一章 ⑦『女のサガ』

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 この時の若君の言葉が何を意味していたのか、母さんにはもちろん、あたしにも分かるはずがなかった。

 その意味に気づくのは、しばらくたってからのことになる。


 だから母さんと二人「まぁいったいなにかしらね」「わかりません、おかあさま」などとホホホと笑っていた。


 ああ、あたしはバカでした。


 あたしは甘かったのです。


 若君の顔の良さにすっかり判断力を曇らされていたのです。


 これがあの有名な『女のサガ』というやつなのかもしれない。


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 やがてあたしたちは家に着いた。両開きの扉を引きあけると、三人の老人たちが勢ぞろいして待っていた。みんなちゃんとキモノに着替えて、板の間に並んで正座している。


「ただいま帰りました」と母さん。

 だが老人たちは母さんの言葉など聞こえなかったように、ただ若君の姿をびっくりした様子で見上げていた。そして明らかにたじろいでいた。


「どうした、主君の顔を忘れたか?」

 若君がそう言うと呪縛が解けたらしい。へへーっと一斉に頭を下げた。


「若君様、お待ち申し上げておりましたです」

 ボタンばあちゃんが言った。


「お、お待ちしておりました」

 ジイちゃんは額を床にこすりつけんばかりにお辞儀した。


「ようこそいらっしゃいました」

 芳子ばあちゃんだけは優雅に頭を下げた。

 

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「うむ。出迎えごくろう」

 若君は短くそう答えただけだった。それから玄関に父の体を降ろした。父はぐんにゃりと転がったが、まだ目覚めなかった。というかすでにただの荷物みたいだった。だから誰も父さんを起こそうとはしなかった。


「みなの者、かわりはなかったか?」

「ははーっ、もったいないお言葉、ありがとうごぜえます」

 じいちゃんが答えた。ボタンばあちゃんはハッと口に手を当て、感動の涙を我慢した。


(なんだやっぱり面識があるんだ)


 じいちゃんたちの話している言葉からそれがわかった。それにしてもこんなに若いのに年寄りに土下座させてるって、いったいどういう人なんだろう?


 あたしはチラッと若君の横顔を見た。


 う、やっぱりカッコいい……


 あまりカッコいい男の人には興味がなかったつもりだったけど、間近で見ると魔力のように引き寄せられてしまう。つい見とれてしまうのだ。


 あたしも普通の女の子ってコトだったのだ。


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「さっそくじゃが、部屋の用意をたのむ」

 若君は帯から日本刀を抜き、じいちゃんに預けた。じいちゃんはありがたそうに、それを両手でささげもった。


「奥にお部屋を用意してございます」ボタンばあちゃんが言った。

「うむ。案内せい」

「ささっ、こちらに」

 ボタンばあちゃんはまだ四つんばいのままだった。四つんばいのままで、サササッと廊下を進みだした。若君はわらじのような履物を脱ぎ、ボタンばあちゃんの後に続いてズンズンと廊下の奥へと歩いていった。


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「ふぅー」

 若君の姿が廊下の角に消えると、あたしは大きくため息をついた。なんだか異様に疲れてしまった。


「さて、これで終わったわね」と母さん。

「あの人、誰なんだろうね?」とあたし。


 なぜかサムライ姿で、時代劇コトバ、うちのおじいちゃんたちを土下座させている不思議な立場、なんとも謎だらけの人だった。


「さぁ、たぶん本家の御曹司とか、そういう人なんでしょう」

「とにかく変わった人だね」


 と、そのとき、ようやく父さんが目覚めた。「うーん」と、うなりながら体を起こした。そして辺りをきょろきょろと見回して、あたしと母さんを見上げた。


「あれ、なんでここで寝てるんだ?」

「若君さんが運んでくだすったのよ」

「若君さん、って誰?」


 あたしと母さんは同時に肩をすくめ、目を合わせて、お互いに微笑んだ。


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 この時、あたしはこれですべて終わったと思っていた。


 でもそうじゃなかった。


 むしろ、これは始まり。第一章の終わりでしかなかった。 

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