰もこないのだし。 サァアアア……雨の音をどこか遠くで聞きながら、ルノの瞼は重力に負けた。



(……ん?)

 ふと、トアンはアークの赤い瞳が目に付いた。そういえばアレックスも、セイルも、今まで出会った『影抜き』という存在は皆目が赤い。

「……あ、じゃ、じゃあ、ハルジオン。……『影抜き』って、みんな目が赤いよね」

「そうだ。一応、闇の眷属だからな」

「……じゃあ、どうして君は紫なの?」

「……。」

「それに……そうだ。君はいつ生まれたの? ルノさんを助け出したとき? ……いや、一年前じゃないよね。『影抜き』は生まれた歳が年齢になるって聞いたよ。君は、一歳はみえない」

「…………。」

「でも、旅に出る前、オレは強い感情なんて感じたことないんだよ。皆みたいに、そんな辛い目になんてあってない」

 喋るうちに、口は止まらなくなった。自分でも驚くほどの言葉がすらすらと飛び出して、ハルジオンはすっかり冷めていく紅茶はのまず、ただトアンを髪の隙間から見返してくる。

「……君は、いつ生まれたの? どうして、髪の毛の色も違うの?」

「……やれやれ。意外に的を得たな」

「え?」

「我は、お前の『影抜き』であって、お前の『影抜き』でない。……それしか言えん」






「……いません、あの、すいません」


「? ん……あ!」


 頭上から静かな声が落ちてきて、ルノを浅い眠りから引っ張り出した。慌てて身体を起こすと、そこには、困ったような顔をした見慣れない青年が立っていた。赤い髪の毛の、眼鏡をかけた青年だ。耳に大きな耳あてをしていて、おどおどとした瞳でルノを見下ろしている。

「す、すいません、起こしてしまって」

「いや、うたたねしていた私が悪い。……貸し出しか?」

「はい」

「ここを利用するのは──」

「初めてです」

「そうか。では、この紙に名前を書いてくれ」

 トトに教えられた通りに、意外にもテキパキと仕事ができた自分を少し褒めてやりながら、ルノは引き出しから紙とペンを出して青年に差し出した。

 青年は身を屈め、ペンを走らせる。レグルス、と書いたところでその手がピタリと止まった。

「あ、フルネームで。」

「あ、は、はい。ごめんなさい」

 青年はルノに謝る。が、その手は微かに震えるだけでそれ以上の文字を綴らない。



「ハルジオン?」


 ふと、リビングの入り口から声がかかった。──壁にもたれるようにして、とろんとした瞳を向けているのは──ここ数日眠り続けていたセイルだ。

「セイル! 起きたのか!」

「うん、ウィル、心配かけたの」

 ふら、頼りない足取りでセイルは室内に入ってくる。

「俺様を迎えに来たのね?」

「ああ。大分弱っているようだったからな」

 ハルジオンは立ち上がり、アークを促した。

「帰るぞ」

「え、ちょっとまって!」

「……またいずれ会うだろう」

 ハルジオンはそっと笑みを浮かべ、ぐるりと室内を見渡した。

「失礼する」

「セイル!」

 レインがセイルの手を握る。セイルは目を丸くして、にこにこ笑ってそれに応えた。

「心配しないで、スノー。俺様、すぐ帰ってくるのよ」

 そういい終えてから、シアングのほうをちらりと見て、セイルはハルジオンに向き直った。ハルジオンは頷き、右手を高く上げてぱちんとならす。


 ──キュイン。


 指がなった瞬間に空間がばっくりと裂け、三人の姿を飲み込んでしまった。ウィルとレインが、そしてトアンが制止する間も無く空間は元通りになり、何事もなかったような室内の景色が広がっているのだった──……




 いつまで経っても動かない青年に、どうかしたのか、とルノが問おうとした瞬間、机の下の方からにょ、と小さな手が飛び出して紙とペンを奪った。あまりにも唐突なことにルノがひ、と小さな悲鳴を上げる。

「あ、あの、」

 青年が視線を自分の直ぐ脇の下に向けた。──そこでやっと、この机の高さより小さい誰かがいて、今紙をさらっていったのだと知った。

(お、驚いた)

