第1章 1幕 「獣とヒトの分岐点」
「そんな愛の国が今じゃこの様だ。笑い話にもならないぜ」
暗闇の牢に砂利をこすり合わせたような男の声が響く。今しがた声の主である男が語った昔話をもう一度頭に浮かべる。
ロンドール王国、ロランド・ネル・ロンドー
ル、王の妻であった聖女レイア、寵愛の加護、愛の国、栄華を極めた王国の栄光。
「本当にそんな時代があったのかねぇ。この腐りきった国によ」
男の恨み節は尚も続く。かれこれ一時間はその声は同じようなことを滔々とのたまっていた。
「都合の良いように捻じ曲げられた昔話だ。今更そんな時代を思って、どうなるっていうんだ」
闇に放った青年の声もまた、目の前の男と大差なく掠れている。煤けた石畳の地面は、日の光など望むべくもなく冷たい。
「兄ちゃんもこの牢にぶち込まれて長いみたいじゃねえか、性根が腐った匂いがしやがるぜ。何年だ?」
「5年目になる。性根に関してはここに入る前から大して変わらない」
青年と男を捕らえる牢の鉄格子は、動くことなくそこにあり続ける。この区画には牢が向かい合わせに6つずつ存在する。12の牢のあるこの区画には、鉱石を使った光源が入口側と突き当たりに2つ。入口側から2つの位置にあるこの牢には申し分程度の光しか届かない。闇は依然として目の前を覆っている。
「そうか、5年。長いのか、短いのかそれすら分からなくなる頃合いか」
「その口ぶりだと、あんたは俺よりも長そうだな。この獄中生活は」
男の声は、これといった感情を宿してはいなかった。ただ諦観の果てにある、そんな乾いた声だ。
「かれこれ14年か。何も得ることなくここにいるさ。一向に居心地はよくならねぇがな」
「14年……か」
闇の中、微かに見える男の顔には、焦げ付いたような笑いが浮かんでいた。それはひどく寒い、冷えた感情を青年の胸に刻みつけた。青年には、自分の末路が、見え隠れする。
「この牢じゃ一番の古株だろうさ。んでよぉ、兄ちゃん。名前はなんていうんだ?俺はデボラだ。デボラ・ステレコス」
感情を無理に抑えるかのように、デボラは声を弾ませた。闇に飲まれぬよう浮かべる笑いは、どうにも痛々しい。
「俺はタスク。タスク・シデーロス」
「そうか、宜しく頼むぜタスク。まあ、二、三ヶ月ほどの付き合いだろうがな」
デボラの言う二、三ヶ月というのは、囚人の入れ替えの期間のことだろう。この向かい合わせの6つの牢は、常に一つの牢に二人以上収容されている状態が維持されている。それが大体、二、三ヶ月ほどの周期で牢の中の片割れが、6つの内どれかの牢の中の片割れと交換される。そこに規則性はどうやらないようで、それこそ看守の気まぐれで交換が行われる。今回タスクは、半年ほどいた牢を久々に出され、このデボラのいる牢へと移動させられた。
「そういや、タスク。前の牢での相棒はどんな奴だったよ。男か、それとも女か?」
先ほどまで影を落としていたデボラの顔は、その話題に入った途端に嫌に明るく、下卑たものへと変貌していた。タスクの顔が酷く歪む。
「女だったさ。だからってどういうこともない」
「なんだよ堅物だな、お前は。男って生き物なんだからよ、手前の股ぐらにぶら下ってるもんにくらい正直に生きたっていいじゃねぇか。ただでさえこんなカビ臭い場所にいるしかねぇんだからよ」
薄汚れた声を聞き流して、タスクは鉄格子を見やる。目の前の痴情話に興味を傾ける男と同じく、十数本の鉄の棒に囚われている自らの惨めさがタスクの顔を更に歪めた。
デボラの態度は、この牢に囚われる人間としては寧ろ当然のものとも言える。人には本能があり、この刺激の乏しい空間で、欲求は原初のものへと還る。食欲、睡眠欲、そして性欲。閉塞した空間、光の乏しい暗闇、自らの時間の停滞、それらは原初の欲求のみを肥大化させるには十分すぎる環境だ。この場所は、獣と人の分岐点。知を高め、肉体を研鑽し、他を理解する心を作り出す。この鉄格子は、そんな文化的且つ理性的な、人足り得る部分をそぎ落とす。
ここは理性の墓場だ。
タスクの瞳は、鉄格子を睨みつけた。
「なあおい、お前の元相棒ってのは今はどこの牢にいるんだよ。別嬪だったのか?」
獣じみたデボラの目がタスクを見据える。辟易したタスクは息を吐いた。
「憐れな女だった。停滞した時間に何も見出せず、何もない伽藍堂に成り果てた。死んだんだよ、あの女は」
毎夜啜り泣く女のか細い声が脳裏を掠める。心が痛むかと身構えたが、タスクの瞳は一つの動揺も浮かべることはなかった。感情や道徳が、どこかの遠くにあるような、そんな皮膜の纏わり付いたような感覚が彼の身を包み込む。そんな感覚を御する術がタスクには無く、ただ流れに身を任すように目を瞑った。
