第1章 3幕 「羽虫の蛮勇」

「早く早く早く! クソッ、誰でもいいんだ。俺はもうこんな牢獄に耐えられない……」


 タスク達の牢の頭上で起こる騒乱が激化して、既に数時間が経過していた。音から察するに、戦火はもうこの地下牢を備え付ける地上の建物まで及んでいる。


 しかし未だ地下牢に変化はなく、激しい揺れによって天井の土くれが剥がれ、タスクの足元に積もっていくだけだった。


 半狂乱とも言えるタスクの有様に、デボラは辟易としていた。偶に振り返っては喚く彼の姿を見つめるが、その度にため息を漏らしては目をつむるという繰り返し。そんな事を数時間繰り返していた。


 渇望からの咆哮。喉から精一杯手が伸ばされるような叫びに、デボラはいい加減イラついていた。


 何が希望か、と。


 14年間幽閉の身であるデボラにも、日の光への渇望に身をやつしたことはあった。しかしそんな淡い希望が日の目を見ることなどありはしない。虚空に手を空振りさせることの虚しさを、デボラは1番知っていた。そうやって潰れていく囚人など、それこそ掃いて捨てるほど彼は見てきたのだ。今回同房の青年は、そうはなって欲しくなかった。デボラは心の中で大いに肩を落とした。


「出来合いの騎士団如きに手こずってるんじゃない! 早く俺を解放しに来い! 」


 数時間叫び続けても、タスクの咆哮は止むどころか激化の一途。それはもう呪うような罵声へと変貌していた。鉄格子を殴りつける拳は裂けてしまっていて、血の匂いが牢に漂い始めている。矢鱈目ったらに鉄の棒を引っ掻き回す爪は割れたり折れたりで、見るものの痛覚に否応なく訴えかけるような惨状だ。


「いい加減にしやがれよ、小僧」


 無骨な拳が、タスクの叫ぶ横っ面をあらん限りの力で打った。急な衝撃に対処も出来ずに、タスクは土の壁に背を強く打ち、彼の口からは悲痛な呻きが漏れ出した。辛うじて土壁を支えによろけて立つ彼を、デボラの拳は間髪入れずに2発、3発と鳩尾辺りを激しく突いた。堪らなくなったタスクは、四つん這いにならざるを得ない。腹への衝撃は彼が胃液を吐瀉するには十分過ぎる程のものであり、予定調和的に牢の地面を汚した。デボラにはケモノを嫌う彼こそ、今は何よりもケモノに見えた。それをどうしても許すことはできなかった。


「てめぇは俺に言いやがったな、家畜の皿を啜れってよ。てめぇは今何をしてやがる? 何も来やしないところに怒鳴り散らして、出たい出たいなんてほざきやがる。そんなことで救われるなら俺らはこんなところにいねぇんだよ! 」


 荒い息を必死で整えようと蹲るタスクにデボラは捲したてる。


 怒りと葛藤で判然としない頭でデボラは反芻した。振り返ると、土気色の景色と生々しく冷えた鉄格子ばかりが蘇り、目眩が彼を襲った。

 陽の光は記憶はもう見つけることはできなかった。


「俺だって出たい! そう願っていたことだってあった! でもこの暗がりじゃそんな明るい希望なんてのは浮き上がって仕方ないんだよ! 光に群がる羽虫はいつだって正気じゃいられない。正気でいるには、家畜みたく欲望に縋り付くしかないんだよ! 人でいるのは、耐えられないほど苦しいんだよ!」


 デボラの胸には黒ずんだシミが広がる。自分の情けない体たらくに広がる黒が恐れを起こし、だがどうしてもそれに抗うことができない。全くもって正しくない自分であるけれど、仕方ない境遇であると自分の中で言い訳がましい感情が、デボラの中に止めどなく染み渡っていく。


