第19話 境界線は未だ曖昧なまま

──────────────


 遠い、遠い記憶の──その底で、自分の意識はゆらゆらと揺れる。海の底、といっても中々いい表現かもしれない。

 光は何度か降り注いできていたが、シアングは決してそれを掴もうとはしなかった。



『ルナ! ルナリアーッ!』

『お兄ちゃまー! 助けてぇ!』

何度も殴られたが構わなかった。ルナを、妹を助ける為なら。

『黙れ悪魔め! 神の名の下に裁きを与える!』

それなのに、オレの手は届かない。

ルナを押さえた男が斧を振りあげる。

『やめろ!』

 ……何でだよ。

 オレたちはお前等を助けにきたのに。


 人間界であるアールローアに、魔物に襲われた教会があるから、助けてこいって親父に言われて。

 雷鳴竜の子として生まれて、初めての仕事だったから、6歳の妹と、8歳のオレは張り切って出てきた、のに。

 オレたちは魔物の仲間と思われた。理由は、当時のオレに竜の力はまだなく、ルナリアも後継者ではないからオレたちの瞳が赤かったからだ。


『やめてくれ! 妹は離してくれぇッ!』

『あわてるな、後でお前も始末するから…やれ』

『いや! 助けて……ッいやぁ──ッ!』

 ゴトリ。

 何かが、地面に落ちた。


 そう、何かが。



 ──さあ、真実を思い出そう。


 あの教会が魔物に襲われたのも、親父の仕組んだことだった。知っていた。分かっていた。親父は、本当の仕事をオレに言いつけていた。


 ──雷鳴竜とは、最も愛すべきものの血を欲し、肉を欲する呪われた一族。お前もその力を覚醒させるために、そうだ、ちょっとルナを連れて行って殺しなさい

 ……いやだ

 ──殺してきなさいシアング

 いやだ、いやだ、オレは、そんなことしたくないんだ──


『お兄ちゃま。ルナは、お兄ちゃまを恨んでないわ。わかってたもの。ルナを殺せっていったことも、お父様が少しずつ壊れていってしまったことも──そして知ってるのよ。お兄ちゃまが苦しんでることも。知ってたのよ。ルナは恨んでないわ』

 星空の見えるテラスで、ルナリアは言った。シアングの手をとって、何度も何度も言った。その言葉を聞くのは二度目だ。

『お父様の言いなりになってちゃ駄目よ。このままだったら、お兄ちゃま、あのひとたちと』

 そしてそういってくれた。還りの聲の城から帰還したあの晩、ルナリアは自分が死ぬ前日と同じ言葉をオレに言った。

『……。嘘は、続かないのに』



 オレは、結局親父の声に逆らえなかった。殺されそうになったルナリアを助け、ルナリアを殺そうとしたヤツラを全員殺した。それから──妹であるルナリアも。


 ──殺したら、喰え。


 親父は言った。けど、オレにはどうしても、目の前のモノは食料や糧ではなく、愛しい妹の死体にしか見えなかった。オレはルナリアの死体に何度も何度も謝りながら、泣きながらベルサリオに帰った。

 親父の明らかな失望の目よりもなによりも、ルナリアの血のにおいが忘れられない。拭っても拭っても消えない赤。泣きはらした目が熱く痛み続け、鏡を見たオレは言葉を失った。──目の色が、金色になっていたから。


 ──こんなことで、オレの血は力を得て本質を現したのか?


 そしてその日の晩、夢をみた。今でもはっきりと覚えている。

 真っ暗な世界、凍えるような寒い世界。何処を見ても目をあけても閉じても暗闇で、気が狂うほどの静寂。

 ──ぽちゃん。

 不意に背後で聞こえた水音に振り向くと、ゆらゆら、水の波紋のように闇が揺らめいた。驚いてただ見ているオレの前にルナリアが現れる。

『お兄ちゃま』

 ルナはそう言ってそっと笑った。いいのよ、恐らくそう言おうとしたルナリアの笑みに、オレはどうしようもなくガタガタと震えて耳を塞いだ。──聞きたくない。救いの言葉も、非難の言葉も。


 ──弱虫!!


 ところが、唐突に目も閉じて耳も塞いでいるオレに声がぶつかってきた。……違う、心の中で何かが弾けて、真っ直ぐにオレに剣先を向けたんだ。声は続ける。

 ──自分の心を殺して、ただ言いなりになってるのはどうして? 本当に父親を信用してるの? 違う! お前はただ怖いんだ! 父親に捨てられることが、雷鳴竜の宿命が、何もかも怖いから逃げてるんだ!