「そうかい、死んじまった。ああ、憐れな。死ぬ必要なんざないっていうのによ」
デボラの浮かべた表情がなんなのか、タスクには理解できなかった。獣が何を憐れむのか。タスクの心に、小さなさざ波が立つ。
「あんたよりはマシだろうさ。彼女は憐れだったが、最後まで人間だった。人足り得る感情で己の運命を呪って、死んでいった」
酷く悲痛な声が牢の中に広がる。誰のものでもなく、タスクのものだ。
死に救いなどないと、それはタスクの中にあり続ける答えだった。しかし、それは牢に入るまでのものだ。この牢で理性が崩れ落ちた人間を掃いて捨てるほどに見てきたタスクにはもう、死が救いにはならないと言い切ることができなくなっていた。
この牢は、人で居るにはあまりに薄暗い。
「彼女は死んだ。だがそれは、彼女にとって救いだったのかもしれない。彼女は、人間のまま死んでいった」
動悸が酷い。しかし呼吸はどこかの遠くから聞こえてくるようで、タスクは先程の自分の言葉を思い返す。
では自分は。自分はなんなのか。死んでいない自分は、人間か。はたまた獣か。タスクの息は整わない。
「タスクよぉ」
土気色の声が地を這う。タスクの耳は鋭敏にそれを捉えた。デボラの瞳は鋭く、タスクを捉える。
「俺はそうさな、差し詰め本能に従う怠惰な肉塊ってところか。お似合いな醜悪さだ」
凍てつく言葉がタスクを離すことはない。自然とタスクも、デボラを正面に捉える。
「飯が出されりゃそいつを貪るさ。余す時間がありゃ寝こけるのさ。女がこの牢にブチ込まれりゃ、まあ犯すだろうさ。長いことここにいて、その惨めさすら感じなくなった」
タスクは目を離せない。デボラの濁った瞳の中に何か、何かが胎動している。
「しかしよぉ、忘れちゃいけねえもんがある。俺らには何もないなんてことはないんだよ。この牢に居る奴はこいつを忘れちゃいけねんだ」
デボラの目に何かが満ちていた。奥底に胎動するそれが、彼の体を覆い始めた。タスクにはそれが我慢ならなかった。
「やめろよ、獣が。人間の振りをするな」
「振りかもしれねぇさ。でもよ、どうしようもなく暖かいんだよ。お前にもわかるだろう?ここが熱くてしかたねぇ。忘れさせちゃくれねぇ想いってのが、ここから剥がれてくれねぇ」
デボラの掌が己の心臓の辺りにあてがわれる。心臓が送り出す血液の暖かさ。そうではなく、胸の辺りを覆う無差別な安堵感。胸を熱くする、所在も分からぬ極大の愛。デボラの言うそれに、タスクは覚えがあった。
「寵愛の加護。そんな大層なもんがよ、与えられてるじゃあねぇか。この牢にいるどいつにもな」
自分の胸に染み付く故も知らぬ暖かさを不意に覚えるタスク。随分昔にレイア王妃が生みたもうた奇跡。そんなものが、確かにタスクの中にも、デボラの中にも胎動していた。
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『寵愛の加護』を受けた人間を収容する牢獄。
それがタスク達を捕らえる牢の意味である。無骨な鉄格子は、加護を持たぬ人間の恐れの象徴なのだ。己と異なるもの、理解できぬもの、抗えぬものに無上の恐れを感じることもまた、月並みではあるが、人間の性なのだろう。
「まあなんだ、すまなかったな。お前はこの牢の中でにあっても気高いらしい。どうやら俺は、それが羨ましく感じちまったんだ。意地の悪いことを言っちまった」
項垂れるデボラの顔に陰が落ちている。しかしどこか安心したような、悲痛な色は見えない顔だとタスクは感じた。
「いや、俺こそ酷いことを言ってしまった。ただの八つ当たりだ。すまない」
デボラはその言葉に驚いたように顔を上げる。
一息置いたデボラの顔には土気色の笑顔が浮かんでいた。しかしそんなやり取りすらも、その場凌ぎの傷の舐め合いだと感じ、タスクの胸の内に暗闇からくる毒を染み渡らせていく。そう感じてしまう自分の性根の醜さが、タスクにとってはもう当たり前になってしまっていた。
「あんたは14年間、獣と人の間ををもがいてた。それを勝手に堕ち切った人間だと判断した俺の落ち度だ」
「まあ俺が人間のクズになっちまったってのは間違いじゃねぇさ。しかしこの薄汚い男にもまだ、一抹の捨て切れねぇ矜持がある。それだけはわかっていてほしいって話さ」
デボラの目は鉄格子の外を見つめている。従ってタスクも鉄格子の外に、明るい場所で過ごした日々を眺める。それは決して明るいだけのものでは無かったが、この場所にいる時よりはまだ、閉じきったものではなかった。
「なあ、タスクよ。お前もやっぱり覚えちゃいねぇのか。お前を愛した人間のことをよぉ」
