三章 ②『吉永さん』
✚
それから一時間後、芳子おばあちゃんの運転で病院に向かった。もちろんおじいちゃんも一緒で、じいちゃんはいつものように後部席に乗っている。あたしは制服のまま助手席に乗った。
車は十分ほど農道を走り、やがて水無月町の中心部へと入っていった。ローカル線の駅があるだけのほんのちょっぴり開けた町。一応ミスタードーナッツとジャスコはある。でも全国チェーンはそれくらい。あとは地元の商店街が少しだけ。
その中心部の中で一番近代的で、一番立派なビルが内羽クリニックだ。近くにはよく来ているんだけど、病院の敷地までは入ったことがない。ちなみにクリニックは総合病院で、なんでもやっている。町の人は調子が悪くなると、とにかくここにやってくる。
✚
黒塗りのベンツはクリニックの鉄門をくぐり、そのまま裏手に回って専用の駐車スペースに停まった。それと同時にスーツを着た職員の人が走って出迎えにきた。
「理事長、ご無沙汰しております」
職員の人はけっこう若い感じの男の人。メガネをかけて髪を七三に分けている。そしてじいちゃんのドアをサッと開いた。
「久しぶりじゃな。今日は孫の検査を頼みたい、一通りの身体検査と、血液検査全般、あとCTスキャンもかけておいてくれ。朝食を食べているから消化器系はとばしていい。それから……」
おじいちゃんがテキパキと指示を下している。今更ながら、おじいちゃん本当にお医者さんだったんだなぁ、と感心してしまった。
「……かしこまりました」
おじいちゃんの指示が終わるとその職員の人はそう言った。名札によれば『吉永』さんという人だ。
「吉永さん……?」
あれ?どこかで聞いた名前のような。
✚
病院の中に入ると、あたしはおじいちゃんおばあちゃんと別れ、吉永さんの後についていった。そこで更衣室みたいなところへ案内され、パジャマみたいな検査着に着替えた。
「まずは身体計測から始めましょう。ちょうど今日は企業の健康診断が入っていますが、優先して回れるようにしてあります」
話し方からして、吉永さんは実にテキパキとしたまじめな感じの人だった。パジャマ姿のおじさんたちが退屈そうに並んでいる横を、ササッと割り込みで入ってゆく。あたしはなんとなく気まずいから、ずっと吉永さんの背中にくっついて歩いた。
「次はここです、次はここ、はい、次行きますよ。はい、そこ座って」
ずっとそんな感じ。吉永さんは実に事務的で、ほとんど笑顔を見せないタイプの人だった。
身長と体重、視力とか聴力の検査をして、それから場所を変わってレントゲン室へ行き、また別の部屋で血をたっぷりと抜かれた。それから休む間もなくCTスキャンの検査。なんかもう検査だけでどっぷりと疲れてしまう。
✚
「はい、これで終了です。ご苦労様でした」
吉永さんは全部が終わったところで初めて笑顔を浮かべた。とても誠実そうな、感じのいい笑顔。いつもそうやって笑ってればいいのに。
「検査ってけっこう大変なんですね」
「ええ。ほとんどの人がかえって具合が悪くなるんです」
「本当に?」
「もちろん冗談ですよ」
「吉永さんがいうとそう聞こえませんよ」
「よく言われます。あんまり冗談が得意ではないんですよ。それより、これからお父様のところにご案内します」
そう言ってチラリと時計を見た。
「この時間は巡回診療ですね。四階の入院部屋に行きましょう」
「はい」
ということはまだ休めないのね。
✚
エレベーターで四階にあがると、フロア全体が入院部屋だ。右側が四人部屋、左側には個室が廊下を挟んでずらりと並んでいる。吉永さんは個室の方へ進んでいった。
個室側はとても静かだった。大きな窓からはたっぷりと光が降り注いでポカポカと暖かい。車いすのおばあさんや、点滴をもったおじいさんとすれ違いながら、さらにその先に進む。
その個室の一番奥、そこの扉だけが半分ほど開かれていて、中からお父さんの声が聞こえてきた。
「これはどういうことだろう?うーん、心電図の記録は残ってるかな?」
父さんの声は落ち着いているけど、病室の中はざわざわとしている。病室の前まで来たけれど、吉永さんもそこで立ち止まる。そういう雰囲気じゃないからだ。
ここでなにかあったのかな?あたしはなんとなく病室のネームカードに目をやる。それはあたしの知っている名前だった。
【吉永静香】
それは藤原君のガールフレンド、頭を打って意識不明のまま入院している、あの女の子の名前だった。
ここに入院していたんだ……
✚
吉永静香さんとは同じ学年だっだけれどクラスはずっと違ったから、話したことはなかった。でも顔だけは何度も見ている。ショートカットで、陸上をやってて、すらりとした体型の美人だった。しかも成績はいつでも学年トップのすごい人。
ん?そこであたしは気が付いた。ここにいる吉永さんはひょっとして……
吉永さんはあたしの目を見て、あたしの心を読んだように答えた。
「ええ、静香は妹です。事故で頭に怪我を負って、眠ったままです。脳組織の一部にダメージが残っていて、意識を取り戻せないそうなんです」
そうだったのか…なんかあたしは悪いことをしたような気持ちになった。笑顔を見せないのも、事情を考えれば当たり前のことだったのに。
✚
それからフッと吉永さんは笑顔を浮かべた。
「こういう場合、高額の治療費がかかって、あまり長く入院を続けることはできないんです。でもその治療費を内羽先生がすべて立て替えて下さって、妹はこうして治療を続けてもらっています。しかもわたしを職員に雇ってくれて、お給料まで頂いて。内羽先生は本当に立派な方です」
吉永さんは壁にもたれかかった。
「これまでずっと眠ったままでした。もう一年になります。父と母はなんどか治療をあきらめかけたんですが、その度に内羽先生が説得してくれたんです。妹は必ずよくなる、必ず目を覚ますからもう少しがんばりましょうって」
へぇ。あのお父さんが。それは家では見せることのない、お父さんの別の一面だった。でもそれはすごくかっこいい一面で、あたしはなんだか感動してしまった。
「実は今朝、脳波計に変化があったんです。入院してから初めてのことです。それで朝から何度も診てもらってるんです」
吉永さんは涙目でほほえんだ。それからめがねを取って、ハンカチで涙を拭った。
「あの、ここで待ってますから、病室に入って下さい。気になるでしょ?」
「いいんです。今は職員ですからね。あなたとここで待っています」
吉永さん、ごめんなさい。あなたはとてもすばらしい人です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます