一章 ②『老人たちの興奮』

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 その夜……


 ヒイばあちゃんが血相変えて居間の障子戸を両手で引きあけた。



 あたしたちはちょうど晩ごはんを食べているところだった。

 一緒にご飯を食べていたのは父さん、母さん、弟の家族四人と、じいちゃんばあちゃんの計六人。ちなみに当のヒイばあちゃんはいつものように一人で早めの夕食を終え、とっくに部屋で眠っているはずだった。


 みんなのお味噌汁の湯気がまっすぐにゆるゆる立ちのぼるような、ジツにのどかな時間だった。

 ふだんはよぼよぼとした動きしかできないヒイばあちゃんがスックと背を伸ばし、カッと目を見開いていきなり叫んだ。


! !」


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 はぁ?いきなりなんですか?


 あたしはもちろん、父さんも母さんも弟の新兵衛も、同じような気持ちで、同じような目でヒイばあちゃんを見上げた。


 見上げつつ『ボタンばあちゃんついにボケたかな』などと考えてしまった。でもたぶんここにいるみんながそう思ったはずだ。


 だがじいちゃんの反応だけは違った。じいちゃんだけはバンと箸を机に叩きつけ、まるで脳天を雷に撃たれたように、普段は猫のように丸い背中をビシッと伸ばして立ち上がった。それからボタンばあちゃんと同じようにカッと目を見開いて答えた。


! !」


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 だが過剰なアドレナリンの分泌は急速に体をむしばむのであろう。二人の老人は急に息を切らせて、同時にへなへなと床に座り込んでしまった。


 が、それでもその目だけは執念のようなもので、らんらんと輝いていた。何が老人たちをここまで興奮させたのか分からないが、老人たちの熱い思いだけはよく伝わってきた。


 そしてボタンばあちゃんは廊下の床に四つんばいになり、キッと鋭く目を上げ、ブルブルとしわくちゃの顔をふるわせながら、やはり座り込んでしまったじいちゃんに命令した。


「なにをグズグズしとるんじゃ! 早くお迎えにゆかんかッ!」


「そ、そうじゃ!」

 じいちゃんはボタンばあちゃんの言葉にブルッと体を震わせた。そして再び立ち上がろうと膝をダンと立てた。

「ムゥゥ、ムォォ」

 膝に手を突き、ググッと背筋を伸ばしながら、顔を上げてゆく。


 おっ、じいちゃん立つのか!

 なんだか応援したくなるような熱い空気が流れていたが、いかんせん老人たちのノリにもついていけず、少しシラケた視線で見守った。


 ちなみに芳子ばあちゃんも同じ反応だった。ダンナのがんばるすぐ横で、静かにお茶をすすりながらいつもの優しい、穏やかな調子で、じいちゃんに声をかけた。


「まぁまぁ、あなた、あまり無理してはだめよ」


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「わ、!」

 じいちゃんはそう答えつつ、首すじに血管を浮かび上がらせ、ついに腰を浮かせた。


 お、立つんだ、ホントに。と、一瞬思ったが、じいちゃんはそこで力尽きた。がっくりとひざを折り、後ろ向きに転がるようにして倒れてしまった。それから悔しそうに自分の膝をパシパシと叩いた。

「ダメじゃ、ワシではだめじゃ」


 それから急に父さんをキッと睨みつけた。そしてボタンばあちゃんと同じく、今度は父さんに命令を下した。


! !」


 これはボタンばあちゃんとまんま同じセリフだった。


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 そして呼ばれた父さんは見事にポカンとしていた。


 ちょうど漬け物をとろうと箸を延ばしていたところだった。『この状況でまだ食べていたのか』とは思ったが、父さんはそういう人だった。緊張感とは無縁な、のほほんとした人。これでも一応、お医者さんをしている。しかもなぜか外科医。


 ちなみに父さんの名前は『清兵衛』という。おじいちゃんは『又兵衛』、弟は『新兵衛』どういうルールかは知らないけど、内羽家の男は代々、が付けられることになっているらしかった。


 その父さんは箸を机の上に戻し、あたしを見つめ、弟の新兵衛を見つめ、それから最後に母さんを見た。


「あの、やっぱりオレのこと?」


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 そりゃもうアナタしかいないでしょう。


 あたしたちはみんなそういう気持ちだった。だって相手はアナタの親でしょう。


 で、さすがの父さんもようやくみんなの気持ちを察したのだろう。名残惜しそうに持っていた御飯茶碗を机に置くと、しぶしぶ立ち上がった。


 前にも書いたが父さんはけっこう背が高い。それだけでなかなか威厳がある。これは父さんの少ない取り柄の一つだ。あともう一つの取り柄は優しいところ。でもそれで全部。あとはまるでダメダメな人。これでよくお医者さんがつとまってると思う。


「分かりましたよ。オレがいきますよ」

 そういってワイシャツの一番上のボタンを留め、まくっていた袖を下ろし、ネクタイを締め直してジャケットを羽織った。ところが、


「いかん、いかん! そんな格好ではいかん!」

 ボタンばあちゃんが床にはいつくばったまま、首を振りながら叫んだ。


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「これじゃダメですか?」


 父さんはのんきにそういった。ちなみにじいちゃんも少し不思議そうな顔をしていた。いったいなにがいけないんだろう?という顔。


「若君はずっと眠っておられたのじゃ。そんな服を見たら驚かれるにきまっておろう」

「でもねぇおばあちゃん、オレ、スーツしかないですよ、まともなのは」

「たわけ者! キモノがあるじゃろう! キモノに着替えんかッ!」

 ボタンばあちゃんの言葉にじいちゃんはポンと膝を打った。

「お、なるほどっ!」


 でも理解しているのは二人の老人だけ。もちろんあたしたちにはさっぱりわけが分からなかった。


「清兵衛、早く着物に着替えるんじゃ」とじいちゃん。

 ボタンばあちゃんは四つんばいのまま、うんうんとうなずいている。


「えぇー、キモノなんか着るんですか?やだなぁ、オレ……」


 しかし父さんの小さな抵抗は誰の耳にも届かなかった……

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