第12話 ブラック・ノンシュガー

 それ以上は制限に引っかかってしまうということで、トトから未来の話は聞き出せなかった。が、それでもトアンには十分すぎる話だった。


 用件は済んだとレムの姿が塵になって消えた後、ウィルたちの家に帰り、レインが追加として出してくれたジャムを載せたクッキーを食べるトトは、泣きそうな笑みを見せている。

 当たり前だろう。トアンにはその気持ちが伝わってくる。トトの一生で、二人の育て親と触れ合うことができたのは過去だけ。求め続けていた二人が目の前で、しかもトトの目を見て話をしてくれている。──トアンがもしトトの立場で、制限、というものがなければ、二人に何もかも明かして、信じてくれまいがどうしようがしっかりと抱きついていただろう。嬉しさと喜びのあまり、トトのように堪えることもできず泣き喚いていたかもしれない。


 トアンは奇妙な関係になってしまった家族を見ながら、紅茶のスプーンをまわした。そう、家族だ。トトの肩──今はレインの膝に座ってクッキーを食べているあのユーリという動物は、実は変わり果てたコガネの姿らしい。

 ウィルとレインが行方不明になって、この家にたった二人残されていたトト──トルティーとコガネだったが、コガネは引き取り先ができて二人は引き裂かれてしまい、再会したときにはもうこの獣の姿だったらしい。何故トトが獣を見てコガネだと確信したかはトアンにはわからないが、トトがそう言い、コガネも呼びかけに応じる以上、疑って見ても意味はないだろう。


(行方不明、目を覚まさない──成長、してない)

 ──十二年後。自分は二十八歳、兄であるレインは二十九歳。まだまだトアンには想像もつかない、大人の自分。

 トトがどうして旅についてきたがっていたか、理由がハッキリわかった。二人が行方不明になる理由を探し、それを阻止する。──運命を変えるためだという。

(何が起こるんだろう、オレたちの未来に)

「……トアン、なにぼーっとしてんだ?」

 レインがコガネ──トトはウィルとレインには『ユーリ』だと紹介した──を撫でながら不思議そうに訊ねた。トアンははっとし、なんでもないよ、という。

「バカ面が余計に酷くなるぞ」

「ひ、ひどいよ兄さん」

「ふん……。なあ、お前たちさ。これからどうすんだ?」

 優しく撫でられ、心地良さそうに、コガネがぴゅい、と鳴いた。

「うん、もう一度フロステルダに行かなきゃならない。……ルノさんが起きないとどうにもならないけどね」

「そうか」

「ってかさ」

 ウィルがスプーンを突き出し、口を挟んだ。

「ハルティアから下に行ったのに、どうしてこのチャルモ村にこれたんだ? 言っとくけど、この村、ハルティアがあるっている世界の中心から大分離れてるんだぜ?」

「オレもそれ、よくわかんないんだ」

 トアンの言葉に、ウィルの眉が寄る。トアンがどうしようかと悩んでいると、トトがそっと呟いた。

「ゲートが開いているんです。この村に」

「……ゲート?」

「はい。多分」

 レインとウィル(トアンもだが)に見つめられ、トトは気恥ずかしそうに身動ぎした。

「ベルサリオ、雷鳴竜の城の周りの谷から、誰かがこの村の付近の湖にゲートを開き、ちょくちょく『遊びに来ている』んだと思います。空間を繋ぐほどの力を持つ方は限られますが。──例えば、『影抜き』という、この世界の理からすこしずれた存在には、容易いかと」

 トアンにはトトが何を言いたいのか分からなかったが、その言い方には何か含むものを感じ取った。何故かウィルとレインが顔を見合わせ、目を丸くして見せる。

「ああ、あの」

 トトは慌てて両手をふり、付け足した。

「推測ですよ。推測。すいません、混乱させてしまったみたいで──」

「いや」

 すかさずウィルが答える。

「心当たりはある。……トアン、お前、シアングに裏切られたって話を聞かせてくれたけど──そのとき、セイルは居たか?」

「え?」

「セイルだよ。忘れたのか? ほら、シアングの『影抜き』の──」

「ちょっとバカなやつ」

 ウィルの言葉をレインが継いで、自分のカップに紅茶を注いだ。レインが手にしたポットにはお手製と見られる見事なポットカバーがかけられており、結構な時間が経ってるものの注がれる紅茶からは湯気が立っている。

「お前もいるか?」

「バカって、レイン、お前な──あ、甘っ!」

 平然としたままカップを差し出すレインの問いに、残っていた紅茶を飲み干したウィルは眉間に皺を寄せた。レインはそ知らぬ顔で空になったカップに紅茶を注いでやる。

「レイン!」

「なんだよ、さっきからうるせぇな」

「いつ砂糖いれたんだよ、もう」

「さっき。」

「……あの、兄さん、ウィル」

 なんだか懐かしいやり取りをする二人にオズオズとトアンが口を挟む。

「セイルさんが、何?」

「ああ、そうか。知らないんだっけ」

「なんだよ」

 ごめんごめんと謝るウィルに何故か腹が立ち、トアンは少し乱暴な口調になった。

「トアンにしてみれば、どうしてここでセイルの名前がでるんだってとこだもんな」

「うん、だから?」

「……なにイラついてるんだか」

 黙って見ていたレインが、あほらしい、と頬杖をついて呟く。ウィルを庇うようなそのタイミングにトアンはますます腹が立ったが、それ以上は不機嫌を押し込めた。

「いなかったよ。セイルさんには会えなかった」

「そっか。……実はさ、この一年間、ちょいちょいセイルがここに遊びに来てたんだよ」

「ええ?」

 あまりにも意外な言葉にトアンは怒りをすっかり忘れて、間抜けな表情で聞き返した。トアンにとってセイルは、ほとんど敵として対峙した記憶しかないからだ。レインとスノー(レインの『影抜き』だ)が溶け合ってからはあまり敵意を見せなくなったが、シアングには容赦がなかった。──シアングには。

「最初はレインに会いにきてたってのもあるだろうし、段々子供たちと仲良くなってさ。特にトルティーとはホントの兄弟みたいで──あいつも、オレたちの家族の一員なんだよ」

 言われて、トアンは頭の中にトルティーを思い浮かべた。ついでにちらりとトトを見ると、彼も群青色の瞳をこちらに向けている。──俺の正体を言わないでくださいよ、瞳が語った。

 トアンは軽く頷き、その頭の中のトルティーの横にセイルを配置してみた。「俺様、セイルなのよ」と、ちょっとおかしな喋り方をして、にっこりと子供のようにセイルが笑う。隣のトルティーもセイルを見上げてキャッキャと笑い、セイルはトルティーを自分の肩に乗せてやった。──全てトアンの想像だが、意外と、無邪気に笑うセイルを想像するのは難しくなかった。……シアングのあの暗い笑みを忘れようとしているのは、わかっているが。

「……オレたちが旅してるときに、セイルとは色々あったけど、あいつはただ守りたかったんだよ。スノーを。……この家に遊びに来て、子供たちと遊んで。セイルはシアングのことは殆ど話さなかったから、オレたちもベルサリオのことは全然知らなかった。けど……」

 そこまで喋ると、ウィルは茶色の瞳を細めた。短い沈黙に、レインが彼を軽く小突く。レインは頬杖をついたまま、トアンを真っ直ぐに見た。

「オレたちは、セイルを信用してる。だからもし、これから先お前たちがセイルと出会うことがあったら──剣を向けないでやってほしいんだ。セイルは、きっとシアングが裏切った理由を知ってる。そしてそれを、お前たちに教えてくれると、思う」

