二章 ⑤『若君は吸血鬼?』
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「それでは、失礼いたします……」
おもむろに、ボタンばあちゃんが正座のままツツツと若君の真正面に進んでいった。それから少し照れたように斜めにうつむくと、今度はいきなりキモノの襟をグイッとおろした。かなり年季の入ったシワシワの首があらわになっている。
「さ、若君……」
すこし女っぽい声を作りながら、少し小指なんかを立てつつ、うなじの毛をそっとかきあげる。さすがに色気は枯れ果てていると思うのだが、ボタンばあちゃんはあくまでわが道を突き進む。
「どうぞ御遠慮なさらずに。さ、どーぞ」
ボタンばあちゃんがそのまま、ずずいと若君に迫った。
しかし若君はわずかに体を引いた。
「ささ、どーぞ、お好きなだけ」
ボタンばあちゃんが求愛する鶴のように首を伸ばしながらさらに迫る。
そこで若君は固まった。ボタンばあちゃんの首を見つめたまま固まっている。もはや若君とボタンばあちゃんの距離はゼロだった。
ボタンばあちゃんは若君と頬を合わせるような位置で、最後にそっとつぶやいた。
「ささっ、若君さま。遠慮なさらず、たっぷりと、どうぞあたくしをお召し上がりくださいませ……」
そう言って、先ほどまでの大胆さとは裏腹に、ポッと頬を赤く染めた。
な、なんなんだ、この展開は?
ボタンばあちゃん、いったい何を始めるつもりなんだ?
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「さ、どーぞ。ささ、どーぞ」
ボタンばあちゃんはうっとりと目を閉じた。何かを待ちかまえるように、何かを期待するように、うなじをかきあげた姿勢のままじっとしている。
あたしは若君の顔をちらっと見た。
「ム」
若君は短く言葉ともいえない言葉を発したきりだった。その眉はわずかにひそめられ、その口はへの字に曲がっていた。その目は信じられないものでも見るように、ボタンばあちゃんの首に釘付けになっていた。
「若君、どうかされましたか?」
目を閉じたまま、色っぽい声でボタンばあちゃん。
「あたくしの心の準備はできておりまする。どうぞ御遠慮なさらず、お好きなだけおすいくださいまし」
またもポッと頬を染め、ボタンばあちゃんはさらにうつむいた。こんなに照れていると、なんだかかわいく見えてくるから不思議なものだ。いくつになっても女のかわいさってのは残るものなんだなぁ、なんて思った時、ばあちゃんの言葉が心に引っかかった。
「――お好きなだけ『おすい』くださいまし――」
オスイ?それって「吸う」の丁寧語?
今、ボタンばあちゃん、そう言った?
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コホン。
若君の乾いた咳払いが聞こえた。
「あー、そちの気持ちはまことにありがたいのじゃが。その、なんというかだな……」
「ハッ?!」
そこでボタンばあちゃんも目を見開いた。それから恥ずかしそうに、襟を元に戻し、首を引っ込め、胸元に手を当ててうつむいた。
「そうでございますよねぇ、あたくしのようなお婆さんでは、お嫌でございますよね」
ボタンばあちゃんは本当に寂しそうにそう言った。
だが若君は素早くうなずいていた。
それにしてもこの人たちは何がしたいんだろう?
と思ったら、二番バッターが登場した。
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「では、次はわたしが……」
今度は芳子ばあちゃんだった。ボタンばあちゃんと同じく、ツツツと正座で若君の前に移動すると、衿を下げ、うなじをかきあげ、その首を若君に向けた。ボタンばあちゃんよりは若いとはいえ、やっぱり結構年季の入った首だ。
「さぁ、どうぞ若君さま。お好きなだけ…」
芳子ばあちゃんはいつもの優しい口調で語りかける。が、その言葉と行動はボタンばあちゃんに途中でさえぎられた。
「待っとくれ、芳子さん。残念じゃろうが、これはまず内羽直系の者がやらねばならんのじゃ」
「あら、そうでしたわね。すみません、おかあさま」
芳子ばあちゃんはいつものにこやかな調子でそう答えた。それからあっさりと衿を戻して元の位置に戻り、ニコニコと若君に微笑みかけた。
「残念ですわ、若君さん。わたしもお役に立てればよかったんですが」
「ウム」
若君はまた小さくうなずいた。なんかホッとしたような表情で。
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「その、できればだな」
若君はあたしと母さんをチラッチラッと見た。これまであんなにえらそうだったのに、今は少し申し訳なさそうな、ちょっと謙虚な感じの態度を見せている。
「ワシも起きたばかりで、その、若い者のほうがええというか、のぉ?」
なにが「のぉ?」なんだ?
