九章 ⑥『若君の初陣』
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……って、とれるわけないじゃん。
あたしは反射的に頭を抱えた。ステージとは反対の方向、扉に向かって飛んでいる。このままだと、壁に激突するか、正面の扉を抜けて外に飛び出すことになる。どちらにしてもこの勢いじゃ、無傷ですむとは思えない。頭の固さにも自信ないし、よく考えてみたら、あたし若君に殺されようとしてるんじゃ?いや、そんなことを考えてないで、受け身をどうとるか考えないと……
ボフッ!
思考はそこで途切れた。あたしはどうやらマットにぶつかったらしい。それもかなりふわふわで厚手のやつ。ちょうど壁に立てかけてあったのだ。そのままポヨンと跳ね返って、ぺたんと床にしゃがみ込んだ。
「あれ?助かった?」
うん。助かったのだ。
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だが安心したのも一瞬。
「さつき、早よう逃げい!」
若君はそう言って、マーちゃんに向かって駆けだした。その瞬間から空気が赤く染まり、ゆったりと粘りつくように時間が流れ出した。それは世界が真っ赤なゼリーで満たされたような、奇妙な感覚だった。
その時間の止まった世界の中で、若君だけが一人ゆっくりと動いていた。見た目には歩くようなスピードだが、実際にはすごい速さでマーちゃんを囲む四天王に近づいてゆく。
若君は四人のところに到達すると、まず、背中を向けているゲンジ君の体を真横に蹴飛ばした。音は聞こえなかったけれど、バキッと腰のあたりがくの字に曲がり、両足がフワリと宙に浮かび上がった。
それから回転する体の勢いをそのままに、クサナギ君の足下にかがみ込んだ。そして立ち上がるようにして、顎に強烈なアッパーカットを突き上げた。クサナギ君の体もふわふわと宙に浮き上がりだした。
若君の戦いはとてもなめらかで、すごく洗練されて見えた。なんというか、すべての動きに無駄がないという感じ。
若君はさらに一歩前に踏みだした。ちょうどアラガワ君の真横、そのまま肩から体当たりをしてアラガワ君を真横に突き飛ばす。ガクンとアラガワ君の頭が揺れ、その牙の先端から真っ赤な血の滴が点々と宙に浮かび上がるのが見えた。
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(あれは……マーちゃんの血?)
アラガワ君の体は血のゼリーの中を、なめらかなドアのように横に滑り出した。若君はそこでぐっと体を落とし、自分まで滑らないように地面に踏ん張った。
最後に残ったのはマザキ君。だがマザキ君だけは、この空間の中でかろうじて動いていた。手に持ったナイフを若君に突きだそうとしているところだった。
だがその動きはあまりにも遅い。若君は繰り出したナイフの下から、右の拳をマザキ君の腹にめり込ませた。マザキ君は体をエビのように曲げ、やはり宙に浮かび上がった。
若君は最後に背筋をのばし、大きく息を吐いた。そしてチラッとあたしを見た。
戦いは終わったのだ。
あたしはその美しい舞いにすっかり目を奪われていた。やっぱり若君はすごい。
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そこでいきなり時間が流れ出した。
血の空間は流れ落ち、世界が色と音を取り戻し、停滞していた時間が雪崩のように降ってきた。
ドカン!ドカン!ドカン!ドカン!
四人の体はほぼ同時に壁にたたきつけられた。四人は壁にたたきつけられ、跳ね返され、床に落ちてぐったりと倒れた。
同時にマーちゃんの膝からクタッと力が抜け、そのまま床に倒れ込む。だがその寸前に若君が背中を支えた。それから軽々と、しかしとても大事そうに、そっと抱き上げた。
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むっ。こんな時でも乙女のプライドは生きている。あたしは放り投げられて、マーちゃんは大事そうにお姫様抱っこ。
なに?なんですか?この差は?
「さつき、急げ!マーちゃん殿はワシが守る。おまえはさっさと逃げよ!」
若君は大事そうにマーちゃんを抱いたままそう言った。その姿が、その言葉が、どういうわけだか、あたしの胸を深く貫いた。
若君はあたしを守ってくれるんじゃなかったんだ……そんな風に感じた。
別に若君のことなんか好きでも何でもなかったけど、傷ついてしまった感じがした。じわっと涙まで出てしまった。
あたしは袖で、涙をこするようにゴシゴシふいた。
「早ようせい!」
せかすような若君の声。あいかわらずの偉そうな言い方。
家臣に対する命令口調。
「分かってます!何度も言わないで下さい!」
あたしはつい怒鳴りかえし、正面扉から外に出た。
いや、出ようとして、そこで立ち止まった。
体育館の外をぐるりと吸血鬼たちが取り囲んでいた。
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