第18話 DEAR EDIT
吹き抜けになっている壁を、さっと大きな影が過ぎった。影は塔を中心にしてぐるぐると回り。大きな風を起こしている。風が吹き抜けを通過するたび、狂人の忍び笑いとも悲しみの歌ともつかぬ音が響き渡る。──これは、戸惑いの賛美歌だ。
シアングを中心に挟み、対峙するように立ち尽くすトアン、ルノの正面で、トトの前に立つセイルが歯軋りをした。
「嘘だろう……?」
ルノの口から漸く出てきた言葉は、恐ろしく愚かな問いだと自分でも分かっていた。愚問だ。セイルの言葉は恐らく事実なのだ。──それを頭の片隅で認めながらも、ルノの心の大部分は否定を続けた。
「嘘だ、シアング、なんとか言え。……答えろ! 嘘だろう!」
フリッサのあの館では、きっとあの女性が、今も黄昏から夕闇になった空を見上げているはずだ。彼女は生きているはずだ。だって、あんなにも彼女の瞳は美しかったのだから。
──あんなにも、シアングの掌は温かかったのだから。
影がぐるりと動いた。何かに気付いたのか、ルノの視界の端でトトが弾かれたように周囲を見渡す。それでもルノはまっすぐにシアングを見ていた。シアングはセイルの方を向いているので、こちらから表情は窺うことができない。
「シア──」
ルノが再び叫ぼうとした刹那、塔が身震いした。ドドドド! 何かが崩れる音、ゆさゆさと揺れる塔。何が──そう首をめぐらせるルノの身体を、トアンが思い切り引き寄せた。ド、ドドドドン! シアングの直ぐ横までの壁と床が崩壊し、崩れていく。もうもうと立ち上る煙の中に、黒光りする鱗が光った。
「竜だ……」
トアンは呆気にとられた言葉を零す。煙の中に翼を畳んで座っていたのは、黒曜石のように黒い鱗を持つ巨大な翼の竜だった。鋭いカギヅメと長い首、そして太い胴。逞しくしなやかで、それで居て爛々と光る金色の目は恐ろしく獰猛だった。
この竜が塔の最上階に無理矢理着地した所為で、高いドーム型の天井の半分以上が崩壊している。それでも竜は窮屈そうだった。
トアンは竜を見るのは初めてだった。テュテュリスの姿を見たとき、彼女の竜としての姿は獣だったのだ。ところがこの竜は、トアンの知る竜そのモノの姿をしている。──鱗が、月明かりに煌いた。黒いと思っていた鱗は、赤紫色にキンと光る。
「親父」
動じず、その場に立っていたシアングが竜に向けて言葉を発する。親父? トアンは腕の中で唖然としているルノに視線を落とした。それから竜を見る──これが、ゼロリードの竜としての姿?
『おかしいな、シアング。』
竜が呟いた。声はまさしく、ゼロリードのものだ。
『なんでこいつらが生きてるんだ? おかしいな。それにこの場所まで来ているのもおかしいな。誰かが手引きしたのかな?』
シアングの顔色は変わらない。ゼロリードも竜の顔のため、どんな表情をしているかトアンにはわからないが、その声色は面白がっているように聞こえた。──そのすぐ表面のしたで、チロチロと燻る何かを感じ、背筋が粟立つ。──怖い。
『お前が殺したのにな、あの女。それなのに、何故こいつらは薬の原料を持っているんだ?』
じろりと金の瞳がルノのポーチを見る。──ああ、確定してしまった。ルノのゼロリードに対して恐怖を感じているようだった。だが、それよりもシアングの罪が確定したことが圧し掛かっているようだ。ルノは二つの恐怖を目前にし、瞳を見開いたまま一歩下がる。──トアンに触れ、はっとしたように紅い瞳が瞬いた。大丈夫だよルノさん。
金の瞳が、再びシアングを捉えた。彼は動じない。
『あの雨の晩、お前一人で行かせたのがそもそもの間違いだったな。なあシアング。お前、元々こいつらを逃がしてやるつもりだったんだろう』
「え……」
思わずトアンの口から飛び出した小さな驚きは、シアングの視線によって受け止められた。──その瞳は、あの、一年前のシアングのままだった。
──シアングは、あの晩、自ら出向いてトアンたちを助けてくれたのだ。あのときの言葉が嘘なのか、たとえ本心だとしても今の感激にはなんの役にも立たなかった。シアングはああいって、もうトアンたちをベルサリオに近づかないようにしてくれたのだと今知ってしまったのだ。
『ああ、俺は可愛い可愛い息子に裏切られてたってことか。まったく、イヤんなるね。お前はもっと賢い子だと思っていたのに、なあシアング。……ああ、こんなにも愚かだが可愛い息子よ。お前を見てると喉がなる。──俺の中の雷鳴竜の血が、熱く暴れだしている……お前の所為で!』
──ギャオオオオオオン!
