第8話 心の内側からみる君
開け放たれた扉から、一人の男が部屋に入ってきた。皮のブーツが絨毯の上を音もなく歩き、襟元をしっかりと閉じた黒い上着とズボン、艶やかな光沢を放つマントをはためかせ、するりと空を舞う赤紫色の髪を一本にまとめる髪留めは金でできている。トアンが目を丸くするのよりも少し早く、ルノが息をのんだ。
男もトアンたちに気がついたように僅かに瞠目する。
「──どうして」
「お帰りシアング」
玉座の上からゼロリードがニヤニヤ笑いながら言った。組んだ足を組み替えて、やはり面白そうに様子を見ている。男──シアングは、ゼロリードとルノを見比べて、その金の瞳を細めた。
一年前のシアングは、どちらかというと身軽な格好をしていた。それが、今はまるで軍服のような服を見に包み、その瞳も随分と鋭い。ゼロリードから感じたのとは違う威圧感に、トアンもルノもかける言葉が見当たらない。
「親父、これはどういうことだ?」
「何を怒っているんだ? 何もしてない」
「そういう意味じゃない。どうしてルノたちがここにいるんだ?」
「残念ながら俺もまだ聞いてないんだ。これからって時にお前が帰ってきたんだよ」
「……。」
「そうだ。ルノ、トアンと聞けばお前が一年前に世話になった子たちじゃないか? いやあ、歳を取ると記憶が曖昧になってね。とくにルノは、エアスリクにいたときから色々面倒を見てもらっただろう」
「……ルノ。どうしたんだ?」
もうゼロリードには付き合っていられないと判断したのか、シアングはルノの正面に移動すると屈んで目線を合わせた。──この一年で、シアングの身長も随分と伸びている。しかしその心配するようなその表情は、一年前と変わっていなかった。
「……シアング」
「どうして、ベルサリオまで? 遠かっただろう」
シアングを見つめるルノの瞳が揺らぐ。声も変わっていない。当たり前の話なのだが。シアングはルノが中々言葉を発せないのを見て、話題を変えた。優しい瞳はそのままで。
「一年ぶりだな」
ルノの瞳が、また揺らいだ。
「おいおい、どうした?」
「……会いたかったんだ」
「ルノ」
「私は、ずっと、この一年間……話したいことが沢山あったけれども、お前の顔を見たら、何から言えばいいのかわからなくなってしまった」
「……。」
「すまない、此処に着た理由も、その中に埋もれて、中々……」
ルノがふっと苦笑すると、シアングはルノの頭にそっと手を置いた。
「いいんだ。オレも会いたかったよ。元気にやってるか心配で」
「シアング……」
「ルノがそうやって苦々しく笑うときって、何か困ってて言い出せないときだろう。場所変えようぜ。親父がいると話し辛いだろう」
シアングはルノとトアン、それからきょとんとしているトトを見て言った。
「……。」
ゼロリードは何も言わない。承知、ということなのだろう。
「じゃ、ついてこいよ」
くるりとシアングが方向転換する。長い髪の毛が、綺麗な弧を描いた。再び絨毯を踏んで歩き出した彼を見失わないように、トアンはルノの背を押して歩き始める。
暫く行くと、ピカピカに磨き上げられた大理石の床の廊下に出た。絨毯がないため其々の足音が廊下に響く。中でも、重々しい軍服のシアングのブーツが、かつんかつんと冷たい音を立ててルノの耳に響いている。軍服というと誤りなのかもしれない。ゼロリードも似たような服を着ていたし、これが雷鳴竜王族の正装なのかもしれなかった。
なら、なおさら。
(私の知っていたシアングは、ちっともこんな格好をしたがらなかったが……)
エアスリクに居た頃だって、シアングは堅苦しい服装を嫌っていた──のかはわからないが、いつだって動きやすい簡素な服を着ていた。直ぐ目の前を歩く彼の足。今までは大体革のサンダルで、上着だってあまり着なかった。健康そうな肌だって露出した格好だったのだが。
──きちんと正装していると、整った顔立ちがより際立っているから、……。
(……、わ、私は、何を考えてるんだ)
歩きながらルノは首を振る。トアンが心配そうな目をして後ろから見ている。