 トアンは一年前のセイルを思い出し、それから先程頭の中に浮かべたセイルを思い出した。ちらりとトトを見ると、トトが小さく頷く。ただの一度の頷きだが、トアンにはセイルのことは正直よくわからない。が、トトの頷きは、セイルと家族のように接してきたというトルティーの頷きによって、一年前のセイルが霞んで消えていった。残ったのは、無邪気に笑うセイルだ。

「……。戦わないよ。オレには、オレたちにはセイルさんと戦う理由がないもの」

「信じてくれるのか?」

「うん。兄さんとウィルのいう事だし」

 ──それに、トトの。

「そうか」

 トアンの言葉を聞いて、レインがほっとしたように微笑んだ。蕩けるような笑みにトアンは思わず目を丸くするが、隣に居るウィルが目を細め、笑っているのを見てなんだか自分もほっとした。

 ──どうやら、ここは本当に陽だまりのように暖かな場所なのだと、漸く分かったような気がした。

「早速だけどさ、セイルさん、最近はこないの?」

「ああ、うん……最近は見ないな。シチューの日でもきてない。まあ、いつも不定的だけどさ」

「そっか……」

「まあ、いつまででも居ろよ。セイルをのんびり待つのも悪くないだろ?」

 レインの紅茶を勝手に飲みながら、ウィルがそう言ってくれた。

「ゲートっていうものを調べてみるのもいいだろうし、なによりルノが起きないからな。──暫く、この家でゆっくり休んでくれよ」

「ありがとう、ウィル」

「色々手伝いはしてもらうけど。あと、たまに子供等と遊んでやってくれ。」

 にやり、親友が浮かべた笑みにトアンがなんとか頷く横で、トトはレインの、

「お前も自分の家だと思っていいぞ、トト」

 という言葉と笑みにデレデレになっていた。

──────────────



 遠い、遠い記憶の──その底で、自分の意識はゆらゆらと揺れる。海の底、といっても中々いい表現かもしれない。

 光は何度か降り注いできていたが、ルノは決してそれを掴もうとはしなかった。──光の向こうにあるのは覚醒、だ。それは確かにわかっていた。

(覚めたくない)

 まだこの、ゆったりとした空気の中に抱かれていたい。何故、自分が目を覚ますのを嫌がるのか、もう自分ではわからなくなってしまったのだけれど。

(起きたら、起きてしまったら、私は──

。もう見たくないんだ、もう、これ以上、悲しい思いは、したくない)

 ──悲しい思い? 見たくないもの? ……それは、何だったのだろう。


 握っていた、何かを確かに握り締めていた掌の中には、もう何もない。白なのか黒なのか、全くの無色なのかもわからない空間の中に寝そべりながら、ルノは自分の指をじっと見つめた。

(何を、落としてしまったのだろう……)

 再び光が射しこんできた。ルノは再び目を閉じ、耳を塞ぐ。──分かっている、逃げているのだ。

 瞼の裏の赤い光がなくなると、再び目を開ける。光は去った。もう、大丈夫だろう。

(……?)

 と、自分の指に、自分の掌に何かが絡まっているのが見て取れた。褐色のそれは、誰かの手と同じ大きさだ。


『ルノちゃん』


 突如頭の中に響いてきた声は、低いが幼い口調のものだった。ルノが想像していた、待ち望んでいたものとは違う声。

(お前は……?)

『ルノちゃん、ずうっとここに居るつもりなの?』

(……ああ。)

 ルノが答えると、口から銀色の泡がプカリと浮かんで行き、果てのない空間を昇って消えていく。

『駄目なのよ、ずうっとここで、眠ってるなんて』

(起きてるさ)

『屁理屈なのよ、もー』

 褐色の手が、ルノの手を握る力を強めた。

『ルノちゃん。……きっと、起きたらまたイッパイ辛いものを見ることになるのよ。辛いことに合う事になるのよ。……でも、だからって、ずうっとここにいちゃ、駄目』

(何故?)

