二章 ⑥『では、どうぞ』

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 一度目にすると、あたしはその牙から俄然、目が離せなくなった。見間違いかな?なんて事を期待したのだ。


「それにな、ワシが血を吸ってもお前たちには、内羽一族の者には、なにも悪い影響はない。それはワシが保障する」


 ということは、あたしたち以外では、悪い影響が出るってこと?それってやっぱり、まるっきりヴァンパイアじゃん。


 と、また若君が微笑んで、また牙がチラリと見えた。ちょっと長い牙。細くて、少しカーブして、先端が猫の牙みたいにとがっている。やっぱり本物みたい。本物の吸血鬼みたいだ。


「だからな、お前たちは、ただその血をワシに飲ませてくれればよいのだ。なに毎日ではない〝たまに〟でよいのだ。なにしろワシはそれしか口にできんのじゃ」

 

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 しばらく沈黙が流れた。

 あたしもなにも言えなかった。


 やがて、

「……わかりました……」

 母さんが静かにそう答えた。


 


 母さんが簡潔に言った。そして隣に座るあたしを見た。あたしも母さんを見返した。なんか話の展開についていけない。でも母さんはなにやら『大丈夫よ』と首をかしげてうなずいた。


 それから若君を見て、あたしに手の平を向けた。

』って感じで。


 は?なんで?なんなのこの展開は?


「母さんは内羽の血を直接受け継いでいるわけじゃないから、さつき、これはあなたのお役目ね」


 母さんは優しくにこやかにそう言った。


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 おいおい。どこの世界に、吸血鬼に娘を差し出す親がいるのよ?でも母さんの笑顔はあんまりにも明るくて、のどかで、あたしの怒りも戸惑いもなんだかしぼんでしまった。


「大丈夫よ、若君さんが「大丈夫」っておっしゃってるんだから」


 ちらっと若君を見る。


 若君はウンウンとうなずいていた。


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 そして気付いたときには、あたしは完璧に退路を絶たれていた。みんながあたしをじっと見つめていた。みんなが穏やかな笑顔であたしの返事を待っていた。若君もそのきれいな顔であたしに微笑んでいた。


 誰か助けに来てくれないかな?それを考えたのは一瞬。父さんが来るはずないし、じいちゃんは若君の味方だし、弟はハナからあてにならない。あとは、あとは、うーむ、誰も思い浮かばない。


「じゃ。さつき、若君さんの前に」

 母さんがそう言ったけれど、あたしは動けなかった。体が凍りついたように、カチカチになっててまったく動けなかった。


「大丈夫、そんなに緊張しないで」と芳子ばあちゃん。


「さつき、しっかり頼むぞえ」とボタンばあちゃん。


「ダメ、体が動かない」

 それがこの場を逃げる切り札になるとはとうてい思えなかったが、そう言うのがやっとだった。


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「なに、それには及ばぬ」


 若君がゆらりと立ち上がった。見上げるような背の高さ。背筋を伸ばし、すっきりとした顔であたしを見下ろしている。その時、不意に入り込んだ夜風が若君の髪を揺らした。束ねた長い髪がゆっくりと揺れる。


 本当にきれいだな、この人。風と共に、あたしの心の中になにか涼しい感情が吹きぬけた。心のもやもやが急に晴れた気がした。これはもう宿命なのだ。ふいにそれが分かった。あたしはそれを受け入れて、それと共に生きなきゃならないんだ。こうなることはもう決まっていたのだ。そんなことを感じた。


 そして若君が一歩を踏み出した。

 きた。でもやっぱり怖い。


 また一歩。きたー。

 そしてさらに一歩。きたきたー。

 やっぱり怖い。怖いものは怖い。


 あたしはぎゅっと目を閉じた。



 ポン、とあたしの頭に大きな手がのせられた。そしてサワサワとあたしの髪をなでた。


 あたしは子供になった気がした。何かが守ってくれているような安心感。どうしてだろう?その手はひんやりと冷たいのに、心の中に暖かなものが流れてくるのが分かった。


 あたしは再び目を開いた。


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 若君の顔が、あたしの目の前にあった。

 きれいな瞳、長く伸びたまつげ、すっと伸びた鼻、透き通るような白い肌に少し赤い唇。この美貌はほとんど凶器だ。


「大丈夫、ワシを信用しろ」

「はい」

 あたしは思うよりも早くそう答えていた。


「すまんな、恩にきる」

 若君はさわやかに笑った。その瞬間、唇の端から再び白い牙がちらりと見え、その先端が鋭く光った。ピキーンと澄んだ音が聞こえそうなくらい光っていた。


(やっぱ、イヤァァァ!)


 とは思ったが、早くも若君はあたしの両肩に手を置き、あたしの首筋に顔をうずめてきた。冷たい吐息があたしのうなじをくすぐってくる。

 そして……


「ちょっと、待ってください!」

 あたしはギリギリで若君を止めた。若君の胸に手を当て、体を離した。


「どうしたのだ?」

 あたしは困った。なんと言ったらいいか分からなかった。そして混乱した心は、あたしに適当な話をしゃべらせた。

「そ、その、ですね、できれば首とかはやめてもらえませんか?あたし、ほら、学校に行かなくちゃいけないんですよ。だから、そんな目立つところに傷ができるのは……ちょっと、困るんですよね。だから、その、見えないところのほうが」


 若君はキョトンとしていた。それからフッとあたしから目をそらして床を見つめた。どーいうわけか、なにやら照れてる。


 へ?なんで?


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