 ……やめろ。

 ──弱虫、意気地なし! ルナリアの声も聞く勇気もなくて、そもそも父親に反論する勇気もない最低の王子!

 ……やめろ、やめてくれ。

 ──父親に逆らってルナリアを救うこともできない。逆にルナを殺しても、でも父親の命を全て果たせない。……そうして、中途半端な結末だけしか掴めないなんて! ……お前なんて、

 ああ、瞳を開けたオレはただ愕然とした。目の前に立っていたのはルナリアではなく、オレ自身の姿だった。『赤い』瞳からボロボロ涙を零しながら、オレと同じ声で叫ぶもう一人のオレ。──その声は鼓膜を震わせるというよりも、心の内側から壁を叩いてくるものだった。


 ──お前なんて、消えちゃえばいいんだ。


 もう一人のオレ──いや、『オレだったもの』がはっきりと決別を告げた。別に腹は立たなかったし、悔しくもなかった。ああ、そうだよな。妙に納得するのは、オレの心が直接伝えてきたからかな。

 暗闇が濃くなり、ただ立ち尽くすオレに背を向けて『オレだったもの』が歩き出した。残されたオレは目を閉じて意識が目覚めるのをまっていた。──心にぽっかりと穴が開いていたけれど、仕方ないな、と思うことにして。意気地なしのオレはついに、自分の心の一部に見捨てられてしまったんだ。


 ──背を向けて去っていったのは、『勇気』の感情。



「……。」

 シアングはゆっくりと瞳を開いた。 何か遠いところに心が行っていたような気分だ。開け放った窓から射しこむ光はどこまでも優しく、シアングにおはようと言ってくれた。眩しさの次に清潔なにおいを感じ、シアングはそっと視線を彷徨わせる。洗剤のにおいの残る、洗い立てらしいシーツの柔らかなベッド。枕に頭を埋めると、すっぽりと包み込んでくれるようだ。


──もう少し眠っていても良かったかもしれない。こんなに寝心地がいいのだから。


 ぼんやりとそんなことを考えながら、先程見た夢を思い出す。忘れられるわけがないのだ。昔はあの夢を、あの出来事を思い出すたびに気が狂いそうになったが、今はすっかり慣れてしまった。それがいいことだとは思わないが、幸いだとは言えるだろう。

(温かいな、ここ)

 もしかして、天国かもしれない。

 今考えたことにふっと苦笑して、シアングは漸く上体を起こした。──途端に鋭い痛みが身体中を走りぬけ、よろめいた身体を支えようとして右手を伸ばすが──右手は全く動かなかった。それどころか、その右腕も焼けるように──とまでは行かないが、ずくんと痛みを訴える。

 何とか踏みとどまって、視線をめぐらせて見た右手は、肘の下から真っ白な包帯にぐるぐると覆われ、何か硬い金属のようなものと一緒に固定されていた。そのまま周りを見渡して、シアングは今更ながら自分が見慣れない場所に居ることを知った。──ベッドの横に、ルノが突っ伏して眠っているのを見て、更に驚く。

(ここは──?)

 左手でルノの頭を何気なく撫でる。

「ん……」

「ルノ」

「……、……」

 僅かに呻いたが起きる気配はない。その少女のような顔は、疲労の色がはっきりと出ていた。

 漸く、シアングは自分の身体の状態を確認する。上半身は裸で、しかしその肌の大半を包帯が幾重にも巻かれていた。右腕も真っ白だ。自分の褐色の肌に、包帯は眩しいぐらい浮いて見える。

(ああ、そうか)

 父親の逆鱗に触れ、この腕は再びルノのために失われたのだ。──ルノの所為ではない。自分がただそうしたかったからだ、とシアングは心の中に呟き、腕にとりあえず感覚はあることに安堵した。ちぎり取られなかっただけ、骨折は幸いだ。骨は酷い有様だろうが、竜の子であるシアングの再生能力は高いからあまり問題ではないだろう。

(それに、包帯に何度も巻きなおした後がある……ルノ、相変わらず手先が不器用なんだな)

 巻きなおした数だけ、ルノはシアングを治療してくれたのだろう。それこそ、こうやってぐっすりと眠りに落ちるほどに。

(そうだ……ここはどこなんだ? ルノがこうやって安心してるってことは危険な場所じゃないんだろうが……)

 傷によって背中が引き攣れるように痛んだが、動けないほどではないとシアングは思い、ベッドから降りた。下は黒いスウェットだったので動きやすい。部屋を出る際、シアングはふと足を止め、ベッドに戻って毛布を手に取った。