『ううんと……』

(……痛いっ!)

 声の答えを待つルノの額を、突然現れた白く華奢な指が、思い切り弾いた。


『お兄ちゃん、駄々こねちゃだめだよ』


 耳を擽る柔らかい声にルノははっとする。──が、どこか、違和感を感じた。

『っていう伝言を預かってきました』

『アレックス!』

 褐色の手がぴくりと跳ねる。

『ほら、セイル。『ルノ』を起こさなきゃ』

 白い手が人差し指を立てる。

(この声、どこかで……)

 ルノの言葉を他所に、白い手と褐色の手はルノの身体をぐいぐいと押し、見計らったようにやってきた光の帯にルノを預けるとパッと手を離した。

(おい、ちょっと、わあああっ)

 遠ざかる底に、少年と少女の『影』が手を振っているのが見えた気がした──……


──────────────


「!」

 ルノはガバリと身体を起し、そして勢い良く起きたはいいが、暫し呆然とした。

 何か遠いところに心が行っていたような気分だ。周りを見渡して、ルノは初めて自分が見慣れない場所に居ることを知った。

「ここは……」

 思わず呟いた声は掠れていた。窓から射しこむ柔らかな陽の光に目を細める。と、ベッドサイドにカップが置かれているのを見つけた。湯気が出ている。手にとって見ると、まだとても温かかった。

「……。」

 何の疑いもなく、カップに口をつける。中身はコーヒーだったのだが、コーヒーの香りはするものの、殆ど牛乳の色に近い。それに砂糖が多めに入っているようだ。甘い。ルノはコーヒーが苦手だが──これなら飲めそうだ。

 ごくんともう一口飲み込んで、ふと、カップをもつ自分の手に巻かれた包帯に気付いた。怪我をした覚えはないので包帯をそっと捲ると、ぽつんと小さな穴が開いている。

(点滴か?)

 恐らくそうだろう。ならば、自分はどれくらい眠っていたのか?

(最後に覚えているのは、あの雨の夜だ。……シアングと対峙した、あの時だな)

 ずきん、心が痛んだ。しかしルノはそれに気付かないフリをして、カップをもつ自分の手をじっとみる。

(誰かが、背中を押してくれたような気がするのだが……)

 ここで考えていても仕方がない。日差しは柔らかく心地良いが、正直もう寝られそうにない。ルノはコーヒーを飲み干し、ベッドから降りた。足は案外しっかりしている。

(……。私は、生きているよ。どうやら歩けるようだ。……なあ、お前の心がわかりたいよ)

 自分のローブが見当たらないので、とりあえず寝巻き姿にスリッパという情けない格好でルノは部屋のドアノブを握った。自分は何日眠っていたのかわからない。しかし、それでもルノは再び目覚めた。背中を押してもらった。──ならば。


(私は、結構強いんだぞ)


 手に持ったドアノブを、思い切り引いた。




「レ、レイン? まさかレインか?」

「……そうだよ。他に、何に見えるってんだ」

 唖然とするルノの目の前で、レインはジュージューと音を立てるフライパンを持ったまま首をかしげた。ルノにしてみればこの見慣れない家で、突然旧友に出会ったのだ。驚いても無理はないだろう。しかもその旧友が──キッチンで目玉焼きを焼いていたのだから。

「ええと……」

「……ああ。やっと起きたのか、お前」

 レインはくるりと背を向け、フライパンの角を使って、片手でタマゴを器用に割りながら言った。

「ずっと寝てたんだぞ、食うか?」

「あ、ああ、うん……」

 調度そのとき、ルノの腹の虫がくうと鳴いた。ルノは決まり悪そうに腹を両手で抱え、赤面する。

「あっちに席あるから、座って待ってろ」

 レインが足で差してくれた方向を見て、ルノはリビングに向かっていった。



「粥とかの方が良かったか?」

 今更ながら、レインが言う。ルノは首を振って、ふくふくのパンを手に取った。パンには半熟の目玉焼きとカリカリのベーコン、そして新鮮なレタスと特製らしいソースが絡められていて、一度手に取ったら離せそうになかったのだ。

