第4話 最期の願い
私は走っていた。
ただただ走っていた。
私が勢いよく玄関のドアを開けると、ドアはそのまま「バタン」と壁にぶつかった。
そのとき、やっと自分は走ってきた事に気づいた。
その場で膝に手をつき、肩で息をしていると、奥から父が顔を出した。
「お、美緒おかえり〜」
「おかえりじゃない!」
私はそのとき出せる精一杯の大声て、父に怒鳴った。声はかすれ、その後息をするのもやっとになった。
「おかえり〜じゃなかったら、ようこそ〜が良かったかな?」
そう言って笑いながら戻ろうとする父を私は止めた。
「お父さん。ちょっと待って!」
やっといつもの私とは違う雰囲気に気づいたのか、真面目な顔で父は玄関にやってきた。
「どうした? 美緒。何かあったのか?」
私は息を整えるのがやっとだった。
声を出せるようになるまでは、数秒かかった。その時間はまるで永遠にも感じた。
「あの、お母さん、お母さんの事なんだけど」
父はただただじっと私の顔を見ていた。
「母さんがどうかした?」
「あの、お母さんは、あの、つまり……」
私は何といっていいのかよくわからなかった。そんな私にも、父はじっとその先の言葉を待っていた。
「お母さんは、私を生む時、どんな気持ちだったかな、って」
私は何を言ってるんだろう? はっきり言って意味が分からない言葉になってしまった。いきなり走ってきて、呼びつけて、そして言った言葉がこんなだったらきっと馬鹿にされるに違いない、私は恥ずかしい思いで一杯だった。
ただ、父は全てを覚ったように、その場に座り込んだ。そして、天井を見上げると、少しずつ口を開き始めた。
「母さんはね、それはそれは強い人だった。周りが心配するくらい」
そう言って父はゆっくりと、その昔話を呟き始めた。
「洋介が生まれてすぐ、乳がんが分かってね。その時すでに転移があって、もう手術は出来ないって言われてたんだ。幸い抗がん剤の治療が効いて、一旦は良くなったんだ。でもすぐ再発するだろうって言われてたんだよ。だから妊娠とか、体に負担がかかるものはあまり勧められてなかったんだ。でもね、母さんは言ってた、そんなの関係ないって。どんな事があっても新しい命を大事にするって。そうして僕たちは美緒を授かった」
その僕たちという言葉に、私はその頃の二人を光景が鮮やかに胸に飛び込んできた。
「いつ再発するかも分からない、タイミングによっては出産は出来ないかもしれない、そんな不安を抱えながらも、幸い美緒は僕らの元に生まれてくれた、こんなに元気な姿で」
父はふと笑みを溢した。
「美緒が生まれた時、それはそれは嬉しそうだったよ、もう死んでもいい! なんて言ってね」
はっ、はっ、はっ、と大声で父は笑い出した。
「案の定、乳がんは再発した。でも母さんは幸せそうだったよね、こんなに可愛い子ども達に囲まれて死ねるなんて。自分は本当に幸せ者だ、ってよく言ってたな」
突然ふと、父は私の顔をみつめた。そしてそれはいつもの、いつもくれていたはずの溢れんばかりの優しい笑顔だった。私はその笑顔を直視出来なかった。目の前の視界が涙で歪んだ、拭いても拭いてもこぼれ落ちる涙は拭えなかった。
私はすっ、と立ち上がると下唇を噛み締めた。
それから一つぐしゃぐしゃになった顔面を拭ってから、勢い良く玄関を抜けた。
そして走った。
走って、走って、走った。どこへ行くのか分からない、ただただ走り続けた。
気づくと私は河川敷にいた。
河川敷の芝生に、成り行くままに倒れ込んだ。
私はアホだ。世界一の大馬鹿者だ。
ほんっとのほんっとのほんっとに間抜けだ。
自分のアホさ加減に嫌気がさすと、いたたまれず、思いっきり叫んでいた。
「このおおばかやろ———————!」
大きく叫ぶと、少し落ち着く事が出来た。
私は無いと思ってた。
お母さんはいない、話す事も出来ない、私の成人式の姿も見てもらえない、まだ見ぬ結婚する相手の話も出来ない、無い、無い、無いと思っていた。
でも違った。
あった、あり過ぎるほどに。
母さんが妊娠を諦めてたら私はこの世に存在すらしなかった。
妊娠中にガンが再発していても私は生まれなかった。
生まれてすぐ母さんが死んでいたら、私は母さんの顔や優しさ、ぬくもりすら知らずに過ごすはずだった。
でも私は知っている。
母さんの顔、優しさ、強さ、そしてそのぬくもりを。
私の中で今までも、そしてこれからもそれはずっと続いていく。
母さんが不安の中で、祈り、望んだ現実が今ここにある。私が探してた多くの大事なものは、ずっと前から私のそばにあったんだ。何でそんな事に私は気がつかなかったんだろう、そのアホさ加減に、本当に腹が立った。
しばらく芝生に寝転んでいると、やっと呼吸が落ち着いて来たのと同時に少しずつ寒くなってきた。風の音も強くなってきたことを感じながら空を見上げると、今日は月がきれいだった。私はただただじっとこちらを見つめてくるその月をしばらくぼーっと眺めていた。
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