「あら王子様、お帰りなさいませ」
「ああ」
すれ違ったメイドがシアングに挨拶をし、彼が笑みを浮かべて返すと顔を赤くして走り去っていった。
──雷鳴竜。彼が高貴な血ということは知っていた。テュテュリスやヴァイズを見ていたし、城に住んでいることぐらいは想像できたはずなのに、王子だったなんて。
(ああ、もう、私の頭はどうしてしまったんだ)
王子だったなんて。王子だったなんて。自分も王子だ。そう思い込んでも、頭の中をぐるぐると回るその言葉にルノは頭を抱えた。──と。
「ついたぜ──っと。どうした?」
シアングが突然立ち止まったので、ルノはシアングの背中に追突した。
「あ、いや」
「なんだよ、変な顔して。……ああ、あれか? オレの格好か?」
「!」
図星に近いところを指摘され、ルノはうっと息を飲み込んだのだが、
「そんなに変か?」
シアングは全く関係ないところに逸れてしまった。──ああ、変わっていない。一々確かめて安心する自分は何を考えてるのだろうかとルノは思うが、つい笑っていた。
「ん」
「変じゃない。ふふ、変じゃないよ。ただ、少し見慣れなくて」
「で、どうよ。オレのこの服。似合ってる?」
「……まあまあだ」
「ルノのまあまあはいい線ってことか?」
シアングは笑いながら目の前の部屋の扉を開ける。ルノははぐらかすように横を向いたので見ていなかったのだが、その横顔に一瞬寂しそうな色が通り過ぎるのをトアンは、見た。
(シアング……?)
「さ、入れ。片付いてるとは思うけど」
三人を部屋に案内するその声からは寂しさなんて微塵にも感じさせないけれど。
(あんまり、今の服好きじゃないのかな)
ルノと同じように(ルノはアレコレ考えて自分を恥じたり照れたりしていたが)ただ見慣れていないだけかもしれない。
(でも、いきなり『シアング、その格好好きじゃないの?』なんて聞くの変だしなぁ)
トアンも先程のルノのように一人でアレコレと考え始める。が、ルノの楽しそうな声で考えをとめた。
案内された部屋は広く、上等なソファと天蓋付きのベッド、それから磨きぬかれたガラスでできたテーブル、上質な木材で作られたクロゼットがきちんと佇んでいた。どれも、それほど新しいものではないだろう。しかし傷は殆どない。部屋の隅の本棚にも、埃は見られない。
「シアング、ここって」
トアンが問うと、扉を閉めながらシアングが答えた。
「オレの部屋だよ」
「へえ……すごい。この蝶番、金でできてる」
ささやかなところにまで行き届いた権力者の証のようなものにトアンは素直に感心したが、シアングはふっと苦笑した。
「趣味悪いだろう。成金、ってかんじ」
「悪くないよ。こ、このソファ、座っても大丈夫?」
思わず自分の服の汚れを気にするが、シアングはけらりと笑って、
「飛び跳ねてぶっ壊しても、泥だらけにしたっていいぜ。どうせ、オレの部屋に客なんて滅多にこないし。好きに寛げよ」
といった。
「う、うん……」
こういう場所になれていないトアンは、その優しい言葉に何とか頷いて、それでも座るのを躊躇った。なんとなく部屋を見渡して、仲間たちをみる。ルノは本棚を興味深げに覗きこんでいるし、トトは──トトは、不自然な壁の四角い穴を見ていた。壁に窓があいたように、隣の部屋がそこから見える。トアンもトトの後ろで隣の部屋を見た。シアングの部屋と──同じ間取り、同じ家具。それなのに、部屋の中は雑然だ。
誰の部屋なんだろう、とトアンは不思議に思ったのだが、トトの目線は部屋ではないようだ。彼は、境界線である壁の穴──窓枠の、縁の上にある小箱を見ていた。
「あ、それ」
トトの視線に、シアングが答えてやる。
「セイルの宝箱なんだよ。あ、隣の部屋、セイルの部屋な」
「!」
トアンとルノは素直に驚いた。あれほど憎悪を露わに睨み合っていたシアングが、あまりにもあっさりと告げたからだ。
「友達からもらった宝物が入ってるんだって。見るのはご自由、壊したら許さないってさ」
トアンとルノの反応を気にせず、シアングはトトに告げる。
「……えっと、お前は」
