五章 ③『静かな川ほど深く流れている』

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 あたしは好奇心から、吉永さんの見たものを横からチラッと見た。


 花瓶の上にあったのはしわくちゃだが、きちんと揃えられた一万円札だった。五枚くらいあるようだ。


「あいつどうやって入ったんだ?」

 吉永さんは引き出しから封筒を取り出すとお金を中に入れた。その封筒はこれまでの分だと思うが、ずいぶん厚くふくらんでいた。


「君の学校に藤原君っているでしょ。知ってる?」

「ええ。同じクラスです」

「彼が持ってくるんだ。事故の時に一緒にいたんだけど、変に責任を感じてるらしくて。断ってるんだけど、いつもお金を持ってくるんだよ」


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 藤原君が……正直少し意外な感じがした。なんかそういうタイプとは違う人だったから。

 でも藤原君が学校に行かず、アルバイトばかりしている理由がこれで分かった。

 きっと藤原君なりに償いをしたかったのだろう。


「藤原君ってどんな人?」

 と吉永さん。でもあんまり答えたくない質問だった。『藤原君はバリバリのヤンキーで、乱暴で喧嘩好きで、ほとんど学校に来てません』なんていえないもの。


「あたしもよく知らないんです。あんまり話したことないし」

「そっか。気持ちはありがたいんだけど、受け取るわけにもいかなくてね」


 吉永さんは少し困ったようにそう言った。


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 吉永さんの病室から廊下にでると、年配の看護師さんがちょうどやってきたところだった。ネームプレートによると『源氏』さん。


「ちょうどよかった、ゲンジさん」

 吉永さんが呼び止めた。


「はい。なんでしょう?」

「きのう、また藤原さんが来たみたいなんだけど」

「いいえ。昨日はどなたも面会にいらしてませんよ」

「たぶん夜だと思うんだけど」

「昨日はあたしが夜勤でしたけど、どなたもいらっしゃいませんでしたよ」

 ゲンジさんはきっぱりとそう言った。


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「それに藤原君だったらあたしも知ってますからね」

「そっか、そうでしたね。いや、それならいいんです」


 ゲンジ……そっか。藤原君の四天王の一人と同じ名前だ。無口だけど一番迫力のあるゲンジ君。たぶんそのゲンジ君のお母さんだ。


 なるほど。そういえばゲンジ君は藤原君の事情を知っているような話しぶりだった。たぶんお母さんからこのことを聞いていたのだろう。


「あいつ、いったいどこから忍び込んだんだろう?非常口は警報が入ってるし、このフロアは許可なく入れる場所じゃないし……」

 吉永さんは腕組みして考え込んでいる。


「あの吉永さん、ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」

「なんです?」

「ちょっと……」

 ゲンジさんがそっと言って、少し離れたところに吉永さんを連れていった。それから小声でなにやら耳打ちして話し始めた。なにか困ったことが起きてるみたいだ。


 あたしは後ろ手に手を組んで、壁にもたれかかった。

 そのとき、あたしの身に不思議なことが起こった。


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「実はですね、昨晩また輸血パックがなくなったみたいなんです」

「またなの?どれくらい?」

「三十七パックです。たぶん昨日の夜の内です。昨日の朝チェックして、今朝もチェックしたら減っていたんです」

「使ったわけじゃないんですよね?」

「ええ、それも確認しました。昨日は一件も手術が入ってませんでした。たぶん持ち出されたんだと思うんですけど、誰が持ち出したかまでは分かりません。チェックのしようがないんです」

「そうですか。わかりました。この件は僕から報告しておきます」


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 二人はあたしに背中を向けていた。距離だってけっこう離れていた。声だってささやくような声だったはずだ。


 でもどう言うわけだか、

 

 なんで聞こえてきたのか分からない。でもあたしは二人の会話の全てがはっきりと聞き取れたのだった。


 なんか異様に耳がよくなった感じ。


 これが地獄耳っていうやつなのかしら。


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「おまたせしました、さつきさん」

「いえ。もういいんですか?」

「ええ。では行きましょうか」

 それから吉永さんはあたしを駐車場までつれていってくれた。


 駐車場で芳子ばあちゃんが待っていた。後ろの席にはおじいちゃんも乗ってる。

 吉永さんはあたしが手を伸ばすよりも早く、助手席のドアをさっと開いた。


「では、お気をつけて」と吉永さん。

「ありがとうございます。静香さん早く目が覚めるといいですね」とあたし。

「ええ……きっともうすぐです」


 そして……

 あたしは不意に心臓がドキドキと脈打つのを感じた。なぜかは分からない。なにがそれを引き起こしたのかも分からない。ただ……


 


 そんな気がして仕方なかった。

 

 それはたぶん恐ろしいこと。


 今は水が静かに流れている。

 だが


 赤くどろりと濁った水。

 それがひそかに深く流れている。


 あたしはそれを感じ取っていた。


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