「……。」

 以前ならすんなりといえた言葉は喉元で引っかかってしまう。シアングは頭を軽く振り、ゆっくりと呟いて毛布をルノにかけてやった。

「……ありがとう、ルノ」



 ドアを開けて部屋から出る。と、直ぐ隣に似たような扉があるのを見、何となくシアングは中を覗いた。

 直ぐ隣の室内はベッドが四つあり、やはり窓から穏やかな風が舞い込んできている。そのうち、三つのベッドは空だったが窓側の一つは誰かが居るようだ。首を伸ばしてシアングはそれを確認し、ああ、と納得する。

 ──セイルが眠っていた。

 起きる気配などまったくなく、いつもの間の抜けた寝顔ではなく死んだように昏々と眠っている。──先程まで、自分も同じような顔をしていたのだろうとシアングは思い、そっと部屋の扉を閉めた。酷く消耗した体力を回復するには、とにかく眠るしかないのだ。

(あいつがオレたちをここに運んだのか?)

 『影抜き』が持つ特殊な移動手段は知っていたが、あの環境で、しかもこの人数を連れての移動は相当な負担になってしまっただろう。

(ルノやトアンをそんなに死なせたくなかったのか? ……違うよな、懐いてるとは思うけど、命をかけるまでは行ってないだろう。──とすると、やっぱりトトか)

 ふと、そこまで考えてシアングは頭を振る。

(やめとこう。推測じゃわかんねーもんはわからんねー)


 ぺた、ぺた、ぺた。裸足の足音がフローリングの床に音を立てる。シアングはゆっくりと廊下を歩きながら、家の中を観察した。

(埃もほとんどない。掃除が行き届いてる──ああ、それにドライフラワーなんか飾って……)

 絵本に出てくるような暖かな家。何気なく目に付いた玄関の傍の扉を開けたとき、シアングは目を丸くする。


「ああ、起きたんだ」


 リビングのソファに身体を埋め、文庫本に目を走らせたままレインが呟く。金髪というより、淡いクリーム色の柔らかな髪が温かな風にふんわりと遊ばれていた。さすが元暗殺者、久しぶりだというのに足音だけでシアングが分かるとは。

「あ、ああ、……うん」

 久々に会った旧友に、何か声をかける前に先手を打たれたシアングは狼狽した。別に慌てる必要などはないのだが、この懐かしい安らげる空間が、シアングの張り詰めいたものを緩めているのだ。その急な緩みに対応できない自分に、更に動揺したシアングである。

「何か食うか?」

「いや……腹減ってない」

「そうか。じゃ、傷は? 痛まないか?」

「ああ……」

「さっき薬塗ったしな……そうだ、ルノは?」

「ルノは寝てるよ。疲れてるみたいだった」

「……ずっとアンタの看病してたんだぜ、一週間。あいつ、ほとんど休んでない」

「そう、か」

「……なんか変だな。シャキッとしろよ」

 シアングの鈍い回答にレインが文句を言うが、シアングはオレにどうしろと? と心の中で呟いていた。──状況が分からないんだ。それに、この家の雰囲気がシアングを溶かしているのだ。

「久々にあったのに、容赦ないな」

 とりあえずそれだけ苦笑混じりに告げるが、レインは文字列を追ったままぽつりと

呟いた。

「……話はトアンから聞いてる」

「!」

「別に、アンタが何を考えようが、あいつらを裏切ったからとか、……オレはずっとここにいたし、よくわかんねぇ。アンタも、今はとりあえず気にするなよ。ここに居る間はあいつらと戦う必要はないと思うぜ」

「……。あ……ここって、どこなんだ?」

「チャルモ村。アールローアの……片田舎。あんたの故郷からは遠いよ」

「……アールローアか。確かに、今は戦う理由はないけど──」

「傷が治るまで、ベルサリオってところに戻るまで戦闘禁止。」

 本の隙間から、ちらりとオッドアイが見上げてくる。

「ぼさっと突っ立ってないで座れよ」

 なんだか彼の偉そうな態度はあまり変わっていなくて、シアングは笑いながら指示通り隣に腰掛けた。レインはそれを目で追うと、本にしおりを挟んでソファの隣の小さなテーブルに置く。

「……本当に、帰るのか? ベルサリオに」

「……。」

「お前、その傷親父にやられたんだろ。ルノが泣きそうになりながら言ってたけど──あいつから離れて、お前、本当にいいのか? そんな親父の傍にいて、ルノを悲しませていいのか?」

「……よくわかんねーとか言いながら、鋭いなネコジタ君」

 シアングはそっと手を伸ばし、レインの髪に触れた。弟から、ルノの様子から、レインの目はかなり正確に状況を捉えているだろう。できれば何も言わずにこの場を離れ、あのベッドに帰りたかったがオッドアイは逃がしてくれそうにない。

