第1章 2幕 「ヒトへの渇望」

地響きが鳴り止まない。タスクは、堪らず立ち上がった。自閉行為の最中、微細だったはずの地響きは、まるでこちらにすり寄ってくるかのように着実に近づいていた。


グッゴゴゴゴゴッ。


それはもう、タスクの優れた感覚など頼らずとも間近で起こっている騒乱を物語っていた。大きな質量を持つ何かが地面を叩くその衝撃は、わずかな揺れをこの地下牢に起こして、天井の土くれを少しずつ剥がしていく。


タスクは姿勢を軽く落とし、身構えながら鉄格子の外、地上へ繋がる通路の側を睨んだ。


「おいおい、なんだってんだ。兵士共の祭りか何かか?」


太鼓の音でも聞こえてくるんじゃねぇか、とつぶやくデボラを、タスクは無視した。


祭りなどであるはずがない。そんな平和的な質の音ではない。微かに、雄叫びのような声もこの地下牢には届いている。


戦っている。誰と誰が、という問いがタスクの中に発生する。


まず片方は確実に、この牢獄を運営する兵士共だろう。この兵士共というのが属するのは、新生ロンドール王国の騎士団だ。新生ロンドール騎士団。王家は20年ほど前に「寵愛の加護」を尊ぶ国王を疎んだ宰相の謀反により失墜し、実質ロンドール王国というのは既に滅亡している。加護持ち否定派の宰相は国王に成り代り、未練がましくも『ロンドール王国』という名の頭に新生と付け加えただけの新たな国をこさえた。


この茶番でしかない新生王国に仕える騎士団には旧王国に忠誠を誓っていた者は残っていない。大概が島流しか処刑という顛末てんまつを辿っている。であるからして、新生ロンドール騎士団に属する騎士の大半は、生活や多額の給金、見せかけの地位や名誉の為に居残った者ばかりだ。新国王に相成った元宰相に忠を誓う者いるのだろうが、あくまで極少数だろう。


ではその騎士団と争うのは誰か。


タスクは5年前にはこの地下牢に捕らえられていたので、それ以降の地上の社会で出来得た派閥などのの情報は持っていない。国内の内情や力を付けた勢力、新たな思想を持った宗教などはタスクにとっては未知である。


よってタスクは、この牢に放り込まれる前の国情からこの状況を察することしかできない。そしてそこから導き出される一般論的な考えとして、まずは旧王国に忠誠を誓った元騎士団、もしくは加護持ちを虐げるこの国の現状などに憂いを感じるなにがしかの勢力が新王国に謀反を起こしたというのが妥当だろう。


前者の可能性はこの場合低い。誇りを燻らせる旧王国の騎士団が謀反を起こし襲撃を仕掛けるなら、この加護持ちの収容された区画ではなく、現王国の首脳部が集まる王宮の方だろう。あくまで、タスクの推測ではあるが。


となると、この牢が破られることも考えられる。タスクは目を見開いて、鉄格子のうち一本をキツく握りしめた。それは暗所で冷やされているというのに、鉄ゴテの様に握りしめる掌を焼いている様だとタスクには思えた。フラッシュバックの様に、タスクの脳裏には外の世界の光景が激流のごとく流れ始める。


外で騒動を起こしているであろう反逆者達は、十中八九タスク達加護持ちを解放しようと目論んでいるはずだ。タスクは思考を己の内で展開する。


タスクがそんな希望的な観測をする根拠は2つ。


まず、単純に騒乱がこの加護持ちの収容区画に近づいて来ているということ。この収容区画に近づき襲撃するというのなら、目的は限られてくる。最も自明的に考えられるのは、収容者の解放だろう。それ以外にも、収容者を虐殺するという目的も考えられるが、タスクはそれを考えたくはなかった。論理的には否定出来ない可能性ではあるが、タスクは希望的な感情からそれを己の内で否定した。


もう1つの根拠。それは先程にも思考の及んだことだ。この襲撃が旧王国の騎士団がかつての主に報いるためのものであれば、この収容所は戦火に巻き込まれることはないということだ。王宮とこの収容所の所在地はかなり離れている。よって、ここでは旧王国騎士達の復権活動が行われることは考え難い。


何にせよ、ここで行われる襲撃の目的は容易く、加護持ちであるタスク達の解放に集約される。それもあくまで愚かな希望的観測に過ぎないが、その可能性に縋るのは囚人心理の自明であることを誰にも否定できない。


タスクの胸には加護の暖かさの他に、せり上がってくる熱があった。それは盲目的に、凶暴に、狂気を孕んで、タスクの喉をもせり上がり、モノを考える脳へと達する。


解放、自由、突破、打開、外、世界、健全。


ーーヒト。


タスクは激しく願った。


俺はヒトだ。ヒトに戻りたい。ヒトでいたい。ケモノでいたくない。ーーヒトになりたい。


人間で、ありたい。


タスクは血走った目を、目の端が千切れそうな勢いで見開いた。いつの間にか両手で鉄格子を握りしめ、激しく揺さぶろうとしていた。鉄格子は揺らがない。タスクは冷たい棒に噛み付く勢いで出口を睨みつける。全身から漏れ出す渇望は、タスクの言葉をも引き出した。掠れた声で己の渇望をがなり立てた。


「出せ! 出たい! ここにいたくない! 誰でもいい、俺をここから解放してくれ! 俺は、ケモノになりたくない! 」


何もない。その渇望以外は何も。ただ外の世界への憧憬だけが、タスクを突き動かした。


5年の幽閉生活。そこで枯れ果てたと思っていた希望はしっかりと奥底に眠っていて、壊れた瓶からは引っ切り無しにそれが漏れ出すのみだった。


向かいでくつろいでいたデボラも、タスクの上げた声に何事かと思った様で、弾かれた様に立ち上がる。


「おい、どうしたよタスク。イカれちまったか? 」


「うるさい! イカれちゃいない。上で起きてるのは戦闘だ! 俺たちは、外に出られる! 」


タスクの目はデボラを見てはいなかった。その視線の先にはただ、己の願望だけが映されていた。それは眼内で映像が流されている様な、妄執に囚われた者の目だ。


デボラはそんなタスクの姿を冷えた目で見つめていた。そこには少しの憐れみの様な色も孕んでいる。


「タスクよぉ、やめときな。希望も結構だが、そいつはこの薄暗い穴倉じゃ毒以外の何物でもねぇぞ。しっぺ返しは怖いだろ。俺はお前の喚く様なんざ御免だ」


「黙れ! そうやって悟ったような態度を気取っていろ! お前はいざ外に出られるとなれば、足が竦むんだろう。お前は一生そこで家畜の皿を啜っていればいい。俺は望むぞ、人間でいることを。決して諦めたりしない」


激しいまでのヒトへの渇望。それは一度このヒトとケモノの分岐点に立たされたタスクだからこそ生まれ得たものだ。外の世界が幸福だったとは決して言えないが、今のタスクにはその尊さが理解できた。真に不幸なのは、ヒトであることを当たり前に享受していた牢に入る前のタスクではないのか。彼にはそうとすら思えた。


そんなタスクの姿を受けたデボラは「そうかい、勝手にしな」と再び背を向けて寝転がった。


彼は必死に鉄格子に取り付いた。


それは他力本願で、極めて受動的で、しかし何よりも純粋な生への衝動だった。タスクは自分の胸の内で灯る無差別な暖かさが、いつもとは違った熱さを孕んでいることに気づかない。


「誰か、俺をここから出してくれ」


タスクは貪るようなヒトへの渇望を、掠れた声と血と共に吐き出した。







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