「……トトです」
「そうだった。トト、壊したらオレが恨まれるから、慎重に扱ってくれよ」
「はい」
トトの手が、ゆっくりと宝箱を開ける。宝箱の外見は銀の繊細な細工と煌く宝石が埋め込まれた美しい作りだが、その中にはどんぐりや木の実、ビーズで作った小さな人形、それからもう枯れて茶色く変色してしまっている花の腕飾りなど、中身はつり合っていない。簡単に言ってしまえばくだらないガラクタだ。けれども、そのどれもが形を崩さないようにとても大切に保存されている。
指が、ビーズの人形に軽く触れた。トトははっとしたように手を離すと、『宝箱』をそっと閉じる。
「……シアング、その、セイルは?」
ルノが切り出すとシアングはふっと苦笑して、
「あいつも仕事か、もしくはその友達んとこだな。……なんだよルノ。そんな暗い顔して──ああ、そうか。オレとセイルが、憎み合ってたから?」
こくん。ルノは正直に頷いた。
「オレ、『お前等の仲間のシアング』っていう存在を奪いにきたのかっ思ってたし、セイルがあそこまで干渉してくるとは思ってなかったから──……オレがエアスリクにいた間、アイツはこの城で、雷鳴竜の王子を一人でやってたんだ。二人分ある椅子のかたっぽに座ってさ。……この城じゃ、オレはセイルに自分の存在を奪われる心配はねーんだよ」
シアングは頬を掻いて、目を細める。
「憎み合ってる、ってか憎まれてる、けど。この城にいるときのセイルは手が掛かるけど、大人しい方だし。この城じゃアイツとオレは絶対的に違うモノだってはっきりしてるから、一々ぶつかる必要はねーんだ。だから今会ったって、殺し合いになることはないかな」
何しろ、部屋が隣同士だし。──セイルの宝箱は、セイルがシアングに自慢するように、そしてとても嬉しそうに、見て見てとそこに置いたものだった。
「ネコジタ君とスノーが一緒になって、それで、友達もできて──セイル、少しは変わったんだぜ。それに、親父は──……」
穏やかな表情で話していたシアングだが、突然話を切るとゆっくりと首を振った。
「ゼロリードが、どうか?」
「いや? 何でも。とにかく、あいつはこの城にいる間は大人しいってことだよ」
うまくはぐらかされたことにルノが更に問おうとすると、勢い良く部屋の扉が開かれた。
「シアング様、お食事の用意ができましたわ」
入ってきたのは柔らかな栗毛の巻き毛がふんわりと揺れる、マシュマロのような可愛らしい少女だった。少女の額からは小さな二本の角がニョッキリと生えているが、少女の愛らしさはちっとも霞んでいない。
「メルニス」
シアングが少女を呼んだ。歳はルノと同じくらいだろう。シアングに名前を呼ばれた少女はにこりと笑い、シアングの手を引っ張る。
「シアング、このヒトは?」
トアンが問うと、シアングは何故か決まり悪そうに苦笑した。シアングの代わりにメルニスと呼ばれた少女が丁寧に会釈する。──形は違うものの、ルノがして見せたような上品な会釈だ。しかも、とても優雅にきまっている。
「わたくし、メルニスと申します。このベルサリオ国の貴族ですわ。シアング様の許嫁ですの」
「なに!?」
ルノがショックを受けたように手で口を覆った。シアングは苦笑したままメルニスの手に手を重ね、そっと絡まったその手を外す。
「シアング、……ほ、本当なのか?」
「あぁ」
シアングは頷く。トアンはなんだか居心地が悪く感じた。
「シアング様、お食事が冷めてしまいますよ。お義父様もお待ちですし」
部屋に漂うなんともいえない空気を全く読まず、メルニスが続ける。お義父様というその言葉に、ルノが一瞬固まった。
「……どうか、なさいました?」
「あ、い、いや。喜ばしいことだな」
「うふふ。ありがとうございます」
ルノの言葉を受け取ってメルニスがはにかむ。彼女の素直な笑みに、ルノはもうどうしようもなく切ない気分になった。
「あー……もう直ぐ行くから。メルニス、先に行って待っててくれ」
「嫌ですわ。一緒に居たいんです」
「客の前だぞ。……ほら、頼むよ」