望郷の地に馳せられていたであろうデボラの視線は、不意にタスクには合わせられた。
自分を愛した人間の記憶。もう何度もタスクはそれを探して記憶の海を掻き分けたが、ついぞそれを見つけることは叶わなかった。タスクは、加護を与えてくれた人間、自分を愛した人間の事を何一つとして覚えてはいなかった。
「覚えてはいない。何一つだ」
ただどんな時も胸を覆う暖かさが、確かにタスクが愛されたこと、寵愛の加護を受けたことを証明している。それは救いであると同時に、タスクの心を切りつける。どこの誰が、どうしてこんな自分を愛したのか。そんな不安を今まで抱えてタスクは生きてきた。そしてタスクはそれを酷く憎悪した。この得体の知れない暖かさと、呪いと言った方が似つかわしい力を残した誰かが、恨めしくてならかった。
「しかし皮肉というかよ、ひでぇ仕組みだと思わねぇか。自分を愛してくれた人間が消え去って、その上愛した人間の記憶が、愛された人間から根こそぎ消されるなんてよ。聖女レイアが世界を愛して生まれた奇跡だなんて話だが、タチが悪いにも程がある」
「聖女レイアの昔話も大半が捏造か、曲解に曲解を重ねたものだとさっき言っただろう。レイアが世界を愛したと言うのなら、世界からその記憶は消え去るはずだ。ならばこんな逸話が残っているなんていうのは矛盾でしかない」
一度目を合わせた二人は揃って息を吐く。愛が顕現した結果、世界から愛は排除されようとしていた。愛されたものに授けられる奇異なる『力』は、世界への敵対であると臆病者達は切り捨てようとしている。皮肉なものだと、タスクは愚かすぎる世界に鼻息を吹きかけた。
「しかし、今日はなんだ。看守が居やがらねぇぞ。管理体制が杜撰にも程があるんじゃねぇのか」
「外で何か起こっているのかもしれない。時折地響きが聞こえる」
「本当か?俺には何も聞こえねぇが……」
タスクの言う地響きはかなり微細なものだった。タスクにそれが認知できたのは、牢に入る前から感覚の鋭敏さの必要な環境に置かれていたからに他ならない。タスクの五感は人並みから外れる程に研ぎ澄まされてる。
「まあ看守がここを空けるのも分かるがな。なんせこの牢には鉄格子を破れるような加護の力を持った奴は収容されてねぇんだから」
「危険視されている加護持ちは個別に収容されているって話だからな。ここの看守が外の騒動に駆り出されるのも当然か」
デボラは外で行われている騒動に思考を馳せているのか、檻の外を眺めている。タスクは座り込み、地に放り出された己の両足を見つめる。
加護の力。それは愛が形を成した結果の副産物。無差別な胸の温もりと共に与えられた人知を超えた能力だ。憶測によって語られた言をなぞれば「加護を与えた者の願いが反映された能力」であるそうだ。ともすれば、加護持ちにはそれぞれ異なった能力が与えられていると言える。愛の形は多岐に渡り、その願いもまた幾通りにも存在するのだ。例えばタスクが、『ただひたすらに生きる』ことを願われたように。
「なんにしても、俺らには関係のないことだろうさ。上の事情は知らねぇが、俺らの現状が、変わることはねぇ」
デボラはすぐに関心をなくしたようにその場に寝転がった。タスクは外の騒動が気になりはしたが、重苦しい鉄格子の中からでは外界のことは知りようもない。5年に渡る幽閉の身からは、希望に想いを費やす程の気力は生まれ得なかった。
今日も惰性に自らの時間は削ぎ落とされていく。もうタスクからは溜息すら出なかった。ただ寝転がり土くれの固まった天井をぼやっと眺める。小石の混ざる居心地の悪い地面にも、もう何も感じずに背を預けることができた。
獣の檻に慣れきった自分を俯瞰すれば、それはまごうことなくただのケモノだ。ケダモノだ。どれだけ抗おうと、流れる時の奔流はこの檻で腐るタスクを単純なモノへと還元していく。
眠ろう。タスクはゆっくりと己の中の暗所へと潜り込んだ。牢に蔓延するくすんだ暗闇ではなく、自分の中にある本物の暗闇へ、純粋なる自我の黒い海へ体を預けた。そうすれば少しはヒトでいられる。タスクはそう信じた。愚かな思い込みも、きっとこの場なら力を持つ。必死に『自分』という名の暗闇へタスクは意識を向ける。決して失くしてしまわないように。決して壊れてしまわないように。例え、もう壊れてしまっていたとしても。タスクという人格と、胸に灯り続ける確かな愛だけの暗闇に、タスクは逃げ込んだ。
程なくして、タスク達を捕らえる鉄格子が砕け散るとも知らないままで。
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