一章 ③『着替え』
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それから父さんの着替えが始まった。
ボタンばあちゃんとじいちゃんが四つんばいでぞろぞろと畳の上を移動していき、気の進まない父さんがそのあとを実に嫌そうに、奥にある和室へと歩いていく。それはかなり不気味な光景だったが、老人たちは真剣そのものだった。
和室の奥までいくと、老人二人は大きな和ダンスから着物を引っ張り出し始めた。
「まぁまぁ、あたしも手伝わないといけないわね」
芳子ばあちゃんは机にコトっとお茶を置くと、父さんたちのいる和室へ向かった。
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「ねぇ、なにしてんの、あれ?」
あたしはそっと母さんに聞いてみた。でも母さんは肩をすくめただけだった。
「それより今のうちに食べちゃいなさい」
「うん」
あたしは父さんの着替えをちらちらと見ながら、晩ごはんの続きに取りかかった。
その間、隣の部屋からは父さんの悲鳴にも似た情けない抵抗の声が聞こえていた。
「えー、こんなの着なくちゃダメなんですか?」
「時間がないんじゃ、さっさと着るんじゃ」とボタンばあちゃん。
「あの方を待たせるわけにはいかんのでな」とじいちゃん。
「えー、なんですか、これ? こんなの着るんですか?」
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父さんは老人たちにされるがまま、キモノに袖を通した。それは普通のキモノと違って、やたらと肩の大きな、時代劇の殿様が着ているような豪華なキモノだった。それは藍色のキモノで、両肩には羽をあしらった家紋がでかでかと染めてある。
だいたいこんなキモノが家にあったこと自体が驚きだ。
「へぇ、けっこう決まってるね、父さん」
あたしは居間から父さんに声をかけた。初めて見る父さんの和服姿。それは思ったよりもずっと格好よかった。
「そうか?なんか派手じゃないか?」少しニヤリとしながら父さん。
「すごく似合ってるわよ、あなた」
母さんも少しうれしそうな声でそういった。
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が、ほんわかした気分もその時まで。
「なにを黙って見ておる?」
言いだしたのはボタンばあちゃん。部屋の奥からキッとあたしの方を見ている。なにかイライラしているようにも見える。なんで?あたしはキョトンとしていた。
すると、ボタンばあちゃんはバンと畳を叩いた。
「ほれ、おまえたちもさっさと着替えんかい!」
誰のコトかな?と思ったが、ボタンばあちゃんはまだあたしをまっすぐ見ている。母さんを振り返ると、母さんもキョトンとしている。ちなみに弟の新兵衛はわき目も振らず黙々とから揚げを食べていた。こいつはカンペキ父さんの血を継いでいる。
「ボタンばあちゃん、あたしのコト呼んでる?」母さんにささやく。
「そうみたいねぇ。でもわたしたち二人みたいよ」
「ほれ、ボサッとしてないで、二人ともさっさと着替えるんじゃ!」
ボタンばあちゃんのゲキが飛び、あたしはあわてて立ち上がり、母さんはすばやくエプロンをはずした。
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それからあたしと母さんはもうひとつの和室に移動した。ここは普段母さんが使っている和室で、桐の大きなタンスが壁一面にずらりと並んでいた。
庭に面したふすまを開けると夜風がふわりと部屋に入り込んできた。今日はちょうど満月で、部屋の中がふっくらと青く染まった。
「いったいなんなんだろうね?母さん知ってる?」
「どなたか大事なお客様がいらっしゃるんでしょ。若君さんって言ってたから」
母さんは少しだけ考えてから、手早く着物を引っ張り出し始めた。母さんはパーティーとか講演会でしょっちゅう着物を着ていたから、慣れた手つきでパパッとあたしに着付けしてくれ、自分もパパッと着替えた。
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「やっぱ母さん似合うわ……」
さすが。母さんの着物姿はやっぱりきれいだった。
「それにくらべて……」
あたしの着物姿はすごく変だった。時代劇でいえば町娘その一、という感じ。ものすごく田舎くさく見える。あたしは致命的に着物が似合わないみたい。
新兵衛はあたしの着物姿を見て、思わずご飯を噴き出して笑い出した。でもあたしは怒る気にもなれなかった。これじゃあ、笑うのも仕方ない。
ちなみに新兵衛だけは偶然にもすでに和服姿だった。厳密には剣道着。新兵衛は夜の剣道教室が終わって帰ってきたところだったのだ。
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あたしと母さんが居間に戻るとヒイばあちゃんたちが待っていた。まだ立ち上がれないようで、四つんばいのままであたしたちを見上げている。
「また、ずいぶん地味じゃが……まぁいい。とにかく準備ができたようじゃな。急いで出発するんじゃ」
「新兵衛も連れてくの?」
と、あたし。その弟はまだご飯を食べていた。あたしたちにはまるで興味がなさそうに、今は卵焼きに箸を伸ばしている。
「新ちゃんはまだ小さいからお留守番でいいじゃろう」
ちなみにボタンばあちゃんは弟をべたべたにかわいがっていた。
「それより、おまいたち、急ぐんじゃ!」
ボタンばあちゃんを先頭にじいちゃんも四つんばいで廊下へと這い出した。それもかなりの速さで手足を動かし、さささっ、と板張りの上を滑るように這ってゆく。
その後を殿様のような父さんがゆっくりと歩き、しゃんとした母さん、町娘のあたしが続く。
そして新兵衛は興味なさそうに、
「いってらっはーい!」
と口の中にご飯をモゴモゴ言わせてあたしたちを送り出した。
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かくして準備は整った。
「では、いってまいります」
六畳間ほどある大きな玄関に父さんと母さんとあたしが並んだ。
「うむ、しっかりたのんだぞ清兵衛」
「くれぐれも、クレグレも、失礼のないようにな」
ボタンばあちゃんたち三人の老人は並んで板の間に正座した。老人たちの目を見ていると、ものすごく期待されているのが分かる。そんなみんなの期待を背負って、父さんは殿様のように重々しく、ウムとうなずいた。
「ところで……」
父さんは玄関の扉に手をかけながら、振り返ってそういった。
ちょっとだけ緊迫した空気が流れる。
「どこに行けばいいんです?」
おいおい、それを今聞くのかい……
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