八章 ⑨『水無月町の歴史』
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「では、教科書の四十ページを開いてください」
みんなが一斉にページを開いた。シャラ。乾いた音が響く。考えてみれば、小早川先生の授業でこういう音が聞こえたのは初めてかもしれない。みんなじつに静か。ときおり緊張に耐えきれず咳払いが聞こえるくらい。ノートに鉛筆がこすれる音まで聞こえる。
うん。これが授業というものだ。だと思うのだが、やっぱりあたしは開始三分で退屈してしまった。
あたしが思うに、先生の授業は世界一つまらない。歴史ドラマとか時代劇とか戦国武将とかは、わりと好きなほうなんだけど、先生が語り出すととたんにつまらないものに変わってしまうのだ。もう才能じゃないかと思えるくらい。実際、何人かの生徒はこくりこくりと眠りの船をこぎだした。
先生は催眠術師になった方が向いてるんじゃないかな。ほんとに。
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ま、それはそれとして、先生は若君のリクエスト通りにこの地方の歴史を話し始めた。この地方が歴史に登場するのは室町時代の前半から。
「この辺りは豊かな水源に恵まれており、昔から稲作が盛んでした。もっともこの時代にあって用水、灌漑を整え、さらに山間部にこれだけの水田を作り上げた技術力は、当時としてはじつに驚くべきことです」
先生はいつもよりも張り切っているようだった。たぶん生徒がおとなしく聞いているから。それから自分の専門分野だからだろう。
だがあたしにとっては退屈この上なかった。はっきり言って全然興味なし。こんな田舎町の歴史を知っても何にもならない気がするのだ。もちろん知的好奇心なんてのもまるで湧いてこない。
それでも先生はいきいきと解説を続ける。
「当然諸国の豪族、大名に狙われることになったのですが、山あいという地理的な要因、そして昔からこの辺りを納めていた宇都宮一族の力もあって、戦国の時代にあっても独立を保ち、飢饉などはあったものの平穏な土地だったと言われています」
先生の授業はこんな調子でいつやむともなく延々と続いていく。
「特に宇都宮一族はその初代、道綱の時代から二十二代、約五百年にわたってこの地を納めていたと言われています。では一代目から順に歴史的背景を振り返りながら見ていきましょう」
一代目からかぁ、長くなりそうだな。眠くなりそうだな。
たぶんみんな同じ気持ちだったと思う。
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が、一人だけは違った。
「ほう、懐かしいな」とか。
「む、あいつがなぁ」とか。
「なんと、そういう裏があったのか」とか。
小早川先生の授業にものすごく食いついている人がいた。
それはもちろん若君だった。誰にも聞こえないようにつぶやいているつもりだろうが、何しろ地声が大きい。それにクラスの静寂は半端じゃない。落とした針の音さえ聞こえそうなほどなのだ。若君のつぶやきは実によく響いて聞こえた。
若君だけが実に楽しそうに授業を聞いていた。きっとそれは先生にも伝わったのだろう。先生もまたぐんぐんと授業を進めた。
「そう、みなさんもそろそろ気づいたかもしれません。この地方は実に長い間、穏やかで平和な日々が続いたのです。室町時代以降、戦国時代、安土桃山時代を通し、江戸時代に至るまで、むろん多少の戦いはあったものの、奇跡的に戦争のない、平和な時代が長く続いてきた土地なのです」
先生は熱っぽく語っている。なにかこう、マニアの人の暗い情熱を見せられているようで、結構みんなが引いていたと思う。
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さらに先生の話は続く。
「これは日本の歴史上、類をみないことです。日本のあらゆる地方史を調べてみても、これだけ長い間平和が続いたところはありません。しかし、この奇跡も江戸時代後期、二十二代冬綱の時代に突然終わります」
冬綱?
これって若君のこと?
ちょっと若君を振り返りたい衝動に駆られたのだが、何となくやめた方がいいような気がした。でも急に現在と歴史がつながった感じがした。そうなんだ。歴史があるから今がある。昔生きてきた人がいるから、今のあたしたちがいる。そんな感覚。
「この時、この地方は大火、つまり大火事に見舞われ、村人のじつに九割が焼死しました。冬綱自身も巻き込まれたらしく、これ以降の消息は途絶えています。そしてこの大火以降、この地には戦乱と混乱が次々と襲いかかるようになるのです。ですが、これ以降の明治維新などの歴史的流れを考えると……」
そこでチャイムが鳴った。その音で先生がハッと言葉を止めた。ずいぶんと夢中になって話していたのだ。
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「……結局、冬綱とともに武家の時代はすでに終わっていたのです。では、この続きはまた次回にしましょう」
先生は大きく息を吐いた。でもいつもと違って、とても充実しているように見えた。目がきらきらしている。みんなが最後まで授業を聞いたのなんて、これが初めてだろうし、熱心に授業を聞く生徒の存在も初めてだったからだろう。
「今日の授業はこれまでとします」
本をまとめ、トントンと机にたたいて端をそろえる。
「小早川殿、すばらしい講義であった」
教室の後ろで若君が立ち上がり、重々しい口調でそう言った。それからなんとなく、クラスでまばらな拍手がわきおこった。へんな感じ。
「あ、ありがとうございます!」
先生はその言葉を聞くと、ハシッと頭を下げた。どっちかというと、小早川先生の方が年上だし、先生なんだし、偉いはずなんだけど。でも若君には不思議とそういう雰囲気があった。
「うむ。次回の講義を楽しみにしておるぞ」
若君はさりげなくそう付け加えた。
もちろんあたしは聞き逃さなかった。
次回?……また来るつもりなの?
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