シアングが少し身を屈め、少女に頼む。メルニスは少し怒ったような表情をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「……わかりましたわ。では、できるだけ早くいらしてださいね」
「わかった」
メルニスが再び丁寧な会釈をした。栗色の髪からふんわりとした花の香りがする。扉を開けて、花の香りは遠ざかっていった。
「シアング……。許嫁なんていたんだね」
「ん? ああ」
トアンが言うと、シアングはふっと笑った。苦笑ではない、どちらかというと見守るようなあたたかい笑みだ。
「……可愛い子じゃないか」
ほんの少し、難しい顔をしてルノがそっと呟いた。
「上品だし、礼儀も正しいし。」
「……ルノ、何怒ってるんだよ」
「別に。」
なんだか再び、険悪な雰囲気が部屋を過ぎった。──険悪といっても、ルノの顔はどちらかというと切なそうな表情だ。
今までの二人の関係を見ているトアン的には、ルノが「この浮気者ー!」だとか何とか言ってビンタのイッパツでもするんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていたが、どちらかというとルノはこういう時うまく感情を表現できないほうだろう。怒ることも悲しむこともできず、今のように複雑な顔で小さな反抗をするだけだ。
(兄さんとかなら、スッパリ言えるんだろうけど)
トアンは助けを求めるようにトトを見る。しかし彼もまた、困ったようにトアンを見返した。
「シアングさんって案外ニブイんですか?」
「いいや……結構鋭いほうだと思うんだけど」
トアンは苦笑いしながら答えるが、あまり自信を持って言い切れないところが悲しい。
「アレですね」
「え?」
「修羅場ってやつでしょう」
冷静に呟くトトの目の前では、未だ微妙な攻防が繰り広げられている。シアングが困ったようにルノの顔を覗きこむが、ルノはついと顔を背けてしまって話にならない。最も、ルノがここで景気良くビンタでもかましていれば、状況がはっきりするだろうが。
「そうだね……」
「……だから、なんともないといっているじゃないか!」
「なんともねーならそんなに機嫌悪くならねーだろう!」
身動き取れない状況でのルノの一言についカッとしたシアングが怒鳴り返し、途端にはっとしたように口を頭を下げた。
「ご、ごめん」
「……。別に……。」
「何で怒ってるんだよ。メルニスのことか?」
漸くたどり着いた原因を告げると、ルノの肩がピクリと反応した。図星だ。シアングはそれをみてふうとため息をつく。
「……メルニスは、親父が決めた許嫁だよ。オレがあの子のことを愛しているわけじゃ、ない」
「……知らん」
「まあ、お前が言った様にメルニスは可愛いし、上品だし……でも、」
「言うな」
視線をそらしたままだったルノが、そっとシアングを見た。
「……悪かった。別に、お前の許嫁にとやかく言う筋合いはなかった」
「ルノ」
「大人げなかった。王子たる者、許嫁や妻がいないなんてこと、ないだろうに」
「大人げって──お前、まだまだ子供だろ」
「……そうだな。ホントは、友人の幸せを喜ぶべきなのに。」
ルノがやっと笑う。が、その笑顔は明らかに無理をしていた。傍から見ていたトアンにハッキリわかるのに、シアングに分からないはずはない。──それでもシアングは、ルノが恐らく言って欲しいであろう言葉を口にしなかった。
それは彼なりの、決意だったのかもしれないと、トアンは後々思うのだった。
なんとなく気まずい雰囲気は流れ、思い出したようにシアングが食事のことを言った。
「腹減ってるだろ。飯行こうぜ」
「いいのか?」
「ああ。どうせもう用意してあるだろうし、オレの友人たちだからな。全然構わねーよ。トアン、トト、行くぞ」
「あ、はい」
シアングの声に、宝箱を見ていたトトが顔を上げる。ルノとともに扉の前に居たシアングはつと目を細め、トアンの肩をルノに押しやるとトトの直ぐ隣に立って、小声で何かを耳打ちした。
「……!」