 デボラの顔は.轢き潰された木の実のようだった。


「デボラ、お前は本気でこの停滞が一生続くと思っているのか? いいや、そんなことはあり得ない。人間の魂は、命ある限り敗北しない。どれだけみすぼらしかろと、ケモノに身を落とそうと、生きていれば時間は前へ進んで、人も前に進む。狂おうが、まともであろうが、羽虫は光を目指すんだ。やっと俺はそれに気付けた」


 デボラの言葉を受けたタスクだったが、それでも彼の瞳にはギラリと貪欲なまでの光が宿っていた。鉄格子をあらん限りの力で揺さぶる彼は、今も来るはずだと信じる解放を見据えている。


「狂っていようがなんだろうが、進むんだよ、デボラ。そうやった先に望んだ光があるのならそれはどれだけなのか、考えてみろ」


 望む未来へ人は進む。その結果がどんなものだろうと、歩みは止まらないとタスクは悟った。


 座り込むデボラの正面にタスクが見下ろす形で立つ。一度タスクは自分の掌を見つめる。泥で汚れ、爪は割れて見れたものではなく、無事なものにも土が詰まってみすぼらしく黒ずんでいる。拳は歪に裂け、流れた血は黒く凝固していた。5年間この土くれの牢獄に留まり、たった今しがた抵抗を続けた両手だった。


 その両手は光を手繰り寄せ、掴もうとしている。タスクにはその事実こそが、ヒトでいられる道に思えた。


 未来へ進む意志。太陽への執着。光への渇望。そして人間である矜持。


 全身が泥と垢で醜くなろうと、やはり魂は敗北していない。タスクの瞳は確かに光を見据えていた。


 そして、その光へ向かう手は、デボラの目の前に差し出された。


「選べよ、デボラ・ステレコス。光を目指して身を焼くか、薄暗がりに留まり腐るか。どちらか1つだ」


 デボラの目には焼かれるような熱い存在が写っていた。どうして、と彼は心の中で疑問を放つ。どうしてこの青年はこんなにも光を求めて立ち上がるのか。どうして切り刻まれても悶えながら進むのか。


 しかしそんな疑問の答えは自明である。この男、タスク・シデーロスは人間だからだ。先に彼が言った通りではないか。デボラは静かに目を瞑った。


 時間は否応なく進む。そして人も。


 ならば、自分は。


 答えは14年前から、きっと変わらない。


「俺だって、光を浴びてぇよ。広がる緑の中で、蒸せ返る程の草の匂いの中で、目が潰れちまいそうなほど降ってくる光をもう一度……。ああ、忘れられるはずもねぇさ。あんなに綺麗だったんだから」


 忘れていたと思っていた故郷の風景は、デボラの記憶にしっかりと残っていた。


 昼下がりの木漏れ陽も。心地いい春風も。家の中で聞いた静々とした雨音も。刺すような寒さの中の白銀も。いつも語り合った友の名も。


 それらは確かに、デボラの背中を押していた。彼の頬に熱いものが流れ落ちる。


 知らないうちに、彼の手は光を手繰り寄せていた。目の前の青年の手を強く強く、握りしめていた。


 デボラは感じた。自分の中の度し難い氷塊が、光に溶かされるのを。目の前の男こそ光なのだと。愚かなどではないと。彼のそれは蛮勇ではあるかもしれないが、美しいほどに切実だ。


 デボラは空いた方の腕で、乱暴に涙を拭った。見つめた鉄格子を、もう冷たいとは感じない。


 タスクに目を向けると、彼は微かに笑っていた。14年間の中で、デボラが初めて見た誰かの笑顔だった。


「なら見に行かないとな。長い長いお預けを食らったんだ、さぞ感慨深いだろう」


 タスクの視線は鉄格子をもう捉えてはいない。その先の世界を見ていた。


 例え歯車の狂った世界であろうと、その歩みは止まることはないだろう。


 歩みを止めることなど、どんな人間にもできないのだから。





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