「いつまでたっても終わらないだろ。おれが代わりに書く」

 高く幼い、子供の声だ。

「シオン君」

「……お前は、フルネームがちょっと複雑なんだったっけ。ごめん、忘れてて」

「い、いえ……ありがとうございます」

「ふん。……ほら、お姉さん、これでいいんだろ」

 にょ、と再び小さな手が伸びてきてルノの目の前に紙を置いた。ルノはそれに目を落とす前に、頭は子供の言葉を否定していた。

「違う、お姉さんではない。私は──」

「じゃあ、おれたち本見ていいんだよね?」

「え? あ、ああ。もちろん」

「そ。ありがとう」

「ありがとうございます」

 ぺこりと青年が頭を下げて、行きましょうか、と視線を下げていった。青年の姿が受付から離れ、本の国へ消えていく前に、漸く小さな手の正体がルノの目に映った。藤色の髪の毛の、どこかで見たような顔の少年だった。

「じゃ、バイバイお姉さん」

 肩越しに少年が振り返り、紫の瞳が微笑みに細められた。──確実にからかわれているのだが、ルノはもう諦めた。ため息とともに、視線を、紙に落とす。

「利用者──シオン──」

 頬杖をつき、何気なくその名前を辿っていたルノの瞳が、驚愕に見開かれた。

「──……シオン・『ラージン』!?」

 弾かれるように顔を上げる。が、もう既に二人の姿は雨音に飲まれるように本棚と本棚にかき消され、閉ざされた空間に溶けてしまって、もう、見つけることはできなかった。





 そこは、どこまでも果てない空間だった。

 黒くて、青くて、そして白い。大きな渦が渦巻いている横ではくるくるとどこまでも続いていく螺旋階段が回っていたり、膨大な本がふわふわと空中を漂っていた。

 ここには、上も下も、そういう概念はない。明かりもない。けれど、明るい。そこに『居る』ものたちははっきりと互いの姿を見ることができた。


「アーク!」

 一人の金髪の少女が、漂っていた本の群れから、ふんわりと柔らかな動きで降りてきた。

「げ」

 ハルジオンの後についてあるいていたアークは顔を引き攣らせ、咄嗟に逃げようとする。が、その少女の手が素早くアークの服を掴んでいた。

「アーク! 君、騒ぎを起こしたんでしょう! 見てたんだよ!」

「ううう、うるせーよアレックス! お前には関係ないだろ! 俺と本体の問題なんだ!」

「君、スノーにだって乱暴した!」

「うるせーって言ってんだろ!」

 空気を震わすような怒鳴り声に、アレックスと呼ばれた少女が首を竦めた。その顔に見る見る悲しそうな色が広がり、アークは大いに慌てる。

「……あ、そのよ、ご、ごめん」

「……。」

「よさないか」

 気だるげにハルジオンが言う。どこからともなく揺り椅子が飛んできて、彼の身体をすくいあげた。

「ごめんなさい」

 アレックスが頭を下げた。ので、アークもつられる。

「いや、いい。アレックス。お前が謝ることではない」

「でも……」

「……我も、お前たちに当ってしまったようだ。すまない」

「ハルジオン」

「何だ」

「『凶星の予言』のことなんだけど」

「……。」

「トアンたちはそれを知らないでしょう。このままじゃ、予言が──ルノが」

「……我に、トアンの行動を止める権利はないのだ」

「でも」

「アレックス。アークを休ませてやれ」

 ひらひらと手を振るハルジオンの前に、華奢な飾りがついた机と羽ペン、羊皮紙がとんできた。もう話すことはないというその態度に肩をすくめ、アレックスはアークの手を引いていく。

 セイルはそれを見送り、机に頬杖をついた。丁度椅子が飛んできたのでそれを捕まえ、ハルジオンの顔をじっと覗きこむ。

「……セイル」

「ん?」

「アレックスのところへいったらどうだ」

「ううん、ちょっと聞きたいことがあって」

「何だ?」

 何か羊皮紙に綴っていたハルジオンの手が止まり、長い前髪がこちらに向く。

「トアンをとめなかったことといい、忠告もしなかったことといい……ハルジオン、チェリカに会いたいんでしょう」

「……何故、そういう」

「なんとなく」

「…………セイル」

 ふう、とため息をついて、ハルジオンは言った。──少し、悲しそうに。

「我が、そのようなことを想うことは許されない。ただ、トアンの行動を見守るのが役目。止めることなど……」

「ハルジオン」

「でもそうだな、確かに、彼女を助けてやりたいことは確かだ」

 悲しみを笑みに変えるハルジオンを見て、セイルもにこりと笑った。

「だって、チェリカは、ハルジオンに名前をくれたひとだものね」

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