十二章 ⑤『いったいなにがあったの?』

   ✚

 

「おがえり……さづぎ……」

 父さんがマスクの奥からそう言った。マスクでくぐもっているのはわかるけど、声が明らかに変だ。しゃべり方もなんだかみたいに聞こえる。

 やっぱり……疑念が確信に変わってゆく。


「まーぢゃんと一緒だっだのね」

 母さんの声も変だ。いつでも明るくて、元気な母さんだったのに……


「……いったいなにがあったの?……」


   ✚


 あたしはそうつぶやいていた。こうなってしまったら返事なんてあるはずもないのに……と思っていたら、父さんが答えた。

「いや父ざん、インフルエンザにががっで」


 は?


 と、急にボタンばあちゃんがマスクをはぎ取った。

「まったく情けない。医者の不養生とはよく言ったもんじゃ。こんなときだというのに風邪なんぞひきおって」

 ボタンばあちゃんはいつものボタンばあちゃんだった。


 ということは、みんな風邪引いてるだけ?


「おばあぢゃん、風邪じゃありまぜんよ。でずっで……ズズッ」

 父さんはひどい鼻声だ。でもそれだけだった。なんかホッとしすぎて、急に力が抜けてしまった。拍子抜けもいいとこ。


「ざづぎも気をづけなざいよ。父ざんの持っでぎたインフルエンザ、ぞうどうタチが悪いみだいだがら……ケホケホッ」

 母さんもそう言ってせき込み、辛そうにのどを押さえた。


   ✚


「みんな風邪ひいたの?」

「だがら……インフルエンザだっで……」


 考えてみたら、父さんとボタンばあちゃんは内羽一族の直系なのだから、噛まれても吸血鬼にはならないのだ。それに今は太陽も出てるし。


「そっかぁ……なんだ。それならよかった」

「ぢっどもよぐないですよ。父ざんの看病しでだら、があざんまでうつっちゃって……熱は下がらないじ……のどばばれるし……ふぅぅ」

 母さんは本当に辛そうだった。


 でもまぁとにかくなんともなくてよかった。が、一つだけ問題が残っていた。

「それで新兵衛はどこに行ったの?学校?」


 答えてくれたのはボタンばあちゃん。

「それがな、新ちゃんも出かけたまま帰ってこないんじゃ」


   ✚


「え?一人で出かけたの?」

「ああ。夕べ、女の子から電話がかかってきてな、剣道着を着て、竹刀を持って出かけていったんじゃ。それからずっと連絡もないし、もう心配で心配で……」


 ボタンばあちゃんはすごく新兵衛をかわいがっていたから、その心配ぶりもすごかった。なんか泣きそうになっている。


「きっと大丈夫だよ。まだ道場にいるんじゃないかな?あたしもこれから学校に行くから、捜してくるよ」


 あたしがそう言うとボタンばあちゃんも安心したようだった。でも、そう言ったあたしは不安がモクモクと膨らんできた。たぶん呼び出したのは菜々子ちゃんだろう。一晩帰ってこなかったとなると、襲われたに違いない。新兵衛も内羽の直系だから、吸血鬼になることはないけど、血を大量に吸われたら命そのものが危険だ。


   ✚


「ぞーいえば……学校ば休校になっだっで、小早川ゼンゼーがら連絡ぎでだわよ」

 と、またすごい鼻声で母さんが言った。


「小早川先生から?」

「ぞう、今朝直接電話が来たのよ。なんか生徒さんがほとんど来でないぞうよ」


 あたしはマーちゃんをふりかえった。

 マーちゃんがゆっくりとうなずいた。


「わかった。とにかくあたし出かけてくるね。それから、家の戸締まりはちゃんとしてよ。誰か来ても絶対入れちゃだめだよ」

「わがっでるざ。うづしちゃ大変だがらな。今日はみんな家がら出ないがら大丈夫」

 なんか誤解があるようだけど、まぁ基本的にはあってるからヨシにしよう。


「うん。ならいいの。行こうマーちゃん」

「ええ。あの、みなさんお大事に」

 マーちゃんはぺこりと頭を下げ、それからあたしたちは足早に居間を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る