「えーっと……」

「……。」

「オレには、まあやらなくちゃ行けないことがあって……。」

「髪」

「それで……え?」

「髪、触らないでくれないか」

「あ、ああ、悪い」

 なんとか言葉を紡ぐ最中、レインの髪をぐちゃぐちゃに掻き回してしまったようだ。しかし、慌てて整えようと伸ばした手は軽く阻まれた。

「触るなって言ったろう」

 レインが軽く自分の頭を撫でると乱れた髪はあっという間に整っていく。シアングは自分の左手をじっと見つめた。──そんなに、嫌われてしまったのだろうか。なんて考えて、残念に思う自分を嘲笑した。ルノをあんなに手酷く傷つけた自分が、こんなことでショックをうけるなんて……なんてザマだ、と。

 しかしレインは、シアングの表情の小さな変化に慌てて付け足した。

「悪い、別にアンタが嫌って訳じゃあないんだ。最近、他のヤツに触られるの嫌なんだよ」

「……謝ってもらうのが一番酷いな」

 その言葉にいくらか安心したシアングが冗談交じりに言うと、レインは一度目を細め、シアングを真っ直ぐに見て言った。

「アンタ、傷つけるんだな」

「え?」

「ルノに、前、随分なこと言ったらしいじゃねぇか。アンタが壊れちまったのかなって思ったけど──今度はそのルノを庇って大怪我だ。それに、今もちょっとへこんでた。……なあ、どうして? そうやって優しいアンタが、そこまでして親父に従う理由はなんだ?」

「ネコジタく……」

「触るなってば」

 先程のは演技か、と思ったが、どうやら本気で他人に髪をいじられるのが嫌なようだ。シアングは頭を撫でてやろうとして拒否された左手で、自分の頭を掻いた。

「……ネコジタ君さ。オレ、どうしたらいいかな」

「ん?」

「今、ネコジタ君に話せば、……でも、そうしたら」

「言えよ」

 レインの言葉に、迷いはなかった。

「一年前を覚えてるか? オレ、言ったよな」


『──オレは、アンタの味方だ。でももし、何かあったら。オレが、とめてやるから』


 一年前の言葉がシアングの脳裏に響く。忘れてはいない。

「とめてくれるって、」

「それだけじゃねぇよ。味方って言っただろ? 話せよ」

「……。」

 シアングは迷った。レインが協力してくれるなら話は早いのだ。けれど、こんな場所に居て、安らかな空間にいるレインを引っ張り出していいのか? しかし、またとない機会だろう。


「……時が着たら、ネコジタ君の力、貸してくれるか?」


 迷いながら、シアングがゆっくりと吐き出した言葉に対して、レインは直ぐ頷いた。ああ、承認してしまった。断ってくれたらよかったのに。……けれど、これで良かったのだ、と思う自分がシアングの中にいる。

「で、何すりゃいいの? オレの力って?」

「血華術だよ。いや……必要なのは闇の魔力だ。闇の魔力で、ある封印を解いてほしい。……闇の魔力の素質を持っていても、実際それを魔法として放てるのは、チェリちゃん、ネコジタ君、そしてその母のアリシアしかいない。……だから、ネコジタ君にしか、頼めない、ことなんだけど……」

 ──いいのか?

 このまま、協力を仰いで。この場所から連れ出して。

「封印?」

「それが解けたら、親父はきっと元にもどる、と思う」

「じゃあ、アンタはもう従わなくていいんだな」

 ふんふんと頷きながら、レインは言った。

「……いいよ。やるよ」

 レインはシアングの心の揺れを感じ取ったかのように、静かな声で続ける。

「約束は守る。その代わり条件があるんだ」

「……ん?」

「ルノに謝れ。……それで、もう泣かせないようにしてやれ。お前の正直な気持ちを伝えてやって。」

「……ああ」

 一つ、嘘をついたことになった。シアングはこんな危険な約束をさせ、そして自分の返答に良心がちくりと痛むのを感じた。

(その時が着たら、きっと、もっと泣くと思う)

 痛みを受け流そうと、シアングは首を振り、話題を変えた。

「ところで、ここって誰の家なんだ?」

「オレたちの家だ」

「たち? トアンとかか?」

「違う。……今はこんな合宿所みたいなノリになっちまってるけど、本当は子供二人と、オレと、ウィルの家なんだ」

 そう言ったレインの微笑みに、シアングはついに痛みが受け流せず、視線を逸らしてしまった。


 ──自分が、壊してしまうと知って。

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