「……あの、レイン、私は、一体……」

「……二週間前、村の連中がお前とトアンと、トトを湖の傍で見つけた。トアンとトトは三日ぐらいで起きたけど、お前、全然起きないから──」

 レインはブラックコーヒーを自分のカップに注ぎ、頬杖をついてルノを見る。

「死んだんじゃねぇかって思ってた」

「酷いな」

「はい、お前の。」

「あ、ありがとう」

 唐突に話題を変えたレインの手から手渡されたコーヒーは、先程飲んだコーヒーと同じ色をしていた。

(あれも、淹れてくれたのか)

 コーヒーを隣において、ルノはパンを一口齧る。柔らかなパンととろとろの目玉焼きがたまらない。ベーコンとレタスの食感も気に入った。……ただ、胃袋にモノを入れるのは久しぶりだからと、ルノはできるだけ良く噛んで食べることにした。

「うまいか?」

「……っ、ん。ああ。とても」

「そうか」

 ルノの正面に座ったレインが、つ、と視線を逸らす。猫目のオッドアイが何か考え込むように細められ、コーヒーの湯気がその白い頬を撫でていく。

「……トアンから、大体の理由は、聞いた」

 思わず、ルノは手を止めた。

「チェリカのことも、……シアングのことも。ルノ、お前」

「私は!」

「……?」

「……私は、大丈夫だ、心配いらない」

 無理矢理の笑みでもない、それでも少しだけ苦しそうな笑みを浮かべ、ルノは言った。

「私は、そんなに弱くないから。」

 オッドアイがルノを見る。その目には哀れみも不安もなく、ただ、見守るような色だった。暫く沈黙が二人を包む。時計の秒針の立てる音が、やけに大きく部屋に響いた。

 その沈黙は、レインの憎まれ口によって破られる。

「……別に、心配なんてしてねぇよ」

 レインは自分のコーヒーのカップを持った。

「お前が結構強いってこと、わかってるから」

「……素直に言ってくれれば良いのに」

「ふん」

「すまない、心配かけてしまって」

「……いいや」

 再びパンを食べ始めたルノをちらりと見、レインは言った。

「トアンにも、言ったんだけど。暫くここ

でゆっくりしていけよ」

「うん……そうしたいところだが」

 できれば今すぐに、とルノが言うのを、レインは手をヒラヒラさせ、先回りして封じた。

「ゲートってのが開かないと、フロステルダにゃ行けねぇみたいなんだ。ハルティアからの通路が、閉ざされたらしい」

「ゲート……?」

「トアンがわかってる。あとあのトトってヤツが知ってるはずだ」

「二人は、今何処に?」

「村の図書館だ。トアンはな」

「……村?」

 今更ながら、ルノはぽかんとした顔をレインに向けた。

「ここは、何処だ?」

「チャルモ村」

「何故、レインがここに……?」

「お前等が勝手にきたんだよ」

「……」

 このレインの応答に、状況の理解できない自分をからかってるのかとルノが思った瞬間、ぬいぐるみを抱えた男がリビングに飛び込んできた。


「レインさーん! できました!」


 男の顔を見てルノは目を丸くする。

「トト!? お前何やってるんだ?」

「あ、ルノさん起きたんですか」

 男──トトはにこりと笑うと、手にしたぬいぐるみ(耳の垂れたうさぎだ)を見せてくれた。

「お手伝いです。レインさんのお仕事の」

「仕事……?」

 レインが立ち上がってぬいぐるみを見る。いまいち状況が飲み込めないルノを置き去りに、完成度を確認しているようだ。

「……どうですか?」

「……うん、いい。わりぃな、これご褒美だ」

 不安そうなトトに対してレインはふっと笑みを向けてやると、テーブルの上にあったパンを一つ掴んでトトに渡す。トトはそれを見てぱっと笑顔になり、ありがとうございます、といった。……彼にしては手伝いができるだけでも嬉しいのだが、レインはそんなこと知る由もない。勿論、今のルノも。

