八章 ⑩『若君は用具室へ』

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 いや、今は考えまい。

 あたしはギュッと目を閉じた。

 とにかく今日は終わったのだ。


「大丈夫?さっちゃん」

 隣でマーちゃんの声が聞こえて、あたしはゆっくりと目を開け、現実に戻る。

 小早川先生が教室から出ていき、クラスにもざわめきが戻った。だが若君の存在があるから、まだずいぶんと静かなものだ。


「若君、これからどうします?」

 あたしは座ったままくるりと振り返った。そして固まった。若君が倒れている。

「若君、どうしたんです?」

 それからあわてて立ち上がり、若君の元にしゃがんだ。若君は横向きに、眠るような姿勢で床に倒れていた。額には汗が浮かび、吐く息は苦痛に震えていた。


「ちと陽光を浴びすぎたようじゃ。どこか、真っ暗な部屋はないか?ワシはしばらく眠らねばならん」

 あわわわ。もうパニックだった。クラスのみんなも集まってくる。そしてマーちゃんがあたしのすぐとなりにやってきた。

「若君さん、どうかしたんですか?」

 マーちゃんも声をかける。


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「心配ない。大丈夫じゃ。それよりさつき、どこかないのか?」

「えと、保健室はだめだし、あとは、あとは、体育館もだめだし、あとは……」

 その、が思いつかない。あたしはすがるようにマーちゃんの腕をつかんだ。

「あのね、暗くて涼しいところ。ぜんぜん太陽があたらない部屋。どっかない?」


 マーちゃんはメガネに指先を滑らせ、ちょっと考えてすぐに答えてくれた。

「えーと……用具室!体育館の!あそこならどう?」

「そうだ!そうだね。あそこならいいかも」

「でもどうやって若君さんを運ぶ?」


「いや、それには及ばぬ」

 若君はガクガクとふるえる膝を押さえながら立ち上がった。それからゆっくり背筋を伸ばし、おそってきた苦痛に顔をゆがめた。こんな時なんだけどその苦痛にゆがむ様がまたかっこいい。その場にいたみんなと同様あたしもつい見とれてしまった。


「早う、案内せい!」そして怒られた。

「わかりました!こ、こちらです」


 あたしは若君に寄り添い、右側から腰に手を回した。すると、マーちゃんが反対側に寄り添い、同じく若君を支えた。若君のおなかの向こうにマーちゃんが顔を出し、二人で力強くうなずいた。


「すまんな、二人とも」

 それからその格好のまま、若君をプレハブ作りの用具室まで連れていった。


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 用具室の中は期待通りに暗かった。だが小さな窓が一つついており、そこからわずかに光が入り込んでいた。

 この光も気になるのかな?やっぱり気になるだろうな。仕方ない。


「マーちゃん、マットを敷いてくれる?」

「わかった」

 マーちゃんが体操用の分厚い灰色のマットを床に敷いた。若君はゆっくりとした動きでそこに座り、体を横たえた。


 その間にあたしは段ボールとガムテープを見つけだし、窓をしっかりと塞いだ。一枚じゃ足りなくて、三枚を重ねて、ベタベタとガムテープを貼った。


「なにしてんの?さっちゃん」

「こうしないとだめなのよ。若君は少しの光も苦手なの」

 マーちゃんは不思議そうな顔をしてたが、何かに気づいたらしく、ハッとしてマットに横たわる若君を見下ろした。


 そう、きっとナナちゃんの母親のことを思いだしたのだろう。完璧に光を通さないようにしていた、あのまっ暗な家。


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「もう充分じゃ、さつき」

 若君は真っ暗になった部屋の中でそう言った。声が少し落ち着いてきたようだ。あたしはホッとして息を吐いた。


「マーちゃん殿、助かったぞ」

「いえ、あたしはなにも……」

「そんなことはない。また命拾いした」


 あたしは真っ暗な部屋の中、じっと若君の言葉を聞いた。外があまりにも明るかったせいか、この用具室の闇はあまりに濃密だった。自分が目を開いているのか、閉じているのかもわからない。


 と、あたしの左手の中に、マーちゃんの手が滑り込んできた。お互いにギュッと手を握りあう。


「ワシはこのまましばらく眠る。陽が落ちたら迎えにきてくれ」

「わかりました」

「誰も入れぬようにな」

「はい」

 あたしはマーちゃんの手を引き、暗闇の中を手探りで入り口を目指した。


 用具室の扉を開くと、再び明かりが差し込んだ。若君の短い、苦悶の声が響き、すぐに鋼鉄の扉を閉めた。


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 あたしとマーちゃんは用具室の扉を閉め、大きな金具をセットした。中からは開けられなくなるけど、今は仕方ないだろう。


「ねぇ、若君さん大丈夫かな?」

 マーちゃんが心配そうにいう。

「うん、たぶんね。まぁ大丈夫よ」

 あたしは明るく答える。なんたって若君は不死身だから。ま、これはマーちゃんには言えないけど。少なくとも今は。


「鍵はどうする?」

「仕方ないよ。閉められないんだもん。だから、あたしがここで見張ってる」

 まぁ仕方ないだろう。なんといっても家臣ですからね。


「あのさ、それならあたしが代わってあげる。あたしが見張っててあげる」

 マーちゃんがそんなこと言い出した。


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 その一言だけで、あたしは再び確信する。やっぱりマーちゃんは若君を好きになったんだ。でもそれはそれとして、

「だめだよ。それはあたしの役目だもん。マーちゃんに迷惑かけられないよ」

「いいのいいの。お願い、あたしに任せて」

「でも……」

 深い意味はないのだけど、やっぱりそういうわけにもいかないと思うし。


「ほら、チャイムが鳴っちゃうよ。急いで急いで」

 と無理矢理背中を押されてしまう。

「でもさ、やっぱり悪いよ」

「お願い。あたしも役に立ちたいのよ。ね」


 マーちゃんの声の真剣さにあたしは急にあきらめてしまう。今のマーちゃんを説得するのは不可能だ。

「じゃあ、お願いしてもいい?」

「もちろん。任せてよ」

 マーちゃんはうれしそうに答えた。

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