罅割れた怒声が半分壊れた天井に反射して暴れ周り、凄まじい強風を持って襲い掛かってきた。思わずトアンは一歩下がる。──バシュン。先程まで立っていたところが鋭い何かで抉られた。真空刃だ。
『ああ、なんて腹立たしい!』
ゼロリードの怒りが空気に乗って轟く。がばりと開いた大きな口、鋭利な刃物が並ぶような牙。その中で光が収束し、雷の刃を作り出していく!
──ギャオオオン!
壊れた楽器のような耳を劈く音が再び大気を震わせ、トアンたちに襲い掛かってきた。ルノはその嵐の中で、ただ立ち尽くしているシアングを見る。危ない、そう叫んでいるのに、強風がルノの声を殺してしまう。
「シアング……!」
もう一度ルノが叫んだ瞬間、一際強い風が押し寄せてきた。白い。色がハッキリ分かるほど、強力な真空刃。トアンがルノの手を取って逃げ出すが。一瞬遅かった。
──バシュッ!
逃げ遅れたルノの鞄が切り裂かれ、中から小瓶が転がり出る。
「あっ!」
慌ててトアンが手を伸ばすが、そのほんの数センチの先で、再び襲い掛かってきた真空刃が小瓶に──
「駄目だ!」
トアンと共に、ルノが手を伸ばす。──その目の前で、小瓶がチリ、という小さな悲鳴を上げた。──そして。
──パキン。
小さな音を立て、小瓶に亀裂が入る。ルノの掌に落ちる前に、追い討ちをかけるように雷が一閃する。小瓶はあっという間に粉々になって吹き荒れる風にさらわれてしまった。
「──そんな」
「うわああああっ」
凄まじい強風の中、トトが悲鳴をあげ、両手で顔を庇うようにした。スッパリと彼の袖が切り裂かれ、パッと鮮血が噴出す。
「トトさん!」
「……トト!」
トアンよりも早くセイルが反応し、トトの身体を抱えると弾かれたようにその場を飛ぶ。──一瞬遅れて、トトたちが立っていた場所が深く抉れる。
「トアン、ルノちゃん、大丈夫なの?」
風の壁を越えて、ヒラリとセイルが着地した。しかしゼロリードはその会話を許さず。口の中に収束させた光を一気に解き放つ。──右、左、右! 逃げ惑うトアンの足元に直撃し、べきんと床が沈んだ感覚にトアンは冷や汗をかいた。
「トアン!」
見かねたセイルが、トトを抱えたままトアンに手を伸ばし、飛ぶ。人間離れした跳躍に胃が持ち上がる感覚を覚え、トアンはどこか冷静を保っていられる自分に拍手した。
「おとうさん!」
ゼロリードの前に立ち、セイルが叫ぶ。
『セイル。その手を、離しなさい』
「おとうさん、もう止めるの! トトに傷は付けさせないの!」
『……セイル。俺が気付かないとでも思ったか。どうしてその子供がお前のネックレスを持っているんだ? お前は、誇りをその子供に渡したのか』
「違うの!」
セイルとゼロリードの会話を聞いていたルノの手を、いつの間にか傍に来たシアングが軽く叩いた。──好きで聞いていたわけではない。動けなかったからだ。
(こんな、酷い)
シアングの罪も、ゼロリードの咆哮も、そして何より、壊れてしまった救いの手立て。
(……酷い、これじゃあ、あのヒトは何のために──)
ふ、顔に影ができる。シアングがルノを覗き込んでいるのだ。──まるで、心の中までも。
「ルノ」
「……。」
「オレがしたことは、本当だよ。オレがあのヒトを殺したんだ」
「……何故?」
そう呟いたルノの声は、震えていた。みっともないと自分を叱咤しても、震えは止まらない。死への恐怖よりも哀しくて涙が溢れそうだった。
その痛みが、教えてくれた。やっぱり、自分はシアングを信じていたのだ。──今も。こんなことを突きつけられても、それでも心が痛む。
「理由は、言えない」
「父さんの──お父上の命令か?」
「……だとしても、これを」
もう一度シアングの手がルノの手を叩く。──開け、ということだろうか。ルノが恐る恐る手を開くと、そこにはあの小瓶と全く同じ物が置かれていた。そして、その横には氷魔の涙。
「シアング、お前、これは……」
「……元々エアスリクは、助けたかったんだ」
「え?」
「氷魔の涙の封印は、オレじゃあ解けなかった。けど、お前なら──必要なかったって思ってたけど、お前の、壊れちゃったし。──これもって、エアスリクを元に戻してやってくれよ。……罪滅ぼしなんていえたことじゃねーけどさ」
シアングの言っていることが一瞬理解できず、ルノの瞳がしゃんと煌く。セイルとゼロリードの怒鳴りあいが、土煙の向こうでぶつかり合っている。
「……その薬の中身、ちゃんとしたものだから。疑うなら、ちゃんとした薬師に検査してもらえよ。──もう、手に入らないから」
「疑うなんて──でも、シアング、これは、……裏切りではないのか?」
「……裏切りなんて。」
シアングはふっと笑って、何か続けようとした。が、突如はっとしたように土煙の向こうを見る。
「うああ──!」
トトの悲鳴が響き渡った。セイルが振り返るが、その身体が太い尻尾に弾き飛ばされ、壁に叩き付けられた。
「……ぐっ」
一瞬息をつまらせ、崩れ落ちたセイルが激しく咳き込む。そして──吐血。脂汗を滲ませ、わき腹を押さえている。肋骨が折れているのかもしれなかった。
「──トトォ!」
それでも伸ばした手の先で、ゼロリードは非情な笑みを浮かべた。にたりと口の端が広がり、再び咆哮する。その声に応えるように空中で雷の牙が発生し、蹲るトトの身体を直撃する。
「──ッ」
声にならない悲鳴。焦げたような臭いが辺りを通り抜け、トトは身体を跳ねさせるとそのまま咳をした。──セイルと同じように吐血をする。真っ赤な血が、ほこりっぽい床に染み込んで行く。
そんな嵐の中で、トアンは立っていた。無事ではないが、まだ立っていた。──当たり前だ。トトの風が、雷を緩和してくれたのだ。生粋の夢幻道士であるトアンには魔法の攻撃に対する耐性はない。だから、こんな状況でもトトは印をきったのだ。
うう、視界の端で弱弱しくトトが痙攣する。トアンは痺れに消えそうな握力で月千一夜を握りなおすと、しゅうしゅうと息を吐くゼロリードに向かい直った。
「どうして」
もうもうと立ち込める煙の中で、トト、とセイルが呻く。
「どうしてこんなことするんですか。オレたちの何が気に入らないんですか」
トトは動かない、インクブルーの髪が、ざらりと流れた。
「どうしてオレたちを敵視するんですか!」
『……何もかも、何もかもだ』
金の瞳が嘆くように細められる。馬鹿にされている。そう悟って、トアンは頭に血が昇るのを感じた。
『…………何もかも。禁忌の子、闇の魔力、十三の鍵……カナリヤ。はは、ははははははは』
カッと爬虫類を思わせる瞳が見開かれ、壊れたようにゼロリードは笑い出した。ぶん、尻尾が唸り、トアンは辛うじて存在していた古い机に避ける間もなく叩き付けられる。ひゅ、息がつまった。それでもただ、悔しさと怒りが止まらない。
『はははははは! はは、ああ、笑ったら腹が減った。ルナリアは喰い損ねた。それから飢えて乾いてどうにかなりそうだ──セイル。おいで』
動かないセイルに、ゼロリードは首を伸ばす。なにかとても恐ろしい気配を感じ、トアンは熱くなったはずの動けない身体を冷たいものが通り過ぎるのを感じた。ルナリアを喰う損ねた? どういう意味だ?
