五章 ⑧『わしも学校へ行くぞ』
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初めて聞いた。若君って、そういう名前だったのかぁ。
なんて驚くあたしの前で、二人はまだ見つめあっていた。
「あたしたちは『若君』って呼んでるの」
マーちゃんはまだうっとりしている。うっとりした目つきで、うっとりとした声で若君に聞いた。
「あのぅ、わたしも、そう、お呼びしてもよろしいですか?」
「うむ。かまわんぞ」
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「それよりだな、さつき」
若君は急に思い出したように、今度はあたしの方を向いた。
「散歩に行くぞ」
「あ、もうそんな時間なんですね。でもちょっとだけ待っててください。あ、それか、先に行っててください。すぐ行きますから」
「だめじゃ。はようせい」
む。まためんどくさい人だな。こっちはお客さんが来てるんだから、少しは空気を読んでくださいよ。
「あ、あのですね」
なんとか反論しようとしたとき、マーちゃんがあたしを止めた。
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「いいの、さつきちゃん。あたしもう帰るから。ごめんね、気を使わないで」
「でも……」
「いいのいいの。ほんとに。若君さんとお散歩に行ってあげて」
マーちゃんは言うが早いか、ササッとビニールカバンを持ち上げた。中学校指定のださいスポーツバック。
「あ、そうだった」
そう言って、思い出したようにジッパーを開けた。
「月曜日、歴史のミニテストするんだって、これ、休んでた間のプリントとノートのコピー、置いてくね」
次から次へとプリントの束を取り出し、焦っているのかさらに自分のノートと教科書まで机の上に置いた。
「それ、マーちゃんのだよ」
「あれ。そうだね、えへへ」
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
といったけれど、マーちゃんはあわただしく自分のノートと教科書をごそごそとカバンに戻した。
「では、お邪魔しました」
マーちゃんはぺこりと頭を下げて部屋を出ていこうとした。
「ちょっと待て」
若君はズイとマーちゃんの進路を塞いだ。
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「あの、なにか?」
マーちゃんはおそるおそる若君を見上げた。あたしもなんかいやな予感がした。
「今『歴史』と申したな?」
「はい。日本史のテストがあるんです」
「てすと?」
若君はやっぱりそこに引っかかった。すかさずフォローをいれるあたし。
「試験のことです」
「試験とな。まぁそれはよい。その学校とやらで、この地の歴史が学べるのか?」
「はい。先生に聞けば教えてくれると思います」と、マーちゃん。
「ふむ。なるほど」
若君は指先で顎の下をなでた。
「歴史か。ちょうどよい機会じゃな」
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「あの、それならあたしが!」
と、言い出すよりも早く、マーちゃんはコクッとうなずいてしまった。
「担任の小早川先生なら、この地方の歴史に詳しいはずですよ」
「あのぅ、若君、それならあたしが…」
タイミングを失ったが、なお食い下がってみる。でも、その言葉はきれいに無視されてしまった。『それならあたしが……それならあたしが……』あたしの言葉だけがむなしく宙にプカプカ浮いている。
「そうだ、若君さん!」
マーちゃんが良いことを思いついたように急に言う。
なんか予想がついた。やめて、やめてください、言わないで、マーちゃんお願い、その先を言わないで……
「……ぜひ学校にいらしてください!」
あぁ、言っちゃったよ……
「うむ。わかった。そうしよう」
あぁ、答えちゃったよ……
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「さつき、そういうことじゃ。わしを学校とやらに案内せい」
あたしはきょとんと若君を見つめた。まだうまく現実とつながらない。
「なにをぼさっとしておる。わしも学校へ行くぞ」
若君はハッハッハッと笑った。
「はい?」
なに言ってんのこの人?
「とぼけたやつじゃな。これからはおまえとともに学校へ行くと申したのじゃ」
それから若君がなにを言い出したか、頭がゆっくりと理解した。
若君は学校に来るつもりなの?
「本当に?」つぶやきが声になる。
「むろんじゃ」
「ええー」
あたしは一気にパニックに陥った。
若君が学校に来る。
あたしには混乱が目に見えるようだった。
もう厄介ごとはたくさんだよぉぉぉ。
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