二章 ⑧『内羽一族の秘密』

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 あたしは生ぬるい暗闇の中をふわふわと漂っていた……


 真夜中の海ってこんな感じなのかな?でも水はとても暖かい。息もできるし。ふわふわで、なんだかとても安らかな気分だ。


「――さつき、さつき――」


 母さんの声がどこか上の、暗闇の向こうから聞こえてくる。そして声の方向から一筋の光が射してきてあたしの体を包み込む。そしてあたしは気付く。あたしは血の海の中を漂っていた。暖かくどろどろとした血の海の中を。悲鳴を上げようとした口に容赦なく血が流れ込んできて、急に息ができなくなって、視界が真っ赤にぬりつぶされて、あたしは溺れかける。でもあたしがつかむものはどれも血、血、血だけだ。


 これは夢?幻覚?現実?


 区別がぜんぜんつかない。でも苦しみだけは現実だ。やっぱり現実だ……


「――さつき、大丈夫?」

 母さんの声が急にはっきりと聞こえて血の海は一瞬にして消え去った。

 あたしはハッとして覚醒した。


 母さんが心配そうにあたしを見下ろし、額に手を当ててくれていた。芳子ばあちゃんとボタンばあちゃんもあたしの顔を見下ろしていた。


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 あたしは畳の上に寝かされていた。


「大丈夫?さつき」と母さん。

「うん、大丈夫」

 ゆっくりと体を持ち上げて起きあがる。まだ頭はしびれてる。でも、うん、平気みたい。ただ、まだ現実とうまくつながっていない感じがする。


「目が覚めたか?」

 これは……若君の声。そう。血を吸われたんだった。あたしは思い出した。若君は部屋の外、縁台のところに片膝を立てて座り、月に照らされた中庭を眺めていた。


「すまなかった。ちと、吸いすぎたようじゃ。これからは気をつける」


 こちらを見ないで、庭を眺めたままそう告げた。ちょっと冷たい態度。というかやっぱりエラそうな態度だ。でも、まぁ、この人はそういう人なのだ。


「はい。そうしてください」

 あたしはボーッとした頭でそう答えた。


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「ほんとに大丈夫なの?」と母さん。

「うん、少しボーッとするだけ」とボーッと答える。


 あたしは自分の肩をまくりあげてみた。右肩には畳まれたガーゼが白いテープで留めてあった。ガーゼにはうっすらと赤い血の跡が二つ、ポツンポツンと滲んでいた。


 


 あたしは袖をおろした。


 うん。ちっとも痛くなかった。それに体調もどこもおかしくない。なにも変わった感じはしない。もちろんゾンビになった気分もしない。吸血鬼になった気分もしない。それがどんなだかは知らないけど、少なくとも人を襲ったり、人の血を吸いたいぜ、という気分にはならない。


「さつき、お部屋に行って休む?」

「うん。そうする」


 あたしは母さんに助けてもらいながら立ち上がり、少しよろよろした足取りで客間を後にした。


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 母さんはあたしの部屋まで一緒に来てくれた。キモノを脱がせてもらって、パジャマに着替えて、それからベッドに横になった。


「気分はどう?」

 母さんはあたしの前髪をかきあげながら聞いた。


「まだ少しふらふらする。でも平気」

 あたしはタオルケットをグイッと持ち上げ、鼻の下まですっぽりとくるまった。なんとなく恥ずかしい感じがした。母さんたちの目の前で若君に血を吸われたのが、なんとなく恥ずかしい感じに思えた。


「あなたが気を失ってる間にね、おばあちゃんたちがいろいろ教えてくれたのよ、聞きたい?」

 本当はあまり聞きたい気分じゃなかった。でもあたしはまだ母さんにそばにいてほしかったからこう答えた。

「うん。話して」


 母さんは優しくうなずいて、あたしのまわりにぬいぐるみを並べてくれた。ぬいぐるみにあたしを守ってもらおうとするみたいに。


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「内羽の一族にはね、ずっと昔から、代々伝えられてきた大切な使命と秘密があったの」


 母さんはそう話し始めた。とても優しい母さんの声、暖かくてなじみの部屋、タオルケットの甘い匂いと手触り、ベッドを取り囲むぬいぐるみたち。あたしの気分もだんだんと落ち着いてきた。


「その一番大事な使命が、若君さんを守っていくことだったんですって」


「あの人、やっぱりヴァンパイアなの?」

 とあたし。そこだけがあまりに現実と離れていて、血を吸われたというのに、やっぱりまだ信じられなかった。


 母さんはうなずいた。

「そう。でもね、少し違うところもあるみたい。母さんやさつきが考えているのとはね」

「なんか貴族っぽくないしね」

「そうね、どちらかというと、お殿様だものね」

 こうして母さんと穏やかな気持ちでヴァンパイアの話をしているのはなんとも不思議な気分だった。


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「若君さんは戦国時代か、それよりもう少し前に生まれたそうよ」

「そんなに昔なの?」

「ボタンおばあちゃんの話ではね。それって何年くらい前かしら?」

 と母さん。歴史の知識だったら主婦より中学生の方が現役だからね。

「だいたい…四百年くらい前、かなぁ」

「やっぱりずいぶん昔なのねぇ」

 母さんは改めて驚いていた。


「若君さんはね、それからずっと、江戸時代くらいまで、このあたりの領主様をしていたそうよ。そして内羽の一族はその間ずっと、代々にわたって若君さんに仕えてきたんですって」


「やっぱり、血を飲ませるためなの?」


 母さんはうなずいた。


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「一族にとってそれが一番大事なお役目だったそうよ。いつでも、内羽一族の中で一番きれいな女の子が、選ばれていたんですって」

 母さんはフフフと笑ったが、あんまり素直に喜べない。どちらにしても選択肢はあたし一人しかいなかったわけだし。


「でもね、血を吸われる以外には、なにも特別なことはなかったそうよ。これまでずっとそうだったんですって。少しは安心した?」

「少しね。でも、内羽一族以外の人の場合はどうなっちゃうの?」


「このあたりは小説なんかと一緒みたいなのよ。若君さんが普通の人の血を吸うとね、吸われた人は恐ろしい病気になってしまうんですって。ボタンおばあちゃんはそれを『祟(たた)る』って言ってたわ。祟られると、他の人の血を求めて生きる、魂の抜けた怪物になるんですって。でもね、内羽一族の人だけはその病気にかからなかったんですって」


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