『セイル。お前も一応、雷鳴竜の子シアングの『影抜き』だ。俺の口に合うかなあ、合うだろうな。ここまで生かしておいてやったが、いや、全部喰うのは勿体無いか。右腕だけでも……』
「やめろ親父!」
その刹那、トアンの前を黒い影が通り抜けた。服がはためき、髪が靡く。シアングは両手を広げてセイルとゼロリードの真ん中に立ちふさがった。
「セイルは俺の『影抜き』だ。けど、雷鳴竜じゃない。瞳は赤い。親父の食欲は満たせない」
『お前の腕をくれるのか?』
「……親父を怒らせたのは、オレだ。」
「駄目だシアング!」
煙の中からルノが飛び出してきて、シアングの腕を引く。
「ルノ、向こうにいけ!」
「駄目だ、そんな、お前……!」
『まあ、エアスリクを元に戻そうと頑張ってくれたのはシアングだ。うん、じゃ、お前の腕かな。ルノ、そこからどきなさい。お前はスカスカしてて不味そうだ』
「狂っている!」
『何?』
らん、と金の瞳に狂気が走る。それでもルノは臆することなく続けた。
「お前は狂っているゼロリード! 腕が、喰べたいだと? 狂気の沙汰だ!」
『……お前にはわからない。飢える、涸れる苦しみが。雷鳴竜に定められし物事を、たかが十五のガキに理解できるはずがない!』
ゆらりと長い首を擡げ、ゼロリードが吠えた。
『そして罪は罪だ! 俺を裏切ったシアングの罪! 俺を怒らせたシアングの罪!! その償いとして腕を差し出せと言っているんだ! 小賢しいガキが、ヒトの躾に口を出すな!』
がばりと開かれた口から、研ぎ澄まされた雷が無数の鋭い矢のように光り、ルノをぐるりと取り囲んだ。それはもう一度の咆哮とともにルノに向かって放たれる。ルノは咄嗟のことに目を閉じ、両手で顔を庇う反応をした。駄目だ、逃げなくては──叫ぼうとしてトアンは自分の声が出ないことを今更知った。先程の衝撃が大きすぎたのだ。
──ド、ドス、ドス……ッ
肉に矢が突き刺さる音が重く響く。再び血の恵みに狂乱するように、または哀しみの感情のように立ち込めた煙によってルノの姿はトアンから見えなくなる。
──痛みは、なかった。
(……?)
確かに嫌な音は聞いた。衝動の感覚も伝わってきた。それなのに自分の身体はどこも痛くない。
(死ぬと痛みは感じないのか?)
「……っ」
耳元に聞こえた苦しげな吐息に、ぼんやりとしていた思考が一気に現実に戻される。初めは恐る恐る、しかしはっとして目を開けたその目の前に、シアングの横顔があった。
「シアング?」
「……」
「──シアング、シアング、お前!」
現実に戻ってきた思考が状況を理解するのに少しの時間を要した。そして何故、ルノは自分が『無傷』なのか今更ながらに知った。
ルノはシアングに押し倒されるようにして、その身体全体で庇われたのだ。汚れているが上等な布、と思ったシアングの服が、さらにボロボロになっている。背中に無残にも突き刺さった矢の傷口から、今も尚鮮血は溢れて止まらないのだ。
ルノの角度からちらりと見えるだけでかなりの数だ。ルノの声に応えないシアングから、彼の身体の状態がはっきりとわかる。
「……ッ、どうして私を……?」
重みと温もりが、こんな風に伝わってくるのが悲しいのか、シアングの途切れ途切れの吐息が悲しいのかルノにはわからなかった。身体を起こしてみると、シアングの身体は重いだけでなんの抵抗もなかった。なんとか上体を起こしたルノの膝に縋りつくようにしているシアングの背を見て、ついに堪えきれなくなった涙が頬を伝う。──シアングの身体は、本当に、酷い有様だった。
ゆっくりと手を伸ばして、酷い怪我にそっと触れる。傷口は焼けるように熱く、シアングが僅かに身動ぎすると矢は光となって消えていった。──残った傷口からは、どくどくと血が溢れていく。穴だらけの背中は更に真っ赤になった。
「……、くそ、シアング、しっかり」
ポウ、とルノ掌から癒しの光が緩く舞い、その傷だらけの背中を精一杯優しく撫でる。
「……っ」
ピクンとシアングの眉が寄った。瞳がゆっくりと開き、ぼんやりとした焦点の目揺れている。私は直ぐ傍にいるのに、どうしてそんな遠くを見ようとしてるんだ?