 レインはぬいぐるみを空いている椅子にそっと座らせると、その向かい側をトトに勧め、彼の分のコーヒーを注いだ。トトは大人しくそれに従い、手渡されたパンを食べ始める。

「……、おいしいです」

「そうか?」

「俺、レインさんの料理大好きなんです。……このソースの味が、忘れられなくなりましてね。他にも色んな料理の味、覚えてますよ」

「まだそんなに食ってないだろう」

 そういいながらカップを渡すレインの顔は、どこか照れくさそうだ。

「……あ、そ、そうでしたね。でもでも、」

「はいはい。わかったからそんなに興奮するな。パンくずが散らばる」

「あ、ご、ごめんなさい……」

 慌てるトトに、レインは優しく言った。

「謝る必要はない。トト、ルノに少し事情を話してやってくれ。トアンとウィルが帰ってくるまでまだ時間があるし──……」

 ちらりと壁にかけてある時計を見、レインは続けた。

「オレは、そういうの苦手だし。何か菓子もってくるから、二人でちょっと話してくれ」

 ──その方が、心置きなく話せるだろう? と、どこか探るような目をレインはトトに向けたが、トトはそれに気付かず、

「はい」

 と微笑んで答えた。



 レインがキッチンへ消えたのを確認すると、トトはルノにペコリと頭を下げる。

「おはようございます」

「い、いや……」

「心配しました。俺は良くわかりませんが、トアンさんから話を聞いたんです。……すいませんでした。辛い思いをさせてしまって」

「お前の所為ではないだろう?」

 自分を責め立てるトトの様子にルノは苦笑するが、トトは悲しそうな顔でじっと自分のカップを見つめていた。

「……俺の所為です。俺がもう少し、気をつけていれば──ベルサリオには行きませんでした」

「なにを言う。お前は何もかも知っているわけではないんだ。……未来を知るわけはない」

「……ルノさん」

 ついと顔をあげたトトの瞳に、ちろりと燃える炎を見、ルノは目を丸くする。

(何だ?)

「信じてくれるかはわかりませんが、お話しておきます。トアンさんにはもう話しましたので……」

 ここで一端話を区切り、トトは耳を澄ませた。レインの行動が気になるらしい。レインがキッチンに入ったっきり出てこないのを再度確認すると、トトはふうっと息を吐き出す。そして声を潜めて、言った。

「俺はこの時代の人間じゃないんです。未来から来た、旅人です」

「何?」

「……そのことを覚えておいてください。それから、今までの話を聞いてほしいんです」

 ルノの了承を待たずに、トトはまず、ここがチャルモ村というところで、レインとウィルはこの家に住んでいるということを話した。それから二人がこの一年で、二人の養い子を育てていること。そして、ベルサリオからここに戻ってこれたのは落ちた谷の下にここへ繋がるゲートというものがあるということ、それはこの家に頻繁に遊びに来ているというセイルが開いたものだということを話していった。

 ルノは終始目を丸くしたり口を覆ったり、シアングの話が出ると寂しげに目を細めたりした。──それでもトトから視線は外さなかった。トトは正直に、ルノがとても強いひとだ、と心の中で呟き、そして最後に、自分こそがその養い子──トルティーの成長した姿であると告げた。


 ……だから、自分はシアングのことも、埋もれた記憶を掘り起こせば、こうなることがわかっていたかもしれないのだと、トトはルノに言った。しかしそういう彼の顔は、どうみても『知っていた』とは思えない。