若君のあの様子、チラチラとこちらを見る目つき、なんかエロい事件にでも巻き込まれるのだろうか?と一瞬思ったけど、ばあちゃんが二人もいて、その目の前でそんな事件が起こるとも思えなかった。
「ねぇ、いったい何の話してるの?母さん分かる?」
あたしは小声で母さんに聞いた。そのつもりだったが、その言葉はボタンばあちゃんにもしっかり聞こえた。
「さつき、今は詳しく話している時間がないのじゃ」
と、ボタンばあちゃん。
「だからとにかく今は言われたとおりに、」
と、いいかけたところで、
「なんじゃ、ちゃんと伝えておらんのか!」
若君が間髪いれずにそう言った。大きな声でもないのに、空気がビリビリと震えた。こんなに若いのに、ものすごくエラそうな空気を叩きつけてくる。そしてボタンばあちゃんは畳に額をこすりつけた。
「も、もうしわけありませぬっ!」
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「あのね、さつきちゃん。簡単に言うとね」
おっとりとした口調でそう切り出したのは、芳子ばあちゃん。背中をピンと伸ばし、いたわるような優しい目であたしを見ている。それから伸ばした人差し指をあごに当て、ゆっくりと言葉を選びながら話した。
「若君さんは血をお召し上がりになるの。内羽一族はそのために代々、若君さんにお仕えしているのよ。あなたにはもう少し時間が経ってから伝えられる予定だったんです」
ホホホ、と続きそうな穏やかさだった。
「母さんは知ってたの?」
「母さんも今朝聞いたばかりなの。でも、今回はボタンばあちゃんがお役目を果たすから、見ているだけでいいとおっしゃってたから、詳しくは聞いていないのよ」
「そんな……」
「大丈夫よ」
母さんはあたしを励ますようにうなずき、それから若君と対決するように正面を向いて姿勢を正した。
「若君さんに、お聞きしたいことがございます」
凛としたその声。かっけぇ、母さん。
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「若君さんは『吸血鬼』ですの?」
母さんはいきなりそう若君に聞いた。
あたしはずっこけそうになった。ムチャクチャな人がここにもう一人誕生。母さんはいきなり芳子ばあちゃんの話を全面的に受け入れていた。
母よ、あなたもやっぱり能天気な人なの?ちょっと考えてみてよ。吸血鬼?そういうの、ありえないでしょ。中学生のあたしのほうが、よっぽど現実的じゃない。
「今の時代では、ワシのようなものをそう呼んでおるのか?」
若君は体を少し乗り出し、ボタンばあちゃんにそう聞いた。ボタンばあちゃんはこくんとうなずいた。
「血を吸う鬼と書いて、吸血鬼と呼ばれておりまする。ただそれは西洋の、妖怪のようなものの名ですじゃ」
「なるほどな。そういう意味では、確かにワシは吸血鬼じゃ」
そういって若君はハッハッハッと笑った。
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「だがな、ワシは妖怪ではないぞ」
若君はまっすぐにあたしと母さんを見てそういった。すごく真剣な表情。キリリとしていて、まっすぐにこっちを見る目がなんともかっこよくて、どんな言葉でも信じたくなってしまう。それでも……吸血鬼というのはちょっと無理。
「ワシはちゃんと現実の存在だ。ずいぶん長く生きておるのは確かだが、亡霊でも鬼でもない。お前たちとこうして顔を合わせ、話しておる。確かに人とは少し違う存在かも知れぬが、おまえたちが恐れることは何もないのだ。なによりもまず、ワシはお前たちの主君であり、主君とはお前たちを守るべき存在だからだ」
若君は丁寧な口調でそう言った。とても真剣で、心の中をきちんと話しているような印象だった。そして最後に少し微笑んだ。
「……だから安心せい」
その時……キラリ、と。
確かに見えた。
二本の牙がしっかりと見えた。
ということはやっぱり……
若君は
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