「シアング」
堪らず声をかけると、シアングの瞳がはっきりと像を結んだ。震える唇の端から血が流れている。──傷は、相当深いところまで届いているようだ。
「ル……ノ……」
酷く掠れた声と、その表情にルノはぞっとする。まるでもう、このまま死んでしまうような顔だった。
「な、なんだ?」
「……いい、治療。やめろ」
「何を言っている! 死んでしまうぞ!?」
ふ、血の気の引いたシアングの口の端に笑みが浮かぶ。
「……お前に泣かれるのは、やっぱり辛い」
「私が泣くのはお前がボロボロだからだ!」
「……そうか」
「そうだ……ッ」
指先により強く祈りを籠める。どうか、どうか、この竜の子を救って欲しい。裏切っても構わない。何度裏切っても構わないから、その魂を奪わないでくれ。
強くなった光にシアングは目を細め、首を回してまだ傷の塞がらない傷口をみた。
「大分、楽になった」
「まだだ、動いては」
「うん、ありがとうな」
「シアング!」
引きとめようと伸ばした手をやんわりと拒絶し、シアングはなんとか立ち上がる。動いた拍子に再び血が吹き出た。それでもシアングは真っ直ぐに父親を見る。ルノはその背中を、床に座り込んだまま見上げるしかできなかった。両目から涙が滲んで零れても、拭うことなんてせずに。
翼をたたみ、落ち着いた様子のゼロリードは一連のことを、つまらなそうに見つめていた。シアングが立ち上がるのを待っていたようだ。
「親父」
『……。』
「親父、オレは、」
『それがお前の答えか、シアング』
「……違う。オレはルノを選んだつもりじゃない」
『では何故?』
「……わからない」
『わからない、か。そうかそうか』
「でも親父、オレは親父に正気に返って欲しいんだ。十三の封印だって、いつか解除するから」
『ふむ』
「オレが全部何とかするから。だからセイルを傷つけたりしないでくれ。トアンも、トトも、──ルノも」
うんうん、満足気にゼロリードは頷く。しかしその直後、その様子が一変した。
『どこまで愚かなんだお前は!』
「っ!」
ぐるんと風を切って太い尻尾が唸り、シアングの身体を弾き飛ばす。ルノの直ぐ目の前で。
「シアング!」
咄嗟にルノは声をあげ、そしてゼロリードの瞳に足をすくませたが、ゼロリードの狙いはルノではなかった。首を回し、シアングの姿を見つけ、そして床に転がったシアングの右腕を鋭いカギヅメのはえた腕で叩き折ったのだ。
ぼきんという音が、ルノの耳に聞こえた。
『ああ、ずーっとリハビリしてるし』
ずっと、がどの程度のものかわからない。それでも、シアングが右腕を取り戻すことに懸命な努力を注いでいるということはわかった。
『握力は落ちたけど、もうなんとか動く。この前だって、結構動いてただろ? 冷やさなきゃ平気なんだ』
そういったときのシアングの顔。少し照れたような、でも嬉しそうな顔。右腕がつかえれば、彼にとって制限されてしまった趣味の料理をすることも、いろんなことができるのだろう。自由を再び取り戻しつつあるのだと、それも理解した。そしてルノは、それがとても嬉しいことだと感じたのだ。
──それなのに。
「うっ……っあああ、あ!」
苦痛の声を絞り出すように上げるシアングを、ゼロリードは金の瞳でじっと見つめていた。まるで獲物をいたぶるような目で、シアングの呻き声を享受している。
『いいザマだな』
「ぐ……」
『代償は右腕だ。うん、骨は砕いたほうが俺は好みだ』
「ぐ、う!」
みし、押さえつける腕に力がこもり、さらに圧力がかかる。
『お前は本当に愚かだ。一時の感情に流され、本来の目的を見失っている……』
「……オレ、は、く、親父を……、もと
、に……」