トトの瞳が見開かれる。それから慌てた様子で胸元に触れた。トアンとルノにシアングが何を話しているのかは聞こえてこないが、トトの様子が少し変だ。
シアングはそれを見てふうと息をつき、傍を離れるとクロゼットの中をがさがさと漁り、少しくたびれたオレンジのバンダナを取り出した。──トアンがシアングと出会ったとき、彼は首にバンダナを巻いていた。そのバンダナだろう。シアングはそれをトトに見せ、首に巻いてやる。
「それでいい」
その言葉は、小声ではないので、トアンたちにも聞こえた。シアングは満足気な笑みを浮かべてぽんぽんとバンダナを叩く。
「あ、あの……ありがとうございます」
「事情はもう聞かねー。お前、喋る気ないだろうし?」
「……。」
沈黙するトトを見て、再びシアングはトーンを落とした。が、哀しいかな。トアンとルノの耳はキャベツの葉のように大きくなり、今度は続く言葉をしっかりとキャッチする。
「……さっきは気付かれなかったとおもうけど。そのネックレスは絶対親父に見せるな。バンダナ取るなよ、見えるから」
「はい」
ネックレス? トアンは首を捻った。ネックレスといえば、トトの金の鎖のネックレスだろう。でもそれがどうしたというのだろう? シアングの言葉では、バンダナはネックレスをゼロリードの目から隠すためのモノのようだが……
(どういうことだろう)
トアンはルノを見たが、
「さ、飯いこっか」
という振り返ったシアングの笑みに、すっかりルノの耳も背筋もピンとしていたから、何も言わないことにしておいた。
目の前に並ぶ食事はとても豪華なものだった。トアンは唾を飲み込み、案内された席にギクシャクとつく。目の前ではピリッと辛い香辛料のにおいがする鳥のスープ、その隣にはふくふくと焼きあがったパンととろけるバター。もちろんそれだけではない。宝石のように煌くゼリー、鳥と対を成すように置かれた亀が一匹どぶんと漬かっているスープ。焼きたてのアップルパイ、ぎっしりと肉のペーストが詰まったミートパイ、内臓の代わりに野菜を詰め、丸ごと一匹焼き上げた鳥……後は見たことのないもの。トアンがなんとか理解できたのはこれくらいだ。亀のスープに若干引いたのだが、『やたら高くて高級なもの』という印象はバッチリだった。
真っ白なテーブルクロスが引かれた長いテーブルに料理はずらずらーっとならべられ、トアン、ルノ、シアング、トトの順で座り、その向かいにはゼロリードが一人。直ぐ隣に席があるものの、そこは空席だった。シアングの隣にも空席があるのだが、そこはあの婚約者が座るのだろう。
「遅いぞ。」
頬杖をついたゼロリードが文句を言う。が、トアンが謝罪する前に、シアングがスルリと答えてくれた。
「暇な親父とは違って、オレ忙しいから」
「親に向かって暇はないだろう」
「暇じゃねーかよ。お袋は?」
「……あぁ……。」
ゼロリードの金の瞳が、自らの直ぐ隣の空席を見る。
「まだ、ちょっとな。」
「そっか」
「シアング、お前あいつの見舞いに行ったか? まだなら飯終わったら──」
「親父んとこ戻る前に会いに行った。お土産の果物渡したら喜んでたぜ」
「──父さんにはお土産は?」
「ない。」
きっぱりと言い捨て、シアングは姿勢を正した。奥からグラスを持ったメルニスが小走りによってきて、席の前にならべていく。グラスが置き終わると脇に控えていたメイドが進み出て、血のように赤いワインを注いでくれた。トアンとルノのグラスには、ささやかな気遣いかジュースが揺らめいている。一礼してメルニスがシアングの隣に座り、ゼロリードはそれを見届けるとグラスを手に取った。
「息子の友人たちが遠い我が国まで訪れてくれたことに、乾杯」
きん、グラスが透明な音を立てた。
トアンは素直に困っていた。テーブルマナーなんて正直触れたことがないに等しいからだ。
(そりゃ、一応は勉強したけれど……)
それはもし自分がエアスリクに招待されたとき、食事でかっこ悪いところをみせないためという対した想像(妄想か?)の実践で、家にあった本を見ながら慣れない持ち方のフォークとナイフを握り締めたのだが──
(こ、こんなに緊張するものだとは)