 どうやら、トトは何でもかんでも背負い込んでしまう性格らしい。


「そうか。……トト、お前が責任を感じる必要はないんだ。お前は色々制限があるから未来のことは喋れないといっていたが、私もイタズラに聞きだそうとは思うまい。……つまらないし、な。それに、お前だって全てを知っているわけではないのだろう?」

「……はい。」

「……心配かけさせてしまったな。だから、お前にこんなこと言わせてしまった」

 柔和な笑みを浮かべたまま、ルノは自分のカップに口をつけた。ルノを見る少年の目は真っ直ぐで、ルノよりも身長は大きく歳も上なのに、幼く、それゆえに強い意志を湛えている。

「大丈夫だよ、私は。」

「でも」

 なお続けるトトを首を振って制し、ルノは話題を変えた。時間を越えることについては、あとでゆっくり知ればいい、と考えたのだ。

「……それよりトト。どうしてレインの手伝いなんてしてたんだ?」

「あ? ああ……ええと、親孝行、のつもりだったんですけど……」

 照れくさそうに頬を掻くその指には、良く見ると絆創膏がはられていた。

「お前、その傷」

「え? あ、これですか……恥ずかしながら、あんまり器用なほうじゃないんで……」

「レインに治してもらわなかったのか?」

 ルノが訊ねると、トトは少し困ったように答えた。

「レインさんは……血華術を多用すると、すぐに体調を崩してしまうんです。ウィルさん──先生の話だと、血華術っていうのは闇の眷属の魔法だそうで、ただでさえ普通の魔法より強い力があるらしいんです。……それに、レインさんは、半分は夢幻道士の血が流れてますから。お母さんの血が助けていても、やっぱり辛いみたいで」

「しかし、それくらいの傷……」

「俺は、レインさんの負担になることはしたくないんです」

 それを聞いて、その言葉を聞くまで気付けなかった自分を、ルノは恥じた。手が傷だらけになってまで『親孝行』をしたがる少年が、その親の負担を望むわけがない。

「……すまない」

「ルノさんが謝ることじゃないです」

「……トト、手を。」

「はい?」

 何の疑いもなく、トトは傷だらけの手を差し出した。ルノはそれをそっと両手で包むと精神を集中する。──ポゥ、温かい光が辺りに舞い上がった。

「ル、ルノさん?」

「心配するな」

 やがて部屋の中を舞っていた光が消えると、ルノはその手を離した。トトは自分の手を不思議そうにみて、目をぱちくりさせている。

「絆創膏をとってみろ」

「はい……うわ、すごい」

 トトの指先の傷は、跡形もなく消え去っていた。

「すごいですルノさん! こんなにキレイに──あ、でも、身体、大丈夫なんですか?」

「私のはただの光の魔法だ。血華術ではない。これくらい、どうってことはないさ」

 素直に感動するトトを見て、ルノは照れくさそうにはにかんだ。

「なーにやってんだ」

 丁度そのとき、二人の前に大きな焼きたてのアップルパイを持ってレインが現れた。

「レイン……それはまた、随分と大きいな」

「家には大飯食らいが大勢いるんだよ」

 重そうなそれをトトに手伝ってもらってテーブルに置くと、レインはまず小さな切れ目を二ついれ、それから大きな切れ目を入れてパイを切り分けた。それを皿に乗せ、一つをルノに、もう一つを自分の席に置く。最後に大きいパイをトトの前にドンと置いて、残りはラップをかけてテーブルの中央に置いた。

「おいしそうだ。トト、お前そんなに食べるのか」

「はあ、まあ」

 照れたようにトトが答える。彼が何故そんなに嬉しそうなのか、ルノは直ぐに分かった。先程のレインの言葉が原因らしいと。


『家には大飯食らいが大勢いるんだよ』


 そのうちの一人はトトで、そして『家』という言葉に向かいいれられているからだ。

 レインはその喜びの横で顔色を変えずに、新しく紅茶を淹れて、ゆっくりと香りを楽しんでいた。

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