『ルナリアを殺したまでは良かったが、その死体をそのまま持ち帰った時点で教育の方針を変えるべきだったか? 好き嫌いをするな、残さず喰え、と教えてきたつもりだったが。そのままどこも喰わず、頭と胴体を抱えてくるとは』
「親父、……ルナ、は、……あいつの、願いは……」
苦痛の下からシアングが絶え絶えに言葉を紡ぐ。それなのに、ゼロリードはまったく聞く耳をもたず、ただ自分の教育の失敗を不思議そうに呟くだけだ。
(やめてくれ)
吐き気がする。喰う、喰わない。それ以上に、あの竜に。シアングの、息子の言葉を少しも聞かないで、自分の考えを押し付けるあの男に。
「やめろ、やめろやめろやめろ!」
ルノが叫んだ瞬間、ちり、と頬を何か熱いものが通りすぎた。声が光となってあたりに満ち、真っ白な光の束が槍のように収束すると真っ直ぐにゼロリードの胴体を狙った。
『!』
ゼロリードの反応は早く、巨体を翼を翻して中に浮かせ槍を避けた。天井が崩れ、がらがらと崩れ落ちてくる中、ルノは無我夢中でシアングの元へ走る。
「シアング、シアング大丈夫か?」
脂汗の浮いた顔が苦痛に歪んでいる。う、という呻き声を上げ、シアングの瞳がルノを映した。
「……オレ、は」
「ルノ、ちゃん!」
セイルの声にはっとして振り返ると、煙の中、右手にトト、左手にトアンを抱えたセイルが立っていた。彼だってボロボロだ。それこそ、立っているのが不思議なくらいで。
「シアングはまだ生きてるのね」
セイルがシアングの状態を見るまえにはっきりと断言し、背後を仰ぐ。煙に竜の影が映っていた。
「だがこのままでは」
「逃げるの。」
その時、トトが小さく呻いた。セイルはぱっと言葉を切ってトトの様子を伺い、幼稚なセイルはオロオロした方が自然なのに、やけに落ち着いて冷静に続ける。ルノはどこか違和感を感じながらも、ああ、セイルは『シアングの『影抜き』』だったんだと妙な実感を覚えた。
「俺様がゲートを開くから、逃げよう」
「そんなことできるのか?」
「できるのよ」
セイルは瞳を閉じ、咳き込んでから続けた。口の端から流れる血は、固まっていない。
「『影抜き』は元々世界の狭間で意識を持つもの。狭間を通って世界を行き来する──俺様は道を作り出せる。ルノちゃんたちは『影抜き』じゃないからちょっと心配だけど、でも、三人とも俺様のゲート通ってこの世界に着たんでしょう? ならきっと大丈夫」
「シアングは? ……置いていくなんて言わないよな?」
「……。ルノちゃんが悲しむでしょ。大丈夫、シアングが死んだら俺様がすぐわかるから。『影抜き』と本体は繋がってるから」
なにが大丈夫なものか、そうしたらもう手遅れじゃないか。とルノは不安を覚えたが、今はセイルを信じるしかない。めぐらせた視線の先の、セイルに抱えられているトアンがうっすらと目をあけてルノを見た。悔しさが滲む紫の瞳に、ルノは大丈夫だと声をかけようとしたが、何か言う前にトアンは瞳を閉じてしまった。
「鏡か何かあればいいんだけど──この際仕方ないの」
セイルが足で床にあまり上手とはいえない円を書き、その中央に全員を集めた。
「行き先は?」
「ウィルとスノーの居るところ! 行くのよ、ちょっと怖いよ!」
何が、とルノが聞き返す前に、セイルは双剣を振った。シュカッという小気味のいい音とともに床は円形に切り抜かれ、ルノは胃が中に浮くような感覚を覚える。
「ひ、うわあああ──っ!」
眼下は、真っ暗な世界。長い長い悲鳴を残し、五人の身体は消えていった。
──果てのない暗い海へ。
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