誰も一言も喋らない、とても静かな食事。想像とはそこが少し違うのだ。
だが音がないというのはこれ以上ないくらいの問題だった。なにしろ、緊張に震える手が必要以上に力をこめて料理を切ってしまい、がちん、がちんという音がハッキリと聞こえるから。
ああこのままじゃストレスでハゲてしまうという深刻な心配が頭を過ぎったトアンだったが、ちらりと横をみて、少し安心した。直ぐ隣のルノも相当苦戦をしているらしく、皿の上の料理とにらめっこをしている。
「ルノさんも苦手なの?」
こっそりと耳打ちすると、ルノは皿を見たまま頷いた。ガチン、トアンがたてたのではない音が響く。
それからルノは顔をあげてトアンを見た。
「一応、私も王子だからとマナーの勉強はしたのだが……ダメだな。幼い頃からの習慣が強く出てしまう」
一人で食べる食事の腹いせの、あまり美しくない食べ方が。
「くそ、肉が切れない」
ぎち、見当違いなところを擦ったナイフが音を立てる。
トアンの目に、真剣に皿と戦うルノがなんだかとても可愛らしく映った。
とりあえず目の前の料理を少し放置することにして、そのままルノの向こうに視線をやる。シアングが優雅な手つきで料理を口に運んでいるのが見えた。
(旅してるときは、全然気付かなかったけど──……)
今、こうやって少し離れたところからシアングを見ていると、王子と呼ぶのに相応しい気品を持っていることがよくわかった。旅をしているときに気付かないのも当たり前だ。シアングがナイフとフォークをきちんと持って、きっちりとマナーを守って食事するところなんて見たことも、想像したこともなかったからだ。だからといって、別にマナーがなかったわけではない。旅をしていたときの彼の言うマナーは、口にものを入れてしゃべらないとか、無闇に出歩かないとか、簡単なものだった。
シアングの隣、メルニスも育ちのよさを感じさせる上品な手つきで料理を食べている。──と、メルニスがくすりと笑って隣を見た。
「トトさん」
「は、はい」
「そんなに緊張なさらなくてもよろしいのですわよ」
トアンが見る限り、トトの食事を取る様子もまた綺麗なものだった。ただ慣れていないという感じがしただけ。──彼もトアンのように、実践のない勉強を、トアン以上に取り組んだのだろう。トトはふっと息を吐き出すとナイフとフォークを皿の中央で交差するようにおいた。
「わかりましたか」
「ええ、ふふふ」
「……すいません、慣れていないもので」
「お気になさらず。──お義父様、なにか音楽を流させていただいてもよろしいですか?」
「くくく……」
メルニスの問いに答えず、ゼロリードが顔に手を当てて笑った。シアングが咎めるような目で父を見る。
「親父」
「いや、すまん。メルニスはいい気遣いができるな」
「親父」
「……わかってる。そんな怖い顔をするなシアング。お前アレだろう、何故最初から音楽がなかったのかと言いたいのだろう。いやあ、面白いものを見せてもらった」
「確信犯か。……トアン、ルノ、トト。無理な持ち方しないでいい」
シアングは席をたつとルノのナイフを取り上げ、身を屈めて代わりに肉を切ってやった。
「す、すまない」
ルノが決まり悪そうに、しかしほんのりと顔を赤らめて礼を言う。シアングはいや、といって笑うと今度はトアン、そしてトトの料理を食べやすいように切ってやった。
「マナーとか気にすんな。別に、特別な食事会とかじゃないんだ」
「何を言うか。エアスリクの王子が見えているのに?」
ニヤニヤ笑ったままゼロリードが言う。シアングは答えずにため息をつくと、傍に居たメイドに、
「どうせ隣の部屋で音楽家たちがまってんだろ。悪いけど、呼んできてくれるかな」
といった。
すぐさま隣の部屋からぞろぞろと楽器を手にしたヒトたちが入って来て、ぺこりと一礼してから演奏を始める。
演奏の中ではトアンのナイフの音は目立たず、トアンは心の中でシアングとメルニスに感謝した。
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